詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則『口福台湾食堂紀行』

2012-07-04 10:16:47 | 詩集
松岡政則『口福台湾食堂紀行』(思潮社、2012年06月30日)

 松岡政則『口福台湾食堂紀行』の作品群については雑誌に発表されたときに何回か感想を書いた記憶がある。同じことを書いてしまうかもしれないが、「口福台湾食堂紀行」がとてもいい。(タイトルを含めて、「繁体字」が出てくるが、引用はすべて日本でふつうに使っている漢字で代用。)

歩くとめし。
それだけでひとのかたちにかえっていく
歩いておりさえすれば
なにかが助かっているような気がする

 1行目。ぶっきらぼうに、そのまま投げ出されたことばが、とても強い。むきだしのまま、そこにある--を通り越して、ことばの内部、つまり肉体(思想)が見える、という感じがする。
 思想(肉体)というのは、2行目の「ひとのかたち」である。
 「かえっていく」が、それを後押しする。
 どこか、肉体の外にある「思想」ではなく、肉体の内部にしっかりからみついている思想。それは「かえる」ことでしかつかみだせない。「むきだし」ではなく、内部に侵入して、それをしっかりつかむ。
 「なにかが助かっているような気がする」は、「間違わずにすんでいる」ということかもしれない。
 「歩いておりさえすれば」は無心になって「歩く」に集中していれば、であろう。歩くことで無心になる。そうすると、間違えない。間違えないことで、助かる。--これは消去法かもしれないが、「歩くとめし。」という1行目の剛直なことばが、消去法以上の何かを感じさせる。

荒物屋、焼き菓子屋、飾り札屋、
小さな商店がならんでいる
路につまれたキャベツや泥ネギ
魚屋をのぞけば漫波魚(マンボウ)の切り身
繁字体のにぎわいにもやられる

 無心になるとは、別なことばで言えば、余分なものを捨てることである。「荒物屋、焼き菓子屋、飾り札屋、」そこにあるものを、そこにあるもとして認識して、ことばにする。そうすることで、松岡は自分の肉体のなかにあるそのことばを捨てる。そのことばとともにかかえこんでいるものをひとつひとつ捨てていく。
 「漫波魚(マンボウ)の切り身/繁字体のにぎわいにもやられる」は松岡の知っている「マンボウ」が台湾の表記「漫波魚」と出合い、その漢字のなかに投げ込まれ、捨てられるということである。人は何かと出合い、出合いをとおして、自分が身につけている余分な(?)ものを捨てる。そうやって、無心になっていく。
 出合いとは無心になる方法であり、その先に思想(肉体)が、遅れてあらわれる。

あおぞら床屋みたいなのがあった
ながい線香をつんだ荷車が停まっていた
ここでみるものはみなからだによい

 なぜ、「からだによい」か。余分なものを脱ぎ捨てるのを手伝ってくれるからだ。
 「あおぞち床屋みたい」のの「みたい」が、松岡の肉体へ「かえっていく」姿をくっきりとあらわしている。それはほんとうは「あおぞら床屋」というものではないかもしれない。けれど、松岡は「あおぞら床屋」というふうに覚えていた。それが、いまそういうものと出合い、松岡からはぎとられる。「ながい線香」も同じ。それは台湾の人にとっては「ながい」ものではなく、ふつうかもしれない。その長さを「ながい」と感じる松岡が、その線香と出合うことではぎとられる。そうやって「ひとのかたちにかえっていく」。

黒糖饅頭ふつたください!
蒸籠の蓋をとりながら
阿婆がなにか言ったけどわからない
わからない、も愉しい
あいさつがあってよかった
あいさつとは態度のことだろう

 ことばはいらない。肉体はことば以外に大切なものをもっている。「態度」。それは「ひとのかたち」である。ひとがひとと出合うときの「かたち」。「からだ」のかたち。私は安全です、危害を加えません。それが「あいさつ」の始まり。
 わからないことばは脱ぎ捨てる。知っていることばも脱ぎ捨てる。そうすると、「態度」が残る。「態度」は思想(肉体)なのだ。
 この発見までの動きが、とてもしっかりしている。ぶらつきがない。とてもいい詩だと思う。

「満腹食堂」にはだれもいなかった
聲はつけっぱなしのテレビだった
カウンターに洗いものの粥碗や
大皿がかさねられたままになっている
それが、なんかまぶしかった
こんなのがいつか
ひかりになるのだろうと思った
日本語でもかまうことはない
ごめんください!

