森川雅美「夜明け前に斜めから陽が射している」(「詩誌酒乱」3、2009年07月10日発行)
いつからか、森川雅美は「頭」で「肉体」を書くことをやめた。これは、とてもいいことだと思う。もともと森川は「頭」で書くひとである。「肉体」を書くことにはむりがあった。「頭」で「肉体」を書くことをやめ、ただ「頭」で「頭」を書く--そうすることで「頭」そのものが「肉体」になった。
「夜明け前に斜めから陽が射している」はふたつの部分からできている。(正確に語るかたるなら)と(いくつもの眼のうちに)。(正確に語るなら)の「正確に」という表現に「頭」がくっきりと出ている。「肉体」は「正確に」とはいわない。「肉体」は間違えることができない。「肉体」は知っているか、知らないかのどちらかであり、知っていることは全部正しい。間違えるのは(つまり、正確でないことをするのは)、「頭」だけである。
卑近な例で説明する。たとえば、セックス。はじめてのセックスのとき、男は女のどこに自分のペニスをあてていいのかわからない。挿入の場所がわからない。これは「知らない」のである。そして女が「違う」といっても、それは男の「肉体」が「間違っている」というのではなく、その場所を「正しい」は思い込んでいる「頭」が間違っているというのである。「頭」であれこれ考えるから、間違える。あらゆる動物は本能で、つまり「肉体」で動くから、「教えてもらわなくても」間違えようがない。「教えてもらったこと」(何かで読んだり聞いたりして、知ったこと)を「頭」で整えて、そのうえで「肉体」を動かそうとするから奇妙なことが起きるのである。本人は、ちゃんと「肉体」を動かしているつもりかもしれないが、傍から見ると、「頭」を動かしているだけで、「肉体」が反応していない。
「肉体」を書くには、「頭」を書くときとはまったく別の文体が必要である。森川は、そういう文体を、いまのことろ持っていない。そのことに気がついたのかどうかよくわからないが(私は、そんなにていねいな森川の読者ではない)、最近は「肉体」を書くことをやめて、「頭」を書いている。むりがない。とても読みやすく、また、楽しい。
具体的にいうと……。(いくつもの眼の内に)の最初の部分。
「脳」ということばが出てくるから「頭」というのではない。「頭」は、文と文をつないでいる「また」「(である)なら」「なお」「さらに」ということばによって「肉体」になっている。「頭」がそういうことばによって「肉体」になっている。「肉体」として動いている。
森川は、「また」「(である)なら」「なお」「さらに」ということばによって逸脱しつづけることで詩を書く。この逸脱はセックスのエクスタシーと違って、けっして「自己」の外へは出ない。あくまで「頭」のなかで動き回る。
もう動き回りすぎて、「また」「(である)なら」「なお」「さらに」ではどうすることもできなくなったとき、どうするか。「頭」というのは「天才」である。
「いいかえるなら」。
反復するのだ。
人間の「肉体」が(たとえば、セックスにおいて)、反復することで、どんどん何事かを知っていく。より深い快感を手にいれることができるようになるのと同じように、「頭」は「ことば」を「いいかえるなら」という形で反復することで、その経験の厚みを獲得する。そして、「頭」自身が「肉体」になる。
「また」「(である)なら」「なお」「さらに」と並列するだけではなく、「いいかえるなら」ともう一度、最初から並列をやりなおす。くりかえす。それが「頭」である。「頭」の文体である。
すべては、語り直しなのだ。
この地点から、(正確に語るなら)に戻ると、森川のことばの運動がとてもわかりやすくなる。タイトル(?)の(正確に語るなら)自体がすでに語り直し、「いいかえるなら」である。
何が書いてあるかわからなくなったら、その行間に「また」「(である)なら」「なお」「さらに」などのことばを補えばいい。どこまでいけば結論(?)に達するかわからないと感じたら「いいかえるなら」を挿入してみるといい。「いいかえるなら」はどこに挿入しても、まったく不都合は生まれない。それが森川の詩、「頭」で書いている詩である。
森川の書いていることばは、どこへも行かない。森川の「頭」の中を、何度も何度も、ぐるぐるとまわるのである。同じことをしていて飽きないか--というのは、愚問である。「肉体派」にとってセックスに飽きるということがないのと同様、「頭派」がことばに飽きるということはない。ことば以外に好きなものなどないのだから。
いつからか、森川雅美は「頭」で「肉体」を書くことをやめた。これは、とてもいいことだと思う。もともと森川は「頭」で書くひとである。「肉体」を書くことにはむりがあった。「頭」で「肉体」を書くことをやめ、ただ「頭」で「頭」を書く--そうすることで「頭」そのものが「肉体」になった。
