谷川俊太郎、秋亜綺羅、杉本真維子、谷内修三「鉄腕アトムのラララ」(2022年05月29日、日本の詩祭座談会)
2022年05月29日、日本現代詩人会の「日本の詩祭」があった。H氏賞の授賞式などがメインなのだが、谷川俊太郎が先達詩人賞を受賞したので、受賞者を囲んで座談をしようということになった。谷川はズームでの参加だった。秋亜綺羅が「台本」というか、どんな具合に座談を進めていくかというアウトラインをつくったのだが、それにそって動いたのは最初だけ。座談は「なまもの」だから、やはりあっちへいったり、こっちへいったり。私がテキトウにその場での思いつきを言ってしまったからかもしれないが。
そのとき話したこと、その後の補足を交えて、どんなことを話したかを書いておく。他の参加者の発言は一部をのぞいて省略する。ひとのことばなので、意図どおりに書けるとは思わないからだ。(「補足」というのは、翌30日に谷川に賞状と花束を届けにいって、そのとき少し話したからだ。このときは杉本真維子はいなくて、秋亜綺羅が発行している「ココア共和国」の編集人、佐々木貴子がいた。)
「鉄腕アトムのラララ」というタイトルは、私が谷川の「鉄腕アトム」では「ラララ」の部分がいちばん好きだ、といったことがきっかけ。谷川は、「鉄腕アトム」は先に曲があり、あとで詩を書いた。ラララの部分はどうしてもことばが思いつかずに、ラララにした、と言った。(これは、この会場で言ったのではなく、私がそう聞いた、ということを説明した。)
この「ことば」にならない「ラララ」から、詩の「空白」「行間」というテーマに移っていくというのが秋の「戦略(台本)」だった。
私の考えでは、詩というのは、読者が詩を読むのだけれど、同時に詩が読者を読むということが起きる。ラララは、まさにそういう部分であり、そこにただ存在する音が、私に対して「ラララ」という音が好きでしょ?と語りかけてきて、私は、そうです、と答えている感じ。意味は考えない。ただ音がそこにあって、その音が気持ちがいい。音の快感。これは、「かっぱらっぱかっぱらった」も同じ。「意味」はあるかもしれないけれど、私が感じているのは「意味」ではなくて、ただそこに音がある。その音が楽しいという感じ。谷川の詩によって、私は私の肉体のなかに「音を楽しむ」という感覚があるということを教えられた、そういう性質を見抜かれたと言い直せばいいのか。これが「詩に読まれている感じ」。
このあと、アトムつながりで「百三歳になったアトム」に移っていく。「魂」ということばとが出てくるので、「魂」とか「こころ」がテーマになるのだが、この魂、こころというのは、私にとってはどうにもわからないものである。谷川の詩には魂もこころも出てくるが出てくるが、私はその存在を考えない。ひとと対話するとき、便宜上、こころとか精神とかはつかうけれど、魂はつかわないし、谷川の書いている「こころ」は「ことば」と読み替えているかもしれない。
たとえば。朝日新聞に連載した「こころ」の最初の詩「こころ1」。谷川の書いている「こころ」を「ことば」に変えると、詩は、こうかわる。
コトバ
ことば
言葉
kotoba ほら
文字の形の違いだけでも
あなたのことばは
微妙にゆれる
ゆれるプディング
宇宙へとひらく大空
底なしの泥沼
ダイヤモンドの原石
どんなたとえも
ぴったりの…
言葉は化けもの?
