詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クリストフ・バラティエ監督・脚本「幸せはシャンソニア劇場から」(★★)

2009-09-15 22:54:50 | 映画


監督・脚本 クリストフ・バラティエ 出演 ジェラール・ジュニョ、カド・メラッド、クロヴィス・コルニアック

 パリの下町の劇場。人気の出し物がなく、つぶれる。それを復興する。その劇場関係者の人間模様。
 いいシーンが1か所だけある。「海へ行こう」(だったかな?)のシーン。舞台を映画で撮影している--という設定だが、ここだけ、実は舞台を超越している。舞台を写しているのではなく、舞台をみている観客の想像力を写している。そして、ここだけが、映画になっている。
 それまでもいくつも舞台のシーンは出てくるが、そのとき、カメラは劇場の中、観客席にある。あるいは、舞台のそで、舞台裏にある。あくまで、舞台を写している。
 ことろが「海へ行こう」では、舞台は劇場から飛び出してしまっている。それは「現実」の田舎道や海へ飛び出しているというのではない。あくまで、装置のなかで役者たちは演じているのだが、そのひとつひとつのシーンが「舞台」をはみだしている。簡単に言うと、映画のセットのなかで演じられる。客席からは絶対に見ることのできない天井(真上)からの俯瞰シーンが象徴的だが、それはセットでありながら、舞台のセットを超えている。その映像は、実際の(というのも、変だけれど、劇場の)舞台そのものではなく、映画向きのセットのなかでの映像である。役者たちは、映画のスタジオで、舞台と同じ演技をしている。
 そして、その映像は、映画のセットのなかでの映像にもかかわらず、観客の想像力の中の映像とぴったり重なる。
 芝居をみるとき、観客は不完全な(?)書き割りを、昇華(?)させるかたちで、リアルな状況に置き換え、そのなかで人間が生きていると想像しながらみる。そのときの「脳内」の映像は、舞台のまわりの「劇場」を完全に消してしまっている。カーテンもなければ、オーケストラもない。ただ、役者がいて、そのまわりの装置も必要なものだけが目に入る。照明などは完全に消えている。
 「海へ行こう」は、そういう映像である。
 役者たちは、車に乗り、自転車に乗り、浜辺にいて、また海の中にもいる。そういうシーンが地つづきではなく、カットカットでとらえられる。別なことばで言うと、「舞台」なのだが、それは「長まわし」によって撮影されていない。「舞台」というのはカメラなし「長まわし」なのだが(つまり、役者の演技はアナログにつづいているのだが)、映画では役者の演技はつづいていなくいい。歌がつづいていれば、車に乗っていたはずの人間が、次の瞬間に自転車に乗っていてもいい。浜辺にいたはずなのに、次の瞬間には海の真ん中にいてもいい。
 「肉体」は常に時間と場所にしばられるが、想像力は時間と場所にしばられない。
 映画は、舞台か、時間と場所の制約をとりはらったものだが、それは人間の想像力のありかたに非常に近い。「海へ行こう」のシーンは、「舞台」というよりも、それをみている観客の「脳内」の映像と音を再現しているのだ。

 映画そのものはありきたりだが、「海へ行こう」によって、映画と芝居の違いとは何か、人間の想像力とはどんなふうに動くか--そういうことを考察するには、なかなかいいテキスト(?)だと思った。



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誰も書かなかった西脇順三郎(87)

2009-09-15 07:19:04 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「午後の訪問」のつづき。

梅の古木(こぼく)が暗い農家の庭から
くもの巣だらけの枝を道の上にさしのべて
旅人(たびびと)の額(ひたい)をたたくのだ。
その実はまだびろーどのように柔(やわらか)い。
野原の祖年に一つもいで人間を祝福した。
あの白いいばらの花もこひるがほの花も
人間の悲劇を飾るものだ。
この辺には昔(むかし)、オセアニアという
理想国があつたかも知れない。
この盆地を初めて耕(たがや)した者は
春に薔薇を摘み秋には林檎を摘んだのだ。
この短い旅のはて、ようやくお湯屋へ
たどりついたが、友は留守……
『ではさようなら』……
世田ヶ谷で古い茶釜を買つて帰つて来た。

 きのう読んだ部分には「悲しみ」ということばがあった。最後の部分には「悲劇」ということばがある。どちらも、「よそぞめ」とか「いばら」「こひるがほ」の花とか、自然が出てくる。
 非情、あるいは非人情としての自然。
 そういうものと向き合いながら、人間は孤独を知る。それを「旅」という。「旅人」とは、野を歩き、自然の非人情を知り、その非人情によってあらわれていく人間の淋しさをことばにする人のことだ。

 そういう「旅」をしたあと、「旅人」はもう、「友」にあう必要はない。もう、ことばはつかってしまった。自然のなかで、つかってしまった。
 ことばにしてしまえば、もう、友に語る必要はないのである。

 ここから、きのう読んだ部分のおもしろさが、ふっと、浮かび上がってくる。
 西脇は友人とは会話しなかった。だから、その会話の記録は、この作品にはない。けれど、西脇は、老人と話をした。草木の名前を聞いた。そして、そのことはきちんとことばとして書かれている。
 老人のことば--きのう、その特質について書かなかったが、そのことばは、西脇に西脇の知らないことをつげる。単に「よそぞめ」という名前だけではなく、その花を暮らしのなかでどんなふうにつかっている。どんなふうに、その花とむきあっているか、をつげる。それは、西脇にとっては「他人」のことばである。「他人」のことばにふれて、西脇は、また「他人」になる。「他人」として生まれ変わる。ここにも、「旅」の要素がある。いままでの自分をふりすて、新しいもののなかで生まれ変わるのが「旅」である。
 そして、「他人」と「他人」は、まるで友人以上に親密な何かに触れる。花、自然を自然のまま愛する「いのち」として。
 老人と西脇が会話するとき、その会話は「こんな草むらにもれきく、キリギリスの/ような会話」と書かれていた。老人がキリギリス、西脇が草むらか、あるいは老人が草むら、西脇がキリギリスか。どちらがどちらであってもいい。草と昆虫という別個のものが「共存する」。その「共存」が、草とキリギリスを、同時に分け隔てる。
 この共存と分離--共存と分離しながら、「会話」をして生きていく--ということのなかに、「淋しさ」がある。「悲しみ」がある。「悲劇」がある。
 説明はできないけれど、私は、そう感じる。





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安水稔和「ゆらゆら」

2009-09-15 00:04:21 | 詩(雑誌・同人誌)
安水稔和「ゆらゆら」(「火曜日」99、2009年08月31日発行)

 きのう読んだ詩群のつづき。やはり病院での生活を描いているのだろう。「ゆらゆら」の全行。

ゆらゆらと
ものの影
あらわれて
ゆっくりと
近づく気配
細くなり
太くなり
伸びて
震えて
また繋がり
かげろうみたい
にげみずみたい
みたいな
あれは
ひとか
ゆっくりと
近づき
ゆらゆら
わたしも
ゆら

