詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

森川雅美「夜明け前に斜めから陽が射している」

2009-09-10 00:13:05 | 詩(雑誌・同人誌)
森川雅美「夜明け前に斜めから陽が射している」(「詩誌酒乱」3、2009年07月10日発行)

 いつからか、森川雅美は「頭」で「肉体」を書くことをやめた。これは、とてもいいことだと思う。もともと森川は「頭」で書くひとである。「肉体」を書くことにはむりがあった。「頭」で「肉体」を書くことをやめ、ただ「頭」で「頭」を書く--そうすることで「頭」そのものが「肉体」になった。
 「夜明け前に斜めから陽が射している」はふたつの部分からできている。(正確に語るかたるなら)と(いくつもの眼のうちに)。(正確に語るなら)の「正確に」という表現に「頭」がくっきりと出ている。「肉体」は「正確に」とはいわない。「肉体」は間違えることができない。「肉体」は知っているか、知らないかのどちらかであり、知っていることは全部正しい。間違えるのは(つまり、正確でないことをするのは)、「頭」だけである。
 卑近な例で説明する。たとえば、セックス。はじめてのセックスのとき、男は女のどこに自分のペニスをあてていいのかわからない。挿入の場所がわからない。これは「知らない」のである。そして女が「違う」といっても、それは男の「肉体」が「間違っている」というのではなく、その場所を「正しい」は思い込んでいる「頭」が間違っているというのである。「頭」であれこれ考えるから、間違える。あらゆる動物は本能で、つまり「肉体」で動くから、「教えてもらわなくても」間違えようがない。「教えてもらったこと」(何かで読んだり聞いたりして、知ったこと)を「頭」で整えて、そのうえで「肉体」を動かそうとするから奇妙なことが起きるのである。本人は、ちゃんと「肉体」を動かしているつもりかもしれないが、傍から見ると、「頭」を動かしているだけで、「肉体」が反応していない。
 「肉体」を書くには、「頭」を書くときとはまったく別の文体が必要である。森川は、そういう文体を、いまのことろ持っていない。そのことに気がついたのかどうかよくわからないが(私は、そんなにていねいな森川の読者ではない)、最近は「肉体」を書くことをやめて、「頭」を書いている。むりがない。とても読みやすく、また、楽しい。

 具体的にいうと……。(いくつもの眼の内に)の最初の部分。

いくつもの眼の内に射す一瞬の光とともに脳の古層で意味もなく囁かれる声の繰り返しに足をたち止めてはならぬと叱咤するのもまた脳の裏側の声でついにはとどかぬ脈であるなら畔に佇むことはすでに水からの細胞のひとつひとつに水源を感じつつなおいっそう下流の汚泥の中に半身を突き刺すことでありさらに言説は常に少なからず嘘を含み親しいものであればなおさらでありいいかえるなら体の内側に蛇行する廃道は首筋の辺りでより皮膜に近づき(後略)

 「脳」ということばが出てくるから「頭」というのではない。「頭」は、文と文をつないでいる「また」「(である)なら」「なお」「さらに」ということばによって「肉体」になっている。「頭」がそういうことばによって「肉体」になっている。「肉体」として動いている。
 森川は、「また」「(である)なら」「なお」「さらに」ということばによって逸脱しつづけることで詩を書く。この逸脱はセックスのエクスタシーと違って、けっして「自己」の外へは出ない。あくまで「頭」のなかで動き回る。
 もう動き回りすぎて、「また」「(である)なら」「なお」「さらに」ではどうすることもできなくなったとき、どうするか。「頭」というのは「天才」である。
 「いいかえるなら」。
 反復するのだ。
 人間の「肉体」が(たとえば、セックスにおいて)、反復することで、どんどん何事かを知っていく。より深い快感を手にいれることができるようになるのと同じように、「頭」は「ことば」を「いいかえるなら」という形で反復することで、その経験の厚みを獲得する。そして、「頭」自身が「肉体」になる。
 「また」「(である)なら」「なお」「さらに」と並列するだけではなく、「いいかえるなら」ともう一度、最初から並列をやりなおす。くりかえす。それが「頭」である。「頭」の文体である。
 すべては、語り直しなのだ。
 この地点から、(正確に語るなら)に戻ると、森川のことばの運動がとてもわかりやすくなる。タイトル(?)の(正確に語るなら)自体がすでに語り直し、「いいかえるなら」である。

正確に語るなら名前がない方がましだと
生成にひとつの陽が燃えつづけ
あることはいつでも裏切りであり
私たちは孕まれるため世界である

 何が書いてあるかわからなくなったら、その行間に「また」「(である)なら」「なお」「さらに」などのことばを補えばいい。どこまでいけば結論(?)に達するかわからないと感じたら「いいかえるなら」を挿入してみるといい。「いいかえるなら」はどこに挿入しても、まったく不都合は生まれない。それが森川の詩、「頭」で書いている詩である。
 森川の書いていることばは、どこへも行かない。森川の「頭」の中を、何度も何度も、ぐるぐるとまわるのである。同じことをしていて飽きないか--というのは、愚問である。「肉体派」にとってセックスに飽きるということがないのと同様、「頭派」がことばに飽きるということはない。ことば以外に好きなものなどないのだから。





山越
森川 雅美
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(81)

2009-09-09 07:49:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇の詩には「非情」の詩がある。「情」を拒絶した、「存在」の清潔な詩がある。「南画の人間」のなかほど。

シャカ堂道をのぼつて行くと
イーソップ物語の木版に出てくる
ような百姓がウナギを探しに来ていた。
彼らはロマン・ロランもロトレアモンも
知らない偉大な人間だ
数丈ある岩から山の藤豆が花の咲く
長い蔓(つる)をたらして旅人の頬をかする。

 「非情」とともに生きている「イーソップ物語の木版に出てくる/ような百姓」はロマン・ロランもロートレアモンも知らない。けれど、偉大である。彼らは、自然を知っている。山藤の花が旅人の頬をかすることを知っている。それは、山藤からの「あいさつ」である。自然は、人間の「情」には配慮をしない。ひとが悲しんでいようが喜んでいようが、そういうことに配慮して、表情をかえるというようなことはしない。人間が、かってに、自分の感情を自然におしつけて、自然が自分といっしょに嘆いたり、悲しんだりしていると思い込むだけである。
 自然は人間の「情」に配慮はしない。しかし、「あいさつ」はするのだ。

 西脇の詩を読んでいると、ときどき「俳句」の世界に触れたような気持ちになるときがある。それは、そこに昔ながらの自然、ちいさな植物たちが丁寧に描かれているから--というよりも、そのことばが「あいさつ」に満ちているからだ。
 誰かと出会い、何事かを話す。そのとき、話されたことばは「結論」をめざして動くわけではない。「やあ、こにんちは。お元気ですか? どうしています? 私は、いま、こんなことを考えています。あなたは、なにか新しいことを考えていますか? あ、それはおもしろそうですね」という具合だ。
 そこにはことばを突き合わせ、何かを探し出すというようなやりとりはない。それぞれの「世界」を報告するだけだ。「過去」を確かめあう--それぞれが生きてきた「時間」を互いにたたえあう、というのに似ている。
 この作品の、前半にある3行。

