詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日本郵便株式会社の対応

2022-03-11 10:07:56 | 考える日記

スペインの友人(2人)に、冊子を送った。
いつまでたっても届かない。
追跡調査で調べると、マドリッドで「通関手続き中」になっている。
それで、日本郵便に問い合わせた。(問い合わせ窓口がある。)

その経緯。

①問い合わせメール

*******************************************
2月15日と2月18日にスペインあてに2個の小包を送った。内容は印刷物。
配送履歴をみると、マドリッドで「通関手続き中」になっている。
どうして通関手続きに長期間かかるのか。
問い合わせ番号はRN025******JP
                             RN025******JP

*************************************

②すると、こういう返信メール。

***************************************************************

この度は、国際書留の送達におきまして、
ご心配をおかけしておりますことを、謹んでお詫び申し上げます。
お問い合わせにつきまして、国際郵便が名宛国に到着後は、追跡情報も含め、スペインの郵便制度による取扱いとなり、スペインにございます国際郵便について、詳細をお調べすることがいたしかねます。
当該国際書留の取扱い・送達状況について、より詳細な確認をご希望の場合は、お手数とは存じますが、スペインの郵便事業体に、受取人様等を通じ、直接、お問い合わせいただきますようお願い申し上げます。
当センターではお力になれず、大変恐縮ではございますが、上記案内につきまして、何卒よろしくお願い申し上げます。

*************************************************************
これ、納得できますか?
「書き留め郵便」(特別料金をはらっている)のに、どこへ行ったかわからない郵便物の追跡はしないと言っている。
さらに、問い合わせ先の詳細もいっさい書いていない。
あまりにもいいかげんな対応。

③いま、以下のメールで、問い合わせ中。
***************************************

当該国際書留の取扱い・送達状況について、より詳細な確認をご希望の場合は、
お手数とは存じますが、スペインの郵便事業体に、受取人様等を通じ、
直接、お問い合わせいただきますようお願い申し上げます。
↑↑↑↑↑
と、書いていますが、日本から問い合わせるにはどうすればいいですか?
スペインの郵便事業体の問い合わせ先を、日本郵便株式会社は知らない(把握していない)ということですか?
送った郵便は「書き留め」です。
料金だけとって、その「書き留め」の郵便物がどこへいったか知らない、問い合わせもしないということでしょうか。

そうであるにしても「 スペインの郵便事業体」だけでは、どこに問い合わせていいかわからない。
最低限、事業体の名称、電話番号、メールアドレスなどを連絡してください。
さらに。
スペインの受取人が問い合わせるときに、必要な事項は何でしょうか。
問い合わせ番号は、共有されているのでしょうか。

 

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細田傳造『まーめんじ』

2022-03-10 11:23:43 | 詩集

細田傳造『まーめんじ』(栗売社、2022年03月03日発行)

 細田傳造『まーめんじ』を読みながら、細田傳造は谷川俊太郎に似ていると思った、と書くと、きっとみんな驚くだろうなあ。きのう、谷川俊太郎について書いていて、そこに細田を登場させた。そのときのことが尾を引いているかもしれないが、いや、そうではなく似ているのだ。どこかで似ている何かを感じていたから、谷川について書くとき、知らず知らずに細田のことば(うろ覚えだから、間違っているかもしれない)を引用したのだ。
 どこが似ているか。
 他人との距離が似ている。他人というのは人間としてあらわれるときもあるが、形のないものとしてあらわれるときもある。「匂い」という作品。

くちぼそ たなご はや
釣り上げた小魚の匂い
にびき はいごま じゅんぱく
飼っていた伝書鳩の匂い
黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師
棲んでいた町の人間の匂い

十二の歳まで鼻はちゃんとしていた
生き物の匂いを嗅ぎ
生き物のかなしみを知った

十二からこっち
幾百もの腐った牛の肉を食い
幾百もの人間の汗のにおいを嗅いで
わたしの鼻は潰れた
にくしみの臭気を
かなしみの匂いをもはや知ることはない

くちぼそ たなご はや
魚釣りの少年の方を濡らした
六月の霧雨よ
釣り上げた小魚の匂い
ほんとうの季節よ

 「匂い/におい/臭気」。細田はつかいわけている。まあ、つかいわける瞬間、たしかに違いはある。しかし、この「におい」というのは不思議なものである。そのなかにいると感じなくなる。その感じないものを、他人は、気づくときがある。映画「パラサイト」は、そういう「におい」を映画にしていて、とてもおもしろかった。「におい」は、いつも「他人のにおい/自分ではないもののにおい」。「自分のにおい」に気づくときも、そこには「自分ではないもの」が含まれる。たとえば、漏れてしまった糞がパンツにこびりついているとき、それは排除したいもの/自分ではないものにしたいもの。香水をつける女性は、「自分のにおい」をほかのもので隠したいのか。
 ちょっと余分なことを書いた。
 自分のにおいには気づかない。他人のにおいには気づく。しかし、そのにおいにしてもしばらくすると意識できなくなる。においの意識。そのなかで、何と言うか、においの遠近感、においの距離があいまいになる。においの距離感を「意識」しつづけるのはむずかしい。においは鼻腔から肉体の中に入り、肺を通過し、血液にまじり、肉体に浸透してしまうのか。
 私は粘膜が弱い。鼻の粘膜も弱い。したがって、どんなにおいも苦手である。(揮発性のにおいは頭がくらくらしてしまう。)だから、においの「距離感」というものが苦手なのだが。
 細田は敏感であり、そのにおいを、細田のなかで維持できる。一連目が特徴的だ。「くちぼそ たなご はや」を区別している。「にびき はいごま じゅんぱく」。さらに「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」。この区別は、単に「他者」と「私」の区別をするということではない。「他者」と「他者」の区別をするということである。
 さて。
 ここから、その「区別した他者」と「区別した他者」と「私」の関係。具体的に言いなおせば「くちぼそ」と「細田」、「たなご」と「細田」、「はや」と「細田」を、細田は「小魚」と「細田」という形で整理しているが、(それは他の部分では、伝書鳩、人間、と整理されているが)、その「整理」の過程で、不思議な「距離」が保たれている。私はわがままな人間だから、「距離」に好き嫌いをいれて、「距離」を変化させてしまう。たとえば「くちぼそ」は足で蹴って捨ててしまう。「たなご」はバケツにいれる。「はや」は食べずに、しばらく飼ってみる、という感じ。そのとき、たぶん無意識だろうけれど、そこには「におい」も影響しているかもしれない。細田のことばには、こういう私がいまかいたような「わがまま」な区別がない。平等の「距離」がある。
 平等の距離。
 これが、細田と谷川の共通点だ。「他者」に接するとき、谷川も細田も何か彼ら自身の「ものさし」を持っていて、「他者」との「距離」を保ち続ける。人間同士の「距離」というのは仲よくなったり、ケンカしたり、わかれたり。恋愛し、結婚したかと思えば、けんかして、わかれもする。そういうときも、なにか基本的な「距離」を、細田も谷川も維持し続けていないか。
 私の、単なる印象だけれどね。
 細田は十二歳を境にして「におい」の感覚、「においの距離感」が変わったと書いている。十二歳までは、「におい」そのものの違いだけを識別していた。十二歳以後は、「におい」に別の認識(意識)が加わり、それが「基準」になって「他者」を識別するときに働くようになった、ということだろうか。
 重要なのは、しかし、それを「記憶」しているということだ。「記憶」のなかに、常に、十二歳前の、「におい」だけの「純粋な距離」がある。その「記憶」が細田を律している。こんなことばがいいのかどうかわからないが、なにか「礼儀正しい」ものにしている。どこかで「他者」との距離を一定にする力となって働いている。
 こうした「距離」の取り方は正しいかどうか、それはほんものか、にせものか。
 細田は、最後に、こう書いている。

ほんとうの季節よ

 いまの「距離」の取り方が「ほうとう」ではない、という意識が、十二歳までの「距離」を「ほんとう」と言わせるのだ。この「ほんとう」にはなつかしい気持ちがこもっている。あの、純粋な「におい」だけの識別の世界、そのときの「肉体」。
 涙が出るくらいになつかしい、ひきつけられる、と書きたいが、実は、そういう感じにならない。細田のことばは、そういう「同化」を拒絶している。どこかで、「これが私、あなたではない」という「絶対的な距離」をもっている。

 「まーめんじ」は「けっこんゴッコ」を書いている。「お医者さんゴッコ」から、さらに一歩進んだ(?)「ごっこ」か。
 その後半。

てんねん好色児童の山崎が
ケッコンケッコンとわめきながら
むりやり美子と挙式しようとして
騒ぎになった
あれからぼくたちはみんな
野球少年になってそれを忘れた
けっこんゴッコというあれは
鼻たれ小僧や
まーめんじのちいさなおんなのこしか
してはいけない悦楽だったのだ
おんなのこたちはあれをしなくなって
なにをしていたのだろう

