詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(14)

2022-05-15 18:20:22 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(14)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 14篇目「母語について」。ここで言われる「母語」は生まれ育ったところで聞いたことば、ということ。「方言」のことである。

---おしまいな!

夕闇を 断ち切って
〈おしまいな!〉の声がする
仕事を手を とめて
声の主を 確かめる

---いつまで やっているんだあ!
   いい加減で やめなさい!

そういうことだと 祖母の背中で教わったのだ

 いいねえ、この「おしまいな!」。
 似たことばが私の田舎にもあったと思うが、忘れてしまった。「からだを壊したら、なんにもならんよ」くらいの意味だった。何をするにしても、そのことばがついてまわった。私は病弱だったから、田畑の仕事はほかの友人に比べると少なかったが、それは学校の宿題やなんかをしているときにもついてまわった。これは私にはなかなかおもしろいことに思えた。勉強しろ、と言われたことはない。もう、やめておけ、とは何度も言われた。それこそ繰り返し繰り返し、言われ続けた。私は医者に「朝6時に起きて、夜は9時には寝なさい」と言われ、それを就職するまでつづけた。寝る時間は、たいてい9時よりも早かった。それでも「もう、寝ろ」と言われた。ほんとうにからだが弱かったのである。貧乏だから、病気になられたら医者代がかかる。困るというのが親の本音だったのかもしれないが。
 でも、そのことばには「お」がついていなかった。石毛が育ったところでは「お」がついている。ていねいなのだ。相手に対する思いやりがある。それは、自分自身への、きょうはよくがんばった、という労りも含まれているのかもしれない。互いに、一生懸命にやった。だから、きょうはここまで、と互いに納得しあう、労りあうための「おしまいな!」。これは、悪く言えば(?)、「私はもう疲れた。おしまいにするよ。おまえも、さっさとおしまいにしてもらわないと、私は困るよ」くらいのニュアンスが含まれていると思う。
 言い直すと、ちょっと「ずるい」のだ。
 この「ずるさ」は小さいころは、わからない。疲れるといっても、ほんとうに疲れたことがないからだ。子どもの疲れは、30分眠ればとれてしまう。でも、親たちの肉体労働は、なかなか、そうはいかない。ときには「からだに鞭打ち」というようなこともあるだろう。だから、「おしまいにしなさい」は、「おしまいにしたい」でもあるのだ。微妙に、相互に、意識が動いている。誰のためでもない。きっと「みんな」のため。
 「ずるさ」の落ち着く先は、いがいと「健全」なのである。
 そういうことを、石毛は、違う「場面」で思い出している。「違う場面」と書いたが、それは明確には書かれていないので、私の「誤読」かもしれないが、こういうことである。

おれには いま
〈お終い〉にすることなどないのに
耳障りで 凡庸で 一様な悪態に酔っぱらった
未来への希望を 戦力でまかなうなんて
そのしとやかな獣の匂いすら
感じさせないで 酔わせる
案隠な協力要請を にくむ

 「未来への希望を 戦力でまかなうなんて」ということばから、私は、いま石毛が「肉体労働」の場ではなく、どこかの「会議」かなにかの場にいるのだと思う。そこで議論が白熱してくる。結論が出ないまま、もう「お終いにしろ」と誰かが言う。もう主張するな、と言う。そこにも「お」がついているが、この「お」は「おしまいな!」の「お」とは違うのだ。
 肉体労働の現場では、互いにいたわりあうことばだったのに、議論の場では違う。特に、そこに「戦力」が絡んでくる議題のときは、違う。とうてい「お終い」にはできない。だが「お終いにしろ」と誰かが言う。
 ああ、あのなつかしい「おしまいな!」はどこへ言ったのか。

案隠な協力要請を にくむ
どうして 晩方の労働停止の挨拶なのに
おしまいな! と
「御」を抱いた優しさなの?
どうして 挨拶のことばのことなのに
そんなに 哀しむのですか?
その たおやかなことばが 消えていく
戦時 飢えて 首をくくる寸前のときに
その〈おしまいな!〉の声に 助けられた
復員兵もいたというのに---。