小山さんを尋ねたのはこの月だ。
郵便局のわきを曲つたとき突然
羅馬人のように「ジューピテル」と叫んだ。

 小山さんが「ジューピテル」と叫んだという事実だけが書かれている。それに対する批評はない。「「ジューピテル」と叫んでしまう小山さんの「過去」と「いま」をただ受け止めている。受け止めた、と伝えるのが「あいさつ」である。

 この作品の終わりも「あいさつ」である。

二人は庭を見ながら南画の人間の
ようにチョンマゲを結んで酒を汲み
かわした「雪が降つていたらいいんですがね」
宗時代の時期のかけらを眼を細くして
すかしてみた。「なるほどね」

 ここでは、互いを受け止めるだけである。「いま」「ここ」で出会えてよかった--そういうことを、さまざまなことばで言い換える。それが「あいさつ」だ。





西脇順三郎変容の伝統 (1979年)
新倉 俊一
花曜社

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郡宏暢「朝」、岡崎よしゆき「ラストシーン」、谷口哲郎「詩編2」

2009-09-09 00:05:24 | 詩(雑誌・同人誌)
郡宏暢「朝」、岡崎よしゆき「ラストシーン」、谷口哲郎「詩編2」(「詩誌酒乱」3、2009年07月10日発行)

 郡宏暢「朝」は「肉体」を感じさせることばである。特別新しいことばの運動があるというのではないけれど、まず、自分の肉体からことばを動かす、という詩が私は好きだ。安心して読むことができる。
 2連目。

体温を失ったすべてのものを、今は食糧と呼ぼう
湿った皮脂の古く沈んだシーツと
不衛生な食後
--それが私の形だった
ぬるい呼吸の聴こえてくるテレビの前に座り
米つぶのこびりついた言葉を吐く
食卓の傍らに置いた石油鑵からは鰯が溢れ
水平線を対角に押し潰したような歪んだ鉄函の中で
次第にすり身になっていゆく身体を抱えたまま
ぴちぴちと飛び跳ねている
そして
誰かの口臭のような健康が欲しい と
濁ったガラス窓に
もう一度、朝を
閉じ込めようとしている

 「湿った皮脂の古く沈んだシーツ」ということばが、郡の肉体だけではなく、「ぬるい呼吸の聴こえてくるテレビ」という具合に、他人の肉体にまで感染していく(?)感じが、手触りがあってとてもいい。それが、「口臭のような健康」という強靱なものにまでかわっていくのが、とてもいい。
 3連目には、

もう、爽快なひと言は要らない
ただ、あなたの具体的な歯形が欲しい。あるいは

 という行もある。「健康」とは、「体臭」(1連目)や「口臭」「歯形」のようなものをすべて受け入れる力のことである、とあらためて思った。



 岡崎よしゆき「ラストシーン」はなんだかなつかしいことばの運動である。「酒乱」3は「八〇年代詩を考える」という特集をやっているが、60-70年代という感じがする。ことばの選択、ひらがなのつかい方などにそういう「におい」を感じる。もちろん60-70年代にも、80年代にも、そして現在でもさまざまな詩が書かれているから、これは私が70年代にそういう作品を多く読んだ記憶があるということしか意味しないのかもしれないけれど。

とおくで
わられたガラスの音が地平線にひびきわたり
ひとが
世界ということばを意識するとき
おちてゆく鳥の飛翔にも
夕陽は濡れて
高架橋をはしる電車にもきっと意味があったりするのだと
だれもがそう思いたくなる
みずによって
しつらえられた罫線を風にひくと
そこから彩雲がながれこむ
問うための
根拠
などはどこにもありはしない

 「ありはしない」という「敗北」の美学。センチメンタルは私は好きではないが、岡崎の文体はきちんとしている。そのことはとても気持ちがいい。



 谷口哲郎「詩編2」は「ばあさん」の書いたはがきからの引用と、それに触発されたことばの運動である。私は、誰かのことばを引き継いで、そのことばの運動を生きてみるということにとても関心がある。途中までは、とてもおもしろく読んだ。
 ところが、次の部分でつまずいてしまった。

はこばれたふうけいに
あじさいのかおりはにんじんで
いつもならしょくたくにあるぱんもない

 「にんじんで」は「にじんで」なのかなあ。よくわからない。それは、まあ、わからなくてもいいのだけれど。次の「ぱん」ということば。
 私が読んだ印象でいえば、「ばあさん」の語っていることは、「いま」ではなく、戦中・戦後という感じがするのだけれど、その時代に「ぱん」が出てくることになじめなかった。もちろん、戦中・戦後にパンを食べていたひとはいるだろうけれど。

 郡の詩に感じた「肉体」が、谷口の詩から感じられなかった。岡崎の作品が「過去」から学んだことばの運動をていねいに復習しているのだとしたら、谷口の復習の仕方はだいぶ不足している、と思った。



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誰も書かなかった西脇順三郎(80)

2009-09-08 07:19:07 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「梅のにがさ」。その書き出しの3行。

五月の末むさしのの女達をたずねて
くぬ木の夢もはかない昔いた梅の
庭へ迷い込んだのだ。

 2行目の「くぬ木の夢もはかない」は、この作品の他の行とどんな関係にあるのだろうか。どの行とも関係がない。「くぬ木」は、その後、この作品には出てこない。「くぬ木の夢もはかない」は、ない方がことばの「意味」がとおりやすいといえる。
 けれども西脇は、その余分な(?)ことばを書く。
 意識とは、いつでも逸脱するものである。逸脱しながら、逸脱することで、新しい刺戟に触れ、ことばが動きはじめるためのエネルギーを獲得する。

オリーブ色の芝生を越え
下を向いて歩いた。
芝の花は人間の眼には
あまりに小さすぎる。
その唐紅(とうべに)の色は
人間の恋より偉大だが
芝生をみつめる女の涙を通してだけ
その花を発見するのだ。

 これは、「昔いた梅の/庭」を歩いているときの感想だが、「くぬ木の夢もはかない」という逸脱があったからこそ、芝の花の「唐紅の色は/人間の恋よりも偉大」というような飛躍が、飛躍ではなく、軽い逸脱になる。「はかない」が「恋」と「女の涙」を呼び寄せ、「昔」を清潔にする。
 「くぬ木の夢もはかない」という逸脱がなかったら、単なるセンチメンタルになる。つまり、「人間の恋」「女の涙」は、こだわりに、情のからんだものになる。「くぬ木の夢もはかない」が、ことば全体から「情」を洗い流すのだ。
 「情」を洗い流したあと、何が残るか。