谷川はどう考えているかわからないが、私には「意味」はまったく同じになる。だから「こころ」とは「ことば」。
「ことば」とは何かの定義はむずかしいが、ことばがないと考えられないというのが私の考え。(秋も、おなじようなことを言った。)
秋は「百三歳になったアトム」のなかのピーターパンとアトムとの対話「きみおちんちんないんだって?/それって魂みたいなもの?」を手がかりに「魂(あるいはこころ)」と「肉体」の問題を谷川がどう考えているか引き出したかったみたいだが、私が「こころ」を引用したためにかなり論理の方向がずれてしまった。
私としては「夕日ってきれいだなあとアトムは思う/だが気持ちはそれ以上どこへも行かない」がとても気になっている。気持ちはどこかへ行かないといけないのか。気持ちはどこへもいかない。気持ちはことばと同じように、いつでもやってくるもの。
谷川が「それ以上」と書いているのも気になる。「それ以上」って何? 私の考えでは、「それ以上」とは「肉体の限界」というものではないか。気持ちがやってきて、どこへも行かないことで、肉体は肉体になる。(このことは、話せなかった。)
受賞のことばのなかで、谷川は「永遠ではなく無時間の方に関心が移ってきている」というようなことを語った。
私はこのことばに強く刺戟を受けた。谷川の書いている「宇宙」(感覚)というものは、私にはピンと来ないところがあるのだが、谷川が書こうとしていることが宇宙ではなく無時間だとしたら、とてもよくわかる、と感じたのだ。もちろん、この私の「わかる」というのはいつもの「誤読」なのだろうが。
そこで私は、「永遠と無時間」に関連づけて、こんなことを語った。
谷川は、いろいろな作品で赤ん坊になったり少女になったりする。他人になる。これは私には、他人になることで、そこに「無時間」を出現させているのではないのか、と問いかけてみた。そして、谷川のように、つぎつぎに他人のことばがはっきりと聞き取れ、それを再現できるというのは、ある意味で苦しくないだろうか。他人の声が自分の声のように聞こえてしまうは苦しくないだろうか。
谷川は、あっさり「他人にはならない」と答えた。(翌日、同じようなことを、私は谷川に聞いた。「少女のことばを書くとき、谷川の肉体は少女の肉体になるのではないか。これも、あっさり、「そんなことはない。そうなったらいいけれど」というように答えた。)「無時間」の問題は、私の問いかけが抽象的すぎたためだと思うが、「他人になる/他人にならない」という問題にすりかわってしまった。
そのとき、すぐには思いつかなかったのだが、私が感じている「人間の肉体」「ことばの肉体」とは、あるいは「無時間」とは次のようなことである。(これは、語ることができなかったことがら。)
人が道端に倒れている。腹を抱えてうめいている。それを見たとき、私はその肉体が私の肉体ではないのに、「腹が痛いのだ」と感じてしまう。(誤読してしまう。)そういう感覚が私にはある。たぶん、多くの人にもあると思う。
私は、これを「ことば」にも感じてしまう。あることばを読むと、そのことばの動きを私のことばの肉体か、自分のことばの肉体ではないのに、まるで自分のことばの肉体が動いているように感じてしまう。谷川の少女のことばを読むと、私は私がそういうことばを聞いたことを思い出す。それは私の耳が思い出すと同時に、私のことばの肉体が反応しているのだと思う。私のことばが「少女」になってしまうのだ。その瞬間。私は「少女」だったことはない。けれど、「少女」の「ことばの肉体」にはなれるのだ。それは「想像」というか、「誤読」だから。そのときの「出発点」が「音/声」なのだ。
この例が、あまりも奇妙なら、こう言い換えてもいい。
「かっぱらっぱかっぱらった」という音を聞くと、たとえば私は「泥んこ遊び」をしているこどもを思う。泥んこ遊びをしているこどもの「夢中」を思う。おとなは、きたない、汚れる(意味がないどころか、意味の否定)と言うけれど、泥んこになれるというのは楽しい。大人を困らせるというのもおもしろい。単純に、そこで肉体を動かして汚れることを楽しんでいることが楽しい。たとえはよくないが、これはきっと「ことばの肉体」の泥んこ遊びのようなものなのだ。そのときの「よろこび」が私の「ことばの肉体」を包んでしまう。
私が「ことばの肉体」というときに感じているのは、そういうことである。他人のことば(の肉体)なのに、自分のことば(の肉体)と感じて反応してしまう。「かっぱらっぱかっぱらった」のように、特に音の楽しさをあらわした詩だけではなく、ほかのことばでも「音」があわないと、うまく「ことばの肉体」が動いていかない。
