詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

季村敏夫「坂 鈴木創士へ」

2022-03-27 11:53:22 | 詩(雑誌・同人誌)

季村敏夫「坂 鈴木創士へ」(「ぶーわー」47、2022年03月15日発行)

 季村敏夫「坂 鈴木創士へ」は追悼詩なのだろう。私は鈴木創士を知らない。詩の後半に出てくるエミルも知らない。だから、これから書くことは半分は(半分以上は)いいかげんなことなのだが。
 でも、書いておきたい。

骨壺が片づけられる
のこされたものを
ゆするものがある

思い出せないから
ざわめきをしずめ
破片の月をつき放つ

 焼骨後、散骨したのだろう。「のこされたものを/ゆする」とは、最後の骨(骨の破片の灰)まできちんと撒く、ということだろう。
 こういうとき(特に散骨とはかぎらず、人が死んだとき)、生き残った人は何を思うだろうか。思い出すだろうか。

思い出せないから

 この一行が、とても重い。「思い出せない」ことがあるのか、それともそれは季村が知らないけれど、他の人が知っていることなのか。
 誰かが、鈴木の思い出を語る。しかし、その思い出に重なるものが季村にはない。思い出せないけれど、なぜか、こころがさわぐ。
 そういう体験が、私にもある。
 父が死んだ。それから何日してだろうか。姉が「死ぬ前、家の前の道から、碁石が峰をじっと見ていた」と言った。碁石が峰というのは、私のふるさとでいちばん高い山の名前である。私は、そのあと父が立っていた道に立って碁石が峰を見た。それは、始めてみる碁石が峰だった。碁石が峰はいつでも見ていた。でも、その日、父が見ることで隠していた碁石が峰が、父の視線がなくなったために、ふいに新しい姿として目の前に見えた。
 人が存在するとき、その人が隠しているものがある。世界は私が見ている通りではない。どこかに、それぞれの人間が隠している世界がある。
 あのとき、私のこころは、そんなふうに「ざわめいた」。
 それを「しずめる」のには、かなり時間がかかった。
 そして、その「しずめる」というのは、何というか、いま父が隠していた碁石が峰が見えたという印象が消え、いつも見ている(見ていた)碁石が峰があらわれるのを待つということだった。
 私の思ったことは、錯覚である。世界は何一つ変わっていない。新しいものなど何もない。しかし、一瞬、錯覚したことを、私は忘れることができない。

破片の月をつき放つ

 最後の一片は月の形をしていたのだろう。その月は、満月ではなく、きっと三日月よりももっと薄い月。それは、きっといつでも思い出すことができる。だが、それが鈴木のすべてではない。すべてではないけれど、すべてを象徴するものとして思い出す。何かを「象徴」として思い出すとき、悲しいけれど、実は「思い出せない」ものもあるのである。「思い出せないもの」があるから、それを含めて「象徴」にしてしまう。そうすることで、自分のこころをしずめる。
 詩の後半は、この詩のクライマックスというべきことばなのだが、私は、それについて感想を書けない。鈴木についてもエミルについても何も知らないからだ。ただ、こういうことは、できる。
 あ、季村は、季村が隠していたものをいま、無防備にさらけだしている。正直にさらけだしている。そういう正直は、私にはわかるはずがない。一瞬、何かが見え、すぐに消えていく。そういうものが、ここにある。それは、私の体験で言えば、道に立って父の見た碁石が峰を見たと感じた錯覚に似ている。

真昼の窓
灰も目覚めているのか
生きものとして
つき放たれ
六月の空を滑り落ちる
エミル きみのシャツから
月のマークが剥がれ
薄い翅となって
後ろを向いてひるがえる
ばんざい ばんばんざい
東亜 トア ロード
誰も彼も
似たように合一する蒼天
旭日旗は透明
すりきれた翅は後退する

 

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