八年はもう過ぎ去りあの梅園
枝をのばしみどりの実がふくらむ
くちなしの藪がしげる窓
からのぞいてみた。
『まだ梅はにがすぎる。

 この「まだ梅はにがすぎる。」の美しさ。自然のもっている非情、野蛮。人間の「情」にはいっさい配慮しないもの。ただ、自分のいのちをまっとうに育てる、その力だけがのこる。
 くちなしのころの梅は、まだ青い。青梅は毒、といわれるくらい、にがい。
 西脇の詩の美しさは、こういう自然を知っていることである。旬の味だけではなく、それが大きくなる前の、未熟な味を知っていることである。(エッセイに、熟す前の、まだ渋が白くて、水気の多い実の味について書いたものがあったはずである。)
 その「未熟な味」こそ、「センチメンタル」以前の、「はかない夢」である。

『まだ梅はにがすぎる。
お前もアップルパイかせんべいでも
コカコーラでも紅茶でも飲んでよ
お前の頭髪は長すぎる
短くお刈りなさい』と云つて
真紅なおしべをつけた姫百合
をさした花瓶の影から水色の
一人の女がピカソの作つた皿を出した。

 「はかない夢」を通って、ひとは「人間」になるということを知っているもの、「女の涙」をくぐりぬけたものは、知っているがゆえに、すべてを洗い流す「梅のにがさ」を、ただ「存在」としてそこに提出するのだ。
 それも、意味を拒絶して、わからなくていい、という感じで。
「意味」を拒絶して、ただ、ことばを独立させる。
 この運動は、そのつづきにこそ、よくあらわれている。「真紅」と「水色」の対比。対比は美しいが、では、その「水色」は何の色? 考えると、いろいろなものが「水色」に見えてくる。「一人の女」が「水色」かもしれない。ピカソの作った皿かもしれない。そうではなくて、「花瓶の影」そのものかもしれない。花瓶の影が水色だから、そこから女やピカソの皿が登場できるのだ。
 「花瓶の影」が「水色」だとすると、ことばの順序が違う?
 もちろん違う。
 しかし、詩は、国語の教科書ではない。詩は、教科書文法で書かれているわけではない。「くぬ木の夢もはかない昔いた梅の」というような奇妙なことばは教科書国語にはない。論理的な「文体」(構造)による詩もあるのだけれど、西脇は、そういう論理的構造の詩よりも、ことばが独立して、独立することで乱反射する乱調の美を描いているのだから、「花瓶の影」こそ「水色」であっていいのだ。

 という読み方は、強引すぎるだろうか。

 だが、私は「影」を「水色」と読みたいのだ。詩の、最後を読むと、特にそういう気持ちになる。

今日は新しい女神がこの大学
の校長になる儀式だ。
梅の樹のまたに腰掛けて
女神たちのささやきが終るまで
パイプをすいながら待つていた。
さびれた頭がふるえるのだ。

 青い梅。苦い梅の下で「水色」を思う。それは、ブルーよりも、みどりに近い水色かもしれない。繊細な美しさ。「過去」が、頭のなかでふるえる。「過去」は過ぎ去る。「はかない」夢は昔。今は、ただ青い梅のにがさが、そこにある。
 「水色」は青い梅の「にがさ」の色なのだ。






西脇順三郎の世界 (1980年)
池谷 敏忠
松柏社

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小川三郎「雪だるま」

2009-09-08 00:37:07 | 詩(雑誌・同人誌)
小川三郎「雪だるま」(「詩誌酒乱」3、2009年07月10日発行)

 小川三郎「雪だるま」の書き出しの2行に非常に驚いた。

いくら渡せば
その雪を私にくれますか。

 まず驚いて、それから、驚いてしまったことに、もう一度驚いた。何かを買う--というのは、現代ではあたりまえのことである。買うという行為を通して世界が動いている。買うということは「いくら」か、相手の求めるものを払うことである。ここには何の不思議はない。何の不思議はないのだけれど、やはり驚いた。そして、なぜ、驚いたのだろうか、とかんがか始めた。
 買う--その対象が「雪」だからだろうか。「花」だったら、驚かなかっただろうか。どうも違う。
 私は、「いくら渡せば/その雪を私にくれますか。」の「いくら渡せば」「私にくれますか」という切羽詰まったような文体に驚いたのだ。私は、「……をください」という表現はつかう。「いくらですか」という表現もつかう。けれども、「いくら渡せば……を私にくれますか」とは言わない。
 あ、まるで身代金目的の誘拐犯人と交渉しているみたいじゃないか。
 私が驚いたのは、たぶん、そのせいである。「いくら渡せば、娘をかえしてくれますか?」というような感じで、何かを買うということは、したことがない。

 金(かね)ということばはつかわれていないが、まるで「金」が「もの」として見えてきたのである。今はカードが支払いの多くを占める世の中になって、「金」そのものが抽象的な「数字」になってしまっているが、何といえばいいのか、金の暴力が、ふいに浮かび上がって見えてきたのである。
 労働の代価、といえば聞こえがいいが、金は暴力である。物々交換のときは、ほしいものを自分がつくったものと交換した。そのとき、自分がつくったもののなかには具体的汗というか、時間があった。けれど、それが金に換わった瞬間から、ほんとうはそこにあるはずの汗や時間、苦労、あるいはよろこびというものが、抽象的な「数字」になってしまって、「実感」というものが消されてしまった。金は、労働を「消去」してしまう暴力である。カードは、その金さえも直接手渡ししないので、もっと暴力的である。お札や小銭を数えない。ただ頭のなかで(?)数字を動かすだけである。
 この暴力のいちばん悪質なところは、それが暴力的に見えないことである。

 その、見えなかった「暴力」が、一瞬、ふっと、目の前をよぎったのである。自分の時間を犠牲にして稼ぐ金--その「いくら」を費やせば、雪を渡してもらえるのか。「買う」のではなく、「くれる」、つまり相手の手元から自分へと渡してもらう。そのために、それまでにつかってきた「時間」(労働)を「いくら」(幾日、幾時間)渡せばいいのか。
 いまでは抽象的になってしまった金のやりとりが「金」と「もの」(雪)の「物々交換」のように見えてしまった。
 「物々交換」というあり方を浮かび上がらせることばの動きに私はびっくりしてしまったのである。

 2連目以降は、その雪で「雪だるま」を「ふたつ」つくりたいという「私」の夢が語られる。
 なぜ、「ひとつ」ではなく「ふたつ」?
 労働し、金を稼ぐ。そして、その金で何かを買う。買って、暮らしていく。そのなかには「ひとつ」ではないものがある。「ふたつ」の存在があってはじめて成り立つ何かがある。そういうことが関係しているかもしれない。
 小川は、具体的には書いていないが、私は最初の2行の「暴力的」なことばの動きから、そういうものを考えてしまった。
 「ふたつ」はもしかすると、買うとは無縁のことかもしれない。
 たとえば、愛。
 男と女。ふたつ(ふたり)のいのち。そこで何かをやりとりする。気持ち、こころ。そこには悲しみや憎しみもあるかもしれない。それがなんであれ、何かが行き来する。そして、その行き来には、現実の「経済」と違って、金は動かない。金という「暴力」を仲立ちにしないで動くものがある。
 その、目に見えないもの--それを見るために、「私」は、雪を、雪だるまを切実にほしいと思っている。

