砂東かさね「雨」、冨岡郁子「馬の骨」(「乾河」93、2022年02月01日発行)
砂東かさね「雨」は、夏の終わりの夜の雨の情景。
アスファルトが濡れて
ひかっている
すべてがおなじ色になって
あちらとこちらがなくなる
どこに立っていたって良い
それでもこの身体は
線を引くことをやめない
「この身体は/線を引くことをやめない」ということばに、私は思わず傍線を引いた。しかし、それから何を書けばいいのか、どうことばが動いていくのか。それは、まだわからない。
「線」は「あちら」と「こちら」の境目にあるが、この「あちら」と「こちら」を明確に区別することはなくなる。とくに「あちらとこちらがなくなる」のならば。しかし、「あちらとこちらがなくなる」ときでさえ、「あちら」「こちら」ということばが残っていて、それが「線を引く」。それは、意識、認識の問題か。砂東は「身体」と書いている。「線を引く」のは意識、認識という抽象的、概念的なものではなく、もっと直接的なものである。
「線を引く」は、こう言いなおされる。
傘や屋根で
濡れないように守っている
「線を引く」というのは、雨が降った場合は、「身体」が「濡れないように守る」という行為になって「こちら」と「あちら」を分ける。
ここからさらに「身体」の動きにことばが重なることを期待したいのだが……。
わたしたちは
空から落ちてくる雨の色を
知らない
あ、「線」が消えてしまった、と思う。
*
冨岡郁子「馬の骨」。病院。消灯後の廊下。
丹前を羽織った男が一人
背を見せて歩いてゆく
一回なのに
映像でいうと
なんどもなんども
同じ筋を
同じ背で歩いてゆく
「一回なのに/映像でいうと/なんどもなんども/同じ筋」ということばのなかに、砂東の書いていた「線」がある、と私は感じる。ことばにすると、ある行為が「屹立」して見えてくる。この「屹立」という感じは「一回」なのに「なんど」も見たもののように見えるということ。「一回」のなかに、「一回」ではない「普遍/永遠」が見える。「一回」(個別)を「永遠/普遍/真実」が突き破る、解放する、ということだろう。
これを、さらに、冨岡は、こう言いなおす。
スリッパの音は聞こえないのに
そこだけが規則正しく
足元を上げ下げしているのが見える
「聞こえない」。否定形がある。しかし、その「否定」をこえて、「肯定」が動く。「規則正しく/足元を上げ下げしている」。「規則正しく」が肯定というのではない。それは、補足。「足元を上げ下げしている」。この動き。冨岡の意識、認識とは別に、男の肉体が動いている。それは「否定」できない。人間には、否定できないものがある。
この否定できない「絶対的他者」と向き合うことは、それまで意識しなかった「絶対的自己」の発見、つまり「自己拡張/自己変革」につながる。
このまま行けば
(果たして行けるのか)
ああ、いいなあ。どうなるか、わからない。だからこそ、ことばなのだ。「結論」がわかっていたら、ことばを動かす必要はない。「1+1=2」というような「真理/真実/結論」の前では、ことばは必要がない。
今 駆けていって
男を追い越せば
どこの馬の骨とも知らぬ
と素知らぬ顔をされることになるのか
それとも
息が感じられるほどに近づいて
その愛おしい暖かさに圧され
我を忘れることになるのか
どちらにしても
同じかと思う
もしかすると、病院の廊下を徘徊している男に、昔の恋人の後ろ姿を思い出したのかもしれない。顔を確認したい。昔の恋人だったら、どうなるのか。人違いだったら、どうなるのか。
こういう「メロドラマ」は、どうでもいい。
「どちらにしても/同じかと思う」。たしかに同じだろう。砂東が書いているように「こちら」も「あちら」も同じだ。「1+1=2」のように、それは変わりようがない。
「違い」、「区別」するのは、認識ではなく、運動である。
変わるのは「駆けていく」が「駆けていかないか」という肉体の運動である。追いつき、顔を見てしまえば「線」は消える。行動を起こす前に、「線」はまるで「壁」のように前に立ちはだかる。
だから。
この詩は、
このまま行けば
(果たして行けるのか)
廊下の突き当たり
東の端はたしか外に通じていた
通り過ぎる男の頭の横
窓の外に
ほおずきのような太陽がかかっている
それは熟した朱(あけ)の中心に向かって渦を巻いている
黙している長椅子に
ほおずきが落ちた
ここで終わった方がおもしろいと思う。この終わり方では、わけがわからない(結論がない)ように見えるけれど、「結論」は読者がかってにつくるもの。「1+1は、いくつ?」というのが詩なのだろうと思った。
「線を引く」のは「肉体を守る」ためではなく、「肉体を動かす」ためなのだと思う。「肉体を動かす」ための「線を引く」とき、その「線」は詩になる、と思った。
**********************************************************************
★「詩はどこにあるか」オンライン講座★
メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。
★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。
★ネット会議講座(skypeかgooglmeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
**********************************************************************
「詩はどこにあるか」11月号を発売中です。
142ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。
<a href="https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854">https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854</a>
(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com