詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇152)Obra Joaquín Llorens

2022-03-20 15:47:35 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Lloréns
Técnica. Hierro 78x34x13 S. 3.3

Soldado de pie de cara al exterior.
Lleva espada y escudo, pero no sale a atacar.
Solo representa la defensa.
Su figura firme y erguida es hermosa.
El cuerpo de este soldado está lleno de firme convicción y amor.
Su deseo de paz le hace fuerte.

Si no fuera por la cuestión ucraniana, podríamos haber imaginado las cosas de otra manera.
La imaginación siempre se ve afectada por la realidad.
Paz para Ucrania.


外敵に向かって直立する兵士。
剣と楯を持っているが、攻撃に出かけていくわけではない。
防衛のために立っている。
その不動の、直立した姿が美しい。
この兵士の肉体の中には固い信念と愛があふれている。
平和への願いが、彼を強くする。

ウクライナ問題がなければ違うことを想像したかもしれない。
想像力はいつでも現実に影響される。
ウクライナに平和を。

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青柳俊哉「月」、池田清子「三月の庭」、緒方淑子「air a」、徳永孝「雲と競争」

2022-03-20 14:34:43 | 現代詩講座

青柳俊哉「月」、池田清子「三月の庭」、緒方淑子「air a」、徳永孝「雲と競争」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年03月07日)

 受講生の作品。

月   青柳俊哉

中天の薄雲をながれていく 
白い光 夕闇に祈る農夫の 群青のかげも
水辺にそよぐ水仙の 淡い黄も
色褪せて 凍てつく 

わたしは初めて月をみる
深閑のモノクロームにうたれて 

月と発語するもののいない 空に立ち
いのちと異なる時間を生きるものを 想う
つき というしるしを捨て わたしたちに言葉をしいて
空に 未知を象る

冬蝉のなき声がする 水仙の淡い黄が
暈(ぼ)けて 白い光がながれる

 「月」という表記と「つき」という表記がある。そのため、三連目で「つき」とひらがなにしたのはなぜか、という質問が出た。
 質問というものは、いつでも何らかの答えを含んでいる。その答えはまだことばにならっていない。それを探り出していく、ことばを自分のなかから見つけ出すというのが詩を読むことだと思う。詩を読むとは、詩に読まれること。
 それはそれとして。
 質問に、青柳は「つきというしるし」というのは「ことばとしての月」という説明をした。
 この詩を読む場合、青柳が言った「つきというしるし」の「しるし」が重要になる。「しるし」とはそれ自体具体的なものだけれど、そこに含まれている意味は抽象的である。具象と抽象が結びついている。
 たとえば机の上にのみかけのコーヒーカップがある。それはコーヒーカップという具体的なものだが、だれかがここにいたということを意味するしるしでもある。
 もし、その世界を、コーヒーカップということばをつかわずに描写するとしたら、どうなるだろうか。
 そういうことを「月」を見ながら、青柳は考えている。
 「つきということこば」を捨てる(つかわない)で、いま空に起きていることをを語るとしたら、それはどうなるだろうか。月という知っていることばがない。それを語るとき、どうしても新しい(未知)のことばが必要になる。語るとき「ことば」なにしは語れない。考えるとき「ことば」なしには考えられない。いつでも私たちは「ことばを強いられる」存在である。
 そのことが「わたしたちに言葉をしいて/空に 未知を象る」ということばになっていると思う。
 とても哲学的なこと、ことばと世界の関係が語られている詩である。
 私は、三連目の論理的なことばの運動も好きだが、二連目の「わたしは初めて月をみる」の「初めて」がとても印象的で、いいと思った。
 「初めて月を見たのはいつ?」
 こう質問されて、それに正確に答えられる人はいないだろう。月は、ほとんど無意識に、いつも見ている。そのいつもの月を初めて見る。それはほんとうは初めてではなく、初めてのものとして気づく、ということだ。見たことのない月を見ている。そこには驚きがある。どんなふうに初めてだったのか。「月」という、いつもつかっていることばではいいあらわれない何かを感じた、ということだろう。
 詩を発見した、ということかもしれない。
 まだ、だれも語っていない「月」。それを語るにはどうすればいいのか。
 これは、問題提起の詩であり、問題を提起すること(質問をすること)は、すでに自分のなかで生まれ始めていることば(未生のことば=未知)を探すことでもある。

 「つき、とひらがなにしたのはなぜですか?」
 それは、わからない。わからないから、そこに「答え」が隠れている。作者もまた、それをさがしている。そのさがしている「過程」そのものが、詩という形になって、ここにあらわれている。

三月の庭    池田清子

今 きっと 梅がきれい
六月 実がたくさん取れる

深紅の八重椿
道路にいっぱい散って
掃き集めるのが大変

明るいらっぱ水仙
家の中からは後姿ばかり

れんぎょう
さくらんぼ
濃いあじさいが咲き
びわがなり
秋には柿
勝手に剪定するものだから
表 裏 裏 裏 ・・・・
甘くて大きいたくさんの早生柿
おすそわけができる

そんな庭からも 家からも
私は 自ら去ったので
涙は流さないけれど

もし 突然 もっと大切なものまでも
失うことになったとしたら

 この作品は「失うことになったとしたら」という中途半端な形で終わっている。「どうなるだろう」という疑問のことばをおぎなうと、文章にはなる。しかし、疑問が残る。どうなる? その答えは、池田にはわかっている。だから、かかない。
 わかっていることは書かない。わかるまでの「過程」を描く、という視点から、この詩を読み直すのもいいかもしれない。
 「どうなるだろう」は「未来」である。そのこたえは、いつでも「過去」にある。この詩では、予想される「答え」とは逆のものをあらわすものとして「過去」が書かれている。「過去」だけれど、そこに描かれる梅や柿、いろいろな花は「未来」を必然的に抱えている。表作、裏作の違いはあるかもしれないが、ある「未来」がたしかなものとして存在するように思える。
 でも、人間は、そうではない。
 「どうなるだろう」が予測するのは、たいてい「未来」である。
 でも、その「未来」から「過去」を見たら、どうかわるだろか。「大切なもの」はもっと「大切なもの」として実感されるかもしれない。
 この詩は「大切なもの」を実感するための「予行演習」のようなことばかもしれない。

air a   緒方淑子

こぼれる涙を

あごのラインで

手の甲で

何度も

拭ってた

そんな方法もあるのかと

真似てみた

間に合わなかった

全然

       a scene with an actress 

 ひとはいつでもいろいろなことを知っている。たとえば月が月であることを知っている。ところが、突然、「間に合わない」ときがやってくる。知っているはずなのに、初めてのように、何かにであってしまう。
 緒方は涙も知っていれば、美しい涙の拭き方を知っている。
 しかし、間に合わない。それは、その知っているはずの涙が、まったく知らないもの、青柳のつかったことばでいえば「初めて」の涙としてあふれてきたからだろう。
 「初めて」との向き合い方が、詩そのものなのだ。
 いま感じている「初めて」はいったい何なのか。もちろん、知っている。でも、それはまだ明確なことばになっていない。「未知」のことばのまま、人間を動かしていく。