 「ひかり」とは「思想」のことである。洗おうとして、そのままになっている食器。そこにある暮らし。暮らしのなかにある時間。それは、やはりなにかと出合いながら、自分自身を脱ぎ捨てるようにして変化していく。そうして、絶対に捨てられないものにまでたどりつく。思想にまでたどりつく。そうして、そこから肉体は動きはじめる。「態度」になる。
 このとき「ことば」は問題ではない。「声」が大切である。「声」とは「肉体」から飛び出して、誰かに触れる力を持った思想そのものである。
 松岡は「声」を「聲」と書いている。「聲」のなかには「耳」がある。声は一方的に誰かが出すものではなく、それを耳で受け止めて、初めて声になるのかもしれない。そういう思いが、この漢字には含まれているかもしれない。そしし、そのとき「耳」とは肉体の一部の器官であるというよりも、「態度」である。誰かを受け止めるという「態度」である。
 ここから、「あいさつ」が始まる。声を出す。受け止める。「意味」は、まあ、適当にわかるものである。だからこそ、

日本語でもかまうことはない

 肉体の思想で人と出合うとき、実際、何語であろうがひとはひとと出合える。松岡は台湾を旅行することで「肉体(思想)」を確実なものにしている。その手応えがあらゆる行から立ち上がってくる。


    

ちかしい喉
松岡 政則
思潮社
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中村梨々『たくさんの窓から手を振る』

2012-07-03 10:59:57 | 詩集
中村梨々『たくさんの窓から手を振る』(ふらんす堂、2012年04月11日発行)

 中村梨々『たくさんの窓から手を振る』の巻頭の「ロシア」は魅力的だ。軽いリズム、疾走することば。そして、そこには不思議なことに、奇妙な淋しさが潜んでいる。
 その淋しさを、中村の詩に出会うまで、私は忘れていた。中村の詩を読み、あ、そうだった、と私の肉体は淋しさを思い出した。--というのは、正確ではないかもしれない。中村のことばがかかえこんでいる淋しさにであって、あ、そうか、あのとき、私はこういう淋しさを生きてきたのか、と思ったというのが正しいのかもしれない。そういう意識の変化がとても自然に起きたので、私はそのことを覚えていると勘違いしたのかもしれない。私の肉体はそれを覚えている、と。

ナオちゃんがいうには、あたしたち自転車に乗って
ロシアの平原を突っ走っていたって
すごいねぇ、ロシアなんて行ったこともないし行きたいと
思ったこともないのに、ロシア
ロシアロシアロシア、わたしはもう駅とか空港とか
思い切り空とかすっ飛ばして、ロシアにいる
ロシアにいるナオちゃんとあたし
羽も生えていないのに方角さえわからないの に、よ
ロシアだって
おまけにあたしとナオちゃんはいま海を隔てて離れている
離れてるあたしたちだから、もーーっと離れたとこでは一緒にいられる
ってーーことが、ロシアなロシアっ

 子どもは誰でも空想する。そして、「いま/ここ」をロシアだと言えば、そこがロシアになる。山の中の手作りの小屋が「秘密基地」になるのとかわりがない。
 こういうとき、誰かが言い出しっぺであり、誰かがそれについていく。「空想」は最初から共有されるのではなく、誰かの空想が私の空想に侵入してくる。そして、私が私でなくなる。--というのは、しかし、淋しさではない。淋しさかもしれないけれど、ちょっと違う。