「夜明け前に斜めから陽が射している」はふたつの部分からできている。(正確に語るかたるなら)と(いくつもの眼のうちに)。(正確に語るなら)の「正確に」という表現に「頭」がくっきりと出ている。「肉体」は「正確に」とはいわない。「肉体」は間違えることができない。「肉体」は知っているか、知らないかのどちらかであり、知っていることは全部正しい。間違えるのは(つまり、正確でないことをするのは)、「頭」だけである。
卑近な例で説明する。たとえば、セックス。はじめてのセックスのとき、男は女のどこに自分のペニスをあてていいのかわからない。挿入の場所がわからない。これは「知らない」のである。そして女が「違う」といっても、それは男の「肉体」が「間違っている」というのではなく、その場所を「正しい」は思い込んでいる「頭」が間違っているというのである。「頭」であれこれ考えるから、間違える。あらゆる動物は本能で、つまり「肉体」で動くから、「教えてもらわなくても」間違えようがない。「教えてもらったこと」(何かで読んだり聞いたりして、知ったこと)を「頭」で整えて、そのうえで「肉体」を動かそうとするから奇妙なことが起きるのである。本人は、ちゃんと「肉体」を動かしているつもりかもしれないが、傍から見ると、「頭」を動かしているだけで、「肉体」が反応していない。
「肉体」を書くには、「頭」を書くときとはまったく別の文体が必要である。森川は、そういう文体を、いまのことろ持っていない。そのことに気がついたのかどうかよくわからないが(私は、そんなにていねいな森川の読者ではない)、最近は「肉体」を書くことをやめて、「頭」を書いている。むりがない。とても読みやすく、また、楽しい。
具体的にいうと……。(いくつもの眼の内に)の最初の部分。
いくつもの眼の内に射す一瞬の光とともに脳の古層で意味もなく囁かれる声の繰り返しに足をたち止めてはならぬと叱咤するのもまた脳の裏側の声でついにはとどかぬ脈であるなら畔に佇むことはすでに水からの細胞のひとつひとつに水源を感じつつなおいっそう下流の汚泥の中に半身を突き刺すことでありさらに言説は常に少なからず嘘を含み親しいものであればなおさらでありいいかえるなら体の内側に蛇行する廃道は首筋の辺りでより皮膜に近づき(後略)
「脳」ということばが出てくるから「頭」というのではない。「頭」は、文と文をつないでいる「また」「(である)なら」「なお」「さらに」ということばによって「肉体」になっている。「頭」がそういうことばによって「肉体」になっている。「肉体」として動いている。
森川は、「また」「(である)なら」「なお」「さらに」ということばによって逸脱しつづけることで詩を書く。この逸脱はセックスのエクスタシーと違って、けっして「自己」の外へは出ない。あくまで「頭」のなかで動き回る。
もう動き回りすぎて、「また」「(である)なら」「なお」「さらに」ではどうすることもできなくなったとき、どうするか。「頭」というのは「天才」である。
「いいかえるなら」。
反復するのだ。
人間の「肉体」が(たとえば、セックスにおいて)、反復することで、どんどん何事かを知っていく。より深い快感を手にいれることができるようになるのと同じように、「頭」は「ことば」を「いいかえるなら」という形で反復することで、その経験の厚みを獲得する。そして、「頭」自身が「肉体」になる。
「また」「(である)なら」「なお」「さらに」と並列するだけではなく、「いいかえるなら」ともう一度、最初から並列をやりなおす。くりかえす。それが「頭」である。「頭」の文体である。
すべては、語り直しなのだ。
この地点から、(正確に語るなら)に戻ると、森川のことばの運動がとてもわかりやすくなる。タイトル(?)の(正確に語るなら)自体がすでに語り直し、「いいかえるなら」である。
正確に語るなら名前がない方がましだと
生成にひとつの陽が燃えつづけ
あることはいつでも裏切りであり
私たちは孕まれるため世界である
何が書いてあるかわからなくなったら、その行間に「また」「(である)なら」「なお」「さらに」などのことばを補えばいい。どこまでいけば結論(?)に達するかわからないと感じたら「いいかえるなら」を挿入してみるといい。「いいかえるなら」はどこに挿入しても、まったく不都合は生まれない。それが森川の詩、「頭」で書いている詩である。
森川の書いていることばは、どこへも行かない。森川の「頭」の中を、何度も何度も、ぐるぐるとまわるのである。同じことをしていて飽きないか--というのは、愚問である。「肉体派」にとってセックスに飽きるということがないのと同様、「頭派」がことばに飽きるということはない。ことば以外に好きなものなどないのだから。
山越森川 雅美思潮社このアイテムの詳細を見る |