雲との競争  徳永孝

列車が走る
雲が追いかけてくる

大きな雲が先頭だ
続く小さな雲達も
負けずに付いていく

列車がスピードを上げる
雲達もスピードを上げる
勝負はつきそうもない

線路脇の土手に雲が隠れる
レースも終わりかあ
少し残念

土手がと切れると
まだ雲達は追(つ)いてきていた

 列車が走る。雲が見える。それは列車と競走して、ついてきているように見える。多くの人が経験することかもしれない。徳永にとって「初めて」はなんだったろうか。
 「線路脇の土手に雲が隠れる」という行には、具体的なことが書かれている。「初めて」はいつでもこんなふうに具体的である。
 ただ、具体的すぎて、抽象にむけて整理できないことが多い。緒方の詩で「涙の原因」が書かれていないのは、整理して書いてしまうと、それは「涙の原因」とは少し違ったものになってしまうからだろう。整理できないものがある。だから、それが知っているものをつきやぶって動くと、何もできなくなる。
 徳永の作品では、もし、この「線路脇の土手に雲が隠れる」がなかったら、ことばはどう動くだろうか。「隠れる」があるからこそ、「ついてくる」がはっきり見える。そのことを思うと楽しい。

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「春闘」から思うこと

2022-03-20 12:02:11 |  自民党改憲草案再読

 読売新聞2022年03月18日の朝刊(14版・西部版)に春闘の中間報告の記事があった。「賃上げ 平均2・14% コロナ前に迫る」。
↓↓↓↓↓
 連合は18日、2022年春闘の第1回集計結果(回答数776組合)を発表した。基本給を底上げするベースアップ(ベア)と定期昇給を合わせた平均賃上げ率は、前年の同時期と比べて0・33ポイント増の2・14%だった。1回目の集計では、コロナ禍前の19年春闘の2・16%以来の水準に回復した。
↑↑↑↑↑
 賃上げが進むのはいいことだが、どうして突然賃上げブームになったのか。その「理由」がどこにも書いてない。
 コロナが完全に終息したわけではないし(ファイザーは4回目のワクチン接種をアメリカ政府に求めた、というニュースがあったはずだ)、ロシア・ウクライナ問題が解決したわけではない。ロシア・ウクライナは解決エスカレートしている。20日の「読売新聞は、ロシアが超音速ミサイル使用」とつたえている。(これは、春闘の統計前のことだけれど。)
 読売新聞は、春闘の記事の最後に、こう書いている。
↓↓↓↓↓
 22年春闘は、コロナ禍からの業績回復を受け、大手企業の賃上げ率が2年ぶりに2%台を回復しそうな勢いだ。16日の集中回答日に自動車や電機で満額回答が相次ぐなど、前年を上回る回答も目立つ。一方、小規模な企業の回答が進むと、賃上げ率は下がる傾向があり、賃上げがどこまで広がるか注目される。
↑↑↑↑↑
 賃金格差が広がるかもしれない、という予測だ。
 ここから、私は別のことを考えた。

 いま緊急の問題はコロナだけではなく、ロシア・ウクライナ問題である。「武力戦争」の背後で「経済制裁」という名の「経済戦争」が起きている。ロシアを「経済制裁」で敗北に追い込む、という作戦である。手段としては、ロシア製品の輸入禁止が起きている。これは、私たちの生活にどう影響してくるか。(ロシア人の生活にも影響があるのだろうけれど、私は個人主義的な人間なので、そこまでは考えない。)
 いろいろなものが値上がりする。天然ガスを初めとする燃料の輸入がストップすれば、天然ガスの値段が上がる。電気代が上がる。最近話題になっているが、ガソリン代も上がる。小麦(ウクライナ産が多いかもしれない)の輸入が減れば、パンも値上がりする。ほかの菓子類も。……こういうことは、すでにわかっている(想定されている)。
 ここからが問題。
 大手の企業は、これから物価がどんどん上がることを知っているだけではなく、むしろ、その物価上昇にあわせて自社製品の値上げをもくろんでいるかもしれない。(いわゆる便乗値上げのチャンスだと思っているかもしれない。脱線したが……。)物価が上がるということは、裏を返せば、実質賃金(収入)が減るということである。どうしたって、物価上昇が進む過程で「緊急の賃上げ要求」が生まれてくるだろう。それを見越しての「賃上げ」なのではないのか。つまり、今後何が起きようが「緊急の賃上げ要求」には応じない。すでに春闘で前年を上回る賃上げをしている。賃上げの必要はない、というための「方便」としての「春闘賃上げ 平均2・14%」なのではないのか。
 これは実際に回答をみると、もっとはっきりする。たとえば、トヨタは「回答日」前に「満額回答」をしている。組合の要求をそっくり飲んでいる。ガソリンが値上がりすれば、車だって売れない。その車にしても電気自動車への移行が進んでおり、トヨタは出遅れている。トヨタの車がどんどん売れるということは、想像できない。にもかかわらず、あの慎重なというか、ケチなトヨタがさっさと「満額回答」している。こういうときには、何か、裏がある、と考えた方がいい。絶対に、ウクライナ・ロシア問題が長引けば、さまざまな「物価」が上がる。それに備えてのことなのだ。つまり「追加の賃上げ要求」には絶対に応じない、というための「先手」なのだ。
 ここから波及する問題は、トヨタの社員に限定されない。いや、むしろトヨタ、あるいは春闘で賃上げが確保された社員以外のところに問題が増幅されて広がっていく。
 賃上げが少なかった会社の社員はどうなるのか。あるいは組合に加入していない未組織労働者、簡単に言えば非正規社員やパート労働者はどうなるのか。「臨時の賃上げ要求」もできずに、ただ、物価高に耐えるしかないのだ。
 トヨタのやったことは、トヨタの労働者(連合の労働者)が、そういう未組織労働者と連携し、賃上げや社会保障の充実を求めるという運動を起こさせないための「予防措置」なのだ。「トヨタの社員は賃上げによって生活を保障した。それ以上のことはしない。社員を守るのが会社の仕事。社員以外のことまでは責任を持たない。」
 これは、労働者の「分断」だね。
 連合会長の芳野は、こういっている。
↓↓↓↓↓
「これから回答を引き出していく組合に、この良い流れをつなげていく」と語った。連合は7月頃に最終結果を発表する予定だ。
↑↑↑↑↑
 参院選に向けて、連合の力をアピールするということだろうが、連合がめざしているのは共産党排除からもわかるように、国民全体の「利益」ではない。あくまで連合傘下の労働組合の従業員の「利益」であり、それはその従業員によってもたらされる資本家の「利益」である。
 物価上昇で苦しむのは、連合傘下の組合がある企業に就職できなかったひとの個人責任、ということなのだろう。競争社会を勝ち抜いてきた人間が、競争社会で敗北し、貧乏暮らしをしている人のめんどうまで見る必要はない、という論理である。
 自民党の狙いどおりの論理である。