 最後の二行がとてもいい。「おんなのこたち」のことを知らない。「知らない」ということが「他人」になるということである。「他人」というのは「知らない人」のことである。知らない人であっても、私たちは「肉体」があるので、「他人」を知っているつもりになる。理解できるつもりになる。そして、実際に理解するときもある。たとえば、誰かが道に腹を抱えてうずくまっている。うめき声をあげている。あ、腹が痛いのだと思う。「他人の肉体」なのに、その痛みを理解してしまう。わかってしまう。このとき、「他者」と「私」の「距離感」はどうなっているのか。
 少し断線するが。
 いま書いた、路上で腹を抱えてうずくまる誰か。その誰かは、ほんとうに病気のときもある。また、病気を心配してくれて近づく人を待ち構えている掏摸、泥棒ということもある。「ほんとう」はどっちか。細田は、そういうことを見抜ける人間だと思う。何か、「距離」の取り方の達人というか、「他人」が発する「距離の揺れ」を間違いなくつかみとる「方法」を「肉体」として身につけてているように、私には感じられる。
 それは、たとえば、この詩で言えば「てんねん好色児童」ということばにあらわれている。「匂い」で言えば「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」。突き放している。「絶対的な距離感」というものがある。細田は、絶対に「てんねん好色児童」でもなければ「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」でもない。しかし、その存在を排除するのではなく、細田と「共存」するのもとして受け入れている。いや、「併存」させている、と言った方がいいのか。たぶん、そうだと思う。
 「併存」と「共存」は、どう違うか。
 いまは印象でしか書けないが、併存というのは、何かを「共有」するということではなく、たぶん安易な「共有」はしない、ということである。「あなたには、あなたのものがある。それはあなたが持っていればいい。私は共有をもとめない。同様に、私には私のものがある。それは共有されたいとは思わない」、と書いてしまうと極論になるが。
 でも、「共有」しないなら、感動はどうやって生まれる?
 それを考えるとき、「匂い」に出てきた「ほんとう」が重要になる。
 それぞれが持っているもののなかには「ほんとう/にせもの」が絡み合っている。人間が特にそうである。「ぱんぱん」と呼ばれる女性。彼女たちがしていることは間違っているということは簡単である。しかし、そうするしかなっかたという「事情」があるだろう。そのときの「ほんとう」。たとえば「ほんとのうかなしみ」。でもね、このことだって「ほんとうのかなしみ」と書いた瞬間に、何と言うか、一種の「理念による浄化」のような不純物がまじりこみ、「ほんとう」ではなくなる。「意味」のまじりこまない「ほんとう」というものが、「意味以前の絶対的な他者」として「ある」。もし「共有」するものがあるとすれば、それである。しかし、それは「単独」では存在し得ないような何かなのだ。だから「併存」するものとして、いっしょに生きる。
 「共存」ではない、不思議なあたたかさ。「併存」の強さ。それが細田のことばのなかを貫いている。

 


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ボニー・グレーザー「分析ウクライナ危機/台湾と根本的違い」(アメリカ人の嘘)

2022-03-09 10:40:27 |  自民党改憲草案再読

ボニー・グレーザー「分析ウクライナ危機/台湾と根本的違い」(読売新聞、2022年03月09日朝刊)

 アメリカ人は(と、一概に言ってはいけないのだが)、今回のロシウ・クライナ問題で何が批判されているかをまったく理解していない。そのことを如実に証明する記事が2022年03月09日の読売新聞(西部版・14版)に載っていた。米ジャーマン・マーシャル財団アジアプログラム部長、ボニー・グレーザーが、インタビューで語っている。
(https://www.yomiuri.co.jp/world/20220309-OYT1T50048/)
↓↓↓↓↓
 ウクライナで起きていることを見て台湾の人々の間で「次は台湾だ」と不安が生じている。しかし、台湾とウクライナの状況は根本的に異なる。米国がウクライナに軍事介入しないから、台湾も同じだという議論は、台湾の人々の米国に対する信頼を損なわせることを狙った中国による誤情報だ。(略)米国がウクライナに軍を送らなくても欧州の同盟関係が回復不能なほど傷付くことはないが、台湾の防衛に駆けつけなければ、アジア全体、特に日本や豪州への影響が懸念される。
↑↑↑↑↑ 
 グレーザーは、アメリカはウクライナには軍を送らないが、台湾には軍を送る、と明言している。つまり、中国となら戦争をすると言っている。それも、台湾の人々を救うためではなく、「アジア全体、特に日本や豪州」を中国から守るためだと言っている。
 このことは逆に言えば、台湾を守るという口実のもとに、日本や豪州の軍隊も結集し、組織し、アメリカと中国との戦争に巻き込む、ということである。単に、アメリカ軍だけが台湾防衛のために中国と戦うというわけではない。日本は、こういうことをするために戦争法(集団的自衛権)を成立させた。台湾でアメリカ軍が攻撃されたら、それを日本への攻撃と見なし、アメリカ軍と一緒になって戦う。つまり、中国とアメリカの戦争に参戦を強制される。
 台湾の人がどう考えるか知らないが、私が心配するのは、それだ。アメリカ主導で戦争が引き起こされる。それが心配だ。
 ここから翻って、ウクライナの状況を見れば、もっとほかのことも見えてくる。台湾に中国が侵攻したことを想定して、重書きをすると、こんな感じになるだろう。
 アメリカはウクライナにはアメリカ軍を出さないと言っている。かわりにNATOに増派する。NATOに軍備を提供する。ウクライナで戦うのはNATO加盟の(特にウクライナ、ロシアに隣接した)国の兵士である(まだ、派兵されていないが、武器の提供が提案されている)。
 台湾で問題が起きたときも、同じ方法が取られるだろう。アメリカは実際には台湾には派兵しない。日本や豪州にアメリカ軍を派兵する。武器を提供する。アメリカの応援を受け手(?)、日本や豪州の軍隊が台湾で、台湾防衛に戦う。
 アメリカは、すでにベトナム、イラク、アフガン、シリアその他の国で敗北し続けている。そこで考え出したのが、アメリカ軍が戦うのではなく、アメリカの同盟国が各地で戦う(戦争をする)という方法である。
 ロシアや中国は驚異である、とあおるだけではなく、実際の軍事行動を誘い出し、その戦争に周辺国を巻き込む。
 なぜ、こんな「手の込んだ」ことをする? グレイザーの次のことばが、アメリカの意図を明確にしている。
↓↓↓↓↓
米議会ではロシアの侵攻後、台湾への武器売却を増やすべきだとの意見が上がっているが、武器売却は台湾の防衛の一要素だ。
↑↑↑↑↑
 「武器売却」が目的なのだ。いま、コロナのために世界中の経済が疲弊している。金儲けができない。収入・利益がない。それはアメリカの軍需産業も同じなのだろう。特に、アメリカはアフガンから撤退して以来、「戦争」を引き起こしていない。軍需産業は、軍備を売ることができない。売り先(買い手)を必死になってさがしているのだ。
 金を稼ぐためなら、何でもする。この強欲なアメリカの軍需産業は、いま、ウクライナを徹底的に利用しようとしている。なんといっても周辺にはNATOの加盟国がある。それらの国に「次はおまえの国が狙われる」とあおり、武器を売る。ウクライナには兵を送らないが、ウクライナにその国が兵を送れるようにするためにアメリカ軍を周辺国に派兵する。ウクライナ周辺の各国が武器を提供しても大丈夫なように(その国の防衛が手薄にならないようにするために)、周辺国にアメリカの最新鋭の武器を売却する。
 これは「巧妙」としか呼びようのない方法である。いま起きていることは、これである。いや、それ以上のことである。
 一面には、バイデンがロシアからの原油の輸入を禁止するという方針を打ち出したというニュースが載っている。(https://www.yomiuri.co.jp/world/20220308-OYT1T50187/)しかし、この問題ではヨーロッパ各国と同一歩調をとるところまではいっていない。
↓↓↓↓↓
 バイデン氏は7日、英国のジョンソン首相、フランスのマクロン大統領、ドイツのショルツ首相とビデオ会議形式で会談した。ホワイトハウスなどによると、首脳らは対露制裁の強化で一致したものの、原油の禁輸措置に関しては結論が出なかった。ドイツの慎重姿勢が影響した可能性が高い。
 ジェン・サキ米大統領報道官は7日の記者会見で、「米国と欧州では輸入量も含め、置かれた状況が違う」と述べ、ドイツなどの立場に理解を示した。
 ショルツ氏は7日の声明で「電力や産業のエネルギーは現時点で他の方法では確保できない」とし、当面はロシアからのエネルギー調達を続ける方針を表明した。
↑↑↑↑↑
 天然ガスもそうだが、ドイツはロシア頼みのところがある。これは、逆に言えば、ドイツの金がロシアに流れる。(あるいは、ヨーロッパの金がロシアに流れる。)ロシアが金儲けできるということである。この強い経済関係(エネルギーがないと社会が動かない)は、天然ガスや石油だけではなく、他の分野にも広がっていくだろう。そして、それは、その経済関係が広がった分だけ、アメリカとヨーロッパの経済関係が薄くなる。アメリカはヨーロッパでは金儲けができなくなる、ということである。
 アメリカの強欲資本主義は、これを許さない。これが我慢できない。アメリカがまず金儲けできるという環境が必要なのだ。そのためになら、何でもする、というのがアメリカなのだ。
 資本主義の「理想」は、たぶん、利益を再配分し、平等な社会をつくる、自由な社会に貢献するということだと思うが、現実は、利益の再配分はおこなわれず、一部の資本家に金があつまり、貧富の格差が拡大している。資本主義は、強欲増強システムになっている。これはアメリカの姿をみればわかるし、日本の現実をみてもわかる。日本では、資本家がよりより収益をあげるために、たとえば「非正規雇用」のシステムが確立された。低賃金で働かせ、カットした賃金は資本家の収益に、ということである。税制をみてもわかる。消費税を増税し、法人税を引き下げる。減った分の税収を消費税でまかなう。ここでも金持ちだけが、金を得られるというシステムが動いている。

 脱線したが。(脱線ではなく、補強のつもりだが。)