私のつくる雪だるまは
きっと無表情だろうけど
何かを主張するわけでも
ひとを幸福にするわけでもないけれど
確かにそれはふたつあって
なによりそれは、雪だるまであって
明日には溶ける運命を
誰にも渡さずに持っている。

生まれたままに見る悪夢を
わななく夜空に向かって
大の字に広げたい
儚いとはいえ
終わることを考えるのは
人間だけですから
そういう習性なんです
いつでもどこでも。
だから嫌われるのですが。

 「嫌われる」--けれど、嫌われるものにもいのちがある。そして、嫌うものにもいのちがある。そのいのちは、金とは違って、やがて終わる。終わるしかないものが、金の暴力に突き動かされて、疲れ切っている。
 その悲しみを感じた。
 
 小川は、金の暴力を肉体で感じる詩人なのだと思った。そして、また、いま、こういう作品が書かれないのは(私が知らないだけなのかもしれないが)、なぜなのだろうか、とも思った。私たちは金の暴力に、もう馴らされきってしまっているのだろうか。「高速道路無料化」とか「子ども手当て」とか、甘い甘い暴力が、暴力の姿を隠して、すぐそこまで来ているが……。






流砂による終身刑
小川 三郎
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(79)

2009-09-07 05:02:18 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 ことばの「脱臼」、行のわたりによることばの乱調は、「乱れ」というよりも、乱れの前後にあることばそのものをくっきりと浮かび上がらせる。乱れることによって、1行のことばの強さ、輝きが増す。そして、乱反射する。乱反射の光が、いままで見落としていた存在を照らしだし、にぎやかになる。あるいは、「やかましくなる」というべきか……。
 「秋の写真」の前半部分。

この武蔵野の門をくぐつてみると
ひとりの監視人以外に人間らしい
ものはなにもなかった。
今日は小鳥の巣のコンクールがある日
だつたがまだ一人もそうした少年芸術家の
青い坊主頭がいない
   (谷内注・「くぐつてみた」の「ぐ」を西脇はをどり文字で書いている。
    をどり文字が表記できないので、書き換えた。以降の引用も同じ。)

 行のわたりによって「監視人」「青い坊主頭」の存在の対比が強烈になる。「乱調」がなくても対比はあるけれど、それは「対比」として強調されるにすぎない。「乱調」は対比と同時に、それぞれの「存在」を印象づけるのである。文脈が破壊される(学校教科書の文法が、という意味である)ことによって、文章の流れ、構造ではなく、構造を支える「存在」がくっきりと浮かび上がる。「存在」がことばとして浮かび上がる。
 詩とは、「存在」を「ことば」として浮かびあがらせること--ではなく、「ことば」が「存在」になることなのだが、西脇の「脱臼」(乱調)は、「ことば」を存在」にしてしまう方法なのである。
 さまざまな「乱調」をくぐりぬけて、ことばは、次のように変化する。

秋の写真秋の女の写真
デュアメルの奥さんに読んで貰うものが
ないのはこまつたことだ。
くもつたカメラの中へこぼれるのは
ぼけ、いいぎり、くさぎ
まゆみ、うばら、へくそかずら
さねかずら
の実の色 女のせつない色の
歴史
歴史はくりかえされるのだ。

 ふいに登場する草々。どんな修飾語も拒絶して、ただ、「存在」そのままに、そこにある。「歴史」とはいつまでもかわらない「存在」のなかでのみくりかえされる。それは、女の「せつなさ」と同じもの。
 この突然の、「女のせつない色」は、乱調の光が照らしだしたもののひとつだ。何の説明もないが、それは説明できな。乱調そのものが説明を逸脱している。説明を逸脱していく、文脈を逸脱していくのが乱調なのだから。
 「女のせつない色の/歴史」ということばを、西脇は、この詩のなかでは、「存在」そのものにしたかったのだ。






西脇順三郎全集〈第1巻〉 (1982年)
西脇 順三郎
筑摩書房

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望月苑巳「だらしない物語」

2009-09-07 02:37:22 | 詩(雑誌・同人誌)
望月苑巳「だらしない物語」(「孔雀船」74、2009年07月15日発行)

 望月苑巳「だらしない物語」は大切な人を亡くした悲しみが静かに揺れている。

闇夜は星が美しい
月の出た夜はひとが美しい
梅の香りをまとって笑っているよ
月の光も香っているよ
でもね
雨の降る日は
天の涙に表札が磨かれて
大根のように冷たくなるよ
ずぶぬれで帰ってきた父は
母さんが置いて行った
子守唄をうたっているよ
赤ん坊をあやすように
空のご機嫌をとるように
泣きたくなるような子守唄だったよ

 前半は母の記憶だろう。月夜の梅のような、まぶしく美しい母の記憶。その母を(妻を)亡くして、父は、ずぶぬれになって歌を歌っている。母が歌っていた子守唄。それは望月が聞いた子守唄だが、そのとき父も一緒に聞いていたのだ。子守唄に、父の悲しみを知る望月。望月自身も悲しいが、父も悲しい。
 ひとの悲しみを知るのは悲しい。
 くりかえされる行末の「よ」は、ことばの断定をやわらかくする。悲しみを受け止めるには、何かしらのやわらかいものが必要なのだ。

人間は二度死ぬ
最初は焼かれて灰になった時
二度目は存在したことを忘れられてしまった時

そんな始末書の脇で
ぼくが冷たくなっているよ
開いた瞳孔が青空を吸い取ってしまったのか
朝から雨
だらしない雨だよ
きのうまで蛇口で水を飲み
好きな物を食べて
堂々と人を好きになったりもしたのに
だらしないったりゃ、ありゃしない
劣化してゆく、ぼく
退化してゆく鍋の底に
溜まっていたのは
使い方を間違えた父の靴紐

何も知らなかったあるころに帰って
だらしない雨に打たれ
三度目の死を迎えるよ
だらしないぼくの物語だよ

 母がなくなり、その亡くなったこともふと忘れてしまったとき、もう一度、大事なひとの死がやってくる。父の死。
 そのとき、ふいに思い出すのだ。父が、母が死んだときに悲しんでいたことを。
 その悲しみを、望月は心底理解していたわけではなかった。なぜなら、彼自身が悲しかったから。自分自身が悲しく、そして、同じように(それ以上に)悲しんでいる父を見て、また別の悲しさ、せつなさを感じた。
 そういうことも、ふと、忘れてしまう。
 時間のなかで。
 「忘却」という名の「始末書」。ひとは忘れるものなのだ。「だらしない」のだ。その「だらしなさ」に気づいたとき、また、悲しみが新しくなる。
 