 ところで、世の中には、春闘の恩恵にあずかる大手企業の従業員でもなければ、未組織労働者でもない人間もいる。これまで働いてきた年金生活者や、いろいろな事情で働くことができない人間である。「賃上げ」どころか「賃金」がない。収入が限られている。物価高に対する対抗手段が節約しかないという人間である。
 私も年金生活者だが、どうなるんだろう。5000円の一時金が話題になっているが、5000円で、これから起きる物価上昇にどう向き合えるのか。物価上昇にあわせた年金の引き上げが必要になるはずだが、この問題には、連合は口をはさまないだろう。

 コロナはウィルスなので、何を考えているか、わからない。けれど、戦争(とくに経済戦争)では、それを支配するのは人間である。何が起きるかは、経済戦争を勝ち抜いてきた企業(資本家)にはわかっているはずだ。そのわかっていることを利用して、貧富の格差拡大政策、貧乏人をますます貧乏にすることで利益を確保するという方法が、これから拡大していくはずだ。
 簡単に言えば、「便乗値上げ」が進むということだ。
 「いまは緊急事態だから、企業は製品の値上げをせず、赤字分はこれまでの内部保留でまかなう。消費者のみなさん、安心してください」とは、どの企業のオーナーも言わないだろう。
 いま、資本主義は、「利益の再配分」などはいっさい考えず、ひたすら「強欲主義」を突き進んでいる。
 物価高が進み、国民が「年金を上げろ、賃金を上げろ」と主張したら、国は(自民党政権は)、あるいは連合は、こういうに違いない。
 違法な戦争をしかけているロシアを追い詰めるには経済制裁しかない。経済制裁は武力をつかわない「安全な戦争」である。ロシアに勝つまでは、物価高に我慢するしかない。「ほしがりません、勝つまでは」の精神をいまこと思いだすべきなのだ、と。
 でもね。
 先に書いたけれど、その「ほしがりません、勝つまでは」を資本家が実践するかというとそうではないのだ。「内部保留を全部吐き出します。戦争が終わったら、企業の製品を買って、私たちを助けてください」とは言わない。多くの市民が困窮しているときも、ひたすら金を儲けるのである。軍需産業を見ればいい。ロシア・ウクライナ問題がつづくかぎりは、軍需産業は潤うのだ。武器は売れるのだ。トヨタにだって、自動車の発注があるかもしれないのだ。

 

 

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愛敬浩一「学校の帰り道で」

2022-03-19 10:34:51 | 詩(雑誌・同人誌)

愛敬浩一「学校の帰り道で」(「詩的現代」40、2022年03月発行)

 愛敬浩一「学校の帰り道で」の、後半。

その学校帰りの道で
私は何とも言葉に出来ない幸福感に包まれた
父と母がいて、弟がいて
もうこれ以上、何も必要なものなどないと感じたのだ
なぜ、その時、その場で、そういう風に感じたのか
全く思い出すことが出来ない
ただ、その時、このことは忘れないようにしよう
と強く思っている私自身の姿と
その場所の光景が
不思議なことに
いまでも天然色でくっきりと見える

 要旨はわかるが、なんだか、屁のようなことばの羅列である。屁のような、というのは、ぜんぜんおもしろくない、という意味であり、また、我慢しようとすれば我慢できるということである。いや、私は「屁のような」ということばを書いているのだから、きっと「会議中に屁なんかこくな」と言ってしまう人間かもしれない。でも、たいていのひとは、「あ、誰かが屁をした。でも、いまは会議中だから、黙っていよう」と我慢するだろう。「屁のような」とは、そういうことでもある。
 で、このあと、ことばは転調する。

あれから半世紀以上
--それは、成長することの哀しみと痛みだったかもしれない、と
トルーマン・カポーティの、最後の小説『あるクリスマス』を読み
また、その解説を読んで思ったことだ。

 「成長することの哀しみと痛み」も、また「トルーマン・カポーティ」も、「屁」の無言の合唱のようである。そんなもの、聞きたくない。
 だが、

また、その解説を読んで思ったことだ。

 この一行が、すばらしくおもしろい。
 人は、「一回」では、何かをはっきりと「思う」ことができない。最初は、ぼんやりしている。「何か思う」のだが、それは「ことば」になりきれない。それこそ「屁」のように、とらえどころがない。我慢しようとしても、思わず出てしまう(動いてしまう)何かである。
 それがことばになるためには、時間をおいた「反復」が必要になる。ときには、自分のことばだけではなく、他人のことばが必要になる。
 最初に引用した部分では、

なぜ、その時、その場で、そういう風に感じたのか
全く思い出すことが出来ない
ただ、その時、このことは忘れないようにしよう

 と「その時」がくりかえされている。「その場」は、そのあと「その場所」と言いなおされている。「そういう風」「このこと」ということばもある。あることが「その、この」で、くりかえされている。
 くりかえすと「くっきり」してくるのだ。
 その「くっきり」が「成長することの哀しみと痛み」というのは、あまりにも定型的(文学的)だが、その定型を「また、その解説を読んで思ったことだった。」と補足するとき(くりかえすとき)、なんとも不思議な「味」が出てくる。
 「正直」が出てくる。
 ここでもまた、「その解説」と「その」ということばがつかわれているのだが、どうも、この「その」が「くせもの」である。「くせもの」というのは、ひっかかるものがある、ということだ。