おまけにあたしとナオちゃんはいま海を隔てて離れている

 ここまでは、まあ、空想。しかし、その次の、

離れてるあたしたちだから、もーーっと離れたとこでは一緒にいられる
ってーーことが、ロシアなロシアっ

 この、空想を支える「論理」が、不思議な淋しさである。「もーーっと離れたとこでは一緒にいられる」はどこか。「いま/ここ」ではない。「いま/ここ」でありながら、違うところである。「ロシア」であるといえば、空想にもどる。でも、空想ではないのだ。「いま/ここ」で体験していることを、肉体の奥にくぐらせたとき、どこからともなくやってきた「論理」。
 「いま/ここ」でなくなっても、「いま/ここ」を思い出すとき、「あたしたち」が「一緒にいられる」という「論理」。そういう「論理」を夢見る淋しさが、論理のつくりだす淋しさが、この詩に隠れている。
 もちろん、そういうことは子どものときではなく、あとから、つまり中村がこの詩を書くときにつけくわえたものなのだが、そういうものをつけくわえずにはいられない淋しさ、人恋しさが、ことばを清潔にしている。
 そして、その「論理」を

ってーーことが、ロシアなロシアっ

 という、子どもの「論理」でもう一度叩き壊すところもいい。
 叩き壊されて、肉体の奥で、それは静かに生きるのだ。叩き壊された「論理」の破片がきらきらと輝く。
 ナオちゃんにはたどりつけない。けれど、ロシアにはたどりつける。そういう矛盾のなかで、叩き壊してきた「論理」が淋しさとなって甦る。

 この「たどりつけなさ」の不思議な形--それは、どの詩にも隠れている。あるいは、どの詩のことばをも動かす基本になっている。
 「夏草」の書き出し。

光のあるうちはひとつだった影が
夕暮れが迫るにつれてひとつ、ひとつ増えていく
折れた草がその切り口を空に向け
白くうかびあがる

月日のことを聞きそびれた
あなたに、
あなたの感じている月日のことを

 ここに書かれている「月日」は、まあ、日々、年月、などと同じことばなのかもしれないけれど、私には「月」と「日(太陽)」そのものに感じられる。それはたぶん1連目が太陽の光で始まり、夕暮れを描いているからかもしれない。草野折れた断面の白さ--それがそのまま空に昇って月になっているからかもしれない。
 日々ではなく、その日々をつくりだす「月」と「日」--そのものを、あなたはどう感じているのか。問いかけるとき、中村は、私ととっての「月」は草の折れた切り口、「日」は影をつくる光、ということになるかもしれない。
 風景をとおして語る月と日、その繰り返しが、いつもあったに違いない。風景と一緒に中村は月日を感じていた。でも、あなたは? それを聞かないことには、「もーーっと離れたとこでは一緒にいられる」という気持ちになれない。そう思ったときに、ふいにこみあげてくる淋しさ。

 「もーーっと離れたとこ」でも「一緒にいられる」、一緒にいたい。そういうことを中村は、追い求めていると思う。
 その「もーーっと離れたとこ」とは、どこか。

砂地だって減っていくんだもの、ひんやりし
てる感覚のまま
はなれる夜は
はくはつ
潮くさい骨になるのかもね、ひとさしゆびも
いかりもかんじょうも
耳たぶに寄せる波の音がいまも転がしている
貝殻の音だよ
なまあたたかい ひそんでるものって、海面。

 「はくはつ」は「白髪」か。「白髪」と書くとき、それは波の比喩か。
 私には「はくはつ」は「ばくはつ」と感じられた。「爆発」なら事件だが、とても小さな小さな肉体の内部での剥離(分離、炸裂)--「ば」ではなく「は」と軽く抑え込むことあらわせる何か、のように感じられる。
 「もーーっと離れたとこ」は、ほんとうは肉体の内部。そのなかの小さな乱れというか、動き。
 「感覚」「いかり」「かんじょう」に区別はあるのか。たしかにあるけれど、それは説明しようとすると、ややこしい。からみあっている。同じように、「ひとさしゆび」「耳たぶ」もどこかで「一緒になっている」。
 それは、いいかえると「ひそんでいる」ということになる。
 「ひそんでいる」場所は、「いま/ここ」。そして、それは肉体の「内部」。そこで、「わたし」が私にしかわからない形で淋しく「はくはつ」している。




たくさんの窓から手を振る―中村梨々詩集
中村 梨々
ふらんす堂
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小松弘愛「あまる」ほか

2012-07-02 09:43:46 | 詩(雑誌・同人誌)
小松弘愛「あまる」ほか(「兆」154 、2012年05月10日発行)

 小松弘愛「あまる」は「土佐の言葉シリーズ」の1篇。

稲妻、一閃
家を揺るがすようにして雷鳴

 あまった!

