詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(9)

2022-05-04 11:58:40 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(9)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 9篇目「蝉の暮れ方」。花田清輝のことばが副題に引かれている。

蝉の暮れ方
うたうには この甲冑が邪魔だ
パックリと割れた背殻を 脱ぎ捨てて
新参者の蝉は 歌っている

 ことばのリズムがかっこいいね。「甲冑」「背殻」「新参者」という漢字がしゃきっとしているし、「パックリ」も響きがいい。そして、これは、このあとにつづくことばと、対照的である。

ああ いつの間にか
秋が 来てしまった
こまった
こまった

 先に引用した部分が、「パックリ」は少し違うが、「甲冑」「背殻」「新参者」は「文語的」である。それに対して後に引用した部分は「口語的」である。
 文語と口語がぶつかり、互いを刺戟する。そして、その衝突を、矛盾の方にひっぱっていきながら、いままで気づかなかったこと(知っていたかもしれないけれど、ことばにしてこなかったこと)を語る。新しい何か、新しい意味を追加されたことばを噴出させる。このときも「文語」というと変だけれど、かなりイメージがきっちりしたことばをつかう。
 こんな具合。

蝉には 歯がないことを すっかり忘れていた
樹液は渇き 固まってきた
それでも 飢えたまんま
蝉は うたっている
腹が減っても
蝉は樹の蜜を吸うことができない

 こういうことばの「操作」は、ある時代に、とても多かった。その先頭を走っていたのが花田清輝である。
 詩に谷川雁の文体があり、評論に花田清輝の文体がある。
 「聖」と「俗」の結合。その衝突、と言ってもいいかもしれない。
 私は、ほんとうに貧乏だったから、この「聖」と「俗」の結合というのは、「金持ち(本を読んでいる人)」と「貧乏(本も読まずに働いている人)」の結合のような感じがして、そうなれたらかっこいいかもしれないけれど、こういうかっこよさを振りかざすと自分が自分ではなくなるぞ、という気持ちがどうしても残った。つまり、谷川雁も花田清輝も、とてもかっこいいが、「そんなことは言われなくない」といういやあなものが残るのである。
 それは、どういうことだったのかなあ。
 石毛の詩を読んでいて、ちょっとわかった。石毛自身のことばではなく、花田清輝のことばを引用している部分がある。正確な引用というよりも、多少、整理されているかもしれない。

暗黒の夕暮れ 空腹になると
ノルウェイ人は 鉋屑を喰らい
ロシア人は 煉瓦を喰らう
なんと かれらは便利な胃袋をもっている

 この部分にあらわれた「ノルウェイ人は 鉋屑を喰らい/ロシア人は 煉瓦を喰らう」という「知識(本を読んでいる人の認識)」がいやなのではなく、その「認識」のあとにつけくわえられた「便利な胃袋」の「便利な」という「批評」がいやなのである。この突然噴出してきた「便利な」という新しい見方、皮肉な見方、花だ特有のことばがいやなのである。花田はほんとうに「便利」と思って言っているのか。鉄屑や煉瓦を食ってみたことがあって、そう言っているのか。違うだろうなあ。鉋屑や煉瓦はもちろん食べられない。そういう「知識」をもっていて、その「知識」をもとに「便利な」ということばを動かしている。 つまり、この「便利な」には共感というものがない。
 「批評」は「知識」なのだ。「批評」は「知識」をどうやって「見せびらかすか」ということなのだ。「共感」ではない。--これは、たぶん、いまも形を替えてつづいているなあ。
 ほんとうに腹が減ったとき。私は鉋屑も煉瓦も食ったことはないが、畑のキュウリをもいで齧る、トマトを盗んで食べる、さつまいもを掘り出して泥を払い落とせるだけ落として生のまま食らいつく、ということは何度もした。そのとき私の歯、胃袋は「便利なもの」ではなかった。単なる必然だった。
 「必然」を「便利」と言われることほど、いやなことはない。
 石毛は、どう思ったか。よくわからないが、私は詩の最後の部分に、引かれる。

地上の生活も 七日もすれば
蝉は カラカラになって
藪椿の花弁のように
首ごと樹から ポトリと 地に墜ちる
それも 腹を 恋しい空にむけて
蝉は 実りの秋というものを
うたわないのだ
不器用に ただ ひとつの覚え歌を
うたうだけだ。

 「不器用」ということばがある。たぶん「便利」の反対は「不便」ではなく、「不器用」である。「かれらは便利な胃袋をもっている」は「かれらは器用な胃袋をもっている」と言い換えることができる。
 ここから花田清輝を見直すと、花田清輝は「器用な」評論家だったのだと思う。かけ離れた存在を「器用に」連結し、そこで何かを語る。たぶん「語り方を語る」といったらいいのかもしれない。

 人間は、たいてい「不器用」なものである。そして私は、その「不器用」を信じたい気持ちでいる。「不器用」のなかには、そのひとがいる。「器用」になれない何かがある。それは大事なことが。「器用になれない」は「便利につかわれることを拒む」につながると思う。
 いまは「合理主義」の時代である。「合理主義」は「理性主義」かもしれないなあ。その「合理主義」が「不器用な存在」を排除する形で強化させていく。それをとめるのは「不器用」しかないのだ。
 このことは、「不器用な」は「愚かな」と言い換えることができる、と考えれば、「合理主義」の罠がわかるはずだ。「合理主義」(理性主義)は「愚かな存在」を排除して、より強固になる。しかし、その強固さは、嘘のものだ。「支配」のためにつくりだされた「主義」にすぎない。
 脱線したが。
 「不器用な」は「愚かな」である。石毛の書いている最後の二行「不器用に ただ ひとつの覚え歌を/うたうだけだ。」は「愚かに ただ ひとつの覚え歌を/うたうだけだ。」と言い換えることができる。
 もし花田清輝が「かれらは便利な胃袋をもっている」ではなく、「かれらは愚かな胃袋をもっている」と書いていたのだったとしたら、私は、花田清輝が好きになったかもしれない。水で洗ってさえないサツマイモに食らいついていたとき、私は愚かな,馬鹿な、気の狂った子どもだった。それが私の必然だった。
 石毛が尊敬しているらしい魯迅ならば、きっと「かれらは愚かな胃袋をもっている」と書いたと思う。魯迅には「愚かな人間」に身を寄せ、その「愚かさ」のなかにある「手応え」を頼りにことばを動かしいると私は感じている。魯迅と花田清輝を比べてもしようがないが、ふと、そう思った。

コメント
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