 「その」ということばは、誰もがつかう。
 でも、どういうときに、つかうのか。
 愛敬は、この詩のなかでは「あの」をつかっていない。

なぜ、あの時、あの場で、あういう風に感じたのか

 とは、書いていないのである。ここに、「小さな秘密」のようなものを感じる。
 「バー愛敬で飲もうか」と誰かに誘われたとき、どう答えるか。「そのバー知らない」と言うか「あ、あの詩人がやっているバー?」と言うか。これは、会話としてありうる。しかし、「あのバー知らない」「あ、その詩人がやっているバー?」とは言わない。「あの」と「その」は違うのだ。「その」は一方の人間が知っていて、他方の人間は知らないときの指示ことば。「あの」は対話している二人ともが知っているときの、その場から離れた何かを指し示す。「あの」は認識が共有されているのに対し、そのは共有されていない。
 愛敬は「その」を読者に向けて書いている。
 愛敬は、愛敬自身の「体験/記憶」を書いているのだが、その体験、記憶を書くとき、過去の愛敬とは対話していない。独白なのだ。独白だからこそ、(つまり、ひとりしかいないからこそ)、それが「屁のようなことば」であっても気にならない。ひとりで部屋に閉じこもって屁をもらしたとしても、誰にも気をつかわない。自分自身の肉体が、ふっと楽になるだけである。
 つまり。
 ここに書かれているのは、そういう、それこそ「屁のような」どうでもいいことなのだが。
 しかし、そういうことは、どうでもいいことだけれど、実際に存在するし、屁をしないままで生きていくことなど人間にはできないから、ある意味では必要なことなのである。あとから「私が屁をしました。会議中に失礼しました」と言われても、こまってしまう。でも、そのことばをせし聞かされたら「バカ、そんなことは言わなくてもいいことだ」と言うしかない。人間にとって正直は大切なことだけれど、いつでも正直でなければならない必要はない。ただ正直に出会うと、なんとなく、うれしい。
 どうでもいい。
 そういう「どうでもいい」感じの瞬間があり、「どうでもいい」ことが、人間を(ことばを)どこかで支えていることもある。そういうことを、この詩の最後の一行、「また、その解説を読んで思ったことだ。」が思い起こさせてくれる。
 実際、私の書いているこの文章もそうだけれど、「他人の書いた解説」なんて、どうでもいいでしょ? 自分が思ったこととは違うんだから。少しくらいは、そうかもしれないと思うかもしれないが、そう思ったと仮定して、その後、そのことばを引き継いで考えていかなければならないのは自分自身なのだから、どんな解説も「その解説」にしかすぎない。
 「思った」ではなく「思ったことだ」と「こと」をつけくわえているのも、おもしろい。妙に「客観的」なのだ。「主観」なのに、すべてが「客観化」されている。「客観化」は「くりかえす」ことというか、「くりかえす」ことによって再現されたものであり、「いま、ここ」の現実とは少し違う。かなり違う。
 書き始めると、めんどうになるので、ここでやめておくが、
 
また、その解説を読んで思ったことだ。

 という一行がなければ、何も書くことのない詩だが、この一行のため、私は、あれやこれやと思うのだ。

 

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Estoy loco por espana(番外篇150)Obra Jesus Coyto Pablo

2022-03-18 10:06:43 | estoy loco por espana

Jesus Coyto Pablo

Mont Saint Michel
2010 mixta
Colección fundación De Arte

Cuando miro la obra de Jesús Coyto Pablo, me parece que no está pintando un objeto sino un recuerdo.
Y estos recuerdos son memorias que aparecen en lugares reales.
Este cuadro representa el Mont Saint Michel, pero cuando se ve el Mont Saint Michel, el recuerdo del Mont Saint Michel aparece por detrás del Mont Saint Michel y oculta el verdadero el Mont Saint Michel.
Desde las profundidades de la realidad presente, aparece el recuerdo de lo que allí existe. 
¿De quién es la memoria?
Por supuesto, podría ser Jesús Coyto Pablo, pero también podría ser el recuerdo de otras personas. Podría ser el recuerdo del propio el Mont Saint Michel.
Cuando miro los cuadros de Jesús Coyto Pablo, siento que comparto múltiples recuerdos.
En lugar de compartir la realidad (el objeto pintado), siento que comparto los recuerdos que existen en el lugar o que miro los recuerdos.
Nunca he estado en el Mont Saint Michel, pero tengo la ilusión de que éste sea mi recuerdo del Mont Saint Michel.

Jesus Coyto Pabloの作品は、いつも記憶を描いているように感じられる。
しかもその記憶は、現実の場所にあらわれてくる記憶だ。
この絵は「モン・サン・ミッシェル」を描いているが、モン・サン・ミッシェルを見たときに、モン・サン・ミッシェルの奥からモン・サン・ミッシェルの記憶があらわれ、現実のモン・サン・ミッシェルを隠すという感じ。
いまある現実の奥から、そこに存在するものの記憶があらわれてくる。それは、だれの記憶か。
もちろんJesus Coyto Pabloなのかもしれないが、そうではなくて、誰か別の人の記憶かもしれない。モン・サン・ミッシェルそのものがもっている記憶かもしれない。
Jesus Coyto Pabloの絵を見ると、複数の記憶を共有するような気持ちになる。
現実(描かれた対象)を共有するのではなく、その場に存在する記憶を共有するような気持ちになる。
私はモン・サン・ミッシェルへ行ったことはないが、これは私のモン・サン・ミッシェルの記憶だと錯覚してしまうのです。

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Estoy loco por espana(番外篇151)Obra Joaquín Llorens

2022-03-18 10:03:15 | estoy loco por espana

Obra de Joaquín Llorens

Pienso en el caballero solitario de esta pieza.
No lleva espada, sólo un escudo.
Puede ser un centinela.
Que la paz llegue a Ucrania.

La oración de Joaquín aparece en esta obra.

私は、この作品から、孤高の騎士を思った。
剣は持たず、盾だけをもっている。
見張りかもしれない。
ウクライナに平和が来ますように。

ホアキンの、祈りがつたわってくる作品だ。

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ゼレンスキー大統領演説

2022-03-17 13:42:22 |  自民党改憲草案再読

 ロシアのウクライナ侵攻に関連して、ウクライナのゼレンスキー大統領が、オンラインを利用し米議会で演説した。読売新聞によれば「軍事支援の強化を訴えた」(03月17日朝刊、14版=西部版、3面)
 日本でも、ゼレンスキー大統領のビデオ演説を国会に招致すべきではないかということが議論になっているらしい。
 それはそれで、意義のあることだとは思うが。
 私は、とても疑問に思っていることがある。

 日本は、何をしたいんだろう。アメリカは何をしたいんだろう。NATOは何をしたいんだろう。それが、よくわからない。「ウクライナからロシア軍が撤退すること」を各国がもとめているのは、わかる。
 問題は、それをどうやって実現するか。
 ウクライナを軍事支援することで、ロシア軍を敗退させる、という方法は、もちろんそのひとつだろうけれど。