 どうすることもできない悲しみを、「だらしない」と呼ぶことで、自分自身を叱ってみる。そんなふうに叱るしかない。その悲しみ。
 その悲しみを支えてくれるひとがないから、自分で支える。「よ」というやさしいことばで。

 とても美しい「よ」である。



紙パック入り雪月花 (21世紀詩人叢書)
望月 苑巳
土曜美術社

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平松洋子評「渡辺裕一『小説家の開高さん』」

2009-09-07 01:05:14 | その他(音楽、小説etc)
平松洋子評「渡辺裕一『小説家の開高さん』」(「朝日新聞」2009年09月06日朝刊)

 朝日新聞の書評欄。平松洋子が、渡辺裕一の『小説家の開高さん』を紹介している文章の最後の方。

 「骨董屋の善二さん」では、湯島の居酒屋「シンスケ」の主人が燗(かん)をつけるとき、徳利(とっくり)の尻をさりげなく撫(な)でて温度をたしかめる場面が描かれる。
 「その手つきは手練(てだれ)の痴漢にも似て自然であり、悩ましい」
 ああもう。わたしもあの所作にはおおいに反応するものだが、当意即妙。

 この部分だけで、渡辺裕一の『小説家の開高さん』が読みたくなる。すぐれた批評というのは余分なことは書かなくていい。ただ、この部分がよかった、と書くだけていいのだ。

 で、(というのは変だけれど)。
 ちょっと気がかりな部分。引用した部分の前の方にあるのだけれど。

 釣り三昧(ざんまい)の一カ月の回想を綴(つづ)ったこの短編のなかに、釣り人としての開高健の本質をざぶりと洗いだす一行がある。わずか十三文字。しかし誰もけっして書かなかったそらおそろしい一行が、「小説家の開高さん」の深淵(しんえん)をのぞきこませる。

 あ、これは、いやだなあ。平松としては、その一行は本を手にとって読んでもらいたいということで伏せてあるのだろうけれど、うーん、買いたくなくなる。燗の手つきの部分は、それがほんとうに書いてあるのか確かめるために買って読みたくなるけれど、この思わせぶりの部分は、私は読みたいとは思わないなあ。
 ほんとうにおもしろいのなら、どうしても、書いてしまう。燗の部分のように。思わず書かずにはいられないほどはおもしろくないのかもなあ、と私は疑問に感じてしまったのだ。

 書評は難しいねえ。



小説家の開高さん
渡辺 裕一
フライの雑誌社

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誰も書かなかった西脇順三郎(78)

2009-09-06 06:59:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 西脇の詩は長い作品が多い。長い作品の方が音楽が入り乱れて楽しいが、短い作品も軽快でいい。
 「秋」の「Ⅱ」の部分。

タイフーンの吹いている朝
近所の店へ行つて
あの黄色い外国製の鉛筆を買つた
扇のように軽い鉛筆だ
あのやわらかい木
けずつた木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
門をとじて思うのだ
明朝はもう秋だ

 田村隆一ではないが、思わず、黄色い鉛筆を買いに行きたくなる。黄色い鉛筆を買ってきて、削って、燃やしてみたくなる詩だ。
 私は、その「意味」「内容」もおもしろいと感じるけれど、そんなふうに西脇の詩にそそのかされてしまうのは、「意味」「内容」よりも、この詩の音楽のためだと感じる。

 「タイフーンの吹いている朝」。これが「台風が吹いている朝」では、たぶん、おもしろくない。重くなる。「タイフーン」という音がこの詩を書かせている。「タイフーン」のアクセント「フ」にある。だから「吹いている」と「ふ」が重なる。台風なのに、まるで、かろやかな風である。「朝」という明るい響きもとても美しい。「タイフーン」の「フーン」という音のなかに、現実とは違った軽い響きがある。その軽さが「あさ」の開放的な音を強調する。母音「あ」がのびやかに広がる。「秋」(あき)の「あ」だ。
 次の行からは「秋」(あき)の「き」がはじまる。「近所」「黄色」「木」「木屑」の「き」。「扇」のなかにさえ「おうぎ」と濁音の「き」が隠れている。
 その「き」の上には「あの」の「あ」が繰り返される。
 この「あの」は意味上は無意味な「あの」である。「あの」と書いているのに、先行するどの行にも、その「あの」が指し示すものがない。「あ」と「き」を浮かび上がらせるための「あの」なのだ。
 
 そして、私は最後の行で、ちょっとつまずく。引用してみてはじめて感じたのだが、「明朝はもう秋だ」の「明朝」はどう読むのだろう。私の記憶の中では、この行は「あすはもうあきだ」という音になっていた。
 ところが「明朝」。
 「あす」と読ませるなら、ルビが必要だろう。ところがルビがない。
 「みょうちょう」なのか。
 「みょうちょう」だと、その前の行の「門」、そしてさらにその前の「バラモン」の「モン」、さらに遡って「燃やすと」の「も」、つまりま行の音と響きあい、「もう」の「も」ともなじむのだけれど……。

 「みょうちょう」という音は、私の感覚では「あき」という明るい音とは、しっくりこない。
 私の「頭」は、いや、そんなことはない。「タイフーン」「みょーちょー」という音はなかなかおもしろい変化だと、しきりに言うのだけれど。



西脇順三郎の世界 (1980年)
池谷 敏忠
松柏社

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境節『十三さいの夏』

2009-09-06 01:01:29 | 詩集
境節『十三さいの夏』(思潮社、2009年07月31日発行)

 冒頭の「呼びかけられて」は不思議な詩である。「いま」「ここ」にいて、人生を振り返っている。

こわれそうで
こわれなかったものを かかえて
今朝(けさ) 立っている
小さな 生物(いきもの)の気持ちで
量(はか)りきれなかった日々
生きるのが こわかった
ここまで おいで
ここまで おいで
試(ため)されたくは なかったのだろうか
呼びかけられても
足がすくんで行けないまま
すでに年月(としつき)はすぎて
それでも ひそかなおもいは
河床の水のように
流れ続ける

 何かに誘われたような気持ちになる。「ここまで おいで」と呼びかけられたような感じ。好奇心。それにしたがって生きる生き方があるが、境はそういう生き方をしなかった、と書いている。そういう生き方をしなかったけれど、そういう呼びかけは聞こえていた。そして、その呼びかけにしたがうかわりに、自分の中の「そこへ行ってはいけない」という声に身をまかせたのだ。「そこへ行ってはいけない」という声は、「いま」も聞こえている。そして、その声が聞こえるということは、「いま」も「ここまで おいで」という声が聞こえるということでもある。
 呼びかける声、ここには明確な形では書かれていないが、それにしたがうことを押しとどめる声。そのふたつの間で境は生きている。

 いつも、何かの間にいるだ。何かの「真ん中」にいるのだ。けれど、それは「中心」という意味ではない。「そこまで」という作品には、「宇宙の真(ま)ん中(なか)に存在している」という行が出てくるが、「中心」という意味ではない。

