『近代の寓話』には「さんざし」と「ささげる」ということばが頻繁に出てくる。きのう読んだ「冬の日」にも両方出てくる。そのあと「梨」「山●の実」(谷内注、漢字が表記できないので●にした。木偏に虎冠、儿の部分が且)「人間の記念として」とつづいている。「さんざし」の表記、「ささげる」の表記はちがっているが……。真っ赤な林檎のような実とみどりの対比が好きだったのだろうか。
「梨」という作品。そこに、不思議な不思議な1行がある。
めぐって来た百姓の生垣の薄明に
とつた山査子の実にギリシャの女神
の哀愁をおぼえるのだ
三十年前にいたロンドンの北部の
坂のある町に老人と一緒に住んだ時の
ことなど忘れた釘のように
脳髄を衝き刺すのだ
「ことなど忘れた釘のように」は「ことなど忘れた/(はずだが、だが、その思い出が)釘のように」という「意味」だと思うが、この文脈のはげしいショートカットに、とても驚く。
忘れていたが、山査子の実を見て、ふいに思い出した。
そう、つげて、この詩はそれから老人との思い出になっていく。そこに「ささげる」が出てくる。
この老人は朝早くから晩おそくまで
トトナム・コート・ロウドの暗い事務所でなにか
商売をしている野羊のような人間
この家の裏に細ながい庭があつて
秋のかすみのなかで黄色い梨がなつた
毎日でたらめにピアノをひいて老人
が帰るのを待つていた
或夜古本でボオドレルの伝記を買つて
来てくれたが手あかで真黒くなつて
いたので指先でところどころひろげた。
このシャイロックのような老人に
不幸な女の涙と野ばらの実を捧げ
たいのだ
「野ばらの実」と書いているが、さんざしはバラ科の木なので、さんざしの実のことを「野ばらの実」と書いているのかもしれない。
なぜ、ささげたいのか。
老人は商売人である。その老人が、ボードレールの伝記を買って来てくれた。その「落差」に、西脇は人間の哀愁を感じたのだ。生きていて、その暮らしのなかで、うまく「形」にすることができないまま、生きている「いのち」。その「いのち」に触れたことを、西脇は忘れたくない。
長い間、忘れていたが、忘れたくない。
「ささげたい」は、一緒に「思い出したい」ということなのだ。
恋人に花をささげるのは、花を見て、私を思い出してくださいという意味だ。神に供物をささげるのは、神に私のことを思ってくださいという意味だ。
老人に「野ばらの実」(さんざしの実)をささげるのは、私はさんざしの実をみてあなたと一緒に過ごした時間を思い出します。だから、あなたも、私のことを思い出してほしい、と願うからだ。
なぜ、思い出してほしいのか。
それは「なぜ」ではなく、何を思い出してほしいのかを考えた方がいいかもしれない。
老人はボードレールの伝記を買ってきてくれた。商人のような老人がボードレールとつながっているということに、西脇はこころを動かされたのだ。商人とボードレールは不似合いかもしれない。そこに断絶があるかもしれない。その断絶を越えて、商人とボードレールが結びつく。そこに、詩、がある
西脇は、詩、が存在した瞬間を、老人に思い出してほしいと願っている。その詩を、いま、ここに、呼び出すために、供物のようにさんざしをささげるのだ。
手垢で黒くなった古本。ボードレールの伝記。ボードレールと手垢で黒くなった本の断絶と、断絶を越えて結びつく何か。手垢で黒くなったという「不潔」と、それほどまでに愛読されたという証拠、「純粋」の結びつき。本は愛読すればするほど、手垢で汚れる。この、純粋と不潔の、矛盾の、不思議な結びつき--のようなものを、西脇は、とても愛しているのだ。
詩が、矛盾のなかにあることを思い出すために、西脇は、さんざしをささげる。あるいは、ことばをささげる。
「山●の実」(さんざしの実、と読んでください)にも、さんざしを「ささげる」ということばが出てくる。
十月の末のマジエンダ色の実のあの
山●の実を摘みとつて
蒼白い恋人と秋の夜に捧げる
だけのことだ。
なぜ生垣の樹々になる実が
あれ程心をひくものか神々を貫通
する光線のようなものだ。
心を分解すればする程心は寂光
の無にむいてしまうのだ。
梨色になるイバラの実も
山●の実もあれ程Romantiqued なものはない。
これほど夢のような現実はない。
これほど人間から遠いものはない。
人間でないものを愛する人間の
秋の髪をかすかに吹きあげる風は
音もなく流れ去つてしまう。
ここに、西脇の考えていることが、端的に書かれている。
「あれ程心をひくものか神々を貫通/する光線のようなものだ。」は何度もみてきた西脇独特のつまずき、ショートカット、である。「あれ程心をひくものか/(まるで)神々を貫通する光線のようなものだ。」としてしまえば、教科書国語の文法になる。だが、教科書国語では「心をひく」と「神々を貫通」することが並列されてしまう。それでは直列のエネルギーにならない。並列のエネルギーのままでは、次の「心を分解すればする程心は寂光/の無にむいてしまうのだ。」という哲学へ突き進むことはできない。
直列の文脈でエネルギーを巨大にし、ふつうのことばではたどりつけない「こと」を書いてしまう。心は分解すればさびしい(淋しいではなく、西脇は、ここでは寂しいをつかっている)光、無になる。それは、いいことか、悪いことか。わからないけれど、そういう一種の「矛盾」に到達する。そういう寂しい光、無のなかで、山●の実はロマンチックなものになる。
その、ロルンチック、とは何?
西脇は「夢のような現実」と定義し、すぐに「これほど人間から遠いものはない。」と定義している。
ロルンチックが人間から遠い?
これは、心を分解し、それが寂しい光になって、無になって、はじめてリアルになるものがロルンチックであるという意味である。寂しい光、無--それはふつうにいう「人間」からはとても遠い人間である。ふつうの人間から遠くはなれたところまでいける人間だけがロマンチックに触れることができる--そういう意味である。
「人間でないものを愛する人間」とは、たとえば、さんざしの赤い実を愛する人間のことである。さんざしの赤い実に、寂しい人間だけが発見できる美--それを愛する人間である。
そういう「美」のありようを思い出すために、秋の夜にさんざしの実を西脇は「ささげる」。
人間のさびしい美しさを思い出すために、さんざしの実をささげる。
「思い出す」を、いま、ここに呼び出す、と言い換えると、ささげるの意味はもっとはっきりするかもしれない。
詩が、いま、ここには存在しないものを呼び出すためのことばであるように、すべてはいま、ここにないものを実在させるために西脇のことばは動く。