 今回のウクラナイ問題を考えるとき、思いださなければならないのが「ワルシャワ条約機構」である。冷戦終結後、ワルシャワ条約機構(ソ連の防衛システム)は解体し、ロシアはロシア一国で、ロシアを守ることになった。しかし、NATOは、そのまま存続し、いまにいたっている。なぜ、NATOが必要なのか。なぜ、NATOは東側へ加盟国を増やしていかないといけなかったのか。
 ロシアが攻撃をしてくるから? 今回のウクライナのように?
 これは「後出しじゃんけん」のような方便である。
 私が思うに、アメリカの軍需産業がNATOが解体してしまったら武器の売り先がなくなるからだ。NATOが加盟国を増やせば増やすだけ、アメリカの武器の売却先が増える(利益が上がる)からだ。
 グレイザーのことばをもう一度読んでみる。
↓↓↓↓↓
米議会ではロシアの侵攻後、台湾への武器売却を増やすべきだとの意見が上がっているが、武器売却は台湾の防衛の一要素だ。
↑↑↑↑↑
 「武器売却」としか、グレイザーは言っていない。「防衛」のための最大の武器は、人間と人間の「友好」である。台湾と中国の「友好」を高めるために、アメリカはこういう提案をするとは言っていない。あるいは中国と台湾が「衝突」しないようにするために、こういうことを提案したいとも言っていない。
 「武器売却」は、安全保障という名目の金儲けであり、いわば一石二鳥作戦なのである。アメリカがウクライナでやっていることは、さらにロシア経済を破綻させるという「一石三鳥」作戦である。ウクライナで成功すれば、必ず、同じ方法が台湾で試みられるはずである。アメリカのあやつり人形のような安倍は、彼自身の人種差別意識とも関係するのだろうが、それを利用して中国攻撃という夢、日本を軍国主義にするという夢を追いかけている。ウクライナで起きている問題は、日本に強い影響を及ぼすはずである。

 

 

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古根真知子『皿に盛る』(3)

2022-03-08 10:47:19 | 詩集

古根真知子『皿に盛る』(3)(私家版、2022年03月01日発行)

 古根真知子『皿に盛る』のつづき。
 「爪を噛む」には、わからないことが書いてある。

きれいに
そろえて
目のなかの
緯度

ねむる方向を
なん層も
移行し

ぶつかりそうな
闇の
かけら

つもる影を
たべた
薔薇の
記憶

充足して
分散する
湾曲の
谷へ
落とし

飛びかう
飽和の
なか

わたしは
ていねいに
爪を
噛む

 一連目の「目のなかの/緯度」が、まずわからない。何の比喩だろう。「爪を噛む」というタイトルから想像すれば、爪ののびた白い部分、横の線、これが緯度をあらわすように見えた、ということか。「きれいに/そろえて」を爪をきれいに切りそろえて、という感じか。
 でも、その、きれいにそろえた爪をなぜ噛むのか。
 わからない。「ねむる方向を/なん層も/移行し」は眠られずに寝返りをくりかえしている姿にも見える。寝返りをくりかえしながら「闇」にぶつかる。「闇」は「影」がつもったものか。「薔薇」はその「闇」を食べたのか。そして「充足」したのか。しかし、そうだとして「谷」へ「落とし」たのは何なのか。
 いろいろなことを思いながら(あふれる思いが「飽和」状態常態になっている)、

わたしは
ていねいに
爪を
噛む

 この「ていねい」が書き出しの「きれいに/そろえて」と呼応する。乱暴に、ではなく「ていねいに」爪を噛む。自分の「記憶」に対して、「思い」に対して、ていねいに向き合う。
 何も捨てない。
 「噛む」は、「咀嚼する」「食べる」を連想させる。まさか爪を食べるということはないだろうが、爪を噛みながら、記憶(思い出)を食べている、自分の「肉体」のなかに閉じ込めている、味わっている、という感じがする。
 爪を噛むというのは、たぶん、うれしいときにする行為ではないが、つらいこと、悲しいこと、悔しいこと、そういう否定的なももの(?)に対しても、「ていねい」に向き合っている。
 この詩につづいて「爪を切る」。

爪さきの
しろい部分の
3ミリを
切り落とす

3ミリが含んだ
時間を
切り落とす

散らばる

爪の
切りはし

時間の
切れはし

散らばる

爪さきの
しろい部分の
3ミリの

すべての
指さきの

私の一部の
指さきの

爪を

切り落とす

 「爪を噛む」で、「記憶」と書かれていたものが、ここでは「時間」と呼ばれているのかもしれない。時間は抽象的である。爪が3ミリ伸びるまでには、一週間か十日か。私はたしかめたことはないが、そういう「客観的/物理的」な時間は、この場合、関係がない。知らずに伸びる爪。意識できない時間。それこそ「つもる」時間。「爪を噛む」では「つもる影」と書かれていたが、その「影」が「時間」なのだ。
 「時間」のなかに、何があるか。「運動」がある。「動き」がある。「動き」だけが「時間」を刻んで行く。「客観的/物理的」な規則正しい時間(時計の時間)とは別に、人間の行動が「肉体」のなかで獲得していく時間がある。出会う。愛する。交わる。憎む。わかれる。「一期一会」の、どの「瞬間」を「記憶」しているのか。「瞬間」ではなく「持続する時間」を思い出しているのだろう。
 爪を切ると、爪が飛び散るように、記憶も(時間も)飛び散るか。それは「切り落とす」ことができるか。切り落としても、また「肉体」として、生えてこないか。
 わかっていても、そうするしかない。わかっているから、そうするしかない。
 どちらだろう。
 ここには「きれい」も「ていねい」も、ことばとしては書かれていないが、逆に「散らばる」が書かれているが、それをみつめる視線は、きれいで、ていねいだ。
 見えないものを、ことばで見ようとする、そのこころの動きが、きれいで、ていねいだ。
 「追うを追う」は、そうしたことをネコの追いかけっこを見ながら書いたものだが、見えないものを見るという作品の「承認」を紹介する。

線を描く

ひとすじの
美しい線を描く

過ぎていく彼方に
線を描く

今日
姉が泣いた

心のおくの
ふかい騒ぎを
押さえて

うしろ向きで

姉が
泣いた

線を描く

過ぎていく彼方に

線を
描く

 「うしろ向き」だから、涙は見えないかもしれない。その見えない涙を「美しい線」と古根は呼ぶ。それが「描く」のは「過去」である。それがどのような過去か、古根は知っているわけでないかもしれない。けれど「過去」であることは間違いない。古根にも、同じ経験があるからだろう。
 「承認」というのは、姉が、その「過去」を過去として受け入れるということなのか、それとも、古根が、そういう人間の生き方を受け入れ、承認するということなのか。私も、そうやって生きていくということを確かめているのか。

 

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Estoy loco por espana(番外篇149)Obra Jose Enrique Melero Blazquez

2022-03-07 09:23:26 | estoy loco por espana

Obra Jose Enrique Melero Blazquez

 

Esta pieza es una maravilla.
El cable es suave. El hilo supuestamente blando es la "base" de esta obra. Adquiere fuerza al combinarse como los hilos de la urdimbre y la trama de una tela. Es el "marco" de la camisa. Y soporta una fina lámina de acero que sustituye a la tela. Sostenida por el alambre, la placa de acero se mueve como si se agitara con el viento. Incluso sin el apoyo del alambre, la chapa de acero sería capaz de mantener esta forma, pero el apoyo del alambre le permite mantenerse en una forma indefinida. Esa es la impresión que da.
Esta impresión me confunde.
Cuando pienso en la relación entre el alambre y la plancha, siento como si estuviera mirando la "desnudez" de este descamisado, aunque se supone que estoy mirando la plancha. La camisa tiene esta forma por el ser humano que la llevaba. Esta camisa tiene "rastros" de la persona que la usó. Hay un cuerpo humano (masculino) con la forma del "esqueleto" de esta camisa. Y ese ser humano se ha quitado la camiseta y ha huido a otra parte. El ser humano que había antes ha desaparecido. Ha conseguido su "libertad" y se ha ido a otra parte.
Los "rastros" del cuerpo que escapó permanecen. Estas huellas tienen la forma de la camisa. Y parece que, al mismo tiempo, tanto el alambre como la tela intentan escapar del hierro y ser más libres.
La obra de José Enrique Melero Blazquez siempre contiene algo erótico, quizás porque tiene esa sensación de escapar de uno mismo y convertirse en algo distinto a uno mismo, de "libertad, liberación a través del éxtasis".José Enrique Melero La obra de Blazquez esconde siempre un deseo de desviarse del material (el hierro).

Jose Enrique Melero Blazquezの、この作品は不思議だ。
針金は柔らかい。その柔らかいはずの針金が、この作品の「土台」になっている。布の縦糸、横糸のように組み合わさることで強固さを獲得している。シャツの「骨組み」になっている。そして、布の変わりの鉄の薄板を支えている。針金に支えられて、鉄板は、風になびくように、動いている。針金の支えがなくても、鉄の薄板はこの形を維持できるだろうけれど、針金の支えがあるから不定形でいられる。そういう印象を与える。
この印象は、私を混乱させる。
針金と鉄の薄板の関係について考えるとき、私は鉄を見ているはずなのに、このシャツを脱いだ人間の「裸」を見ているような気がしてくるのである。シャツがこの形をしているのは、それを着ていた人間がいるからだ。このシャツには、シャツを着た人間の「痕跡」がある。このシャツの「骨組み」の形をした人間の(男の)肉体がある。そして、その人間は、シャツを脱いで、どこかへ逃げ出したのだ。それまでの人間は、消えてしまった。「自由」を手に入れて、どこかへ行ってしまった。
逃げ出した肉体の「痕跡」が残っている。その痕跡が、シャツの形になっている。そして、それは同時に、針金も布も、鉄であることを逃げ出して、もっと自由になろうとしているように見える。
Jose Enrique Melero Blazquezの作品がいつもエロチックなものを含んでいるのは、この、自分を抜け出して、自分以外の何かになるという感じ、「エクスタシーによる自由、解放」を持っているからだろう。Jose Enrique Melero Blazquezの作品は、いつも素材(鉄)を逸脱する欲望を隠している。

 

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古根真知子『皿に盛る』(2)

2022-03-06 11:32:38 | 詩集

古根真知子『皿に盛る』(2)(私家版、2022年03月01日発行)

 古根真知子『皿に盛る』は、読む先から、この詩について書きたい、引用したい、紹介したいという思いがあふれてくる。それをせき止めるようにして、あるいは断ち切るようにして、きょうはまず「葬送」。