手と目のよろこびにみちて
この地に立つ
宇宙の真ん中に存在している
気に満(み)ちて
そこまで到達せよ
そそのかされているのだろうか
死んだ友が
はるかなところから呼んでいる

 「真ん中」は「中心」ではなく、「つなぐ」ということ、「仲立ち」ということなのだ。「仲立ち」は、また、両方からの誘いが出会う場でもある。何かをつなぎながら、境は、その両方から誘いを受け、その両方をじっとみつめる。「いま」「ここ」を離れない。離れないまま、「真ん中」から両側へ境自身を広げていくような感じだ。
 自分の幅を広げる。人間の幅を広げる。--そういうことばを、ふと、感じる詩である。境の書いていることばには、境が広げてきた「人間の幅」がある。
 「ここまで おいで」という呼びかけを聞きながら、じっとこらえている。じっとこらえながら、「ここまで おいで」とは反対側へも自分を広げ、その逆方向に広げた幅によって、なんといえばいいのだろう、その誘いの側まで到達するような感じだ。「ここまで おいで」という呼びかけにしたがって、そこへは行かない。行かないことが、そこまで行くことなのだ。--矛盾しているが、そういうことだ。行かないことが、そこへ行くということのすべてを境の「肉体」のなかに蓄えられるのである。
 そして、その蓄えられたものが、どんどん増えて、ついにあふれだす瞬間というものもある。
 「もう一度」という作品。

遠い日々を通って
わたしたちは
出会った
ふるえをおさえて
そのひとを見る
かべの中に住んでいたような
気持ちが急にほころんで
ことばは
ふかいおもいを飛びこえていく
考えていなかった
リズムがわいてくる
おさえきれない音が
にわかに立ちあがって
意味はすでに消え去るのか
せんさいなソロディが まわりを包んで
やさしさを どうしよう
もう一度 会えますか

 「ここまで おいで」という呼びかけに応じなかったものが互いに出会う。呼びかけに応じずに、静かに自己を守り通してきたものどうしが互いに出会う。
 そのとき「真ん中」と「真ん中」が重なりあう。
 何かと何かの間--としての「真ん中」は、突然、「広がり」ではなく(ひろがり、ということばを境はつかっていないのだけれど……)、「ふかさ」を発見する。「ふかいおもい」を発見する。そして、それは重なり合って、重なり合うことで、深さが高みにかわり、あふれだすのだ。「広がり」のなかへ。つまり、「真ん中」の「まわり」に。(「まわり」というのは「広がり」のことである、と私は思う。)
 美しく重なりながら、「もう一度 会えますか」と問う。
 この「もう一度 会えますか」と問いかけている相手を、恋人ととらえることもできるけれど、私は、詩だと信じている。何かに出会い、ことばが動く。詩になる。その、境が書いた詩--あるいは、書かされた詩(詩の神様によって書かされた詩)に対して、「もう一度 会えますか」と呼びかける。それは、「もう一度 詩が書けますか」というのに似ている。

 詩を書ける。ことばを書ける--そのことに対する感謝のこころが静かに響いてくる詩集だ。




十三さいの夏
境 節
思潮社

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谷川俊太郎「捨てたい」

2009-09-05 18:30:18 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「捨てたい」(「朝日新聞」2009年09月05日夕刊)

 谷川俊太郎「捨てたい」を読んだ。2連目が印象的だ。

私はネックレスを捨てたい
好きな本を捨てたい
携帯を捨てたい
お母さんと弟を捨てたい
家を捨てたい
何もかも捨てて
私は私だけになりたい

すごく寂しいだろう
心と体は捨てられないから
怖いだろう 迷うだろう
でも私はひとりで決めたい
いちばんほしいものはなんなのか
いちばん大事なひとは誰なのか
一番星のような気持ちで

 「すごく寂しいだろう」は、どう読むのだろう。独立した行なのだろうか。それとも、次の「心と体は捨てられないから」にかかることばなのだろうか。
 逆に書いてみようか。「心と体は捨てられないから」はどちらの行にかかるのだろう。「すごく寂しいだろう」か、「怖いだろう 迷うだろう」だろうか。教科書国語では「心と体は捨てられないから怖いだろう 迷うだろう」になるのだと思うが、私はなぜか、「すごく寂しいだろう/心と体は捨てられないから」と読みたい。倒置法で書かれた行だと読みたい。
 もし、心と体を捨てられたれ、「寂しい」と思わずにすむ。心と体があるからこそ、「寂しい」と思うのだ。
 そして、その理不尽な(詩とは理不尽なものである)寂しさを実感した後、その寂しさを他の感情が追い掛けてくる。「怖いだろう 迷うだろう」。
 詩のことばは、作為的に並べ替えられた結果――ではない。効果を狙って、たとえば「倒置法」が選ばれているのではない。こころが動いた通りに、ことばが追い掛けるのだ。
 すべて捨てたら、「すごく寂しいだろう」。なぜなら「心と体は捨てられないから」。つまり、「心と体」だけが存在することになってしまうから。ほかに何もない――無の中に、「心と体」だけがぽつんと存在することになるから。そして、その「寂しい」気持ちを十分に味わった後、「怖いだろう 迷うだろう」とこころがやってくるのだ。
 このことばの動きに、まず、ひきつけられる。
 そのあとも、また、とてもいい。

いちばんほしいものはなんなのか
いちばん大事なひとは誰なのか
一番星のような気持ちで

 この「一番星」はその前の繰り返される「いちばん」に誘われて出てきたことばである。ことばがことばを誘う。その誘いにのって、ことばが自律的に動いていく。ことばに誘われて、そのとき、「こころ」が誕生する。「こころ」が言葉を発見するのではなく、ことばが「こころ」を発見し、命を与える。誕生させるのだ。
 一番星のように。
 一番星は、夜空にはじめて生まれてきた星。それは、なにもかも捨て去って誕生した星。たった一人で、宇宙と向き合っている。自分のまわりにあるものを捨てるのは、宇宙と向き合うことなのだ。

 何から書き始めても、宇宙につながってしまう――それが谷川俊太郎なのかもしれない。




これが私の優しさです―谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)
谷川 俊太郎
集英社

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誰も書かなかった西脇順三郎(77) 

2009-09-05 12:40:27 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「冬の日」。後半が好きだ。

メグロ駅の方へ冬の祭りを見に走つた。
駅の近くのスキピオとかいう家
でおばあさんが笛を吹いて
酒もりをしている。
紫紺に染め草色のうらをつけた
我がマントをうしろからひつぱる少年がいた。
『さんまも栗も終つたが是非
おたちよりを願いたいとだんなが
いつていやはります
ソクラテスはんも来てやはる』
これはプラトンの「共和国」
の初めだ。

