詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和田まさ子「新井豊美さんの尾道」ほか

2022-03-16 11:36:05 | 詩(雑誌・同人誌)

和田まさ子「新井豊美さんの尾道」ほか(「somethin」34、2022年02月28日発行)

 和田まさ子の詩の激変に、私はなんとなく新井豊美を重ねあわせていた。和田まさ子の詩で、私がいちばん好きなのは、「現代詩手帖」の投稿欄で読んだ「壺」が出てくる詩である。そのあとの「金魚」だったか何かが出てくる詩もとても好きだ。この2篇で、和田は「現代詩手帖賞」を取るだろうと思った。和田は受賞せずに、その後、独自の詩の展開をつづけている。
 新井豊美の詩集で私が好きなのは『いすろまにあ』である。新井は、この詩集のあと、少しずつ変化していって、評論を書くようになるころから、私はどうにも親近感を感じなくなった。「肉体」が見えなくなった。「頭」が見え始めた、という印象に変わった。
 和田も、同じなのである。最初は鮮明だった「肉体」がだんだん「整理された概念」にかわり、「頭」だけが見えるようになった。
 そんなことを、ぼんやり思っていたら。
 「新井豊美さんの尾道」というエッセイを、和田が書いていた。それで、あ、そうだった、新井は広島(尾道)の出身だったか、とまた思い出した。同時に、和田は新井をめざしていたのか、と思った。

 新井のことを、和田は、こう書いている。

 新井豊美さんは独自の詩境を拓かれ、詩集も評論集も明晰な精神をもって書かれた。「女性詩」から「女性性の詩」への変遷を意義づけ、『女性詩史再考』もまとめられた。論理的でいまも際立つ仕事だ。

 これは和田独自の評価というよりは、現代詩を書いている人たちの間で定着している評価かもしれない。「明晰な精神」「論理的」。
 でも。
 私は、それが嫌いなのだ。新井に違和感を覚え始めたのは、それが「明晰な精神」「論理的」なことばだからである。別のことばで言えば、完結している。さらに別なことばで言えば、批判が通じない(批判を拒否したことば)で書かれているということ。どんな批判をしても、新井はそれに反論する準備ができている。反論できることばを完璧に準備した上で、「枠」をつくって「女性詩」を語っているように感じられたのだ。
 それは、詩についても同じ。
 どんな批判をしても、「そういうことは承知している」ということばしかかえってこないだろう。対話することで、書かれた詩から出発し、ぜんぜん関係がないところへ行ってしまう、ということがないように感じられる。破れ目がない。「完結している」というのは、そういうことである。
 和田は、また、新井の「尾道」という文章を抜粋して、感想を書いている。この文章が、私にはよく分からない。和田は、まず、次の部分を引用する。

しかしガードの向こう側には駅があり、大きな建物があり港があり、大きな建物が建って映画館もあるにぎやかな街で、海沿いの狭い地形の上を商店街が長く伸びて店が連なり、そこは人と物と音と色彩にあふれて一年中祭りのようににぎわうところなのだ。

 尾道の描写である。ガードについて、補足しながら、和田は、こう書いている。

 ガードの向こう側とあるのは、新井さんの家は山陽本線のガードより山寄りで、幼い新井さんにとっては数百メートルのガードまでが「地の果てのように遠く、たしかにそれは黒く煤けた恐ろしい門に似て、機関車が轟音を立てて上を通過するのを見てからは、いっそうおそろしい場所になった」と書いている。

 私は、とてもとまどった。新井の本をもっていないので確かめようもないのだが、新井は和田が書いたような順序で文章を書いているのか。簡単に言うと、

[A]
①しかしガードの向こう側には駅があり、大きな建物があり港があり、大きな建物が建って映画館もあるにぎやかな街で、海沿いの狭い地形の上を商店街が長く伸びて店が連なり、そこは人と物と音と色彩にあふれて一年中祭りのようににぎわうところなのだ。
②(数百メートルのガードまでが)地の果てのように遠く、たしかにそれは黒く煤けた恐ろしい門に似て、機関車が轟音を立てて上を通過するのを見てからは、いっそうおそろしい場所になった。

 と書いているのか。そうであるなら、とてもおもしろいが、私は

[B]
②(数百メートルのガードまでが)地の果てのように遠く、たしかにそれは黒く煤けた恐ろしい門に似て、機関車が轟音を立てて上を通過するのを見てからは、いっそうおそろしい場所になった。
①しかしガードの向こう側には駅があり、大きな建物があり港があり、大きな建物が建って映画館もあるにぎやかな街で、海沿いの狭い地形の上を商店街が長く伸びて店が連なり、そこは人と物と音と色彩にあふれて一年中祭りのようににぎわうところなのだ。