 「眼の事情」というタイトルのうちの1章。安水の入院は「眼」の手術か何かなのかもしれない。

かげろうみたい
にげみずみたい
みたいな
あれは
ひとか

 の部分の、「あれは」と言いなおす呼吸が、意識の動きをていねいに伝えている。ぼんやりしたものを、即座に「○○」と言ってしまうのではなく、一度「脳」のなかで反芻して、(あるいは、こころのなかで反芻して)、自分に言い聞かせる。自分を納得させようとしている。
 その前の部分に「また繋がり」ということばが出てくるが、「脳」は繋いでいるのである。意識は繋いでいるのである。眼にみえる何かを、記憶にある何かと。私の外にあるものと私の内部を繋ぐ--その働きをするのが「眼」(ほかの肉体もそうだけれど)。そして、その働きを確認する(繋がり具合を確かめる)のが「脳」であると言いなおすべきか。
 「私」と「私の外部のもの(存在)」を繋ぐとは、私のなかに「もの」が入ってくることである。意識が「一体」になる。そのとき、「私」は「もの」に影響される。あるときは、「もの」そのものになる。

ゆらゆら
わたしも
ゆら

 外部の「もの」が揺れている間は、「私」も揺れる。「私」だけが揺れるのではなく、「もの」も揺れる。この一体感が、不安である。


安水稔和全詩集
安水 稔和
沖積舎

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トニー・スコット監督「サブウェイ123」(★★)

2009-09-14 20:23:14 | 映画


監督 トニー・スコット 出演 デンゼル・ワシントン、ジョン・トラボルタ

 ニューヨークの地下鉄が乗っ取られる。運行指令室と犯人のやりとりが中心の映画だ。指令室も地下鉄も「密室」。そして、その「密室」が離れている。交錯するのは、ことばだけ。あ、私はにがてだなあ、こういう映画。映画を見ている気がしない。
 デンゼル・ワシントン、ジョン・トラボルタも一生懸命演じているけれど、演技というのは基本的に相手の反応があって成り立つ。たとえ、あのシーン、このシーンとばらばらに撮影し、編集することで構成されるものであっても。この映画では、その肝心の人間と人間が、相手の反応をみながら動くというシーンが、最後の 最後の瞬間しかない。
 それはそれでいいのかもしれないが。
 でもねえ。英語がわからない私には、ことばのなかで動いている「情」のようなものが、2人が一緒にいないと、よくわからない。画面の切り替えでは、「空気」が違ってしまう。だから、なんとも歯がゆい。デンゼル・ワシントンとジョン・トラボルタのやりとりが、どんなに緊迫してきても、それがぴんと来ない。
 一方、たとえばジョン・タトゥーロが指令室に乗り込んできて、「今からは私が犯人と交渉する」と言ったときの、デンゼル・ワシントンの顔の変化が、指令室の「空気」を変える。デンゼル・ワシントンはことばと同時に「顔」でも訴える。それがジョン・タトゥーロにもわかる。そして、そのわかったことが「空気」になる。これが映画。「空気」を写し取って見せることが。アップのときは、濃密に、ミドルのときは、他の人への「空気」の伝播の仕方がわかる。デンゼル・ワシントンが外されたときの、上司の対応、同僚の反応などが、指令室の「空気」を微妙に変えていく。その微妙さが、スクリーンから劇場内にあふれ、まるで「司令室」にいる気分にさせる。
 もうひとつ、たとえば。身代金1000万ドル。ニューヨーク市長のジェームズ・ガンドルフィーニが「なぜ1000万ドル?」と問うと、側近が「ニューヨーク市長が議会(だったかな)の決裁を受けずに動かせる限度額だから」とこたえる。市長「私も知らないことをなぜ知っている?」。この、ちょっと間の抜けたやりとりが、市長と官吏の違いを浮き彫りにし、その場の「空気」をかきまぜる。
 こういう何でもないような「空気」を丁寧に写し取ると、映画は映画らしくなる。映画はわからないが、「顔」の動きが「空気」を伝えてくれる。それがないと、映画はダメ。
 インターネット・チャットとか、株の値下がりに反比例するように金相場があがるとか、現代風の味付けは工夫されているのだけれど、肝心の「空気」が欠落した映画だった。
 デンゼル・ワシントンの知的な演技が評判になっているようだけれど、「知的」なのではなく、そこにジョン・タラボルタがいないということで「空気」が冷たくなっているだけ。ジョン・トラボルタのいる「地下鉄」にしても、デンゼル・ワシントンが同じ車内にいないから、「狂気」があふれださない。「狂気」はそばにいる誰かが必死になっておさえこむときあふれるものだ。「正気」のひとがいないのに「狂気」をあふれださせるには、もっと異質なキャラクターがひつようだろうな、と思った。



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イチロー・インタビュー

2009-09-14 19:19:10 | その他(音楽、小説etc)
イチロー・インタビュー(asahi.com 2009年09月14日)

 イチローが大リーグで9年連続200安打を達成した。その後のインタビューがasahi.comに載っていた。面白い部分があった。

――記録を狙う上で大事なことは。
 大事だと思って、それを大切にしているわけではないが、結果的に野球が大好きだ、ということがそれに当てはまると思う。僕には相反する考え方が共存している。打撃に関して、これという最後の形はない。これでよしという形は絶対にない。でも今の自分の形が最高だ、という形を常につくっている。この矛盾した考え方が共存していることが、僕の大きな助けになっていると感じている。

 「矛盾した考え方が共存していること」。これは、すべての分野の、すぐれた部分に共通することだと思う。矛盾を意識できるというのが、存在を活性化する。存在を進化させる。矛盾のないところに思想はない。
 イチローはバッターだが、ことばの達人でもある。考えをきちんとことばにできる。そのことばに、哲学がある。
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誰も書かなかった西脇順三郎(86)

2009-09-14 07:28:40 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「午後の訪問」のつづき。
 引き剥がされた現実--それは現実を描写していても、すぐに現実を超えてことばが動くということだ。

菫(すみれ)の色は衰えタンポポは老いた。
だがあの真白い毛冠とあの苦い根は
人生の夢だ。

 春から夏へかわるとき、菫の季節はすぎ、タンポポの季節もすぎる。それは現実の描写である。けれど、それは同時に自然そのものからは引き剥がされている。そこには西脇の想像力、精神の力が作用している。だから

人生の夢だ。

 というようなことばが、ふいに入り込むのだ。そこから、また、西脇は自然へ、現実へ引き返す。というより、これは、往復するといった方がいいのかもしれない。そして、ことばが動くたびに、自然は、とてつもなく美しくなる。

絶望の人は路ばたにころがる石の
あどけなさに、生垣のどうだんの木に
極みない情(なさけ)をおぼえる。
せめて草木の名前でも知りたい。
畑のわきで溝(みぞ)を掘っている老人に
「この細(こまか)い花の咲く木は何といいますか」
ときいてみる。
「それはなんです、よそぞめとかいいまして
秋になると赤い実がなり、この辺では
十五夜に、すすきと一緒にかざるのです」
こんな草むらにもれきく、キリギリスの
ような会話にも旅の悲しみはますものだ。