 なぜ、メグロ(目黒、だろう)にスキピオが出てきたり、プラトンが出てきたりするのか、その飛躍は、まあ、単なる飛躍だ。そういうことは考えても仕方がない、と私は考える。そういう飛躍に、私は、詩を感じない。
 しかし、キスピオの行に関して言えば、その行の独立のさせ方に詩を感じる。

駅の近くのスキピオとかいう家
でおばあさんが笛を吹いて

という行の展開は、教科書国語ではありえない展開である。「で」という助詞は単独では存在し得ない。「家+で」という形でつかわれるのが一般的である。ところが、西脇は、この「で」を切り離し、次の行の冒頭におく。あるべき「で」を欠くことで、「スキピオとかいう家」が独立する。その独立のさせ方に、詩がある。

 詩とは、ことばの独立である。

 西脇は、もしかするとどこかでそんなことを書いているかもしれない。書いていないかもしれない。不勉強な私にはよくわからないが、西脇が、詩をことばの独立と考えていたことは、その行からだけでもわかる。
 そして、詩とは、ことばの独立であるからこそ、

いつていやはります

 という行が、また1行として書かれもするのだ。少年のことばは、教科書国語では「さんまも栗も終つたが/是非おたちよりを願いたいと/だんながいつていやはります」になるが、そういう「文法」破壊し、西脇はことばを独立させる。
 「文法」を破壊することで「意味」の「通り」を寸断し、「意味」を宙ぶらりんにする。「意味」を「脱臼」させるといってもいいかもしれない。そたでは「意味」は動かず、ただことばが、音として、その形をみせる。

いつていやはります

 京都弁か、あるいはその近辺の関西弁か。よくわからないが、標準語ではない。「メグロ」の近くで話されていることばではない。
 その「音」の独立。
 西脇が「意味」を書きたいのなら、わざわざ、「いつていやはります」とは書かないだろう。
 音が独立し、そして、その独立して存在することが、また「スキピオ」や「プラトン」ともつながるのである。「目黒」が「メグロ」という音になってしまったとき、それは「目黒」という東京の「場」を超越して、祝祭の「場」になる。それは「スキピオ」の時代につながり、京都に重なり、プラトンとも交流する。
 こんなでたらめ(?)は詩の特権である。
 独立したことばは、「いま」「ここ」にしばられない。自由に時間、空間を超越して、音として互いに響きあう。
 こんな例えが適切であるかどうかわからないが、それはピアノとバイオリンとフルートが、「ド・レ・ミ」の和音をつくるように、響きあう。
 西脇の「和音」を聞きとるためには、たぶん、いろいろな文学素養が必要なのだろう。(そういう解説書はたぶんたくさん書かれているだろう。)けれど、たとえ文学的素養がなくても、耳をすませば、その音楽は聞こえる。
 音にはいろんな層がある。哲学的言語。文学的言語。そういうものばかりではなく、東京弁。京都弁。商人のことば。やくざのことば。少年のことば。女の声。男のなげき。そういうものを、西脇はさまざまに響かせる。
 どんなことばも、音として響きあうのだ。

ソクラテスはんも来てやはる

 「ソクラテス」と京都弁も響きあうのだ。「は」という音は、日本語本来の音としては文頭以外では「わ」というふうに発音される。例外は「はは」くらいで、外は助詞の「は」が「わ」であるのと同じように、「わ」。「やはた」は「やわた」。けれども、「いつていやはります」「ソクラテスはん」「来てやはる」の「は」は「は」のまま。日本語としては標準語より京都弁(関西弁)の方が古いはず(と私は勝手に思っている)だが、その古いはずのことばが「は」を「わ」と発音しない。まるで、外国語である。--と、西脇が感じたかどうかはしらないが、この行が、標準語ではなく京都弁として書かれているのは、そこに書かれているのが「意味」だけではないことの証拠になるだろう。西脇はいつでも音のことを考えていた証拠になるだろうと思う。



西脇順三郎変容の伝統 (1979年)
新倉 俊一
花曜社

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佐藤文香「陽気」

2009-09-05 00:23:46 | その他(音楽、小説etc)
佐藤文香「陽気」(「ふらんすどう通信」121 、2009年07月25日発行)

 佐藤文香は宗左近俳句大賞を受賞した俳人である。その受賞作を私は知らないし、他の作品も知らない。たまたま「ふらんすどう通信」にのっている「陽気」という近作を読んだ。
 冒頭の一句がとてもいい。

初恋や氷の中の鯛の鱗

 今はなかなかそういう売られ方をしないが、魚屋の店先に、砕いた氷があって、そのうえに魚が並んでいる。誰かが鯛を買っていったあと、その空白というか、鯛がいままでいた場所に、名残のように鱗が一枚落ちている。--そんな小さな風景は、ふつうは見えないかもしれない。そういうふつうは見えない風景を見てしまうのが初恋なのだと、ふと思ったのである。
 初恋。恋にさらわれていったこころ。そのこころのかけらのように、いまここにある鱗。初恋だから、いつの日か、かけらと本体が入れ替わってしまうかもしれない。そういうことも、感じている作者。
 あ、初恋は、ほんとうは初恋ではなく、初恋であってほしいと思う気持ちが呼び寄せる何かなのだ。--ほんとうの初恋のときは、それが「初」であるかどうかなど、わかりはしないのだから。「初」には、遠い、遠い、遠い、願いがこめられている。
 もしかすると、「鱗」は、初恋以前の恋、この恋を「初恋」にするための、こころのかけらかもしれない。

新しいかき氷機もまた機械

僕らのコンクリートの倉庫夏休み

 この2句の、明るく、透明な、哀しい響きもとても気持ちがいい。



句集 海藻漂本
佐藤 文香
ふらんす堂

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誰も書かなかった西脇順三郎(76)

2009-09-04 07:19:45 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「キャサリン」のつづき。
 「恋愛の無限人間の孤独人間の種子の起源」という直列のことばのあと、「のために涙が出そうに淋しく思うだろう。」というセンチメンタルなことばで、そのあとは、ことばはいっきに動く。行方を定めずに、動き回る。集中が強かったために、反動として発散が大きくなるようだ。
 途中を省略するが、

リンボクに花が咲いて
また実がなっておつさんが来て
ジン酒を造つて行つた。
もう少し先へ行つて横を曲つて
谷へおりたら霜ばしらの中で
あざみの蕾が出ているのだが。
西へ真すぐに歩いて行く。

 句点「。」が象徴的だが、ここでは「直列」は起きない。ただ、並列の風景があるだけである。
 この並列、この発散・拡散の運動は、西脇の視線を自由にし、同時に、その自由の中に「他人」を呼び込む。集中している精神の中かに他人は入って来れないが、拡散している精神、隙間の多い精神には、他人は簡単に入ってくる。

アンティガの女王の首の切手を売る
店のとなりが花屋で
やどり木が枝を路ばたに積んでいた。
カスリの股引きに長靴をはいたポリネシアの
おかみさんはごそごそやつていた。
『アメリカの人にはクリスマスの時に
売つたんだべ。一枝百円で。
もう十円でいいですよ』
青黒いゴムのような枝に
透明な黄色な実が鮭の卵のように
ついていた。
『だんな知つていなさるかへへへへへへ』
おかみさんは西方の神話がいかに
植物的であるかということを喜んだ。
      (谷内注・「いいですよ」は西脇は、をどり字で書いている)