 私の書くことは「夢物語」なのかもしれないが。

 ロシアのウクライナ侵攻を私は肯定するつもりはない。軍事侵攻はぜったいにしてはいけない。そのことを確認した上で、私は、こう考えている。
 戦争が起きたとき(起きるとき)、そこには対立の原因がある。対立というのは、一方的に生まれるものではない。双方の主張に違いがあって、はじめて起きる。
 そうであるなら、一方の主張(意見)だけを聞くというのはおかしくないか。
 プーチンの主張も聞かないと、「妥協点」というものが見出せないだろう。
 「妥協点」を探さない。ただ、ロシア軍をウクライナから撤退させればいい、というのであれば、ゼレンスキーの主張を聞く必要もないだろう。
 NATO(アメリカ)がウクライナに侵攻するのではなく、ウクライナのもとめに応じて、ウクライナにNATOの基地を造る(米軍基地を造る)というのであれば、それは「軍事衝突」こそ起きない行動だろうけれど、そういうことで問題は解決するのか。
 それはロシアが今回の軍事行動を起こした「原因」と思われるものを、そのままロシアに認めさせるということではないのか。
 「民主主義」を主張するなら、最低限、ロシアの言い分も聞き、できれば質疑応答をし、そのあとで国会で、日本がどういう行動をとるべきか議論することが大切だろう。
 はじめから「結論」があって、その「結論」をはやく導くために、ゼレンスキーのビデオ演説を日本の国会でも実施するというのは、何かおかしい、と私は感じる。

 それにまた、私はこんなことも考える。
 日本には沖縄問題がある。沖縄は「中国、北朝鮮から侵略される恐れがある。アメリカ軍の基地がないと安全が守れない」と主張し、アメリカ軍の駐留をもとめているのか。違うだろう。アメリカの世界戦略を実現するために、沖縄に基地が必要だと判断し、沖縄に巨大な基地を造っているのだろう。
 沖縄をウクライナ、米軍基地をNATOと読み替えるとどうなるのか。
 米軍は、いま、沖縄に侵攻し、そこに基地を造ったわけではない。米軍が沖縄に侵攻したのは第二次大戦のときである。そのまま、米軍が居すわっている。
 あるいは、ロシアと北方四島の関係はどうなのか。ロシア(ソ連)は第二次大戦時に北方四島に侵攻し、そのまま居すわっている。
 日本は、それを「正しいこと」とは認めてはいない。しかし、その現状を変更するために、たとえば北方四島に軍隊(自衛隊)を派遣し、領土を回復すべきだ(奪い返すべきだ)という意見が大勢を占めているわけではない。
 なぜだろう。
 単に、アメリカが、ロシアとの間で「北方四島」をめぐって紛争を起こしたくない。戦争に巻き込まれたくない、ということではないのか。
 アメリカ(議会)は、たとえば北方四島問題について、日本の主張の意見を聞くために誰かを議会に招き、演説させたか。あるいは、ロシアの大統領をアメリカ議会に招き、北方四島問題について、意見を聞いたか。
 アメリカは北方四島をロシア(ソ連)に与えることで第二次大戦後の勢力構造を確定した。ソ連の世界戦略とアメリカの世界戦略を合致させた。日本は、アメリカの世界戦略にしたがって、北方四島のロシア占有を受け入れている。
 さらには。
 イラクを攻撃したとき、アメリカ議会は、イラクの大統領を米議会に招き、主張を聞いたか。

 国際紛争の解決には粘り強い交渉しかない。そして、その交渉というものが「ことば」によっておこなわれるものならば、どちらか一方の「ことば」だけを聞く、あるいはどちらか一方の「ことば」だけを広めるという形で、「ことば」を動かしてはいけない。
 実際の「軍事行動」もそうだが、それといっしょに動いている「ことば」が、いったいどこから出てきて、どこへ行こうとしているのか、そのことをみつめる必要がある。
 そして、それを見極めるためには、絶対に「反対意見」が必要なのだ。「反対意見」を封じたところで、一方の意見に加担するのは、とても危険だ。「民主主義」とは言えない。

 私の書いていることは「理想論(空論)」かもしれない。しかし、私は、権力者ではないので、自分が頼れるものは「理想(ことば)」しかない。だから「ことば」を動かす。「理想」を持ち続ける。
 私が現在できるのは、こういう「ことば」を書くことと、フェイスブックで「友達」になっているウクライナのひとの安全をメールで日々確認することである。それをつづける。

 

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井上瑞貴「悲しい生き物よ、口を開けて雨を受けよ」

2022-03-17 10:33:57 | 詩(雑誌・同人誌)

井上瑞貴「悲しい生き物よ、口を開けて雨を受けよ」(「侃侃」36、2022年02月28日発行)

 井上瑞貴「悲しい生き物よ、口を開けて雨を受けよ」。タイトルを読んだ瞬間、音がきれいだなあ、と思う。音が、まず、ある。それからイメージがあらわれる。最後に、意味、があらわれる。意味、というのは、つまり「付け足し」である。
 それは、本文を読んでも同じ。

願わなかった方へとおれた交差点を結んでぼくたちの地図が成る

 この書き出しは、少し工夫すれば短歌になるだろうと思う。井上には、短歌のような、つまり、どこかしか、伝統的な「音」のうねりがある。
 私は九州のひとのことばのリズムが苦手だが、井上のことばの響きは、美しいと感じる。たぶん、どこかで、私の知っている「短歌」の音と共通するものがあるからだろう。
 この詩では「ぼくたちの」という音が絶妙である。「私たちの」「おれたちの」「われわれの」では、何と言えばいいのか、「叙情性」が違ってきてしまう。
 (意味を無視して言えば、「願わなかった方へ」という書き出しは「叶わなかった方へ」と書き直したい衝動にかられる。私は、引用を確認するまでは、理由はわからないが「叶わなかった」と読んでいた。無意識に読み替えていた。そのために、ちょっと、書いていることの「つじつま」があわなくなっているかもしれない。でも、書き直さない。この括弧内の部分は、「叶わなかった」と誤転写していることに気づいて書き加えたもの。)

悲しみよりも浅く悲しみよりも深い夜空から
約束にない雨が降り注ぐ
月曜日の冷たい雨の最後の一滴が
狭い広場につづく狭い道を流れて落ちている

 「悲しみよりも浅く悲しみよりも深い」の「悲しみよりも」というくりかえし、「狭い広場につづく狭い道」の「狭い」のくりかえし。それは、ことばを長くするというよりも、逆に短く感じさせる。余分な(?)ことばが、ことばを短く感じさせる。
 と、書くとき。
 この「短さ」とは「意味」が省略されるということである。
 そのことばは、もう聞いた。だから、はやく先を話して。
 そういう感じで、くりかえされる「悲しみよりも」や「狭い」を私は聞いている。同じ音が、音としては無駄なのに、意味を省略する。そこに、おもしろさがある。
 同じことばのくりかえしではないが「約束にない」とか「月曜日の」ということばも、意味ではなく、次のことばを誘い出すための「音」にしかすぎないと感じてしまう。