閉じて開いて
閉じて開いて

閉じて
閉じて

目は
道ばたのアジサイを
閉じこめる

6月の青を
閉じこめる

囚われて

 くりかえされることばに私の肉体は反応する。「閉じて開いて」が「目」の動きであることが三連目でわかる。そして「目を/閉じる」ということが、見たものを「閉じこめる」につながることを知る。
 このときの「閉じこめる」は「忘れない」だろう。
 「葬送」とあるから、だれかの葬儀のときである。そのときアジサイが咲いていた。そのことを忘れない。それは六月を(命日を)忘れないであり、その人を忘れないでもある。
 「閉じこめる」は「閉じこめられた」ひと(あるいはアジサイ)から見れば「囚われる」でもあるのだが。

雨も日射しも断ち
屹立と
暗闇の棺に
6月の
青を溶く

開いて閉じて
開いて閉じて

閉じて
閉じて

目は
道ばたのアジサイを
閉じこめる

7月は薄紫色を
8月は褪せた枯れ色を
朽ち色を

 「開いて」「閉じて」というのは、最後の別れのための棺の扉(窓)のことか。「雨も……」の連は、はっきりとはわからない。ときに「青を溶く」をどうつかみきっていいか(誤読していいか)わからない。だが、それがとてもいい。「私の気持ち」を書いているのではない。古根は古根の気持ちを、行動を、肉体を書いている。わからないことがあって当然なのだ。
 ここには「わからない」ことがもつ「強さ」がある。
 ここには、たしかに古根が生きている、考えている、思っている、ことばをさがしているということが「ある」。その「ある」ということだけは、わかる。
 この不可解を、「美しい不可解」として、私は私の肉体のなかに「閉じこめて」おくことにする。
 六月のアジサイは、まだ開ききっていないのか。それは亡くなった人が「幼い人」を意味するのか。暗示するのか。
 七月には薄紫色に、八月には色あせ、枯れて、朽ちていくアジサイ。
 そうであっても、そのすべてを「閉じこめる」。忘れない。
 亡くなったひとは、アジサイのように、人生の盛りを生き、それから枯れて色衰える老年も生き、朽ちるまで生きた人かもしれない。
 誰を思い浮かべるかは、その人の体験によって違ってくるだろう。そういう他人の想像を想像のままにしておいて、古根はただ、見たもの(見るもの)をすべてを忘れないと書いている。
 「ここ」にも、「不可解」なものが書かれている。「不可解」であることによって、古根がほかの誰でもない、古根自身になっている。

待っている
ここで
ずっと

いくども届けものがあった

ベンチ
過呼吸の女
赤い水たまり

一方通行の電話
なつかしい白骨

 それは、古根が、あるときふと出会ったもののことだろう。それを「届けもの」と呼んで、古根は受け止めている。それが「待っている」ものであったかどうかは、わからない。しかし、忘れることができず、つまり思い出しているのは、それはそれで「不可解」な「一期一会」のようなものだからだろう。
 そういうものを、古根は切って捨てない。それが「自分」だと思っている。
 だから、詩は、こうつづいていく。

躰のいろんなところが反応した

絡んだり
もつれたり
溢れたり

送りかえせない
ほどけない

時間がつもって
毀れそう

待っている

ここで
ずっと

 「躰のいろんなところが反応した」という一行は、なんと美しいのだろう。「一期一会」の瞬間、「気持ち」がではなく、「どこ」とは具体的に名づけることのできない「躰のいろんなところ」が「反応した」。肉体の「いろんなところ」はそれぞれに名前がついているが、切り離せない。その「切り離せない」ものが、切り離せないまま反応して動く。すると、どうなるか。

絡んだり
もつれたり
溢れたり

 さまざまな動詞になって、「肉体」そのものが動く。それは「ほどけない」。簡単に整理し、要約し、語ることはできない。
 そういうものが重なって「時間」になる。古根は「時間がつもって」と書いているが、積もったもの(重なったもの)が「時間」であり、それはそのまま古根の「肉体」だろう。(古根は「躰」という漢字をつかっているのだが、そこに、私と古根の大きな違いがあるのだが、私は私のことばでしか書けないので「躰」を「肉体」と書いている。いつもつかっていることばで書いている。)
 そして、「時間」がつもっていくとき、「毀れそう」になるのは何だろうか。「時間」を「肉体」の比喩(言い換え)だと考えれば「肉体」だが、積もった「時間」そのものが「毀れる」ということもあるだろう。そして、その「毀れる」とはどういうことなのか。
 前の連に、こうあった。

ベンチ
過呼吸の女
赤い水たまり

一方通行の電話
なつかしい白骨

 ばらばらになっている。脈絡がない。だが、そこには見えない脈絡がある。そういう「毀れ方」がある。それは「論理的」な脈絡をつけることができないけれど、意識できない「脈絡」でつながっている。「論理的」に整理できないけれど、そこに「ある」。その「ある」ものと同じようにして、古根が「ある」。生きている。
 それは「待つ」ことなのだ。
 強引にことばを動かして「結論」(脈絡)を作り出してしまうことではない。ばらばらのものを、ばらばらのまま受け入れ、「閉じこめて」、それを「開いて」解き放ってくれるものを「待つ」。
 それは古根以外の人(新しい一期一会)かもしれないし、古根自身かもしれない。古根の肉体の「いろんなことろ」が「反応」しながら、自分の力で「ほどいて」いくかもしれない。
 「ここ」とは、どこか。古根の「肉体」である。「肉体」が存在するところが、いつでも「ここ」なのだ。 

 


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Estoy loco por espana(番外篇148)Joaquín Llorens

2022-03-06 09:27:58 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns
Técnica hierro

Belleza asimétrica.
Ritmo creado por la asimetría.
La asimetría tiene un movimiento que libera al mundo.
Un ritmo tranquilo que se extiende poco a poco y para siempre.

Desde este ángulo, la obra parece retorcer y conectar el espacio, como el cuadro dibujado de Escher.
No es que la escultura se retuerza, sino que el espacio se retuerce.
O quizás debería llamarla rueda de Mobius.
Un círculo de Mobius abierto compuesto por líneas rectas.

非対称の美しさ。
非対称がつくりだすリズム。
非対称には、世界を解放する動きがある。
少しずつ、どこまでも広がっていく静かなリズム。

この角度から見ると、エッシャーのだましの絵のように、作品が空間をねじらせつなげているように見える。
彫刻がねじれるのではなく、空間がねじれるように。
あるいはメビウスの輪と言えばいいのか。
直線で構成された、開かれたメビウスの輪。

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古根真知子『皿に盛る』

2022-03-05 10:50:11 | 詩集

古根真知子『皿に盛る』(私家版、2022年03月01日発行)

 古根真知子『皿に盛る』は簡潔で美しい詩集だ。
 「風」。

47ページまで戻る

「白い綿くずはひつじ」
と書いてある5行目まで
戻る

1ページ1ページめくりながら
戻る

ひつじは
いつだって殺される

ページをめくる
時間をめくる

吹きいそぐ風が
5ページも一気にめくって

本が
落ちた

ひつじは
いつだって殺される

 「47ページまで戻る」と突然始まり、「ひつじは/いつだって殺される」と突然終わる。本のタイトルも、本の内容も、わからない。本のなかではひつじが殺される、のかもしれない。
 わかるのは、ひつじのことを思うとき、「白い綿くずはひつじ」ということばがあったということを思い出し、そのことばを探しているということだけだ。それは57ページに書いてある。それを確かめた。
 しかし、それを「過去形」ではなく、現在形で書いている。探しながら、戻る。この「戻る」は「逆向きに動く」ということである。しかし、単に「逆向きに動く」のではなく、そのとき、そのページを「読み進んだ」ということを思い出しながら動いている。
 古根の書いている「戻る」にはふたつの方向が組み合わさっている。47ページと、ひつじが殺される何ページかわからないところを、意識は何度も往復している。
 その往復を象徴するように(あるいは証明するように)「ひつじは/いつだって殺される」ということばがくりかえされる。反復させられる。
 この「反復」を古根は「時間をめくる」とも言い換えている。
 「時間をめくる」は、それだけではなかなかつかみにくいイメージである。しかし、その直前に「ページをめくる」がある。ここには書かれていないが、「ページをめくる」と「時間をめくる」のあいだには、無意識の「ように」がある。ページをめくる「ように」時間をめくる。
 そして、そのとき「時間」は、物理的な時間(時計の時間)のように規則正しくはない。「1ページ1ページめくりながら」はあるときは「5ページも一気にめくって」しまう。何が書いてあるか、わかる部分(ここには「白い綿くずはひつじ」ということばは書いてないとわかる部分)は、一気に読みとばす。
 ていねいでありながら、ていねいでもない。
 この緩急がそのまま書かれている。
 このリズムは、とてもいい。
 古根の読んでいる本が何かわからないが、私もそういう読み方をしたことがある、ということをはっきりと思い出すことができる。何かを求めて「くりかえす」。「戻る」と同時に「進む」。「戻る」のは、さらに強く前へ「進む」ためなのだ。何かを確認すれば、何かがより明確になる。
 ここには、そういう「時間」が書かれている。
 タイトルが「風」なのもいいなあ。

 古根は、何かを「くりかえす」ことで、その「くりかえし」のなかにある、ことばにならないものを浮かびあがらせようとしている。「秋空」からもそういう「哲学」が感じられる。

カラスが
3回ないた

透きとおった耳が
きいた

名前のわからない樹の
数えきれない枝の
どこかにとまって

カラスが
3回ないた

数えきれない人たちの
だれかが

透きとおった耳で
3回
きいた

カラスも
私も
だれかも

3回
きいた

 同じことばがくりかえされる。しかし、それは表面的に「同じことば」ではあっても、何かしら「意味/ニュアンス」が違う。この違いをことばにすることはむずかしい。だから、古根はことばにはしていない。ことばにできないことは、ことばにしないままにしておく。そのことばにできないものを、ことばの「くりかえし」のなかにとじこめて、結晶させる。
 それは「見えない」。古根のことばでいえば「透きとおって」いる。そした「名前」がまだない。あるのかもしれないが「わからない」。
 古根は、「わからない」ことを「わからない」まま書くことを知っている。それが何か、それが誰か「わからない」けれど、それが「ある」ということは、わかる。「わかっている」カラス、わかっている「3回ないた」のあいだに、その「わからない」が「ある」。
 「音」も引用する。