そういうことがぜんぜん起きない、ということもある。こういう「ことばの肉体」を私は持っていない、と感じることがある。「ことばの肉体」を感じようがないときがある。それは、たとえば谷川のことばで言えば「魂」である。「こころ」は「ことば」と言い直せば、なんとくな重なる感じがするが、「魂」に対応することばを私は持っていないとしかいいようがない。たぶん、私は小さいときに、「魂」とか「こころ」とかいうことばを聞いた記憶がないのだ。父や母、兄弟が「魂」ということばをつかっていたという記憶が私にはまったくない。
宇宙、あるいは「永遠」ではなく「無時間」。
このとき、私か思い出したのは、「父の死」のなかの、男が突然やってきた部分。「夜になって子どもみたいにおうおう泣きながら男が玄関から飛びこんで来た。/先生死んじゃったァ、先生死んじゃったよォ」と男は叫んだ。/諏訪から来たその男は「まだ電車あるかなあ、もうないかなあ、ぼくもう帰る」と泣きながら帰っていった。」
このときの男と谷川の関係。谷川は男のことを知っているかもしれない。しかし、このとき、私は谷川は、父と男の世界のつながりを知った、と思う。父にとって、その男までが、世界。宇宙(世界)はどこまでも広い、無限なのではなく、いつでも個人が向き合っている何か(対象)までが世界で宇宙なのだ。つまり、宇宙や世界がたとえ「無限/永遠」あるにしろ、それが存在する瞬間には、かならず「輪郭」をもってあらわれる。その「輪郭」が、この場合は、泣きながら帰っていった男なのである。世界の輪郭が瞬間的に見える一瞬。それは、私には、やはり「無時間」のようなものに感じられる。谷川の父、男、谷川が「一体」になって世界を存在させる。谷川の父も、男も、谷川もそれぞれの「時間」をもっているはずだが、その「違い」が消えて、その瞬間に新しい時間(時間の輪郭/世界の輪郭)が出現する。「無時間」は「生まれたばかりの新しい時間」なのだと思う。
そして、変な言い方になるが。この「新しい時間(世界の輪郭)」は「父の死(父の不在)」によって、鮮烈になるのだ。父が生きている間は、その「輪郭」は父によって隠されていた。父が不在になることが、父の姿(肉体)が隠していたものが、ふいに目の前にあらわれてきたのだと思う。
これに類似したこと(?)を、実は、私は体験している。父が死んだ後、姉が「死ぬ前に、家の前に立って碁石が峰をじっと見ていた」と言った。碁石が峰というのは、私の古里のいちばん高い山である。そのことばを聞いた後、私は碁石が峰を見た。それはいままで見たこともない碁石が峰だった。あ、これまで、この碁石が峰を父は隠していたのだ、感じたのだ。
谷川が、泣きながら帰った男を見ながら、それが谷川の父が隠していた世界だったとは思わなかったかもしれない。しかし、何人もの弔問客のなかからわざわざ、その男のことを書いているのは、何かが見えたからだろう。宇宙の永遠ではなく、「世界の輪郭」が見えたからだろうと思う。
この「生まれたばかりの新しい時間」を谷川のことばは、いつでもくっきりと描き出す。
そして、このときも「音」がとても重要だ。「先生死んじゃったァ、先生死んじゃったよォ」「まだ電車あるかなあ、もうないかなあ、ぼくもう帰る」。ここには一回限りの「音」がある。「意味」なら何度でも再現できる。しかし、そのときの「音」は消えてしまう。消えてしまうけれど、それはやはり「音」なのだ。
(私の父のこと、碁石が峰のことは、谷川の家で話したこと。)
ことばと音について。
ことばと音が話題になったとき、私は、かつて見た詩のボクシングを思い出した。谷川とねじめ正一。最終ラウンドの即興詩。谷川に与えられたテーマは「ラジオ」。谷川は、ラジオは音と定義し、きょうここでみんなが聞いたのも音。音は消えてしまう。けれど聞いた記憶は残る。そのことを観戦者は、家に持って帰ってほしい、というようなことを詩にしたと思う。「記憶」の指し示すものは「意味」だったかもしれない。しかし「意味以上のもの」だったと私は感じている。音(声)が生まれてくるとき、声(ことば)の背後には何かが動いている。それもいっしょに持って帰ってほしい。
そういうことを考えると、谷川の詩のおもしろさがもっとわかりやすくなる。バスのなか、あるいはマックの店内。そこで少女たちが話している。そのことばを聞く。そして「意味」を理解する。あとから私が思い出すのは「意味」である。しかし、谷川は「意味」だけではなく、音をそのまま覚えていて、それを再現できる。「音の記憶力」というか、「耳」が超人的にいいのだと思う。
そいういう話を谷川の家でしたとき、谷川は、音楽が好きで小さいときから音楽を聴いてきたからかもしれないと言った。そして、「耳はまだ丈夫だ。補聴器もしていない(必要がない)」とも言った。谷川は、私の印象では、何よりも「耳の詩人」ということになる。
(ほかにもいろいろなことを話し合ったのだが、私の感じたこと、思い出したことだけ書いてみた。)