見上げると今から欠けてゆく月が雨上がりに浮かんでいる
地上には愛されるために愛したきみが立ち去る後ろ姿が残されている

 この二行も、それぞれ独立した短歌になるだろう。二行つづければ、連作短歌の一部になるだろう。

長い会話のあとで口に運ぶ紅茶のように冷えた夜が広がっている

 この一行も、そうだな、短歌だな。
 こうした長い行に比べると、ときどきさしはされまる短い行は、まるで「屁」のような感じがしてしまう。どこかで息継ぎをしなければならいのかもしれないが。

 


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和田まさ子「新井豊美さんの尾道」ほか

2022-03-16 11:36:05 | 詩(雑誌・同人誌)

和田まさ子「新井豊美さんの尾道」ほか(「somethin」34、2022年02月28日発行)

 和田まさ子の詩の激変に、私はなんとなく新井豊美を重ねあわせていた。和田まさ子の詩で、私がいちばん好きなのは、「現代詩手帖」の投稿欄で読んだ「壺」が出てくる詩である。そのあとの「金魚」だったか何かが出てくる詩もとても好きだ。この2篇で、和田は「現代詩手帖賞」を取るだろうと思った。和田は受賞せずに、その後、独自の詩の展開をつづけている。
 新井豊美の詩集で私が好きなのは『いすろまにあ』である。新井は、この詩集のあと、少しずつ変化していって、評論を書くようになるころから、私はどうにも親近感を感じなくなった。「肉体」が見えなくなった。「頭」が見え始めた、という印象に変わった。
 和田も、同じなのである。最初は鮮明だった「肉体」がだんだん「整理された概念」にかわり、「頭」だけが見えるようになった。
 そんなことを、ぼんやり思っていたら。
 「新井豊美さんの尾道」というエッセイを、和田が書いていた。それで、あ、そうだった、新井は広島(尾道)の出身だったか、とまた思い出した。同時に、和田は新井をめざしていたのか、と思った。

 新井のことを、和田は、こう書いている。

 新井豊美さんは独自の詩境を拓かれ、詩集も評論集も明晰な精神をもって書かれた。「女性詩」から「女性性の詩」への変遷を意義づけ、『女性詩史再考』もまとめられた。論理的でいまも際立つ仕事だ。

 これは和田独自の評価というよりは、現代詩を書いている人たちの間で定着している評価かもしれない。「明晰な精神」「論理的」。
 でも。
 私は、それが嫌いなのだ。新井に違和感を覚え始めたのは、それが「明晰な精神」「論理的」なことばだからである。別のことばで言えば、完結している。さらに別なことばで言えば、批判が通じない(批判を拒否したことば)で書かれているということ。どんな批判をしても、新井はそれに反論する準備ができている。反論できることばを完璧に準備した上で、「枠」をつくって「女性詩」を語っているように感じられたのだ。
 それは、詩についても同じ。
 どんな批判をしても、「そういうことは承知している」ということばしかかえってこないだろう。対話することで、書かれた詩から出発し、ぜんぜん関係がないところへ行ってしまう、ということがないように感じられる。破れ目がない。「完結している」というのは、そういうことである。
 和田は、また、新井の「尾道」という文章を抜粋して、感想を書いている。この文章が、私にはよく分からない。和田は、まず、次の部分を引用する。

しかしガードの向こう側には駅があり、大きな建物があり港があり、大きな建物が建って映画館もあるにぎやかな街で、海沿いの狭い地形の上を商店街が長く伸びて店が連なり、そこは人と物と音と色彩にあふれて一年中祭りのようににぎわうところなのだ。

 尾道の描写である。ガードについて、補足しながら、和田は、こう書いている。

 ガードの向こう側とあるのは、新井さんの家は山陽本線のガードより山寄りで、幼い新井さんにとっては数百メートルのガードまでが「地の果てのように遠く、たしかにそれは黒く煤けた恐ろしい門に似て、機関車が轟音を立てて上を通過するのを見てからは、いっそうおそろしい場所になった」と書いている。

 私は、とてもとまどった。新井の本をもっていないので確かめようもないのだが、新井は和田が書いたような順序で文章を書いているのか。簡単に言うと、

[A]
①しかしガードの向こう側には駅があり、大きな建物があり港があり、大きな建物が建って映画館もあるにぎやかな街で、海沿いの狭い地形の上を商店街が長く伸びて店が連なり、そこは人と物と音と色彩にあふれて一年中祭りのようににぎわうところなのだ。
②(数百メートルのガードまでが)地の果てのように遠く、たしかにそれは黒く煤けた恐ろしい門に似て、機関車が轟音を立てて上を通過するのを見てからは、いっそうおそろしい場所になった。

 と書いているのか。そうであるなら、とてもおもしろいが、私は

[B]
②(数百メートルのガードまでが)地の果てのように遠く、たしかにそれは黒く煤けた恐ろしい門に似て、機関車が轟音を立てて上を通過するのを見てからは、いっそうおそろしい場所になった。
①しかしガードの向こう側には駅があり、大きな建物があり港があり、大きな建物が建って映画館もあるにぎやかな街で、海沿いの狭い地形の上を商店街が長く伸びて店が連なり、そこは人と物と音と色彩にあふれて一年中祭りのようににぎわうところなのだ。

 という順序で書かれているようにしか思えない。そうしないと「しかし」ということばが、機能しない。無意味になる。和田が引用しているとおりの文章ならば、


[C]
①ガードの向こう側には駅があり、大きな建物があり港があり、大きな建物が建って映画館もあるにぎやかな街で、海沿いの狭い地形の上を商店街が長く伸びて店が連なり、そこは人と物と音と色彩にあふれて一年中祭りのようににぎわうところなのだ。
②しかし、(数百メートルのガードまでが)地の果てのように遠く、たしかにそれは黒く煤けた恐ろしい門に似て、機関車が轟音を立てて上を通過するのを見てからは、いっそうおそろしい場所になった。

