石毛拓郎『ガリバーの牛に』(8)(紫陽社、2022年06月01日発行)
8篇目「ぼんくら」。「谷川雁」のことばが「副題」に引用されている。谷川雁は、ある時期、谷川俊太郎よりも有名だった(と、思う)。その谷川雁を石毛はどう受け止めていたのか。
からだの孔という孔に
「軍歌」が 潜りこみ
鼻の孔をゆるがす
大粒の「ジャズ」が こぼれ
眼の孔から塞ぎきれぬ
怒濤の「演歌」が ながれ
耳の孔から とぎれぬ悲鳴のような「童謡」が
風下の方へと 消えていく
「軍歌」「ジャズ」「演歌」「童謡」が共存する。それもひとりの「からだ」のなかでである。「孔」から入り込んでくる音楽、リズム、旋律。谷川雁の詩には、何よりもリズム、旋律があった。それは、ことばの「調和」というよりも「衝突」がうみだす「響き」だった。「ことばの肉体」の「思春期」、あるいは「ことばの肉体の変声期」とでもいうのだろうか。都会のなかに侵入してくる土俗、土俗のなかに侵入してくる都会。その瞬間的、衝突。衝突の、火花。そのきらめき。
しかし なんてこった
風下に逃げおおせた とたんに
からだの 孔という孔から
葉露が光って こぼれ落ちているではないか。
「こぼれ落ちる」。このことばが象徴的だが、その衝突は「敗北」を意味していた。土俗が敗北したのか、都会が敗北したのか。軍歌が敗北したのか、ジャズが敗北したのか、演歌が敗北したのか、童謡が敗北したのか。それはひとによって違うだろう。
つまり、時代が変わったのだ。
しかし、「敗北した」ということは共通している。しかも、なんといういやらしさだろう。その敗北は「葉露」のように「光る」。純粋さを協調しながら、抒情になることをめざしている。どのことばも「叙事(記録)」になることよりも、「抒情」になって、「からだ」のなかを満たそうとしていた。
そういう時代だったなあ、と思う。
あれは、もしかしたら「仕組まれた」衝突であり、「仕組まれた」激変だったかもしれないと、ときどき思う。
私は無自覚だった。つまり、私はまだ「肉体のことば」も持っていなかったし、「ことばの肉体」についても知らなかった。私には「時間/過去」と呼べるものがまだなかった。無知には、どういうものでも美しく見える。「これが美しい」と言われれば、その「美しい」ということばに誘われて、それを美しいと信じてしまう。ことばに翻弄される。
--というのは、私の反省であって、石毛のことを言っているのではない。もちろん谷川雁のことを言っているのでもない。