 ことばは、「人生の夢」から「絶望」へと飛躍し、その隙間に、小石が転がり込む。
 「ころがる石の/あどけなさ」。
 石があどけない、と私は思ったことがない。けれど、西脇は、そう書いている。そして、この「あどけなさ」はどうだんによって補足される。どうだんのように、あどけないのだ。あの、ピンクのすじの入ったかわいらしい花のように。
 「絶望の人」は、そこに「情をおぼえる」。
 自然は、人の絶望などは気にもかけず、非情のまま、かわいらしく咲く。あどけなく、存在する。それが非情であるからこそ、人は「情」というものが人間にあるのを知る。
 文法的には、絶望の人は、小石のあどけなさ、どうだんの(かわいい--というのは、私の感想だが、そのかわいい)花に、情をおぼえるのだが、それはその石や花に情があるからではない。人間にこそ、情がある。その情を人間は、石や花に託して感じるだけなのだ。
 この「情」を西脇は誰かと共有したいと思い、畑で働くひとに声をかけている。「どうだん」を、老人は何と呼ぶか、それを知りたいと思って。
 ものに名前をつける--たぶん、これが人間の「情」というものなのだ。「情」があるからこそ、それに名前をつける。「情」のわかないものには名前などいらない。
 (老人の答えた「よそぞめ」がどんな花なのか知らないので、私は、それをどうだんの花だと思っているのだが、違っているかもしれない。私の書いていることは、いつものように、完全な誤読かもしれない。)
 この会話のあとの、2行が、とても不思議で、とても楽しい。

こんな草むらにもれきく、キリギリスの
ような会話にも旅の悲しみはますものだ。

 西脇は、西脇と老人の会話を「キリギリスの/ような会話」と読んでいる。草の間にないているキリギリスのかわす会話のようだと。それは、たぶん、人間の生活とは無縁、という意味だろう。ある意味で「非情」なのだ。そして、そこに美しさがある。いつでも、「非情」なものだけが、清潔で美しい。それはいつでも「情」を呼び覚ますからだ。「非情」だけが、引き剥がされた「情」だけが、人間の内部に「情」を呼び起こす。
 「情」のあるものが「情」を呼び起こすのではなく、「非情」が「情」の思い出させる。「情」を揺さぶる。
 この感覚を、西脇は「淋しい」と呼んでいる、と私は思っている。
 ここでは「淋しい」のかわりに「悲しみ」ということばがつかわれているが。

 「悲しみ」とは「淋しさ」。それは、現実から引き剥がされ、孤立した純粋な存在のことである。
 「孤立したもの」を別の「孤立したもの」に「ささげる」。
 十五夜には、月に「よそぞめ」やすすきをささげる。それは、月に、宇宙に、「よそぞめ」を愛している人間が存在することを思い出してもらうためだ。月に、宇宙に、そんなことを思い出してもらっても何にもならないかもしれない。しかし、その何にもならないことに、純粋の美、現実から引き剥がされた美がある。
 人は、現実から引き剥がされた美、絶対的な孤独の美に触れないことには、たぶん生きている意味がないのだ。





西脇順三郎詩集 (現代詩文庫 第 2期16)
西脇 順三郎
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安水稔和「棒」ほか

2009-09-14 00:00:11 | 詩(雑誌・同人誌)
安水稔和「棒」ほか(「火曜日」99、2009年08月31日発行)

 安水稔和「棒」は入院生活のことでも書いているのだろうか。病気のときの(たぶん)不安が書かれている。

棒がある
棒をもつ

棒がわたし
わたしが棒

倒さないように
倒れないように

そっと
そおっと。

 棒につかまって立つ。そのとき私は棒になる。棒と一体になる。最終連の「そっと/そおっと。」という似たことば、けれども違うことばの繰り返し。繰り返しのなかに、しずかにまぎれこんだ「お」の音。「お」を意識することで、動きがていねいになる。
 ていねい、とは意識することなのだ。
 ここには、ていねいに生きる意識が書かれている。入院して、いきることにとって「ていねい」がどれだけたいせつであるかを感じている詩である。

 「袋」という作品。

ふくろがある
わたしもふくろである。

ふくろにふくろが繋がる
手首と管で繋がる。

こころのどこかと
しっかり。

ふくろを意識する
ふくろであるわたしを意識する。

こころのどこかで
ぼんやりと。

ふくろがある
わたしもふくろである。

 「ふくろ」は点滴の袋かもしれない。そうすると「棒」は点滴をつるした棒だったかもしれない。
 「ふくろ」は「わたし」がつながるとき、「ふくろ」は外部にあって外部にない。外部のままでは、治療にならない。「ふくろ」の内部が「わたし」のなかに入ってきて、「わたし」が「ふくろ」になる。
 一体になる。
 そういうことを「意識」する。「意識」ということばを安水はきちんとつかっている。「こころ」と呼んで、「意識」といいなおし、もういちど「こころ」と言いなおす。
 生きる、というのは意識の領分ではなく、こころの領分である、と安水は考えている。だからだろう、「箱」という作品には、「意識」という表現はなく、ただ、「こころ」だけがつかわれている。

小さな箱ふたつ
首から紐でつるす。
胸とコードで繋ぐ。

ひとつの箱は
こころの形を写しだす
くっきりと。

もうひとつの箱は
こころの姿を蓄える
とぎれなく。

はく息 すう息
寝たまも寝息
うかがっている。

 心電図を記録する装置だろうか。「こころ」とは「心臓」である。病気の原因、というか、治療の対象が内臓なのだろうか。「こころ」と「心臓」がひとつになっている。「意識」は、たぶん、「心臓」ではなく「脳」につながっているのだろう。
 「意識」も大切だが、いまは「こころ」を大切にしたいと願っている。
 そして、「こころ」は「寝たま」(寝た間--という意味だろうか)も、からだのことをうかがっている。うかがう箱がこころ。「意識」は「うかがう」という静かな感じではなく、もっと、ちがったことばで動くのだろう。

 そういうことを考えた。




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誰も書かなかった西脇順三郎(85)

2009-09-13 07:15:08 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「午後の訪問」は友人を訪ねたが、友人は留守だったので帰ってきた--という作品だが、とてもおもしろい。1回では書き切れないくらいおもしろい。たぶんきょうと、あすとの2回に分けて書くことになると思う。短い詩を何回にも分けて感想を書くというのは詩にとっていいことなのか、わるいことなのか、よく分からない。
 詩はストーリーではないから、まあ、どこから読んでも、どこでやめてしまってもいいものだろうと思うので、思いつくままに書いていく。

バスの終点から野に出てみた。
のびた麦(むぎ)は月夜(つきよ)の海のように銀色に光つていた。
春の淋しさは夏のさびしさへと
いつの間(ま)にか変つていたのであつた。
下馬でお湯屋(ゆや)をはじめた男と話が
したいので用賀をまわつて行つた。
燃えたつような蜻蛉(とんぼ)も
極彩色の蝶々もまだ出ていない。
犬は生垣の下から鼻を出してかすかに吠えるが
外へは一匹もうろうろしていない。