子供のときには
飛び上がるほどに驚いて使っていた「あまる」
いつのまにか「落ちる」に変り
ながいこと縁が切れたようになっていた言葉
それが 今
不意に口から飛び出して

 「あまる」は「天降る(あもる)」の転か、という竹村義一の節を紹介している。なるほどねえ、天が降る、か。
 まあ、そうなんだろうなあ。
 でも、私は、ちょっと違った風に感じたい。
 「余る」。

 これから書くことは、こんな調子だから、詩の感想ではなくなるのだけれど。思ったことを書くしかないので、書いてしまう。
 稲妻が落ちるではなく、「余る」。「余る」のは余分なエネルギーである。それがあるべきところからあふれてくる。「天」というと、私はどうしても「上」の方向を考えてしまい、雷が暴れている「空間」の広がりを感じることができない。
 あ、これは、変な言い方だったかなあ。
 雷を、私は「天」の現象ではなく、いま、私がここにいるときの、「まわり(空間)」の現象と感じている。「天」より下の、地上と「天」のあいだの空間といえばいいのかなあ。「天」と言ってしまうと、地上と切り離された感じがして、ピンと来ないのである。
 で、そういう空間に、いろんなものがはみだしてくる。地上からか、それこそ「天」からかわからないけれど、はみだしてきたいろいろなものが動き回って、ぶつかりあって、それでも消耗せずにエネルギーがたまってきて、「空間」の「容器」を内側から破るくらいになる。「余る」。何かが内部で余って、それが爆発する--そういう感じの「余る」。
 これは、うれしいなあ、と思うのである。
 「空間」が自分の「肉体」と重なり、そうか、こんなふうにしてときどき「あまったもの」を炸裂させれば落ち着くのか、と思い、そういうことを人間はときどきするよなあ、とも思うのである。

 で、ね。
 ここからちょっと強引に詩にもどるのだけれど。

十年ほど前のように
稲妻、一閃
家を揺るがすようにしての雷鳴がほしい

 あまった!

もう一度
子供のときのように言ってみたいのである

 「ほしい」と「あまった」と「子供のとき」「言ってみたい」。この欲望--これって、やっぱり小松の肉体のなかで「余った」何かではない?
 小松の肉体のなかにある余分なもの。余分なものというと変なのかもしれないけれど、何かが知らず知らずにたまってきて、不可解なエネルギーになる。特に子供のときは、そういうことがあるね。何かを感じているのだけれど、それをことばにできない。ことばにできないとますますわけのわからないものがたまってくる。ことばにするってことは、何かを息といっしょに吐き出すことだけれど、ことばがないと「溜息」にしかならない。子供は「溜息」のつかい方なんか知らないから、わけのわからないものは肉体にたまるばっかりだね。
 子供のときは、たぶん肉体を肉体とも思わず、お利口な子供の場合は、大人の言う酔うように肉体を「感情」と呼んだりするけれど。
 あ、脱線。
 その、知らずに知らずにたまってしまった何か、「余り」そうになった何か、それをなんとかしたい。どうしていいかわからないけれど、なんとかしたい。そういうときに雷が光って、それから雷が鳴る。
 これは、気持ちがいいねえ。
 土砂降りの雨のなかへ飛び出して、ずぶ濡れになって、雷とつながってみたい。

 あまる

 何が「あまる」のか、「あまる」のは何か--そういうことは、わからなくていい。雷に誘われて、自分の肉体のなかから、余ったものが肉体を突き破って外へ飛び出す。雷は、ほんとうは、私のなかから(子供の小松のなかから)溢れ出たエネルギーなのだ。
 「あまった!」というとき、その声といっしょに、小松は何かを吐き出すのである。

雷は「落ちる」ではなく
「あまる」ものだと信じていた頃

 そのころの小松を私は、そんなふうに想像する。そういうふうに「誤読」し、「捏造」し、なんというのだろう、「がんばれ!」と声をかけたくなるのである。

 小松が詩に書いた意味は、どうでもいい。「あまる」の語源はどうでもいい。だって、それに従っていたら、私は小松に共感できない。子供の小松に共感できない。
 「天降る」ということばは私の日常にはない。
 ことばを読むというのは、辞書を頼りに意味を特定するということではなく、自分の生活をかかえたまま、ただそのことばのなかへ入っていくことだろうと思うのである。そして、こんなことを書いてしまうのは、きっと私のなかに何か「あまった」ものがあり、それを吐き出したいからなのだろうなあ、とも思うのだが……。
 梅雨だなあ。
 雨だけではなく、雷が鳴らないかなあ、とふと思う。雷が鳴ると、うっとうしさが少しは消えるかな、とかね。



