詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Luigi Alberto Di Martino「Espana como pais Multocultural」

2022-05-22 11:25:10 | 考える日記

Luigi Alberto Di Martino「Espana como pais Multocultural」(出版社、発行日不詳)

 Luigi Alberto Di Martino「Espana como pais Multocultural」には「スペイン語読書の教科書(libro de lectura para estudiante de espanol )」と書いてある。 
 この本を読みながら思ったことは、ひとつ。私たち(といっていいのか、私と言うべきなのかわからないが)日本人の「国家」に対する意識は、多くの国の国民が持っている「国家」の意識とはぜんぜん違うのではないか、ということである。
 ことばひとつをとってもみてもそうである。私はあるひとと話していて「おまえはカステジャーノ(いわゆるエスパニョール、スペイン語だろうか)を話すのかカタラン(カタルーニャ語)を話すのか」と聞かれて、「そんなことを聞かれても、区別がつかない」と困ってしまったことがある。日本人は、だれか外国人に向かってに「おまえは日本語を話すのか、それとも〇〇語(たとえばアイヌ語)を話すのか」と聞くことはない。「ことば(公用語)」はひとつと信じて疑わない。
 でも、スペインには17の自治州(?)がある。そして、それぞれの自治州が「公用語」を決めている。バスク語は明らかに違うが、ほかのことばは、私のような初心者には区別がつかない。マドリッドでは「ブエノス・ディアス」と言っていたが、バレンシアやその周辺では「ブエン・ディア」というあいさつをよく耳にした。そのことをマドリッドの友人に話したら「おれは絶対にブエン・ディアとは言わない」と言った。「ことば」が違うのだ。そして、それぞれが自分の育った場所でつかっている「ことば」に対して誇りを持っている。
 これは何もスペインにかぎらないだろう。たとえば、ショーン・コネリーは「スコットランド訛り」を絶対になおさなかったと言われる。(私は、聞いて、識別できるわけではない。)きっと彼にとっては、それは「訛り」ではなく「スコットランド語(国語)」だったのだ。フランスにしたって、「公用語」は「フランス語」だが、その他の「ことば」も様々な場所で話されている。そのことばは、その人たちにとって「母語」である。

 そして、「ことば」が違えば、当然のことだけれど、そこから「アイデンティティ」の問題が派生し、そのために「独立運動」という問題が起きる。バルセロナがあるカタルーニャやサンセバスチャンがあるバスクが独立を要求するのは当然だろう。バスクは、スペインとフランスに跨がっているから、彼らが「スペイン人」と名乗るときは、私たちが「日本人」と名乗るときとは、きっと違った「意味合い」があるはずだ。(スコットランドにも独立の動きがある。)
 スペイン人やイギリス人にとっては、「国家」は最初から存在する「ひとつの組織」ではなく、何らかの「条約(合意)」にもとづく「集合体」なのだろう。それはアメリカ合衆国についても言える。「アメリカ」という国とは別に、それぞれの「衆(州?)」が独立して存在する。アメリカでは堕胎が衆によっては禁じられているし、衆によって堕胎ができる「期間」も違っている。それぞれの衆が「法律」を持っている。こういうことは、日本以外では「常識」かもしれない。
 で、ここから思うのだ。
 いま、ロシアのウクライナ侵攻が問題になっている。このとき、日本のジャーナリズムは、ウクライナは日本のように「ひとつの国」と見ているが、ほんとうにそうなのだろうか。私はウクライナのことを知らないから、何とも言えないが、かなり疑問に思うのである。プーチンの主張が正しいというわけではないが、プーチンはロシア国境に近いウクライナ東部(ドンバス)でロシア系の住民(ロシア語を話す人)が虐殺されている、それを守るために侵攻したと言った。ウクライナには「アゾフ大隊」という組織があるから、何らかの対立があったことは確かだろうと思う。ウクライナは、日本人が考えるような「単一民族」の「国」ではないのだろう。世界には「単一民族」で構成された「国」は少ないだろう。(日本も、単一民族の国ではない。)
 ついでに書けば。ウクライナの隣国のモルドバ。その国の「母語」はモルドバ語。ルーマニア語に似ているといわれているけれど、実際、モルドバの公用語はルーマニア語のようだけれど……。でも、ある地域では、モルドバ語が「公用語」として認められているとも。
 こういうことを無視して「敵国」という概念を持ち出し、「防衛」のために軍事力を増強する必要があるというような議論(改憲の動き)は、何か、根本的に間違っていると私は感じる。「国」というのは、何らかの「合意」にもとづいてつくりだされた「ひとつの組織」であり、そこでは「その組織を運営する人」の利益が優先されるのであって、それぞれの生活の場で生きている人の事情は無視される。(だから、独立しよう、という動きも生まれる。)
 「国」を持ち出してきて、「戦争」を語ることの危険性を、私は強く感じる。「戦争」を引き起こすのは、「国」であって、住民ではない。「国」という概念から離れて「戦争」を考えないといけない、と思う。
 