 何時、とは書いていないのだが、昼下がりの光景だろう。時間が昼間なのに、夜を連想する2行目、

のびた麦は月夜の海のように銀色に光つていた。

 これに驚かされる。「いま」と「いまではない時間」が突然結びつけられる。この急激な、予想外のものの出会いのなかに詩がある。広がる麦畑を海にたとえるというのは慣用句の一種だが、そこに「月夜」が呼び込まれるのでびっくりしてしまう。
 いきなり、現実の風景が、現実から引き剥がされ、純粋な風景になる。
 3行目に登場する「淋しさ」(淋しい)は西脇が多用することばだが、2行目のあとに読むと、その「意味」(内容)がわかったような気持ちになる。
 淋しさとは、現実(日常)から引き剥がされた純粋さ、純粋な「美」のことである。その「美」に共感するこころのことである。現実(日常)から引き剥がされた--とは、人間の人事とは無関係という意味である。熟れた麦の美しさは、人間の感情などには配慮しない。非情である。情を拒絶した美しさ--それを感じるときの、情の欠落が「淋しい」であると私は思う。
 自然は人間の情を拒絶して生きている。そして、その情を拒絶した美のなかにも変遷がある。季節ごとの美しさがある。春のみどりから、夏の銀色、乾燥しきらきら光る麦の穂。そこには変化があるが、「美」であることそのものには変化がない。矛盾をかかえこみながら(のみこんで、消化してしまって、あるいは昇華して)、自然は輝いている。
 そんな光景に触発されるからだろうか。西脇の精神は、現実(日常)から引き剥がされて、美の世界を飛び回る。

燃えたつような蜻蛉も
極彩色の蝶々もまだ出ていない。

 この2行には驚くしかない。
 「燃えたつような」「極彩色の」。なんでもない修飾語のようにみえる。安っぽい(?)というか、安易な直喩にもみえる。ところが、なんでもないことはない。安易でも、慣用句でもない。
 ふつう、そういう修飾語は、たとえばトンボがいて、蝶が飛んでいて、そのトンボや蝶の美しさに触れて、はじめてそういうことばが出てくる。
 ところが、西脇が歩いている野にはトンボも蝶もいない。その存在しないトンボ、蝶を描写して「燃えたつような」「極彩色の」ということばが飛翔する。「蜻蛉も/蝶々もまだ出ていない」なら現実(日常)の描写である。けれども、そのトンボ、蝶々に精神力が呼び込んだ修飾語が結びつくとき、それは現実や日常の描写ではなくなる。現実、日常から引き剥がされた「美」の描写になる。
 そういう虚というか、現実から引き剥がされた美のあとでは、現実の描写は、なんとも生々しい。リアルである。

犬は生垣の下から鼻を出してかすかに吠えるが
外へは一匹もうろうろしていない。

 「生垣の下から鼻を出して」という肉眼で見たままの描写がすごい。いないトンボや蝶々の描写のあとで、こんなふうに楽々と現実へ帰ってくる精神の力がすごい。ことばのちからがすごい。
 そして、その生々しい描写が、不思議なことに、とても軽い。重大なことにつながらない。
 たぶん、「外へは一匹もうろうろしていない。」がそういう効果を引き起こしている。犬、その生々しさは、「現実」に属してはいるけれど、それはあくまで「生垣」のなか。「生垣」の外ではない。
 生垣の外は、あいかわらず、現実・日常から引き剥がされている。淋しさに輝いている。
 --このことは、また、あす。





西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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柿沼徹『ぼんやりと白い卵』(2)

2009-09-13 00:08:17 | 詩集
柿沼徹『ぼんやりと白い卵』(2)(書肆山田、2009年08月31日発行)

 「穴」という作品も、非常に印象に残る。全行。

穴は 穴であることに
びっくりしている

あいた口がふさがらないとは
このことだ

それは冬のはじまり
夕方の風呂場でのことだ
浴槽の栓を抜くと
流れる音がながくつづき
最後にくずれる音にかわり

穴が
ま上をむいて
今さらのようにびっくりしていた

ここに存在しないこと
(ここに存在するから
水がぬけてしまうこと!

 引用してみて気がついたのだが、ここには「こと」がたくさん出てくる。きのう「こと」のなかに柿沼の「思想」があると書いた。
 そのつづきが書きたくなった。(と書いたのは、ほんとうは、ちがうことを書こうと思っていたのだが、急に、書きたいことが変わったということである。--私はいつでも、突然、書きたいと思っていることがかわってしまう。)

 最終連は「存在すること」と「存在しないこと」が同時にありうるという「矛盾」を描いてる。
 ほんとうかな?
 いや、ちがう。「穴が存在すること」と、「水が存在しないこと」というのは、「矛盾」しない。「主語」がちがうとき、動詞が矛盾していても、それは矛盾にはならない。だから、ここには「思想」はない。「思想」はいつでも「矛盾」のなかにしかない。「思想」は「矛盾」を突き破ったとき、「思想」になる。
 それは、つまり、かわってしまう「こと」のなかに、「思想」があるということだ。

 「こと」とは「かわる」ことと関係している。「かわる」ことと「思想」は関係している。

浴槽の栓を抜くと
流れる音がながくつづき
最後にくずれる音にかわり

 ここに「かわる」がある。水が「流れる」音。それが「くずれる」音にかわる。「かわる」というのは「主語」が同じで、「動詞」が異なることだ。「主語」が同じで、その「運動」がかわる。「動詞」が飛躍する。「動詞」がみずからの「動詞」を突き破って、別の「動詞」になる。
 「思想」というのは、そういうものだ。
 水が「流れる」音、「くずれる」音--では、形而上学的なことはなにも起きないから(ほんとうは起きているかもしれないけれど)、そこに「思想」であると言ってしまうと奇妙な印象を引き起こすだろうけれど、そういう「動き」のなかにしか、「思想」はないと私は思っている。「流れる」から「くずれる」にかわる「こと」のなかに「思想」があると思う。
 もし、水が「流れる」音から「くずれる」音にかわらなかったら、つまり、水がずーっと「流れ」つづけ、その音が変わらなかったら、「穴」は「穴」であることを発見できなかったのではないのか。(自分が何者であるか発見するのは「思想」の大切な仕事だ。)「穴」を水が通りつづけるので、「穴」は「穴」であることをしらずに、「トンネル」と思い込んでいたかもしれない。
 「穴」が「穴」であると発見するためには、そこを通る水がいつか通らなくなるということがなければならない。「穴」が「穴」であることを発見するためには、「穴」は「水」以外のものに触れなければならない。
 知らないもの--未知のもの、他者が「穴」が「穴」であることを発見させるのだ。(水も「他者」にはちがいないが、ずーっといっしょだったので、「他者」であることを意識できない存在である。)
 そして、その「知らないもの」をつげるのが、水の音の変化である。そこに「他者」の登場のきっかけがある。「他者」の変化、「他者」が「かわる」ことが、「自己」の存在の変化を気づかせるのだ。--自分もかわりうるということを、教えてくれるのだ。