窓をあけると

雨の音が
はいってきた

地上におちた
ひとつぶひとつぶの

無数の
透明なつぶの

雨の音

耳おくには
すでに
音が
ひそんでいて

あおいトタン屋根
花がらの傘
あかい長靴
水たまり

ながれる音
うつ音
はねる音

雨の音

低く
弱く

無数の
透明なつぶ

雨の

ふる音

 ここでもいくつかのことばがくりかえされる。
 そのこととは別に、ここには大事なことが書かれている。「音」は古根の「肉体」の外にある。雨粒が何かにぶつかって「音」をたてる。それは「ながれる音」にもかわっていく。「音」はここでは「低く/弱く」と書かれているが、ほかの音もたてるだろう。しかし、それは古根の「外」にだけあるのではない。

耳おくには
すでに
音が
ひそんでいて

 「耳」(肉体)の「おく」に、「すでに」「ひそんで」いる。すでに「ある」。「肉体」の奥に「ある」ものを、「肉体」になっているものを古根は聞くのである。雨の音が、古根の「肉体」になってしまって、「肉体」の奥にあるものを刺戟し、目覚めさせるのである。
 ふってきた「雨の音」によって、古根の「肉体のなかの音」が目覚め、動き出す。そして、ことばになる。ここにも「くりかえし」がある。反復なのだけれど、単なる反復ではない。
 戻っていって、さらに前へ進む。
 この動きが「詩」なのだ。

 「雨の音」がそうであるように、「ひつじ」も「カラス」も古根ではない。古根の「肉体」の外にある、個別のもの。しかし、それが古根の「肉体」になってしまっている「記憶」のようなものを刺戟し、古根を揺り動かす。どこへ動いていくのか。その動きがどれくらいの「大きさ(あるいは小ささ)」なのかわからない。もしかすると、ささいなことかもしれないし、とんでもないおときなことにつながるのかもしれない。それは動いてみないとわからない。
 答えをもとめず、ただ、その「動き」を壊さないように、大事に、ことばにしている。 とてもいい詩集である。
 詩集の奥付には、発行所(古根の住所?)も記載されていない。表紙デザインの担当者、印刷所、製本所の名前は書かれているが、ほかの「情報」はない。いったい何人の手にこの詩集が届くのかわからないが、多くの人に読んでもらいたい。と、書きながら、私は郵便で受け取ったこの詩集の著者、古根の住所も、すでに知らない。封筒を開いた後、封筒を捨ててしまった。

 

 

 

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ことばに、何ができるか。

2022-03-04 13:13:30 | 考える日記
ロシアがウクライナの原発を攻撃した、というニュースがある。
原子力発電の危うさ。
プーチンは「核は使用していない」という詭弁をつかうだろうか。
妥協点をみつけることが、むずかしくなるばかり。
一気に核戦争に突入しそうな不安。

その一方。
↓↓↓↓
【お知らせ】ヨーロッパ諸国宛てEMS・航空小包の引受一時停止、ラオス宛て航空通常郵便物の引受再開について  3/1更新
2022年3月2日(水)から、ヨーロッパ諸国等宛てのEMS及び航空小包郵便物について、航空会社による減便及び搬入制限を受け、輸送力が回復するまで引受けを一時停止します。(国際郵便のホームページから)
↑↑↑↑
こういう小さなニュースがある。そのことを気にするひとは少ないかもしれない。
でも、私は気になる。
こういうあまり気にならないところから、じわじわと生活がかわっていく、というのが戦争なのだ。
爆弾が突然落ちてくるわけではない。
ということは。
戦争を縮小するには、こういう「小さなこと」を完全にもとにもどす工夫からはじめないといけないということだ。
航空便の減少させないためにはどうするか。
民間機の飛行の安全を各国が保障する。
「制空権」は戦争の重要なポイントだけれど、重要なポイントだからこそ、それをどこかの国が「握ってはならない」という具合に政治が動いていかないといけない。
ことばは無力という。たしかに、銃の前では無力である。逃げ出すしかない。
けれど、ことばがなければ、逃げるということも考えることができない。
考えるためには、ことばが必要だ。
ことばがなければ何もできない。
その、人間の「原点」へどうやって引き返すか。あるいは、その「原点」をどうやって守り通すか。
そのことが大事だ。
インターネットは、戦争が起きても「通信(情報交換)」ができるようにするために生まれたという。
戦争を引き起こさないために、いま、どんなふうな利用ができるか。
私に、ロシアの友人(FB)はいたか、ウクライナの友人はいたか。
どちらかを排除するのではなく、どちらともつながりながら、どんなことばを動かすことができるか。
そのとき、私のことばは、どんなふうに変わっていけるか。
私の「基準」はひとつ。
「権力」には与しない、ということ。
連携するならば「権力」ではないものとの連携になるが、そのときでも、その「非権力(反権力)」が「反権力(非権力)」という別の権力にならないように向き合いたい。
いま、ほんとうに、私自身のことばが問われている。
何を語ることができるか。
わからない。
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Estoy loco por espana(番外篇147)Jesus Coyto Pablo

2022-03-04 12:11:14 | estoy loco por espana

Jesus Coyto Pablo"Santoral" 100x81 Mixta 1998

¿Estoy viendo todos los colores aquí?
¿O estoy tratando de averiguar cuáles son mis colores favoritos entre los colores de aquí?
Es una pregunta que también me hago sobre las formas y las letras.
Tengo que hacerme la misma pregunta sobre el tacto del pincel y el movimiento de las pinceladas.
¿Qué revela y oculta Jesús al pintar?
La expresión siempre revela y oculta al mismo tiempo.
Cuando miro el arte, éste me mira a mí. Creo que el arte me permite ver lo que no soy consciente.

Me gustan las obras de arte que ponen de manifiesto esta ansiedad por ser visto.
El trabajo de Jesus es ese tipo de trabajo.

私は、ここにある色のすべてを見ているのか。
あるいは、ここにある色のなかから、自分の好きな色を探し出してみているのか。
それは、形や文字についても問い直さなければならない。
筆のタッチ、筆の動きについても、自問しないといけない。
Jesusは描くことで何をあらわし、何を隠すのか。
表現とはいつもあらわすと同時に隠す。
私が芸術を見るとき、芸術は私をみつめている。私が意識できないものを、芸術から見られることだと思う。

私は、その「見られる不安」を引き出してくれる作品が好きです。
彼の作品は、そういう作品です。

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中村美津江「さらさらと」ほか

2022-03-04 11:17:40 | 詩(雑誌・同人誌)

中村美津江「さらさらと」ほか(「Picnic」5、2022年03月01日発行)

 「Picnic」は横書きの俳句誌。私は保守的にできているのか、この横書きの俳句がどうにも「肉体」に入ってこない。頭のなかまでは入ってくるが、そこで動かなくなる。世界は垂直にも水平にも広がっているが、横書きだと「垂直感」が見当たらなくて、途方に暮れるのである。たぶん私は、俳句を「立って」詠むものと感じているのだろう。この「立って」を「歩いて」と言いなおせば芭蕉になる。水平だと、寝たまま(寝たきり)の感じがして、窮屈なのだ。子規になってしまう。こういうことは文学と関係ないかもしれないが、関係があるかもしれない。でも、結論は出さない。そう思ったので書いておくだけである。
 さて。
 中村美津江「さらさらと」。

大頭たとえば雪の太郎次郎

 「雪」「太郎次郎」とつづけば、どうしても三好達治である。私は雪が大好きだから、もう「雪の太郎次郎」だけで満足してしまう。と、書いてしまうと、私が感じたことと、かなり違ってしまう。
 私は、雪が大好きだから、この句を好きになりたい。でも、つまずく。なぜか。
 私はこの句では「たとえば」ということばが印象に残った。一種の「転調」がはじまった、と感じた。「大頭」は「おおあたま」と読むのだと思う。そこにある「た」という音、それが「た」とえばにひきつがれ、「た」ろう、につながる。その変化への「転調」のはじまりとしての「た」とえば。
 そして、私は、この「転調」後の「響き」がとても好きなのである。
 しかし、つまずく。
 理由は簡単。「おおあたま」にある。「た」の音が隠れてしまっている。たぶん「おお」という間延びした響き、それが「あ」と引き継がれ、この三音に子音がないために「た」がつかみきれない。濁音がないのに、「おおあたま」はうるさく聞こえる。「大声」に聞こえてしまう。私の耳には。「坊主頭」(バリカンで刈り上げた頭)につながるような荒い音、乱暴な響きが「大頭」になったら、その対比として、雪の静かさも浮かびあがるだろうなあと思う。しかしそうなると三好達治の「雪」そのものになるから、それを避けたのか。
 よくわからない。

句読点静かにたたむ水仙花

 この句にもつまずいた。好きになりたい。好きといいたい。でも、いえない。
 「句読点」が「大頭」のように、イメージそのものは分かるのに(私がかってに誤読できるのに、という意味である)、音がうるさい。「句点」か「読点」か、どちらかひとつなら印象はもっと強烈になる。「静か」も「たたむ」も実感できる。「句読点」だと、なにか複雑な「折り紙」のような感じがして、水仙のすっきりした印象から離れてしまう。「水仙花」は「すいせんか」と読むのだと思うが、「ん」の音のために「5音」に感じられない。何かひとつ響きが足りない。これは「おおあたま」にも通じる。

すこし眠る未知の世界はカマンベール

 この「カマンベール」は「ん」の音の短さを「べー」という伸ばした音で補っている。だから安定感がある。
 音の感覚というのは、生まれ育った環境(最初に聞いたことばの音)と関係しているだろうから、中村の音を美しいと感じる人もいると思うが、私には、なじめない。「音」があえば、「大好き」といえるようになると思う。