 と、「しかし」の位置が違ってくるだろう。「論理的」に書こうとすれば、どうしても、そうなる。
 そして、ほんとうに「しかし」を省略し[A]のようにかいているのだとしたら、ここには「論理性」の大きな「欺瞞」のようなものがある「おそろしい場所になった」の「なった」の理由も書かないと、「論理」が通じない。
 言いなおそう。
 [A]のように、ガードの向こうには現代的で(?)魅力的な街がある。「祭り」のような街である。でも、それは「おそろしい」、というのであれば、そこには「現代的に発展した街」への「恐れ」が直感的に、「真実」として書かれていることにある。現代を告発する文章にもなる、先見性のある「感性」として読み直すことができる。「しかし」の意味も「逆接」よりも「強調」の意味合いが強くなるだろうし、「なった」という変化の原因も直感にとどまる。「論理」というよりも「非論理」になる。
 私が「おもしろい」と書いたのは、そういう理由である。
 しかし、和田が評価しているように新井の文章を「論理的」に読むためには(論理的に展開するためには)、[C]のように「しかし」の位置を変えないといけない。繰り返しになるが「なった」の理由も書かないと不親切である。「論理的」と評価されているはずの新井が、どうして不自然な「しかし」のつかい方をしたのか。「なった」の原因、理由を書かないのはなぜか(和田が省略しているだけなのか)、その疑問が残る。
 もし、新井の文章が、和田が引用している[A]ではなく、私が想像したように[B]の順序ならば、ここでは和田が新井の文章を意図的に操作していることになる。何のために? おそらく「論理」を超えた魅力をつたえるために。現代的な街は、それはそれとして魅力的だが、何かしら「おそろしいもの」をもっていると新井が直感していたことを暗示するからだ。あるいは、錯覚させたかった。(新井の評価を変えたくなかった。)
 
 和田は、わざと順序をかえて引用しているように感じられる。現実は「論理的」なものだけではとらえきれない。けれど、そう言ってしまうと、新井を「論理的」と評価したことが、なんとういか、半分否定されてしまう。
 そのところを、あいまいにしておきたい。
 [B]の「構成」では、まるで、経済発展こそが理想の社会(安倍のスローガン)ということになってしまう。古くさい「マッチョ資本主義」になってしまう。
 それを避けたい(新井を「マッチョ思想」と切り離したい)という意識が働いていないか。「女性詩/女性詩史」について書けば、「反マッチョ思想(フェミニズム)」とは限らないのである。マッチョ思想から見た「女性詩/女性詩史」ということもある。私は、きちんと読んだわけではないが、新井の文章からは、マッチョ思想に寄り添ったものを感じてしまう。
 これは、和田の詩についても、うすうす感じるところ。

 「対岸の人」はリバプールで人に会ったときのことを書いている。

いつまでたっても
やっぱり川で
待っていた人ははじめて会ったひとで
川のそばということを忘れ
眠るときの息をして
わたしたちはここが世界だということを
気がつく間もなくいなくなる

 「いつまでたっても/やっぱり」はおもしろいし、「川のそばということを忘れ」という一行は、とてもいい。でも「眠るときの息をして」には作為を感じ「わたしたちはここが世界だということを/気がつく間もなくいなくなる」の「世界」ということばに、私はぞっとする。

やがて対岸に帰る人と
コーヒーを飲み
鳥のようにサンドイッチをついばんで
二人で別の街のことを話している

 これが、いまの和田であり、和田のめざす世界なのだと思うが、私はぞっとする。「壺」や「金魚」のオリジナルな世界から、マッチョ思想に理解できることばの世界へ方向を変えてしまったとしか思えない。
 「鳥のように」ではなく、現代詩手帖に投稿していたころの和田なら、鳥そのものになってサンドイッチを食べていただろう。あるいは、それを通り越してサンドイッチになって鳥に食べられていたかもしれない、何もなかったように流れる川になっていたかもしれない。
 とてもよくできた、「完結した詩」であるけれど、私は、こういう詩は苦手だ。


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砂東かさね「雨」、冨岡郁子「馬の骨」

2022-03-15 10:43:54 | 詩(雑誌・同人誌)

砂東かさね「雨」、冨岡郁子「馬の骨」(「乾河」93、2022年02月01日発行)

 砂東かさね「雨」は、夏の終わりの夜の雨の情景。

アスファルトが濡れて
ひかっている
すべてがおなじ色になって
あちらとこちらがなくなる

どこに立っていたって良い
それでもこの身体は
線を引くことをやめない

 「この身体は/線を引くことをやめない」ということばに、私は思わず傍線を引いた。しかし、それから何を書けばいいのか、どうことばが動いていくのか。それは、まだわからない。
 「線」は「あちら」と「こちら」の境目にあるが、この「あちら」と「こちら」を明確に区別することはなくなる。とくに「あちらとこちらがなくなる」のならば。しかし、「あちらとこちらがなくなる」ときでさえ、「あちら」「こちら」ということばが残っていて、それが「線を引く」。それは、意識、認識の問題か。砂東は「身体」と書いている。「線を引く」のは意識、認識という抽象的、概念的なものではなく、もっと直接的なものである。
 「線を引く」は、こう言いなおされる。

傘や屋根で
濡れないように守っている

 「線を引く」というのは、雨が降った場合は、「身体」が「濡れないように守る」という行為になって「こちら」と「あちら」を分ける。
 ここからさらに「身体」の動きにことばが重なることを期待したいのだが……。

わたしたちは
空から落ちてくる雨の色を
知らない

 あ、「線」が消えてしまった、と思う。

 冨岡郁子「馬の骨」。病院。消灯後の廊下。

丹前を羽織った男が一人
背を見せて歩いてゆく
一回なのに
映像でいうと
なんどもなんども
同じ筋を
同じ背で歩いてゆく

 「一回なのに/映像でいうと/なんどもなんども/同じ筋」ということばのなかに、砂東の書いていた「線」がある、と私は感じる。ことばにすると、ある行為が「屹立」して見えてくる。この「屹立」という感じは「一回」なのに「なんど」も見たもののように見えるということ。「一回」のなかに、「一回」ではない「普遍/永遠」が見える。「一回」(個別)を「永遠/普遍/真実」が突き破る、解放する、ということだろう。
 これを、さらに、冨岡は、こう言いなおす。

スリッパの音は聞こえないのに
そこだけが規則正しく
足元を上げ下げしているのが見える

 「聞こえない」。否定形がある。しかし、その「否定」をこえて、「肯定」が動く。「規則正しく/足元を上げ下げしている」。「規則正しく」が肯定というのではない。それは、補足。「足元を上げ下げしている」。この動き。冨岡の意識、認識とは別に、男の肉体が動いている。それは「否定」できない。人間には、否定できないものがある。
 この否定できない「絶対的他者」と向き合うことは、それまで意識しなかった「絶対的自己」の発見、つまり「自己拡張/自己変革」につながる。

このまま行けば
(果たして行けるのか)

 ああ、いいなあ。どうなるか、わからない。だからこそ、ことばなのだ。「結論」がわかっていたら、ことばを動かす必要はない。「1+1=2」というような「真理/真実/結論」の前では、ことばは必要がない。

今 駆けていって
男を追い越せば
どこの馬の骨とも知らぬ
と素知らぬ顔をされることになるのか
それとも     
息が感じられるほどに近づいて
その愛おしい暖かさに圧され
我を忘れることになるのか
どちらにしても
同じかと思う