 最初思っていたこととちがったことを書きはじめたので、なんだか、まとまりのない文になっていく。
 書き出しの2行にもどる。(もう、忘れてしまった、最初に書こうとしたことを思い出してみる。)

穴は 穴であることに
びっくりしている

 ここにあるふたつの動詞「ある」と「びっくりしている」。その落差というか、隔たりというか、不思議な距離に「思想」がある、と私は思う。(びっくりというのも、発見である。発見だからびっくりするのである。)
 「主語」は「穴」。共通している。「動詞」が「ある」と「びっくりしている」と、ちがっている。そして、その「ちがい」を結びつけているのが「こと」である。「こと」ということばをはさむことで(通ることで)、「動詞」が「ある」から「びっくりしている」にかわる。自分自身を突き破ってしまう。
 そして「穴」である「こと」について教えてくれたのが「水」である。水の音である。「流れる」音、「くずれる」音。遠くから聴こえてくるその「音」の変化が、「穴」を「穴」にする。

 何かきちんと定まった形がある「もの」ではなく、その形がこわれ、「もの」が「こと」になる瞬間--そこから「思想」は動きはじめる。
 きのう読んだ「卵」を思い起こす。
 卵は落下し、殻が破れて、中身が飛び散る。卵という「もの」がこわれて、「こわれる」という「こと」になる。その「こと」をみつめる「こと」。そこに「思想」がある。

 「穴は あなであることに/びっくりしている」の「こと」には、それに通じるものがある。


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蜂飼耳「愛書探訪 梶井基次郎『檸檬』」

2009-09-12 17:30:26 | その他(音楽、小説etc)
蜂飼耳「愛書探訪 梶井基次郎『檸檬』」(「読売新聞」2009年09月12日夕刊)

 蜂飼耳「愛書探訪 梶井基次郎『檸檬』」の最後の部分に引き込まれた。

 読んでいるうちに「私」が買った一つの檸檬は存在感を増していく。作品のなかで、視線を集める。同時に、消えていく。まるで天体の誕生(たんじょう)と消滅(しょうめつ)を思わせる。だれにとっても、ある日の、そんなものがあるだろう。「私」にとっての檸檬のような存在が。つまり、気もちが切り替(か)わる軸(じく)になるもの。思いがけず心の角度を変化させるもの。今日の檸檬と出会いたい。計画なしで、ふらりと、確かに。

 「作品のなかで、視線を集める。同時に、消えていく。」この矛盾した指摘がとてもいい。
 矛盾なので、そのあと、何度も何度も、それをいいかえる。
 「天体の誕生と消滅」ということばはかっこいいが、そういうものを具体的に見た人はいない。「頭」で、「知識」として知っているだけ。だから、また、それを言い直す。「檸檬」にもどり、「気もち」という誰もが日常的に知っていることばで。でも、やはり宇宙に関係づけて言いたい。だから、宇宙よりも身近な(たぶん)地球を引き合いに出して、「軸」ということばをつかう。地球の軸、地軸の「軸」。
 そしてまた、檸檬。
 最後に、作品の分析(?)ではなく、蜂飼自身の欲望。
 この、行ったり来たりの変化、うごめき――そこが、とてもおもしろい。




食うものは食われる夜
蜂飼 耳
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(84)

2009-09-12 06:52:43 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 『近代の寓話』には「さんざし」と「ささげる」ということばが頻繁に出てくる。きのう読んだ「冬の日」にも両方出てくる。そのあと「梨」「山●の実」(谷内注、漢字が表記できないので●にした。木偏に虎冠、儿の部分が且)「人間の記念として」とつづいている。「さんざし」の表記、「ささげる」の表記はちがっているが……。真っ赤な林檎のような実とみどりの対比が好きだったのだろうか。

 「梨」という作品。そこに、不思議な不思議な1行がある。

めぐって来た百姓の生垣の薄明に
とつた山査子の実にギリシャの女神
の哀愁をおぼえるのだ
三十年前にいたロンドンの北部の
坂のある町に老人と一緒に住んだ時の
ことなど忘れた釘のように
脳髄を衝き刺すのだ 

 「ことなど忘れた釘のように」は「ことなど忘れた/(はずだが、だが、その思い出が)釘のように」という「意味」だと思うが、この文脈のはげしいショートカットに、とても驚く。
 忘れていたが、山査子の実を見て、ふいに思い出した。
 そう、つげて、この詩はそれから老人との思い出になっていく。そこに「ささげる」が出てくる。

この老人は朝早くから晩おそくまで
トトナム・コート・ロウドの暗い事務所でなにか
商売をしている野羊のような人間
この家の裏に細ながい庭があつて
秋のかすみのなかで黄色い梨がなつた
毎日でたらめにピアノをひいて老人
が帰るのを待つていた
或夜古本でボオドレルの伝記を買つて
来てくれたが手あかで真黒くなつて
いたので指先でところどころひろげた。
このシャイロックのような老人に
不幸な女の涙と野ばらの実を捧げ
たいのだ

 「野ばらの実」と書いているが、さんざしはバラ科の木なので、さんざしの実のことを「野ばらの実」と書いているのかもしれない。
 なぜ、ささげたいのか。
 老人は商売人である。その老人が、ボードレールの伝記を買って来てくれた。その「落差」に、西脇は人間の哀愁を感じたのだ。生きていて、その暮らしのなかで、うまく「形」にすることができないまま、生きている「いのち」。その「いのち」に触れたことを、西脇は忘れたくない。
 長い間、忘れていたが、忘れたくない。
 「ささげたい」は、一緒に「思い出したい」ということなのだ。

 恋人に花をささげるのは、花を見て、私を思い出してくださいという意味だ。神に供物をささげるのは、神に私のことを思ってくださいという意味だ。

 老人に「野ばらの実」(さんざしの実)をささげるのは、私はさんざしの実をみてあなたと一緒に過ごした時間を思い出します。だから、あなたも、私のことを思い出してほしい、と願うからだ。
 なぜ、思い出してほしいのか。
 それは「なぜ」ではなく、何を思い出してほしいのかを考えた方がいいかもしれない。
 老人はボードレールの伝記を買ってきてくれた。商人のような老人がボードレールとつながっているということに、西脇はこころを動かされたのだ。商人とボードレールは不似合いかもしれない。そこに断絶があるかもしれない。その断絶を越えて、商人とボードレールが結びつく。そこに、詩、がある
 西脇は、詩、が存在した瞬間を、老人に思い出してほしいと願っている。その詩を、いま、ここに、呼び出すために、供物のようにさんざしをささげるのだ。
     
 手垢で黒くなった古本。ボードレールの伝記。ボードレールと手垢で黒くなった本の断絶と、断絶を越えて結びつく何か。手垢で黒くなったという「不潔」と、それほどまでに愛読されたという証拠、「純粋」の結びつき。本は愛読すればするほど、手垢で汚れる。この、純粋と不潔の、矛盾の、不思議な結びつき--のようなものを、西脇は、とても愛しているのだ。
 詩が、矛盾のなかにあることを思い出すために、西脇は、さんざしをささげる。あるいは、ことばをささげる。

