詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江上紀代『空を纏う』

2022-05-16 08:31:42 | 詩集

江上紀代『空を纏う』(鉱脈社、2022年04月15日発行)

 江上紀代『空を纏う』は初々しい詩集である。詩を書く、ことばを書く喜びにあふれている。
 「みどり児」の全行。

蕗の薹が さっき生まれた

難民キャンプの闇を発ち
コンクリートの分厚い壁を破り
鉄条網の棘をすりぬけ……

地べたを貫いてここに生まれてきたとき
キュンと泣いた事を 誰も知らない

音をたてずに滑らかに廻る秒針は
誕生の時刻など カウントしない

産毛の乾かない嬰児のため
誰も 子守唄をうたわない

午後の陽ざしは やがて
北向きのこの一角を見つけるだろう

まだ風は つめたい

 「嬰児」には「みどりご」というルビがふってある。この少し気取ったことば(日常的には、あまりつかわない文学的?なことば)と「キュンと泣いた」の「キュン」の対比がおもしろい。「キュン」だけでも、あ、いいなあ、これが書きたかったんだなあとわかるが、それを「みどりご」によって引き立てている。「えいじ」では「キュン」の魅力が9割方損なわれてしまう。音が「漢字漢字」している。「みどりご」の、「和語」のやわらかさと「キュン」が似合っている。「みどりご」とは、もう言わなくなっているので、あえて「嬰児」という漢字で説明しているのだろう。(「蕗の薹」にも「ふきのとう」のルビがある。)
 「キュンと泣いた事を 誰も知らない」の「誰も知らない」もいいなあ。江上以外の「誰も知らない」。書かれていない「江上以外」に意味がある。詩とは、他の誰も知らないけれど、作者が知っていることを書いたものだ。つまり、作者が発見した「事実」を書くのが詩なのだ。
 「事実」を書けば「真実」になる。
 ここには、その実戦がある。
 「難民キャンプ」などのことばからは、江上が、単に春の風景を描いているだけではなく、世界で起きていることにも視線を注いでいることがわかる。しかし、そのことは声高には語らない。つまり、「主張」まではしない。見守って、こころを痛めている。そういう「慎み」のようなものも感じさせる。
 「分を守る」ということばに私は与するものではないが、何か、江上にはこの「分を守る」という「正直」があり、それがいっそう「キュンと泣いた」を引き立てている。思わず、あ、生まれたてのフトノトウを見に行きたいと思うのだ。それはフキノトウを見ると同時に、フキノトウを通して江上に会いに行くということでもある。
 「帰郷」も、「声」をもたないものの「声」を聞く詩である。

その駱駝は少し
後の左足を痛めている
群れを離れ
空を仰いではいるが
眼は閉じたままだ
松の林の匂いと
おだやかな丸い雲と 柵と
飼育員さんから
過不足なく与えられる食物と水と

母さん、僕は足が痛いんだ
彼は うちに帰りたかった

ゴビの砂嵐の音も忘れかけている
柵を越え 松林を抜けはしたが
磁石を持たぬ彼は途方に暮れた

どうして僕はここにいる
どうして僕は帰れない

そうして今
彼は闇を待っている

今日も眼を閉じたまま
空を仰ぎ 夜を待つ
闇に眼を開けば
故郷が見える気がする
その時
ふたつの瘤は帰郷の翼になるのだ

 二連目の二行がとてもいい。「母さん、僕は足がいたいんだ」と駱駝が突然、言う。それにつづくことばは「僕は うちに帰りたい」ではない。「彼は」うちに帰りたかった。ラクダの声を江上が代わりに言っている。それは江上がラクダになっているということである。もちろん「僕は うちに帰りたい」でも江上はラクダになっているが、それでは「代弁」しすぎる。ラクダの声を「聞いた」というときの、「聞いた」の印象が薄くなる。「正直」を通り越して、「主張」になる。
 感情が整えられ、主張になるまでには、きっと様々なことをくぐり抜けなければならない。印象、想像を確かめながら、ひとつひとつ、ことばにしていく。その過程で、少しずつラクダになっていく。一気にラクダになってしまうのではなく、少しずつ寄り添っていく。その寄り添いに、私は引きつけられる。江上がラクダになるのではなく、私がラクダになる感じがする。
 最後の、

ふたつの瘤は帰郷の翼になるのだ

 この大胆な飛躍は、少しずつの寄り添いがあったからこその飛躍である。
 最初に「初々しい詩集」と書いたが、この最後の飛躍は、やはり詩を書き始めて間もない人間だけが必然的に抱え込んでしまう大胆さである。
 とても美しい。
 ちょっと逆戻りするが、書き出しの「その駱駝」の「その」もとてもいい。江上の意識にラクダは定着している。きょう初めて見たのではない。何度も何度も見ている。見守り続け、寄り添い続けている。それが最終連の「今日も」ということばに反映されている。きのうも、きょうも、あすも、なのだ。
 そして、それはラクダを「彼」と人間を指し示すことばで言い換えているところにも反映している。見守り、寄り添い続けているから、ラクダは動物ではなく、江上にとってはひとりの「人間」なのだ。
 ここにも、とても自然な美しさがある。作為ではなく、正直の美しさがある。

 詩集はⅠとⅡの二部に別れている。Ⅰに感じられる静かなこころの痛みはⅡではいっそう深くなる。江上はⅡを書きたいのかもしれない。書かずにはいられないのだと思う。そう理解した上で、しかし、私はⅠの作品群の方が好きだと書きたい。
 ほんとうに初々しく、あ、こんな気持ちでもう一度詩を書きたい、書いてみたいと思うのである。

 

コメント (1)
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