 音がとても気持ちよく響いてくるのは、妹尾凛「Cider」。

麺茹でて途方に暮れる1メートル
なんとなく部分月食ピスタチオ
待つことにパセリの匂い置き忘れ
運慶快慶つゆあけの金平糖
もっとくださいヒエログリフの月
いま生まれ変わるなら三ツ矢サイダー

 濁音、半濁音がことばにリズムを与えている。エッジというか、音が立っている感じがする。中村の「大頭」「句読点」とはずいぶん違うと思う。

 叶裕「玄冬」。

冴ゆる夜のインクに浸すねえさん指

 という、少し目新しい感じの句もあるが「冴ゆる」という音が象徴するように、叶の世界は「古典的」である。

寒灯に大深海魚ひるがえる
台本の同じ場所噛む日向ぼこ
寒相撲張手の音の遠くから

 好き嫌いは別にして、「安定している」という印象がある。それがいいことかどうか、わからない。

冬薔薇の悔しいところを忘れない

 「冴ゆる夜の」もそうだったが、妙に女っぽい。と書くと、いろいろな批判を受けそうだが、受けた印象を隠しておいてもしようがないから書いておく。

 あみこうへい「雨と時計の荒ぶる生殖」は、自由律、わかち書き。

荒ぶる つくりに しやしゃんせ
ゆうくりっどの はての 生殖

 長くなるのではなく、短くなる。不安定感のなかに誘い込もうとしているのか。不安定を突き破る何かが生まれる瞬間に立ち会えるのか。何かを探していることは感じられる。とてもおもしろい世界がはじまるかもしれない。

 鈴木茂雄・野間幸恵「りん句る」。一種の「しり取り」俳句。前の作品のなかにあることば、音、文字を引き継ぎながら展開する「連句」と言えるかも。

さみしさをまてりあるして詰めてある(野間)
三島忌のリアルな腕の形かな(鈴木)
葉脈の矢継ぎばやなるミシシッピ(野間)
夏時間トム・ソーヤの早さかな(鈴木)

 このあたりの緩急自在な展開が楽しい。「夏休み」ではなく「夏時間」がとてもおもしろい。
 一句の独立としては

円錐の表面積に音がない(鈴木)

 がおもしろいと思った。

 


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小松弘愛「竹の落ち葉」

2022-03-03 11:54:23 | 詩(雑誌・同人誌)

小松弘愛「竹の落ち葉」(「兆」193、2022年02月10日発行)

 小松弘愛「竹の落ち葉」を読みながら、きのう読んだ小川三郎「冬」を思い出したのか、きのう小川三郎「冬」を読んだから、きょうは小松弘愛「竹の落ち葉」について書きたいと思ったのか、どちらだろう。
 小松の詩を全行引用する。

里山の裾に
車が捨てられていた
窓ガラスはなくなり
中には竹の落ち葉が積もっていた

わたしは
竹林の中
落ち葉が降り積もった小道に入り
しばらく歩いているうちに

 山道に竹の落ち葉を踏み行けば足の裏より
  鬱のとけゆく

立ち止まり
足元の黄色い落ち葉を一枚拾って
いとおしむように眺めてみる
わたしは竹林の多い村に育ったが
竹の落ち葉に心を重ねるのは初めてである

先ほどは
車の中の竹の落ち葉に
一瞥を与えただけで通りすぎたが
帰りには足を止めてみなくては
あの落ち葉の声を聞いてみなくては

手にしていた黄色い落ち葉を
胸のポケットに入れて歩き始める

 小川は「枯葉」を書いていた。小松は「落ち葉」を書いている。それだけではない。小川の詩に「心」がでてきた。「私の心は/どきどきしていた。」その「どきどき」をどう言いなおせるか。私は考えた。明確な答え(?)は見つからなかった。
 その「心」ということばを、小松は「竹の落ち葉に心を重ねるのは初めてである」という具合につかっているのだが、あ、この「心を重ねる」というのが「どきどき」につながるな、とふっと、思ったのだ。
 「心を重ねる」とき「心」は私の肉体から出ていく。その「私の肉体から出て行く」という感じが「どきどき」なのだ。心臓が飛び出しそうになる、という表現があるが、まさに、それだ。小川の「どきどき」は心臓が飛び出すどきどきではないが(それほど強いとは思わないが)、それに通じるものがある。
 「心」は「私の肉体」のなかにある。しかし、「心」はいつでも「私の肉体」から出て行こうとする。

物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる

 は、和泉式部の歌だが、「心」ということばをつかっているわけではないが、「心/魂/思い」は「我が身」より出て行くものなのだ。そして、そこには何か「あこがれ」のようなものがある。自分が自分ではなくなる。
 それは、不安だけれど、うれしい。
 小川の「どきどき」は、そうい気持ちだな、きっと。
 そして、この「あこがれ」を、小松は、こんなふうに書いている。

あの落ち葉の声を聞いてみなくては

 「声」は「心」である。そして、それは「心の声」なのだけれど、どこか「肉体の声」という感じもする。「心」が重なり、聞こえないはずの「竹の心の声」が聞こえるなら、小松の「肉体」と「竹の肉体」も重なっているはずである。「聞く」というのは、もちろん「心で聞く」という意味になるけれど、私はそれをさらに「耳(肉体の耳)」で聞くと感じてしまうのだ。
 小松の詩を読むと、そこには「肉体」がとても自然な形で書かれている。「歩く」「踏む」。踏むとは「足の裏」と「竹の落ち葉」を重ねることである。「足元の黄色い落ち葉を一枚拾って/いとおしむように眺めてみる」と小松は書く。そのときの「いとおしむ」は「足」にもつながる。乱暴に踏むのではない。「いとおしむ」ように踏むのである。自然に、そうかわるはずである。
 しかし、これは小松からの一方的な動きではない。
 竹の落ち葉の方からも、小松に「重なってきた」のである。それを感じるからこそ、

山道に竹の落ち葉を踏み行けば足の裏より鬱のとけゆく

 という変化が起きる。「鬱」は「心」のことである。「鬱」もとけるが、その「心」そのものがとけるのだ。
 こういうときは「どきどき」とはいわない。むしろ、とても穏やかな感じ。「とげとげ」が消えていく感じだと思うが、そういうことを含めて、「心」が動くとき、それはすべて「どきどき」なのだ。「どきどき」には激しいどきどきもあれば、静かなどきどきもある。静かなどきどきを「どきどき」とはいわないかもしれないが、「どきどき」が静まっていくときの「どきどき」といえるかもしれない。
 小川の詩は具体的には書いていないが、きっと佇んでいる。それに対して小松は「歩き始める」。しかし、このとき「心」はもうどこかにたどりついている。小松と風景は重なっているから、歩いても歩いても、動かない。一方、小川は佇んでいるのだけれど、「心」は歩いている。いや、走り始めているかもしれない。「どきどき」鼓動が音を立てるくらいに。

 小松と小川の詩は、まったく別の存在だけれど、私はそれを重ねて読んでしまうのである。重ねて読んだときに見えてくるものがあり、その重なりのなかに、私自身の肉体をおいてみるのである。枯れ葉/枯れ木を見たことがある。竹林を(そのとき竹の落ち葉もあっただろう)歩いたことがある。その、私の「肉体の記憶」を、おいてみるのである。

 

 

 

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小川三郎「冬」「蝶」「夕方」

2022-03-02 13:57:15 | 詩(雑誌・同人誌)

小川三郎「冬」「蝶」「夕方」(「Down Beat」19、2022年02月14日発行)

 小川三郎「冬」の全行。

冬はどんどん枯れていって
枯葉一枚になってしまった。
今年は春がやってこないで
冬ですべてが
終わってしまった。

山も川も枯れきって
空もすっかり
枯れてしまって
そんな景色の中にいるのに
私の心は
どきどきしていた。

 この詩を読んで、私が思ったことはひとつ。
 最終行「どきどき」をどう言いなおすことができるか。
 私は、朝日カルチャー講座で、受講生と一緒に詩を読んでいる。そのとき、こういう質問をときどきする。
 「どきどき」ということばは、誰でもがつかう。つかったことがないひとは、たぶん、いない。おそらく小学一年生でも「どきどき」を理解できる。
 でも、これを「他のことばで言いなおして」と言ったとき、即座に別のことばで言えるひとはいない。

 いろいろ考える。
 だから、質問も形をかえる。小川は「私の心は/どきどきしていた。」と書いているけれど、「どきどきする」のは何?
 これは架空の質問であって、いま、私の目の前に受講生はいない。
 きっと「心臓」という答えがかえってくる。
 「心臓」と「心」っておなじ? なぜ、「心臓」に「心」があると思う?

 こんなことは、答えられないね。答える必要もないのかもしれない。ときどき、心臓が「どきどき」する。どうしていいか、わからないときだ。自分が自分ではなくなるような感じ。自分がほんとうの自分になる感じ? 誰かに対して「好き(愛してる)」と言うとき、言う前の「どきどき」というのは、次に何がおきるかわからないから。
 この「期待」に似た「どきどき」だろうか。
 あるいは、高いビルの上から地上を見下ろしたとき「どきどき」。これは、告白するときの「どきどき」とは違うねえ。
 小川の書いているのは、どっちの「どきどき」と思う?