 「山●の実」(さんざしの実、と読んでください)にも、さんざしを「ささげる」ということばが出てくる。

十月の末のマジエンダ色の実のあの
山●の実を摘みとつて
蒼白い恋人と秋の夜に捧げる
だけのことだ。
なぜ生垣の樹々になる実が
あれ程心をひくものか神々を貫通
する光線のようなものだ。
心を分解すればする程心は寂光
の無にむいてしまうのだ。
梨色になるイバラの実も
山●の実もあれ程Romantiqued なものはない。
これほど夢のような現実はない。
これほど人間から遠いものはない。
人間でないものを愛する人間の
秋の髪をかすかに吹きあげる風は
音もなく流れ去つてしまう。

 ここに、西脇の考えていることが、端的に書かれている。
 「あれ程心をひくものか神々を貫通/する光線のようなものだ。」は何度もみてきた西脇独特のつまずき、ショートカット、である。「あれ程心をひくものか/(まるで)神々を貫通する光線のようなものだ。」としてしまえば、教科書国語の文法になる。だが、教科書国語では「心をひく」と「神々を貫通」することが並列されてしまう。それでは直列のエネルギーにならない。並列のエネルギーのままでは、次の「心を分解すればする程心は寂光/の無にむいてしまうのだ。」という哲学へ突き進むことはできない。
 直列の文脈でエネルギーを巨大にし、ふつうのことばではたどりつけない「こと」を書いてしまう。心は分解すればさびしい(淋しいではなく、西脇は、ここでは寂しいをつかっている)光、無になる。それは、いいことか、悪いことか。わからないけれど、そういう一種の「矛盾」に到達する。そういう寂しい光、無のなかで、山●の実はロマンチックなものになる。
 その、ロルンチック、とは何?
 西脇は「夢のような現実」と定義し、すぐに「これほど人間から遠いものはない。」と定義している。
 ロルンチックが人間から遠い?
 これは、心を分解し、それが寂しい光になって、無になって、はじめてリアルになるものがロルンチックであるという意味である。寂しい光、無--それはふつうにいう「人間」からはとても遠い人間である。ふつうの人間から遠くはなれたところまでいける人間だけがロマンチックに触れることができる--そういう意味である。
 「人間でないものを愛する人間」とは、たとえば、さんざしの赤い実を愛する人間のことである。さんざしの赤い実に、寂しい人間だけが発見できる美--それを愛する人間である。
 そういう「美」のありようを思い出すために、秋の夜にさんざしの実を西脇は「ささげる」。
 人間のさびしい美しさを思い出すために、さんざしの実をささげる。
 「思い出す」を、いま、ここに呼び出す、と言い換えると、ささげるの意味はもっとはっきりするかもしれない。

 詩が、いま、ここには存在しないものを呼び出すためのことばであるように、すべてはいま、ここにないものを実在させるために西脇のことばは動く。




Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)
西脇 順三郎
日本図書センター

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柿沼徹『ぼんやりと白い卵』

2009-09-12 00:46:02 | 詩集
柿沼徹『ぼんやりと白い卵』(書肆山田、2009年08月31日発行)

 柿沼徹『ぼんやりと白い卵』はタイトルになっている1行がある「コバヤシの内部」が非常におもしろい。ただ、そのおもしろさを、きちんと説明できるかどうか、私にはよくわからない。でも、書いてみたい。「コバヤシの内部」について書きたい--という気持ちにさせられる。

眠りから放り出されると
昨夜の会話の足跡のように
食器が散在している
明け方の食卓

その上に
一個の卵がある
傷ひとつなくそこにあることが
うすくらい光のなかで
私に向き合っている
それ以外は夜明け
底知れない夜明けだ

ぼんやりと白い卵
せめて呼びかけてみたい
例えば…
コバヤシ、と呼んでみる
と、それは
見たことのない一個にみえる
手のひらのうえの
コバヤシの固さ
やわらかな重さ

 「呼んでみる」。ここに、「思想」を感じる。何かを「呼んでみる」。それは、ここで取り上げられている「卵」だけのことではないのだ。
 たとえば1連目。
 食器が散らかっている食卓。そのありようを「昨夜の会話の足跡のように」と、柿沼は「呼んでみる」。ほかの言い方もできるのだが「昨夜の会話の足跡のように」とことばにしてみる。
 何かを、呼んでみる。ひとの呼ばない名前(ひとのつかわない言い方)で、ことばにしてみる。ことばにした瞬間から、何かが違ってしまうのだ。
 1行目。
 「目が覚めると」と書くこともできるかもしれない。しかし、柿沼は「眠りから放り出されると」と書く。そのときから、柿沼は、柿沼の「内部」と向き合っている。「眠りから放り出されると」ということばはなじみやすい。「昨夜の会話の足跡のように」というのは少し変わっているけれど、それでもなんとなくわかる。きっとその会話は楽しいというよりも、少し棘がある会話かもしれない。そのときの「ぎすぎす」した感じが、食器が散らばっている感じと重なり合う--というのは、もちろん、私だけの想像かもしれないけれど、そういう想像を誘うことば、柿沼の「内部」に何かが起きていると感じさせることばである。

 「ことば」は、それを発したひとの「内部」を感じさせる。「目が覚めると」という表現では「内部」はほとんど感じられないが、「眠りから放り出されると」では「内部」を感じてしまう。自分から目覚めたのではなく、何かに放り出された--そこに「他者」の力が働いている、他者の影響がある、と感じさせる。「昨夜の会話」の相手が「他者」かもしれない。
 そんな、あれやこれやを、ともかく感じさせる。その「あれやこれや」を私は勝手に「内部」と呼んでいる。

 そんなあれやこれやを抱えた「内部」としての柿沼が、卵と向き合う。
 おもしろいのは、そのことを、柿沼(私)は卵と向き合うといわずに、「私に向き合っている」と書いていることである。「卵」が主体なのだ。私が向き合うのではなく、たまごが向き合う。しかも、卵というよりも、正確にいえば、「そこにある」ということが向き合っている。
 「そこにある・こと」。つまり「こと」が向き合っている。「もの」ではなく「こと」が。

 それが「もの」ではなく「こと」であるからこそ、「コバヤシ、と呼んでみる」ということが可能なのだ。「そこにある・もの」は「ぼんやりした白い卵」であるこけど、「そこにある・こと」は「卵」ではない。
 「もの」と「こと」は厳密に区別するのはむずかしいのだが……。
 一個の卵。それは「固さ」であり、「重さ」である。そして、その「固さ」「重さ」というのは、卵にとって「もの」なのか。それとも「こと」なのか。私には「こと」に思える。「固さ」は「固いという・こと」。「重さ」は「重いという・こと」。「やわらかな」ということばも出てくるが、「やわらかな」とは「やわらかいという・こと」