 「たおやかなことばが 消えていく」は、先に引用した「未来への希望」
つかっていえば、「未来への希望が 消えていく、戦力に頼るという思想(考え方)によって」ということになる。「戦力による安全(未来の保障)」には「互いへの思いやり」を欠いている。ただ自分のことしか考えていない。自分の安全のために、他人を殺す。殺される前に、相手を殺す。そういうことからはじまる「終末」は「おしまいな!」からは、はるかに遠い世界である。

 母語とは何か。単に生まれ育ったところで聞き覚えたことばではないだろう。「ことば」ではなく、そこには人間関係があったのだ。人間関係が「ことばの肉体」となって動いているのだ。
 いま、人間関係を含んだ「ことばの肉体」というか、そういう「ことば」がどんどん減ってきている。ロシアがウクライナに侵攻して以来、その動きは恐ろしいくらい加速化している。
 きょう(2022年5月15日)私は読売新聞で社会部長・木下敦子の「作文」を読んで、そういうことを感じた。(ブログにも書いた。)「正義」を装って「正論」を書いているが、その「ことば」からは、日本人の(日本の)隣人である朝鮮半島や台湾(中国)への思いが完全に消し去られているし、いま日本で起きている「朝鮮学校」への差別の問題、外国人労働者、その子どもたちへの配慮もない。「母語」のことを書きながら、「ウクライナ人の母語」という世界で完結している。「日本人」がいないのである。木下敦子は「日本人」であるはずなのに。

 

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「ことば」の持つ意味(新聞の読み方)

2022-05-15 09:26:44 | 考える日記

 2022年05月15日の朝刊(西部版・14版)の「コラム面」の「広角多角」というコーナーで、社会部次長・木下敦子が、「「認知症」と「キーウ」呼び名を変えた意味」という作文を書いている。
 「認知症」は、それまでつかわれていた「痴呆」や「ぼけ」が侮蔑的であるという理由で「認知症」に改められた。そうした日本の現実を踏まえた上で、ウクライナ問題に関して「キエフ」が「キーフ」に改められたことに書いている。木下自身のことばではなく、在日ウクライナ人、ソフィア・カタオカ語らせている。彼女は、こう語っている。
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 今回の呼称変更は、私たちにとって非常に大きな、尊厳の問題につながります。
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 これは大事な問題である。「尊厳の問題」である。これを、木下は、こう言い直している。
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▽ウクライナには固有の歴史と文化があり、固有の言葉がある▽にもかかわらず、長年にわたり、ロシアによって言語を含めた『ロシア化』を強いられてきた▽ウクライナについてウクライナ語で証言することは、ウクライナという国を尊重し、その歴史や文化を応援する(=ロシアの深更を認めない)ことになる。
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 この木下の「自説」(とても正しい)を補強するために、木下はさらにソフィアのことばを引用する。
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もし日本で日本語が話せなくなったらどんな気持ちがするか、考えてほしい。言葉を奪われることは国を奪われること。
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 そして、論をこう展開する。
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ウクライナの人たちは武器を手に取って侵攻に立ち向かうだけでなく、言語でも戦っている。
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 とても「感動的」な作文である。
 だからこそ、問題がある。
 この「感動」を演出するために、木下は、ある事実、ある歴史を隠している。
 日本は、ロシアがやっているのと同じことをしてこなかったか。台湾や朝鮮半島で何をしてきたか。日本語を押しつけたことがなかったか。そのひとの固有の名前さえ否定し、日本人風の名前を強要しなかったか。
 このことを隠し、いまのロシアの政策が間違っているとだけ指摘するのは(さらに、そのために在日ウクライナ人の声だけを引用するのは)、どう考えてもおかしい。こういうことを「歴史修正主義」というのではないのか。この木下のような「隠れた歴史修正主義」は非常に危険である。語られていることだけを取り上げれば「論理」として完結し、その論理自体には矛盾がないからである。だから、深く考えないひとには、そのまま「間違いのない論理」として広がって行ってしまう。
 そして、この「ことば」の問題に関して言えば、たぶんプーチンは同じ論理で反論するだろう。実際、それに類似することを「侵攻」にあたって語っている。ウクライナ東部にはロシア語を話す市民がいる。彼らは人権的圧迫を受けている。ウクライナ人の一部がナチス的行動をしている。そういうことからロシア系の市民を守るために侵攻した。ナチス的行為をやめさせるためだ、と言っていたのではないか。
 このプーチンの主張がどれだけ正しいか、私は判断するだけの知識を持っていないが、「論理的」には木下やソフィアの言っていることと同じである。