 さらに。
 小川は「そんな景色の中にいるのに」と書いている。つまり、この「どきどき」は小川にとっては、ある意味で「予想外」のこと。愛を告白する前に「どきどき」した。ビルの屋上で下を見たら「どきどき」した。これは、ごく自然。
 愛の告白をするのでもないのに「どきどき」した。温かい部屋の中から外を見ていたのに「どきどき」した。これは、少し変。「……のに」というのは、予想とは違うときにつかうことば。
 では、小川は、どんなときなら「どきどき」するのが普通(予想通り)と考えているのだろうか。
 土の中から植物が芽を出してくる。するすると茎が伸びる。葉がひろがり、蕾ができて、花が開こうとしている。どんな花だろう。それを見るときは「どきどき」するかもしれない。
 たぶんね。
 でも、小川は逆。「枯れて」なにもない。いや、「枯れた」ものだけがある。そのとき「どきどき」と感じている。

 これ、思い出せるかなあ? そういう瞬間ってあったかなあ。

 「枯れた」ものだけがある。それは何も「ない」ということ? 動き出すものが何も「ない」。
 そうすると、そこにあるのは、何? 「ない」を認識している意識。でも、小川は、それを「意識」ではなく「心」と呼んで、何もないことを知って、「心」だけがあると感じて「どきどき」したのかもしれない。
 「無」に「どきどき」した。「無」を発見して「どきどき」した。

 と、書いてしまうと、突然、つまらくなる。
 だから、ここまで書いてはいけない。
 いつでも「結論」はつまらない。
 受講生に対して「どきどき」を自分のことばで言いなおして、と意地悪な質問をしているときが、一番楽しい。
 その「楽しさ」のために、詩はある。

 私は、いま書いた「無を発見してどきどきする」という答えを叩き壊すために、もうひとつの詩を、全行引用する。「蝶」。

蝶が花を蹴りあげる。

そして別の花にとまる。

花弁に頬をおしつける。

その様子を
また別の花が見ている。

蝶は花に顔を突っ込み
何もないのかもしれない
と思っている。

その様子を
また別の蝶が見ている。

 この詩では、私は「そして」「その」「また」を別のことばで言いなおせる?と質問したい。
 もう一篇も引用しよう。「夕方」。

夕方
ひとに混じって
家に帰る。

初めて見るものが
ひとつもないという
変のない暮しを望んだ。

夕方は
ぜんぶが黒く
塗りつぶされる。

昨日は
繰り返されることなく
昨日はただ
降り積もっていく。

 三篇つづけて読むと「ない」が共通のことばとして書かれていることに気づく。
 でも、こんな具合に「共通項」を探してしまっては、おもしろくない。
 この詩では、私は、最終連の「ただ」をどう言いなおせる?と受講生に質問したくなる。
 誰もが知っていることば。そして、誰もがつかっていることば。知っていることばなのに、自分のことばでは言いなおせないことばがある。そこに、書いた人がいる。小川がいる。それに出会う楽しさ。

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ウクライナとロシア、どう読むか(2)

2022-03-02 10:53:06 |  自民党改憲草案再読

 ウクライナとロシア、どう読むか(2)

 2022年03月02日の読売新聞(西部版・14版、ただし記事はネットから転写)の1面に、

露パイプライン破産手続き/天然ガス 事業会社が検討/ロイター報道

 という記事がある。

 【ロンドン=池田晋一】ロイター通信は1日、ロシアとドイツをバルト海経由で結ぶ天然ガスパイプライン「ノルトストリーム2」の事業会社が破産手続きの検討に入ったと報じた。パイプラインの建設は2021年に完了したものの、ロシアによるウクライナ東部の親露派支配地域の独立承認を受けてドイツが2月22日に計画凍結を決めたことで、稼働のめどが立たなくなっていた。(略)ルトストリーム2を巡っては、米国が2月23日に事業会社への金融制裁を発表し、英シェルは28日、事業撤退を表明した。

 これに先立ち、03月01日の夕刊では「サハリン2 英社撤退/日本の商社も参画」という見出しで、こう書いている。

 【ロンドン=池田晋一】英石油大手のシェル(旧ロイヤル・ダッチ・シェル)は28日、ロシア極東サハリンの天然ガス事業「サハリン2」から撤退する方針を発表した。ロシアのウクライナ侵攻で事業継続は難しいと判断した。日本の大手商社も参画する大規模プロジェクトで、日本企業側の対応が注目される。

 こういう流れを受けて、03月02日の2面には「日本むずかしい対応」という見出しで、こういうことを書いている。

 サハリン2は、露国営ガス会社ガスプロムが約50%、シェルが約27・5%、三井物産が12・5%、三菱商事が10%をそれぞれ出資している。日本企業の参加は、サハリン2からの液化天然ガス(LNG)調達が、資源の乏しい日本の悲願だったことを示す。(略)
 サハリン2のLNG生産能力は年約1000万トンで、約6割が日本向けだ。計算上はLNG輸入の7%程度を占めることになる。東京電力ホールディングスと中部電力による発電会社JERAや東京ガスなどエネルギー企業が調達している。
 日本の商社が確保する権益分がなくなれば、日本への供給が将来的に不安定になりかねない。三井物産と三菱商事はいずれも「シェルの発表の内容を含めて詳細を分析の上、日本政府及び関係ステークホルダーと今後の対応について検討を進めたい」とコメントした。

 日本は、簡単に「天然ガス事業から撤退」という方針を打ち出せない。日本も天然ガスが不足するのは予測できるのに、日本はヨーロッパへの天然ガス融通を決めている。
 どうして?
 ここから推測できるのは、きのう書いたことのつづきになるが、今回のウクライナ、ロシアの問題は「武力」(ロシアがNATOに恐怖を感じている)だけが原因ではないというこだ。
 ロシアは天然ガスの輸出を通じてヨーロッパと強いつながりを持っている。経済連携がある。金が動いている。「ノルトストリーム2」が稼働し始めれば、さらにこの関係は強くなる。なんといっても天然ガスはエネルギーである。それがないと生活が成り立たない。
 もし、ロシアとヨーロッパの「経済関係」が強くなれば、アメリカはどうなるか。相対的に弱くなる。アメリカの金儲けがうまくいかなくなる。それをなんとしても防ぎたい。ヨーロッパ各国とロシアの関係を断ち切りたい、というのがアメリカの狙いだろう。
 そして、この「狙い」は、メルケルがドイツの首相を辞めたこととも連動しているように思えてならない。論理的なメルケルがドイツ首相でいる限り、メルケルはノルトストリーム2を優先し(国民生活、ヨーロッパの安定を考慮し)、政策を考えるだろう。アメリカの金儲け主義者にとっては、メルケルという「重し」がとれたことが、一つの「転機」なのだ。これで、アメリカ主導で「アメリカ資本主義(アメリカの金儲け優先)」を遂行できる、というわけだ。
 読売新聞は明確には書いていないが、日本の企業(政府)の対応を比較すれば、このあたりの事情がわかる。
 アメリカ追随一方の、安倍傀儡・岸田政権が、なぜ日本の企業に「サハリン2から撤退しろ」と迫れないのか。日本の企業はなぜ「サハリン2から撤退」という方針を、他国の企業に先立って打ち出せなかったのか。逆に、ヨーロッパに天然ガスを融通するという方針を取らざるを得なかったのか。
 アメリカ資本主義は日本の経済(日本とロシアの経済連携)など気にしていないのだ。北方領土問題に知らん顔をしていることを見るだけでも、それがわかる。日本の経済は、もう完全に「落ち目」。そういうところを相手にしていても金儲けはできない。ヨーロッパの市場を守ることが最優先、ということだろう。(日本とロシアとの経済関係は、天然ガス、石油に限定されるとアメリカ資本主義は見ているということである。)
 これは、逆の見方をすれば(繰り返すことになるが)、アメリカが「ヨーロッパではロシアに金儲けをさせない、ヨーロッパとロシアが金儲けで連携することを許さない」ということなのだ。なんとしても、ヨーロッパでの金儲けをしたいということなのだ。
 2面には、こういう「作文」もある。

 原油を生産する「サハリン1」は政府や伊藤忠商事をはじめ日本の関与がさらに強く、今後の対応が注目される。先進7か国(G7)などからの圧力が強まれば、いずれも関係の見直しを迫られる可能性がある。
 
 この「可能性」に気がついたのは誰か。きっと書いた記者ではない。政府関係者の誰かが、記者に、「今後、日本はむずかしい選択を迫られる。困ったなあ」ともらしたのである。それで記事を書いたのだ。いまごろこんなことを書くのなら、ウクライナ危機が迫った段階で、日本とロシアの「経済関係」に踏み込んだ「予測」を書いておくべきなのだ。(書いたのかもしれないが、私は読んでいない。)
 もし、そういうことにほんとうに気づいているならば、日本の企業と日本のエネルギーに直結したきのうのニュース、「サハリン2 英社撤退/日本の商社も参画」こそ1面で報じなければならない。そういうことに、ぜんぜん気づかずに、誰かが選んだニュースをそのまま垂れ流している。
 ウクライナとロシアの問題を、日本から遠く離れた「領土問題(安全保障問題)」ととらえ、「経済」(とくに日本の経済)を考慮できないところに、重大な「視点の欠如」がある。
 世界はアメリカの「資本主義」に完全に支配されており、そこから逃れられなくなっている。「アメリカ資本主義」は、人間の思考にまでマヒさせている。

 いま問題になっているのは、巨大な金が動くエネルギー産業だが、これから「農業(食糧)」の問題がじわじわとクローズアップされてくるだろう。ウクライナはヨーロッパの穀倉地帯である。小麦をはじめ、シリアル関係の穀物をウクライナから輸入している国は多いはずだ。(私は、スペインの友人と話したが、友人は即座に「スペインはウクライナからシリアルを輸入している」と言った。)食糧の基本である穀物が不足し、値上がりすれば、一般市民の受ける影響は大きい。これもアメリカの農業にとっては、ヨーロッパへの輸出の機会が増える。金儲けにつながるということかもしれない。
 ロシアの「ウクライナ侵攻」に対して、キューバ、ベネズエラは「支持」しているが、これはアメリカの経済政策に反対という意味合いがあるかもしれない。キューバ、ベネズエラはアメリカの経済制裁のために困窮している。ベネズエラは石油大国である。ほんらいなら、ゆうゆうとした経済が可能なはずなのに困窮している。アメリカの指示に従わない国は貧乏にさせてしまう。金儲けはアメリカが優先されるべきだという思想が、アメリカの金持ちの間で横行しているのだろう。
 私はロシアの武力行使、ウクライナ侵攻(戦争)を支持しないが、同時に、アメリカの資本主義のあり方も支持しない。金持ちだけが金儲けをし、幸せになればいい。金儲けをできないのは「自己責任」だという風潮は、日本では正規社員を減らし、非正規社員を増やすという形で具体化されたが、このシステムが形を変えながら世界を支配していく。私には、そういうふうに見えて仕方がない。