 「もの」もこわれるが「こと」もこわれる。

コバヤシを床に落とす
コバヤシは落花のさなか、ま下に
今を見すえる

耳のなかで
かすかに列車の音がひびく
コバヤシが
床に乱れているコバヤシの内部が
朝方の光をうけている…

 「卵・コバヤシ」が落下する。そのとき、「卵・コバヤシ」は「今を見すえる・という・こと」をする。「今を見すえる・という・もの」になるのではなく、「見すえる・という・こと」をするのだ。
 そして、その結果、こわれるのは「内部」という「もの」ではなく、「内部」という「こと」である。「かすかに列車の音がひびく」という「こと」。そんな音を想像している柿沼--そのこころでおきている・ことが散らばり、朝の光を受けるのだ。

 「内部」は「もの」ではなく「こと」でできている。
 1連目に戻る。
 「眠りから放り出される」と書くとき、「眠りから放り出される」という「こと」が柿沼の「内部」で起きている。「昨夜の会話の足跡のように」とことばが動くとき、後片付けのすんでいない食器という「もの」が、「昨夜の会話」、話しあった「こと」になっている。そしてその話し合いがこころに残した「もの」ではなく、話し合いがこころにのこした「こと」がいま、柿沼を動かしている。
 そういう「こと」へ向けて、柿沼は「コバヤシ、と呼んでみる」という「こと」をするのである。

 「こと」と「こと」が触れ合う。「こと」はこわれながら「こと」になる。「明け方の光をうけている」という「こと」。
 それが「こと」だから、なんとなく、まだ、再生が可能--というような、希望のようなものがある。とりかえしがつかない、というのではなく、まだまだ「こと」を繰り返してゆける、というような「こと」を感じてしまう。

 唐突かもしれないが。

 「こと」というものに、「いのち」を感じた。だから、「こと」を中心に動く柿沼のことばを「思想」と呼びたくなったのだと思う。




みたことのある朝
柿沼 徹
詩学社

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誰も書かなかった西脇順三郎(83)

2009-09-11 07:25:03 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 

 センチメンタルにつながることば、抒情にまみれたことば--というものが、私はどうも好きになれないが、西脇がつかうと、とても清潔に、宝石のように輝いてみえる。たとえば「涙」ということばさえも。
 「冬の日」の最後の行に出てくる。

或る荒れはてた季節
果てしない心の地平を
さまよあ歩いて
さんざしの生垣をめぐらす村へ
迷い込んだ
乞食が犬を煮る焚火から
紫の雲がたなびいている
夏の終りに薔薇の歌を歌つた
男が心の破滅を嘆いている
実をとるひよどりは語らない
この村でラムプをつけて勉強するのだ。
「ミルトンのように勉強するんだ」と
大学総長らしい天使がささやく。
だが梨のような花が藪に咲く頃まで
猟人や釣人と将棋をさしてしまつた。
すべてを失つた今宵こそ
ささげたい
生垣をめぐり蝶と戯れる人のため
迷つて来る魚狗(かわせみ)と人間のために
はてしない女のため
この冬の日のために
高楼のような柄の長いコップに
さんざしの実と涙を入れて。

 なぜ、西脇の「涙」が清潔なのか。
 「涙」が登場するまでに、さまざまな「脱臼」があるからだ。
 「乞食が犬を煮る焚火」には、はげしい野蛮のいのちが輝いている。それは、ふつういう「涙」の対極にある。涙は、野蛮ないのちではなく、繊細なこころである。
 しかし、繊細なこころというのは、単純ではない。
 「犬を煮る焚火」の煙を「紫の雲」というとき、「紫」を感じるこころは繊細であると同時に冷徹である。さらに、その比喩としての「雲」を「たなびいている」というとき、そのこころは、もしかすると「犬を煮る」こころよりも野蛮かもしれない。乞食が犬を煮るのは「いのち」のためである。そこから生じる煙を「紫の雲がたなびいている」と言ってしまうのは、「いのち」とは無関係である。人間の感性は、野蛮である。感性の美しさは「繊細」であるだけではなく、「野蛮」でもある。「野蛮」であるから、暴力を含んでいるから、つまり何もかを壊しながら輝くから「美」なのである。
 野蛮とは、非情ということでもあるかもしれない。 

 冬の村の、非情。厳しい自然。人間の事情など配慮しない風景。その風景から、さらに「人間の同情」を奪いさっていく感性。そのなかで理性は「ミルトンのように勉強するんだ」と主張する。それは、感性以上に野蛮であり、感性の野蛮をさらに徹底するから、美しい。
 異質な世界が、それぞれ野蛮を、つまり「本能」を本能のまま剥き出しにして、互いに配慮することなく、ぶつかる。その瞬間の「脱臼」。
 そこでは何かがかみ合って、「美」を構成するというよりも、それぞれが互いを破壊することで、叩き壊す力としての「美」を発散するのだ。
 その瞬間にも、自然は「梨のような花が藪に咲く」という具合に勤勉である。季節がくれば、本能のままに勤勉に花を咲かせる。一方、人間は怠惰である。「ミルトンのように勉強する」どころか、「猟人や釣人と将棋をさしてしまつた」。
 異質なものが出会い、衝突し、そのとき世界が「脱臼」しながら、拡大する。
 その「脱臼」「拡大した裂け目」--それは、一種の「無重力」である。
 文体の重力から解放されている。「常識」という日常の重力からも解放されている。
 その重力から解放されたところに、ふと「涙」がまぎれこむとき、その「涙」はやはり「無重力」状態にある。どんな文体(過去の歴史)も背負っていない。
 だから、清潔で、軽い。そして、まるで宝石のように輝く。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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水野るり子「なぜ」

2009-09-11 00:18:14 | 詩(雑誌・同人誌)
水野るり子「なぜ」(「ひょうたん」38、2009年06月05日発行)

 水野るり子「なぜ」に、こころをひかれる行があった。

ちいさな言葉のきれはしが
どこかに
こぼれ落ちているが
その場所が見あたらない
夜明けの暗さのなか
出来事だけが
ゆめのなかでのように
通り過ぎる

 「言葉」と「出来事」の関係に、はっとさせられた。
 私たちは、何事でも(出来事でも)、「ことば」にして確かめる。詩人であってもなくても、同じだろう。ところが、そのことばが、ことばにならないことがある。「頭」のなかにははっきりといいたいことがあるのに、それが「声」にならない。
 夢のなかで、何かを叫ぼうとする。そのとき、叫びたいことはわかっている。口も、その形に開く。けれど「声」にならない。「声」が出てこない。「声」が出ないまま、そこで「出来事」が起きる。
 悪夢。
 この瞬間を、水野は「肉体」の問題ではなく、彼女をとりまく「場」の問題にしている。そこが、おもしろいと思った。

ちいさな言葉のきれはしが
どこかに
こぼれ落ちているが
その場所が見あたらない

 それは、彼女の「肉体」のどこかではなく、彼女のいる「場所」のどこかである。「肉体」のどこかである場合は、「肉体」は、その「どこか」を中心にして固まってしまう。いわゆる、金縛り、のように。
 水野の場合は、そんな具合にはならない。
 水野は「どこか」を探して動き回っている。
 そして、その水野のまわりでは、また別のものが動いている。