 さらに、ここから「国家」における「言語の多様性」という問題を考えるとどうなるか。日本の政策を見つめなおすとどういうことが浮かび上がるか。
 きょう5月15日は「沖縄復帰50年」にあたる。「編集手帖(筆者不明)」はNHKの「ちむどんどん」を引き合いに出しながら、沖縄のことばについて触れている。その沖縄で、日本はどういうことをしてきたか。標準語(?)/共通語(?)の使用を強要するために、学校で「方言」を話したものに対して、首から札をかけさせるということをしたのではないか。沖縄では特にそういう政策が厳しく取られたのではないのか。そういう差別があったことを忘れてはならない。(現在の基地対策も、きっとこの差別の延長にある。)
 差別。
 アイヌ語については、どうなのか。日本政府は、その言語の存在を認めようとしたのか。さらにいえばアイヌ人の存在を認めようとしたのか。アイヌ人の文化と尊厳についてどれだけ配慮をしてきたか。アイヌ人を、日本に住んでいた人たちであると認めるようになり、保護対策を進めるようになったのは最近のことである。
 日本政府は、日本国外においても、日本国内においても、それぞれのひとがつかっている「ことば」に対して弾圧を加え、「日本語」を強制してきた。それなのに、そういうことがまるでなかったかのように、ロシアだけが(プーチンだけが)、ウクライナから「固有のことば」を奪っている、それは許せないという論を展開することは、あまりにも「恣意的」である。
 木下が、台湾や朝鮮半島でとってきた日本の政策について知らない、沖縄の人やアイヌ人について取ってきた政策について知らないために(たぶん、私などよりも随分若いはずである)そう書いたのなら、そう書いたことに対して、誰かが(編集局内の誰かが)、日本にはこういう問題が「歴史」としてあった、ということを知らせ、何らかの形で、そういうことを書き加えさせるべきだろう。
 さらに、過去の「歴史」だけではなく、いま日本で起きている問題からも同じことがいえる。日本には、正式な名称は私はよく知らないが朝鮮半島に出自の基盤を持つひとがいる。その人たちの「学校」もある。その「学校」に対して政府はどんな対策をとっているか。「祖国」について学ぶこと、その人たちの教育に口出しをしていないか。多くの学校が「教育無償化」の対象になっているのに、その対象から除外していないか。教育の自由を否定し、教育を受ける権利を侵害している。
 これが日本の現実なのだ。
 これは、もっと問題を広げることができる。いまはコロナ禍のために、外国人の入国が制限されているが、日本で働いている外国人は多くいる。そして、彼らには子どもがいる。その子どもの「言語教育/文化教育」はどうなっているか。彼らが自らの尊厳を守りながら共存できるように政策をとっているか。多くのひとの「文化」を剥奪し、「日本化」させようとはしていないか。

 きょうの木下の「作文」は、露骨に「アメリカの世界戦略応援」という形の論ではないだけに、逆に、非常に危険である。日本が過去に何をしてきたか、日本政府がいま日本でどういうことをしているか。問題が何もないかのような印象操作である。

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