 という順序で書かれているようにしか思えない。そうしないと「しかし」ということばが、機能しない。無意味になる。和田が引用しているとおりの文章ならば、


[C]
①ガードの向こう側には駅があり、大きな建物があり港があり、大きな建物が建って映画館もあるにぎやかな街で、海沿いの狭い地形の上を商店街が長く伸びて店が連なり、そこは人と物と音と色彩にあふれて一年中祭りのようににぎわうところなのだ。
②しかし、(数百メートルのガードまでが)地の果てのように遠く、たしかにそれは黒く煤けた恐ろしい門に似て、機関車が轟音を立てて上を通過するのを見てからは、いっそうおそろしい場所になった。

 と、「しかし」の位置が違ってくるだろう。「論理的」に書こうとすれば、どうしても、そうなる。
 そして、ほんとうに「しかし」を省略し[A]のようにかいているのだとしたら、ここには「論理性」の大きな「欺瞞」のようなものがある「おそろしい場所になった」の「なった」の理由も書かないと、「論理」が通じない。
 言いなおそう。
 [A]のように、ガードの向こうには現代的で(?)魅力的な街がある。「祭り」のような街である。でも、それは「おそろしい」、というのであれば、そこには「現代的に発展した街」への「恐れ」が直感的に、「真実」として書かれていることにある。現代を告発する文章にもなる、先見性のある「感性」として読み直すことができる。「しかし」の意味も「逆接」よりも「強調」の意味合いが強くなるだろうし、「なった」という変化の原因も直感にとどまる。「論理」というよりも「非論理」になる。
 私が「おもしろい」と書いたのは、そういう理由である。
 しかし、和田が評価しているように新井の文章を「論理的」に読むためには(論理的に展開するためには)、[C]のように「しかし」の位置を変えないといけない。繰り返しになるが「なった」の理由も書かないと不親切である。「論理的」と評価されているはずの新井が、どうして不自然な「しかし」のつかい方をしたのか。「なった」の原因、理由を書かないのはなぜか(和田が省略しているだけなのか)、その疑問が残る。
 もし、新井の文章が、和田が引用している[A]ではなく、私が想像したように[B]の順序ならば、ここでは和田が新井の文章を意図的に操作していることになる。何のために? おそらく「論理」を超えた魅力をつたえるために。現代的な街は、それはそれとして魅力的だが、何かしら「おそろしいもの」をもっていると新井が直感していたことを暗示するからだ。あるいは、錯覚させたかった。(新井の評価を変えたくなかった。)
 
 和田は、わざと順序をかえて引用しているように感じられる。現実は「論理的」なものだけではとらえきれない。けれど、そう言ってしまうと、新井を「論理的」と評価したことが、なんとういか、半分否定されてしまう。
 そのところを、あいまいにしておきたい。
 [B]の「構成」では、まるで、経済発展こそが理想の社会(安倍のスローガン)ということになってしまう。古くさい「マッチョ資本主義」になってしまう。
 それを避けたい(新井を「マッチョ思想」と切り離したい)という意識が働いていないか。「女性詩/女性詩史」について書けば、「反マッチョ思想(フェミニズム)」とは限らないのである。マッチョ思想から見た「女性詩/女性詩史」ということもある。私は、きちんと読んだわけではないが、新井の文章からは、マッチョ思想に寄り添ったものを感じてしまう。
 これは、和田の詩についても、うすうす感じるところ。

 「対岸の人」はリバプールで人に会ったときのことを書いている。

いつまでたっても
やっぱり川で
待っていた人ははじめて会ったひとで
川のそばということを忘れ
眠るときの息をして
わたしたちはここが世界だということを
気がつく間もなくいなくなる

 「いつまでたっても/やっぱり」はおもしろいし、「川のそばということを忘れ」という一行は、とてもいい。でも「眠るときの息をして」には作為を感じ「わたしたちはここが世界だということを/気がつく間もなくいなくなる」の「世界」ということばに、私はぞっとする。

やがて対岸に帰る人と
コーヒーを飲み
鳥のようにサンドイッチをついばんで
二人で別の街のことを話している

 これが、いまの和田であり、和田のめざす世界なのだと思うが、私はぞっとする。「壺」や「金魚」のオリジナルな世界から、マッチョ思想に理解できることばの世界へ方向を変えてしまったとしか思えない。
 「鳥のように」ではなく、現代詩手帖に投稿していたころの和田なら、鳥そのものになってサンドイッチを食べていただろう。あるいは、それを通り越してサンドイッチになって鳥に食べられていたかもしれない、何もなかったように流れる川になっていたかもしれない。
 とてもよくできた、「完結した詩」であるけれど、私は、こういう詩は苦手だ。


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