 …さっき傘をさして
 黄色い花の森をさまよっていた
 あのうしろすがたはだれ…
読み残したものがたりが
どこかでまだ続いているらしい
枕もとで
羊歯色の表紙が
夜ごとめくられていくのも
そのためだ

 この、ことばの動きは不思議だ。
 固まらない。硬直しない。金縛りにはならない。
 夢のなかで「声」がでないとき、自分が動けないだけではなく、またほかのものも動いていない。自分に危害を加えようと迫ってくるときでさえ、何も動いていない。「声」が出ないために、何かが自由に動き回っているように感じられるけれど、その何かも、ほんとうは動かない。いつまでたっても、危害は危害にならない。たとえば、強敵に、私が殺される--という瞬間は、永遠に、「瞬間」のままとまっている。殺されてしまえば、簡単。声が出ないまま死んでいくのだが、殺されないために、永遠に、「声」がでないということに苦しむ。
 ところが、水野の世界では、「言葉のきれはし」が見つからないのに、正確にいえば言葉のきれはしが落ちている場所がわからないままなのに、そのことば以外は、何事も起きていないかのように動いていくのだ。
 水野を置き去りに(?)して、探していることば以外のことばは動いている。

 「ものがたり」ということばがあるが、「ものがたり」とはそういう世界かもしれない。自分の「声」が出せずに苦しんでいるときでも、別の「声」が動いて、世界を描写してしまう。自分の「声」とは違った別種の「声」を発見することが、「ものがたり」を生きるということなのかもしれない。
 「自分がたり」はできない。けれど「ものがたり」は動いていく。「他者」は動いていく。

 水野は、どこかで、そんな「風景」を見ているのかもしれない。そういう「風景」にあこがれているのかもしれない。

遠ざかるプラットホームで
くろい犬が鼻をあげ
どこまでも…わたしの顔を
追ってくる日々。
 
 「くろい犬が鼻をあげ」の「鼻をあげ」が、すごい。
 これは確かに「ものがかり」のことばだ。「くろい犬」が「わたし」の思いとは無関係に、犬自身の「時間」を生きている。つまり、犬自身が「過去」を持っていて、いま、犬独自の判断で鼻をあげている。「わたし」とは無関係に。
 その「のもがたり」と、いまの「わたし」をつなぐことば--そのきれはしが、どこかにこぼれ落ちてしまった。その「場所」がわからないので、「わたし」は犬の無関係な「時間」をただ受け入れるしかない。「出来事」として。

 だが、ことばのこぼれ落ちた場所がわからないなら、なぜ、それでも、ここにこうして、詩が成立する? 矛盾しない? 矛盾するかもしれない。だが、矛盾するから、そこに詩がある。「なぜ」という疑問のなかに矛盾を投げ込みながら、「ものがたり」は動くのだ。
 その、まだ正確には書かれていない「ものがたり」があるから、水野は生きていける。「ものがたり」への夢と、左折に似た(?)何かのあいだに、必死になってことばを探している水野がここにいる。



ラプンツェルの馬
水野 るり子
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(82)

2009-09-10 10:48:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 「☆(マチスのデッサンに)」。ことばが、とても軽い。軽く動いていく。なぜだろう。

ボア街の上にバルコニー
をもつ昔の貴族の家で
ひるめしをたべながら
ジャン・コクトオの友人の
ゴアオン夫人と話をした。

 ことばの「水準」が「脱臼」するからである。
 「ボア街の上にバルコニー/をもつ昔の貴族の家で」の「を」が学校教科書の文法を「脱臼」させたものだとすると、「昔の貴族の家で/ひるめしをたべながら」の「貴族」と「ひるめし」はことばの「水準」の「脱臼」である。私は貴族ではないし、フランス人でもないから「貴族」と「ひるめし」が同じ「水準」のことば(表現)であるかどうかは知らないが、私の日本語の感覚(私の日常会話の感覚)では、「貴族」と「ひるめし」は結びつかない。かろうじて結びついても「昼ご飯」である。「ひるめし」には、非常に俗っぽい響きがある。「貴族」が「聖」なら、「ひるめし」は「俗」。「ひるめし」は「貴族」が食べるものではなく、庶民が食べるものである。主語、目的語(補語)、動詞には、それが自然に結びついている「水準」がある。日常的な感覚がある。これを、西脇は「脱臼」させる。
 「貴族」と「ひるめし」。その組み合わせが、その世界を、軽くする。笑いを含んだものにする。

フランスの野原には麦や
虞美人草が沢山ある。
ロスィニョールが鳴く。

 この3行にも「貴族」と「ひるめし」のような「脱臼」がある。「フランス」と「虞美人草」。もちろんフランスに「虞美人草」があってもいいのだが、その「虞美人草」と「ロスィニョール」がいっしょに並ぶとき、あれっ、と思う。何?と思う。「ロスィニョール」というのは鳥なのか、虫なのかもフランス語を知らない私にはわからないのだが(あるいはラテン語? もっとほかのことば?)、日本語ではないことは確かである。
 ここでは日本語の音と外国語の音が並んでいる。ことばの「水準」(どこの国のことばか、という基準)が「脱臼」させられ、統一させられていない。そこに、不思議な軽さがある。

ローン河のほとりの葡萄園
百姓はゴッホのような帽子
をかぶってしやべつていた。
また野ばらのとげ先で
女のあごやへそのくぼみを
かく老いた男のために
杏子の実を一籠送る
ことを忘れてはならない。

 「貴族」と「日めし」に比べると、「百姓」と「しやべつている」には、違和感というか、「水準」のずれ--「脱臼」はない。「ゴアオン夫人と話をした」と比較すると、西脇は、主語が「聖」であるとき、補語や動詞に「俗」をぶつけて、「聖」の文体を「脱臼」させることがわかる。主語の「俗」に、「聖」の補語や動詞をぶつけて「脱臼」させることはない。
 「脱臼」とは「聖」か「俗」になる瞬間に起きる。
 「俗」を主語にしたとき、西脇は「脱臼」のかわりに「昇華」をぶつける。「俗」を洗い清める。「俗」のなかにある「美」を引き出す。
 「百姓」の、そのあとに出てくる絵。そして、その「絵」の内容。「女のあごやへそのくぼみ」。それは卑近なものであるけれど、「絵」になることで「美」になる。そして、その「美」は「百姓」そのものとつながっている。卑近な健康(いのち)という部分でつながっている。
 「聖」は「脱臼」させ、笑いを呼び、「俗」はその奥の「いのち」にふれることで「美」に昇華する。そのふたつの運動が、西脇のことばのなかにある。そのことが、西脇のことばの運動を軽くする。

 「野ばらのとげ先で」絵を描く--そういう不思議な美しさ、意外さのおもしろさも、ことばを軽くしている。「野ばらのとげ先」ではなく、たとえば「くじゃくの羽ペン」で描くとすると、それは、とてもつまらなくなる。
 「芸術」(絵)には、素朴を、自然をぶつける。そこにも「脱臼」がある。
 「脱臼」が西脇のことばを軽くする。



田園に異神あり―西脇順三郎の詩 (1979年)
飯島 耕一
集英社

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