 林嗣夫「朝を待つ」に、私が小松の詩を「誤読」したこととつながる行がある。こんな結びつけ方は強引かもしれないけれど……。(詩を読むというのは、こんなふうにして、強引に「誤読」を積み重ねることである、と私は思っているので、こう書くしかないのだが。)

そのとき 冬枯れの山肌から
瑠璃色の小さな光のかたまりが飛び立つのを見た
鳥だったのか
それとも
眼を閉じて静かに呼吸しているわたしの
深い意識の闇から発せられた
見知らぬ声だったのか

 「鳥」と「わたしの/声」が見分けがつかない。「小さな光」と「深い意識の闇」が向き合う形で互いを照らしだすので、どっちがどっちかわからなくなる。深い闇は冬枯れの山にあるのか、小さな光はわたしの肉体のなかにあるのか、わからなくなる。
 「わたし」の「内部/外部」が交錯し、「わたし」が「わたし」の領域(?)を超越する。エクスタシー。わたしがわたしでなくなる。
 これって、「天降る」ではなく、「あまる(余る)」に似ていない?

 人間は、自分から飛び出した場所で何かと触れ合い、自分の肉体の限界を越える。そういう一瞬のなかに、詩がある、と思う。
 だから、詩は、論理的に説明しようとするととても変になる。「語源」というものに頼ると、どうしても意味に食い違いが生じる。--その食い違いを食い違いのまま、自分で引き受け、暮らしのなかへ帰っていく、というのがことばを読む楽しさだろうなあ、と思う。「意味」ではなく、ただことばを読み、それに自分の肉体がなじむのを待つ。「朝を待つ」ように。--それは、いつかかならず、やってくる。朝のように。




風―林嗣夫自選詩集
林 嗣夫
ミッドナイトプレス


詩集 のうがええ電車―続・土佐方言の語彙をめぐって
小松 弘愛
花神社
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アレクサンドル・ソクーロフ監督「ファウスト」(★★)