 そして。

 ここからとんでもなく「飛躍」して考えるのだが。
 「国」というものが、実際に、その土地,その土地で生きている人間とは関係なく、別の概念として作り上げられたもの(人工的なもの)であるなら、いまヨーロッパで起きているNATOの拡大は、NATOという「国」をつくろうとする試みなのではないのか。NATOを「軍事同盟」ではなく「ひとつの国」にするための「概念」がNATOなのではないのか。もちろん、これは「アメリカ」の「拡大」である。「アメリカ合衆国」ではなく「NATO合衆国」というアメリカの世界戦略なのではないのか。
 その「NATO合衆国」というのは、いったい、何のための組織なのか。「軍事産業」が利益を上げるための組織ではないのか。「国の安全」という名目を掲げ、軍事資本主義を押し進めるための組織ではないのか。少なくとも「NATO」はそれぞれの地域で生きている文化を守るための組織ではない。少数のひとの言語、文化を守るためには「軍事」とはべつの支援が必要なのだ。

 ここから、逆戻りする。
 この本では、タイトルが示しているようにスペインの「多文化性」が語られる。「ことば(公用語)」がいくつもあるように(たしか、四つ)、スペインではいくつもの文化が共存している。宗教的に言っても、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が共存しているし、その文化が生きている。いまは、世界の様々な地域から「移民」が増えている。スペイン全人口の10%を超える人が「移民」である。スペインにかぎらず、フランスでも「移民」が多い。世界は、「国」の内部で「多国籍化/多文化化」が進んでいる。世界の進むべき方向は「国」を「単一文化」に閉じこめるのではなく「多文化化」へと開いていかないといけない。「単一文化」が「軍事で国を守る」という概念であっては困る。
 プーチンが間違っているのは、ここなのだ。
 ウクライナの東部で、ロシア系の住民(ロシア語を話す住民)が迫害を受けている。「アゾフ大隊」がナチスのように振る舞っている。その暴力からロシア系住民(ロシア語を話す住民)を守るために武力侵攻するという方法が間違っている。それは単にウクライナ東部を「ロシア」にしてしうまうこと、ロシア以外の文化(ロシア語以外のことば)を追放することである。それは「ことばの単一化」(ことばの押しつけ)である。実際、ロシアが支配するようになった地域では教育はロシア語でおこなう方針という。これでは意味がない。「ことば(文化)」の共存、多言語化をプーチンは提唱できなかった。
 「文化戦略」ができなかった、ということである。

 この問題は、いつでも、どこでも起きる。実際に起きている。中国で起きている「人権侵害」も、簡単にいってしまえば、その土地で話すことば、その土地で育まれてきた文化を否定しているところに問題がある。アイデンティティの否定である。
 これは、これからの日本で起きることでもある。日本は、もう外国人を受け入れないことには存在し得ない。中国へ出稼ぎに行く、というのも生き残りの方法だけれど、それは若い人ができることであって、これから死んでいく人間にはできない。様々な文化(ことば)をもった人がやってくる。そういうひと、文化とどう共存していくか。このことを考えるとき、スペインやフランスの「多文化化」の動き(肯定の動き)は明確な指針になる。「国」は「多文化化」へ向けて開かれていかなければならない。

 

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