 

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ウクライナとロシア、どう読むか

2022-03-01 12:04:32 |  自民党改憲草案再読

 2022年03月01日の読売新聞(西部版・14版、ただし記事はネットから転写)が4面に「中露北の挑発 政府警戒/ミサイル・軍事演習 ウクライナ混乱乗じ」という見出しで日本周辺の様子を書いている。
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①北朝鮮が27日に日本海に弾道ミサイルを発射した。
②中国軍は、22日に東シナ海で新型揚陸艇で上陸訓練実施を公表した。(略)露軍が(ウクライナ)侵攻を始めた24日は戦闘機を台湾の防空識別圏に進入させた。
③ロシアは、(略)1月には千島列島や、ロシアが不法占拠する北方領土などでの射撃訓練を実施。2月12日には、露艦隊が米国攻撃型原潜の「ロシア領海侵入」を発見したと発表したが、米側は否定した。
↑↑↑↑↑
 これだけを読むと、たしかに「ウクライナの混乱に乗じ」、中国、ロシア、北朝鮮が極東で何らかの軍事行動を起こしそうな気配が感じられるが、こういうことはウクライナ問題以前からつづいている。ロシアの行動は、1月のものである。
 なぜ、こんな「まとめ作文」を、いま、読売新聞は書いているのか。
 最後の方を読むと、わかる。
 「米、タイ両軍主催で(3月)18日からタイなどで行われているアジア最大規模の多国間軍事演習「コブラ・ゴールド」には、日本の自衛隊など約3500人が参加。台湾有事などを念頭に水陸両用の装甲車を使った実戦訓練も実施する。米軍の存在感を維持するのが狙いだ。」と書いたあとに、こうつづけている。
↓↓↓↓↓
現時点で米国がウクライナ防衛のための軍事介入を見送っているため、自民党からは「台湾有事の際に米軍は行動するのか」(中堅)と懸念する声も出ている。台湾への武器供与などを定める米国の「台湾関係法」は防衛義務は規定していないためだ。安倍元首相は27日のテレビ番組で「米国は台湾に曖昧戦略を取っている。米国は曖昧さを捨て去るべきだ」と述べ、台湾防衛を明確にすべきだとの認識を示した。
↑↑↑↑↑
 「台湾防衛」は聞こえはいいが、はっきり言って「内政干渉」だろう。「台湾有事」といいなおし、日本が中国からの攻撃にさらされているとあおるのは、おかしいだろう。台湾は中国の一部であるというのが、日本の公式見解のはずだ。
 安倍の狙いは「台湾防衛」ではなく、「中国攻撃(中国との戦争)」であることは明白である。「台湾防衛」を「台湾有事=日本の有事」と言い直し、中国侵攻を考えていることは明らかである。安倍は、ただただ戦争がしたい。そのだけの人間である。そして、これはあとで書くことと関係するが、戦争をする、アメリカから軍備を買うということをつづけるかぎり、安倍はアメリカの軍需産業から大事にされる(見返りに経済援助がある、金儲けができる)ということだ。
 このことに関連するが、外電面に、上海コミュニケ採択50年にあたり、中国の王外相がビデオ演説した記事がある。
 王は、こう語っている。
↓↓↓↓↓
 王氏は、近年の米中対立について、「コミュニケが確立した原則、精神が適切に守られていないためだ」と主張し、「米国は政治約束を守り、『台湾で中国を抑える』たくらみや中国内政に干渉するいかなる言行もやめるべきだ」と求めた。(略)
 米国はコミュニケで、台湾について、「台湾海峡の両岸のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部であると主張していることを認識する」と言及したが、中国政府が主張する「一つの中国」原則を受け入れてはいない。
↑↑↑↑↑
 アメリカは、台湾が中国の一部であるという主張を認識しているが、原則として「一つの中国」を認めていない。
 安倍は、このアメリカの姿勢に従っている。そして、それを利用しようとしている。台湾は「一つの中国」に含まれない。台湾は「中国」ではなく、むしろ、アメリカ、日本の「同盟国」である、という認識である。そして、そこから「同盟国の自由と権利を守れ」という主張し、その主張を戦争へとつなげていくのである。「台湾の自由と権利を守るための戦争」という「名目」を利用したいのである。
 安倍はすでに首相をやめてしまった人間である。その安倍の主張を、まるで「結論」のように展開する読売新聞は、やはり安倍の考えのように日本は「台湾の自由と権利を守る」ために、アメリカと協力して中国と戦争すべきだと考えているのだろう。

 でも、その戦争で何が起きる? なぜ、戦争をしなければならない? なぜ、共存しようとしない? なぜアメリカはロシアや中国と共存しようとはしないのか。
 理由は簡単だ。アメリカは、アメリカ以外の国が金儲けをするのが許せないのだ。
 ロシア、ウクライナの問題にもどって考えてみればわかる。ロシア、ウクライナ問題で、いま影響が出ているのはロシアの天然ガスの供給だろう。ロシアからのガス供給がとまれば、ヨーロッパの多くの国は困る。日本が、天然ガスの融通をするのも、そのためである。
 これは、裏を返せば、ロシアは天然ガスを輸出することで利益を上げている。それがアメリカには許せない、ということなのだ。政治体制が違う国が経済的利益を上げる(金儲けをする)ということが、アメリカの政権に影響を与えているアメリカ人には許せないのだ。さらに、その経済関係を強めることで、ロシアがヨーロッパ諸国と関係を深め、さらに経済関係を拡大する(金儲けをする)ということが、アメリカの一部の金持ちには赦しがたいことなのだ。私は、アメリカ人の金持ちのことを知らないから、名前を特定できないが、そういうひとがアメリカの政治を支配している。中国についても同じように考えているだろう。経済力をつけ、いろいろな商品を世界に輸出し、金儲けをしている。中国、ロシアが金儲けをするということは、それだけアメリカの金儲けの機会が減る(金が儲からない)ということである。これを、なんとかしたい。
 さらに。アメリカは、世界各国を舞台に(つまり、アメリカ本土を舞台にしてではなく)戦争を展開し続けている。そして敗北しつづけているが、戦争がある限り軍需産業は儲かる。さらに日本のような、アメリカ以外の国に武器を輸出すればいっそう金儲けができる。
 NATOに対してもおなじ。NATOはアメリカ抜きの軍事同盟ではない。アメリカが含まれている。よくわからないまま推測で書くのだが、そのNATOの「武器」は、NATO各国の「自前」のものだけではなく、どうしたってアメリカから買うものもあるだろう。高度な軍備になればなるほどアメリカから調達したものになるだろう。軍の行動には「一体感」が必要である。その一体感は「軍備」の一体感につながるはずである。ウクライナがNATOに加盟すれば(加盟させることができれば)、アメリカの軍需産業は潤うのである。もし、ウクライナがロシアの支配下に入ってしまえば、武器はロシア産のものになる。ロシアの軍需産業が儲かる。これは、アメリカにしては、まったくおもしろくない。そういうことだろうと、私は想像している。
 世界は、アメリカの金儲け資本主義のために、破壊されるのだ。「共存」の道が閉ざされようとしているのだ。
 北朝鮮がやっていることも、このアメリカの金儲け資本主義と関係していると思う。アメリカからの援助がない。世界のリーダーを自任している(?)アメリカが、政治体制が違うという理由で北朝鮮を排除しようとしている。排除されたくない。北朝鮮は存在している、ということをアピールするために、軍備を増強させている。この軍備増強を排除するには、北朝鮮を上回る軍備をみせつけても効果がない。これは、これまでの歴史が証明している。北朝鮮がアメリカの軍事力に恐れをなして、軍備を増強しても意味がない、だから軍備を縮小するという動きは一度として取っていない。
 日本からは状況がわかりにくいが、アメリカのアメリカ以外の国が金儲けをするのは許せないという姿勢は、中南米に眼を向けても確認できるだろう。キューバやベネズエラに対するアメリカの経済制裁(経済対策とは言えないだろう)がキューバ国民やベネズエラ国民を苦しめている。

 「戦争」があると、どうしても武力対立、武力支配と、その支配から逃れる難民の問題だけが注視されてしまうが、武力戦争の背後にある「経済戦争」(強欲戦争)にも目を向けないといけない。
 私は年金生活者だが、年金生活者になってわかることは、金は儲けるものではなく、金はいかにつかわないかということが重要になってくる。何に金を使わないか、という問題で言いなおせば、軍備に金を使わない工夫をつづければ、人間の生活はもっと豊かになる。「利潤の再配分」という視点から、世界(経済)を見直さない限り、戦争は必ず起きる。もし、ロシアがウクライナから撤退し、かわりにNATOが支配するという形で戦争が終われば、それは次には、ロシアの内部への「侵攻」(ロシアからの隣接地域の独立)という形に発展するだろうし、台湾問題(台湾有事)にも。直結するだろう。中国が台湾に侵攻する前に、台湾を守るという名目がアメリカが台湾に基地をつくるという形で戦争がはじまるだろう。台湾に設置するのは武器の行使ではないから戦争ではないとアメリカは言うだろう。日本も、それに同調するだろう。しかし、中国から見れば、それはアメリカ軍の台湾侵攻だろう。
 いま必要なのは、国境(領土)だとか愛国心ではなく、国境という概念を捨てること、愛国心を捨てることだろうと思う。金の力で人間を支配しようとする制度とどう向き合い、人間同士が連携する方法を探すことだと思う。

 

 

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