 「アメリカの人には……」はポリネシアのおかみさんが言ったことばなのかどうかは、よくわからさない。「売つただんべ」とは、まさかポリネシアのおかみさんは言わないだろう。ここでは「だんべ」というおもしろい音が、音そのものとして書かれている。西脇は、おかみさんのことばを「意味」というよりは「音」として把握しているのだ。
 「他人」のことば、それを「意味」というよりは「音」として把握する。音の中にこそ、「意味」がある。ことばにならない「意味」がある。ことば以前の意味というより、ことばを超えていく意味、ことばでは伝えられない意味がある。
 『だんな知つていなさるかへへへへへへ』の「へへへへへ」という音のなかには意味を超えたものがある。そういうことを、ひとは誰でもが知っている。

 そんなふうに、拡散されたあと、西脇のことばはふたたび「直列」へ向かう。ただし、今度の直列は、いままでの直列とは少し違う。1行の中に、ことばが直列するのではない。

午後も枯れたバラの葉のように
なつた頃古道具屋を発見した。
石油ストーヴと真鍮のベッドの間に
十八世紀の画家ウォールトンの絵が
額の中にはいつていたものだ。
釣りに行つて来た少年の肖像
リンドウの花のように青い羽
をつけたシルクハットをがぶつたあの
田舎の少年のあのあかはら
あのてぐすの糸あの浮きの
あなたの耳飾りのような軽さ。

 ウォールトンの絵の中の風景は、「おかみさん」のことばか、あるいは少年の肖像か。「額の中に」は「ガクのなかに」なのか、「ひたいの中に」なのか、どちらともとれるように結びつけて、そのあと。
 「リンドウ」からつづく行の「あの」の繰り返し。「あの」によって次々にことばが集められ、それは「並列」ではなく、「直列」につながる。それは、直列電池が必ずしも、電池のプラスとマイナスの部分を接触する形ではなく、「電線」でつなげば横に並んでいても(見かけは並列であっても)、直列配置が可能なのに似ている。
 見かけは並列しながら、「あの」ということばで直列にする。
 この「あの」が進化(?)すると、西脇が多用する「の」になる。「の」は西脇の直列の詩学の、自在なコード(電線)なのだ。

 しかし、(というのは変な言い方だが)、この終わりの部分の美しさにはいつもびっくりする。直列のリズムがことばを美しくする。「あかはら」というのはイモリのような形の生き物で、とても貪欲というか節操がないというか、餌のついていない釣り針にでも食らいついてくる、腹が紅く(そして、黒い斑点もある)、ぞっとするようなものだが、ここでは「あの」の「あ」と響きあって、明るい「音楽」そのものになっている。「あからは」がこんな美しい「音楽」になるとは、池や川で、手製の釣り針で魚を釣っていた私にはまったくの驚きである。「あかはら」の気持ち悪さにぎょっとしていた私には、まるで夢のような、不思議な感じがする。なぜ、こんなに美しいのだろうと思ってしまう。
 この変化は、ことばの直列と、その直列をつくりあげる「あの」ということば抜きにはありえない。






西脇順三郎の世界 (1980年)
池谷 敏忠
松柏社

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有働薫「月の魚」、松岡政則「みんなのカムイ」

2009-09-04 00:07:26 | 詩(雑誌・同人誌)
有働薫「月の魚」、松岡政則「みんなのカムイ」(「交野が原」67、2009年10月01日発行)

 有働薫「月の魚」は不思議な詩だ。何が書いてあるのか問われたら、書いてある通りのことが書いてあるとしかいいようがない。その全部が見えるわけではないので、私の感想はいいかげんなものだと思うのだが……。

月の砂漠の砂の流れを
月の裏側の真闇にすむ魚が
泳いできて
わたしの垂らす釣り糸の
とがった針を
可愛い口で
飲み込んで

魚は痛さに
痙攣し
わたしの糸が痙攣する
わたしの魂が
痙攣し

地球から来た
水の一滴
わたしは
未曽有の愛に
失神する

 「月の砂漠」とは月の出ている砂漠だと思ってきたけれど、有働は、月にある砂漠のようにして書いている。そして、そこで魚を釣っている。魚は、有働に「釣られる」ためにはるばると月の裏側から、砂漠の砂の流れをやってきたのである。
 「釣られるため」とわたしは書いたけれど、これは、私の「誤読」。そんなことは書いてはいないのだけれど、私は「釣られるために」やってきたように感じてしまう。たぶん2連目が、そう思わせるのである。
 魚が釣り針を飲み込み、痙攣するとき、釣り糸がその痙攣を伝えてくる。そして、それを見て、「わたしの魂」が痙攣する。そのとき「魚」と「魂」は一体になる。やってきたのは「魚」ではなく、有働の「魂」そのものなのである。魂は、有働に魂の悲しさを伝えるために、月の砂漠を、月の裏側からわざわざやってきたのである。
 有働は、ここでは、有働の「魂」を救済するために、「魚」という「比喩」を必要としている。そんなこころの動きを感じる。
 この関係を「愛」ということばで有働は書き留めようとしている。たしかに「愛」なのだろう。そしてその「愛」は相手があってもいいが、相手がなくてもいい。いや、ここでは、私は有働が自分自身をいとおしんでいると感じた。その「愛」を感じた。自分が自分を愛する--愛さずにはいられない。そのときの、透明な悲しみを感じた。



 松岡政則「みんなのカムイ」の2連目、その6行が、とても印象に残る。

なぜとはなしに
川竹のにおいを嗅いでみたくなる
どこか見知らぬ地名に糾されに行きたくなる
艸が吐き出している粒粒のまこと
田面(たのも)に映るうすい緑のまことに
躰ごとさらわれたくなる

 この行にも、私は、自分が自分を愛するしかない悲しみのようなものを感じる。私をつなぎとめるいろいろなもの(たとえば、この詩には「同居人」が描かれているが)から、自然のなかの不思議な力でさらわれてしまいたい、さらわれて「ひとり」になってしまいたいという思いを感じる。そして、そのとき「ひとり」とはいうものの、松岡はほんとうは「ひとり」ではない。「緑のまこと」、自然の真実と一緒にいる。それは、自分を自然の真実のような状態にしたい、そういう状態で愛したいということかもしれない。
 1連目に「複合マンション建設現場/大型くい打ち機の黄色いアームが見える」という行があるが、そういう都会の暴力とは別の暴力(さらっていくのだから、ね)のなかで、自分を自分だけで守ってみたいという哀しい欲望のようなものを、有働の透明な悲しみに通じるものを感じてしまう。




雪柳さん―有働薫詩集
有働 薫
ふらんす堂

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