2012-07-01 10:36:20 | 映画

監督 アレクサンドル・ソクーロフ 出演 ヨハネス・ツァイラー、アントン・アダシンスキー、イゾルダ・ディシャウク、ゲオルク・フリードリヒ

 私はこういう「思わせぶり」な映像(画質)が好きではない。全体がセピア色ふうに弱められている。そういう色を、私は日常的には見ない。だから、この統一された色彩の世界を視覚の新体験(いままで見たこともない映像)と呼んでもいいの汝かもしれないけれど、そういう「新体験」を求めて私は映画を見るわけではない。あくまでも、いまの私の肉眼が見落としてきたもの、あるいは肉眼がそこまで行くことのできない場所で「見る」ものを見たい。この映画では、色彩を調整していると同時に、視軸(?)とでもいえばいいのか、視線さえも調整している。画面が奇妙な具合に斜め方向に引き伸ばされる(押し縮められる?)ようにねじれる。ファウストがマルガレーテを最初に真剣に見つめるときの、少女の顔は、彼女自身の顔が動いたのか、視軸が動いたためにそうなったのか、よくわからない。変な融合がある。--こういう映像は、私のように視力の弱い人間にはとてもつらい。頭のなかで映像が液体のようになだれる。
 好意的に考えれば、ソクーロフは映像を観客が観客独自の「現像液」と「定着液」で完成させればいいのであって、映画はその「素材」をなるべく「なま」の形で提供すると考えているのかもしれない。でも、こういう態度は、私には、とてもずるい方法に思える。なんとなれば、ほんとうに見せたい部分だけは、しっかりと監督自身が「現像液」と「定着液」で処理していまっている。それは、マルガレーテがファウストの下宿(?)を尋ねてくるシーン。マルガレーテの顔が透明に輝く。無垢で、しかもどこかに肉感がかすかに残っている。いや、肉感が生まれはじめている。無垢なのに、その奥から肉感が誘い出されるのを待っているような--言い換えると、ファウストに触れることで無垢な少女がおんなに生まれ変わるのだということをファウストに感じさせる姿で輝く。少女がおんなに生まれ変わるとき、ファウストは苦悩する人間から生きるよろこびに満ちた人間へ生まれ変わることができる。そういう「夢」がそこに映し出されている。ファウストは現実のマルガレーテではなく、そこに「イデア」のような少女を見る。そのイデアを強調するために、それまでの歪んだ、そしてセピア色に加工された映像が利用されてしまっている。こういう映像と映像の関係(文法)が、どうにも気に食わない。
 これが、どういえばいいのだろうか--セピア色の映像のつくりだす世界が、その運動によって自然にマルガレーテの姿を透明にかえていくというのなら納得できるのだが、どうも違う。映像のもっている文法とは関係なく、そこにはファウストの恋というストーリーが強引に割り込み、ファウストの恋がマルガレーテを美しくする(美しく輝かせる)という具合なのだ。映像ではなく、ファウストのストーリーが、その映像を要求した、ということ。
 これは、ずるい。
 映画として、とてもずるい。映像の運動が、ストーリーによって強引にかえられ、そしてなおかつ、そこにストーリーをより強い形で出現させてしまう。ファウストの苦悩(?)や肉欲、純情をていねいに映像として描いてきた結果、透明なマルガレーテが映像として登場するのなら納得できるが、この映画はそんなふうには映像とストーリーの関係を構築してはいない。まったく気ままに、ただご都合にあわせて、ふたつを組み合わせている--というよりも、ストーリーに映像を従属させてしまっている。映像が自律運動によって新しい映像を生み出していくという快感を完全に否定している。こういうものは、映画ではない。
 で、さらにずるいのは……。
 まあ、ずるくはないというひともいるかもしれないが、脇役たちの視線の利用の仕方がうまい。ふつう映画というのは主人公の視線で成り立っている。つまり、観客がスクリーンで見るさまざまな映像の新体験は、主人公の映像体験そのものと思ってみる。言い換えると、観客は主人公になったつもりで映画の世界に入っていく。--こうした自然な観客の欲望と視覚の受容運動を、スクーロフは巧みに封じ込め、全体としては、この映画はファウストの見ている世界そのものではない、と言い続けるのである。具体的に言いなおすと、この映画には脇役たちがこっそりファウストを見ているという「証拠」が次々に出てくる。ファウストの助手であるワーグナーは、いつも隠れながらファウストを見ている。下宿屋の女主人も同じである。その他の小さな(?)脇役、たとえばファウストの父に食料をもってくる小間使い(?)の少年も、ファウストと父がものを食べるのを影から見ている。--映画で展開されるのは、ファウストの見た世界であると同時に、その周辺のひとが見たファウストの世界である。
 これを別な言い方で言うと、まあ、ファウストの見ている世界は、周りの人には見えない。周りの人にはその一部しか見えない。彼らから見れば、天才の見ている世界は理解不能(正常ではない)であり、その理解不能さ加減というか、見えにくさ加減は「セピア色」ということになる。そうして、ファウストのほんとうに見ている世界は、マルガレーテの輝かしい肖像に象徴されるように、とても美しい。その対比を、スクーロフはこの映画で映像として定着させた、ということになる。
 ああ、うるさい。ああ、やかましい、と私は思ってしまうのである。
 こんな「理屈」のために、映画を見るのではない。
 うるさい--と、いえば、この映画の台詞の多さにもまいってまう。ひっきりなしにしゃべっている。会話だけでは言い足りないのか、ファウストの「独白(心の声)」まで聞かされるし、マーラー風の輪郭のくずれた音楽がひっきりなしに鳴る。

 まあ、うさんくささについて語り合うのが好きなら、こういう映画もいいかもね。芸術なんてうさんくさいものだと言われれば、それを否定することはできない。--というようなことが、どこかでささやかれて、ベネチア映画祭のグランプリになったのか。私は評論家ではないので、そういう評価にはお付き合いしたくない。
                      (KBCシネマ1、2012年06月30日)





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