詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細田傳造『まーめんじ』(4)

2022-03-22 20:46:45 | 詩集

細田傳造『まーめんじ』(4)(栗売社、2022年03月03日発行)

 03月21日の朝日カルチャー講座の最後に、細田傳造『まーめんじ』の「不幸」を紹介した。時間をかけて読みたかったが、時間が少なく、コピーを配って、少し感想を聞いた。何歳くらいの人が書いたと思う? 「70代後半、もしかすると80歳すぎかも」とひとりが答えた。これは、私には、衝撃的だった。その「推論の根拠」までは聞けなかった。もうひとりが「目がよく見えるということが、どうして不幸なのか、わからない。つかまるかもしれない、が出てくるが、これがわからない」と言ったからだ。
 「鼻がよすぎるが不幸、というのはわかる?」
 「それは、わかる」
 さて、どうしたものか。
 「不幸」は長い詩である。全行を引用する。

不幸だなあ
このとしで
目がよう見えるということは
二百メートル先の堤防の上を
こっちへ歩いてくる娘っこの
唇の薄すぎるのが見える
二百メートル先の堤防の下の
荒れ草の中に
一枚の花畑が見える
白い花が枯れかかっている
花畑の中に
アジアの大陸が見える
白い花の未熟な果実に
薄い切り傷がある
このとしで
目がよく見えるということは
とても不幸だ
つかまるかもしれない
おまけに
鼻がよすぎるということは
ほとんどアウトだ
市ヶ谷にいる孫の顔を見にいけない
五月の空襲で
河田窪の牛小屋で
牛のきんたま丸焼けで
臭くって臭くって
堪らなかった
アメリカ火炎の残臭を
このとしまで
覚えているのは
とても不幸だ
ガスマスクをして
河田の
交番の前を通ったら
つかまるねぜったいに
不幸だなあ

 「鼻がよすぎるのが不幸というのがわかるという理由は?」
 「それが記憶だから。このとしまで/覚えているのは/とても不幸だ、から記憶だとわかる」
 「そうだったら、目が見えすぎて不幸、というのも記憶ではないだろうか」

 これからあとは、私が大急ぎで追加したこと。時間がなくて、質疑応答という形で、受講生のことばを引き出すことができなかった。
 私が講座でしたいことは、私の「解釈」を語るのではなく、受講生の中からことばが生まれてくるのを手伝うことなので、私の「解釈/誤読」を語るつもりはなかったが、時間に追われて、手抜きをしてしまった。その手抜きの過程でも、さらに手抜きをしたので、補足の形で書いておく。
 五月の空襲(東京大空襲)で焼けた牛小屋、牛の匂いが強烈に記憶に残っている、忘れられない。鼻の記憶を「鼻がよすぎる」というのなら、「目がよすぎる」は目の記憶が消えない、ということにはならないだろうか。目に焼きついて離れない、ということばがあるが、それに似たことを細田は「目がよすぎる」と言っているのではないだろうか。
 そこから類推すると、「娘っこの/唇が薄すぎるのが見える」は、娘っこの薄い唇が忘れられない、ということにならないだろうか。そして、牛小屋の火事と組み合わせて考えると、その娘は細田にとっては大事な存在、愛情の対象だったのではないだろうか。さらに、「薄い唇」はその娘の魅力的な部分だったのか、あるいはもしその唇がもっと厚かったらさらに魅力的だったのにという残念な気持ちがあったのかも、と私は考えたりする。「牛のきんたま」と細田はわざわざ書いている。「薄い唇」は娘の「牛のきんたま」のようなものだったかもしれない。人は、かならずしも「美しいもの」だけを記憶するわけではないからね。「荒れ草の中に/一枚の花畑が見える」のは、細田はその娘と、「花畑」でセックスをしたのかもしれない。「アジアの大陸が見える」は娘が「アジアの大陸の出身者」だったからかもしれない。
 細田には、忘れられない「記憶」があるのだ。そして、その「記憶」のなかには「つかまるかもしれない」という恐怖も含まれる。「日本人ではない(アジアの大陸の出身者である)」というだけの理由で「つかまった人」がいる。その人たちに、細田はつながっているのかもしれない。
 でも、なぜ、つかまったのだろうか。どんな悪事をしたのだろうか。
 もし、それが「悪事」というのなら、それは「ガスマスクをして街を歩くこと」(不安を全身であらわして街を歩くこと)かもしれない。人の不安は、他人の不安をあおる。不安を語る、ということも「つかまる」理由だったかもしれない。
 不安を抱えて歩いている、他の人とは違う感情を隠して歩いている、というだけで人が「つかまった」時代があったのだ。
 牛が焼ける激しい悪臭が忘れられない、娘の薄い唇が忘れられないように、「つかまるかもしれない」という思った不安も、細田には忘れられない記憶なのだ。

 わからないことばにであったとき、わかることばを頼りに、わからないことばに近づいていってみることが大切なのだと思う。
 詩を読むことは、詩に読まれることなのだ。この詩のことばから、私のことばを見つめなおせば、そこにはどんな私が存在するのか。詩にみつめられ、私は私のことばをどこまで組み立てなおすことができるのか。
 「アジアの大陸」を、「アジアの大陸の人」を、私は、どう見ていたか。その「記憶」を、見つめなおしてみなければならない。

 

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