 もしかすると、病院の廊下を徘徊している男に、昔の恋人の後ろ姿を思い出したのかもしれない。顔を確認したい。昔の恋人だったら、どうなるのか。人違いだったら、どうなるのか。
 こういう「メロドラマ」は、どうでもいい。
 「どちらにしても/同じかと思う」。たしかに同じだろう。砂東が書いているように「こちら」も「あちら」も同じだ。「1+1=2」のように、それは変わりようがない。
 「違い」、「区別」するのは、認識ではなく、運動である。
 変わるのは「駆けていく」が「駆けていかないか」という肉体の運動である。追いつき、顔を見てしまえば「線」は消える。行動を起こす前に、「線」はまるで「壁」のように前に立ちはだかる。
 だから。
 この詩は、

このまま行けば
(果たして行けるのか)
廊下の突き当たり
東の端はたしか外に通じていた
通り過ぎる男の頭の横
窓の外に
ほおずきのような太陽がかかっている
それは熟した朱(あけ)の中心に向かって渦を巻いている
黙している長椅子に
ほおずきが落ちた

 ここで終わった方がおもしろいと思う。この終わり方では、わけがわからない(結論がない)ように見えるけれど、「結論」は読者がかってにつくるもの。「1+1は、いくつ?」というのが詩なのだろうと思った。
「線を引く」のは「肉体を守る」ためではなく、「肉体を動かす」ためなのだと思う。「肉体を動かす」ための「線を引く」とき、その「線」は詩になる、と思った。

 


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細田傳造「毒虫毛虫」

2022-03-14 21:41:27 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「毒虫毛虫」(「雨期」78、2022年02月28日発行)

 細田傳造「毒虫毛虫」は、こうはじまる。


さみしさっていいな
ひとりっきりの旅っていいなあ

 「さみしさ」と「ひとりっきり」は同義語である。なぜ、「さみしさ」を「ひとりっきり」と言いなおしたか。「さみしさ」では、何か、違うのだ。
 どう違うか。

つれずれに宮澤賢治を開く
列車は花巻温泉あたりを疾走している
風の音を聞きそぼりうたたねをしていると
わたくしも賢治が好きです
澄みきった令女の声もする…
片目を開けて隣のひとにきっぱりと告げる
僕は黒田喜夫が好きです
ご返事はありませんでした

 「さみしさ」はときとして共有される。感情は共有される。それは「宮澤賢治が好き」の「好き」を共有するようなものである。細田は、この共有された何か、というものを嫌う。黒田喜夫が好きだとしても、その「好き」をだれかと共有したいと思わない。あくまで、細田と黒田喜夫の「関係」である。そこには細田と黒田という二人の人間がいるのだが、これを細田は「ひとりの関係」ととらえる。細田がかってに黒田を好きになっているだけ。黒田が好きだからといって、黒田を好きな細田を黒田から認識されることをもとめていない。
 ここで細田が黒田の名前をもちだすのは、ほんとうに黒田が好きだからか、それとも「毒虫(毛虫)」と関係しているのか、よくわからない。それはまた逆に言えば、細田は「毒虫」という詩が好きだから黒田が好きといっているだけのことであり、黒田の詩のすべてが好きかどうかはわからないということである。でも、これはあたりまえだね。いつでも、「一対一」の関係があるだけ。
 「ひとりっきり」というのは「一対一」の関係の出発点である。
 細田は、誰とでも「一対一」である。その「一対一」から、関係を広げていくことはしない。「友達の友達は、みな友達だ」という感覚は、細田からはいちばん遠い感覚だろうと思う。

あぶねんどあぶねんどあんちゃんあぶねんど
こんどこそ片腹にちゃんと年増の声がした
むしょうにおふくろと交合したくなって
赤羽で降りる
キャバレーパピヨンに屹立を挿入してみれば
ステージで菅原洋一が歌っている
あなたのかこなどしりーたくないの

 これが「事実」かどうかは、私は、興味がない。この菅原洋一というか、「あなたのかこなどしりーたくないの」は「ひとりっきり」に通じていることに、ちょっと「抒情」の深さを感じ、おもしろいと思う。
 「あなたの過去など知りたくない」とは「過去」に「あなた」が「誰」と関係していたか、その「つながり」のことである。誰でもだれかと関係している。つながりを持っている。そんなものは、「あなたと誰か」の「一対一」のなかで完結していればいい。私は、そういう他人の関係を自分の関係の中には持ち込みたくない。ただ「あなた」と「一対一」でいたい。
 これが、細田の「思想」のすべてである。
 しかし、細田は、詩をこう展開する。

きゅうに俺の過去など話したくなって
パピヨンを出ていく
「女性求ム」張り紙のしてある裏口に
ガラスの小瓶を置いてそっと立去りぬ
しばし別れの毒虫毛虫たちよ

 誰に話すのか。「一期一会」のひと、話すとしたら絶対に二度とあわないひとに話すしかないのだが、そういうことは不可能かもしれない。「一期一会」といっても、それは、いろんな出会いの中に形を変えてあらわれてしまうからねえ。
 だから、旅の初めに捕獲した(?)毒虫をいれた小瓶を置いて、細田は去っていく。

 なんて。
 こんな「意味」を書いてしまっては、細田の詩はつまらなくなるね。
 だから、細田の詩は、こわい。
 細田の詩を読んでいるのか、細田に私が読まれているのか。
 どんなことばも「共感」に向かって動いてしまう。「ひとりっきり」よりも「さみしさ」の方に向かって、感情という「意味」に向かって動いてしまう。

みんなみんな何処へゆく
あしたには揚羽蝶紋白蝶になって
飛んで飛んでいってちょーだい
花巻はほんとうはハナノマキでねえ
ほんどはアナノマギっていうんだど
きのう上野行の1番線のプラットフォームに
浮かんでいたもの言わぬ蜆の蝶の
フランシーヌに
もいちど会いたい

 「感情の意味」を書きたい衝動にかられるが、やめておこう。「花巻はほんとうはハナノマキでねえ/ほんどはアナノマギっていうんだど」という二行を読みながら、あ、細田はほんとうにいい耳をしているなあと感じた、とだけ書いておく。細田の詩が読みやすいのは、音がきちんとしているからだ。私は耳が悪いから、最後の三行からは、思わず、別の人間を思い浮かべたが、誰を思い浮かべたかを書くとつまらなくなるので、書くのはやめておく。
 なんでも中途半端にしておくのがいいかなあ、と近頃思う。
 とくに、詩は、中途半端に読んでおくと、突然、記憶の中から噴出してくるので、楽しい。

 


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Estoy loco por espana(番外篇150)Obra Calo Carratalá

2022-03-13 19:43:14 | estoy loco por espana

Calo Carratalá
Selva de hierro verde n3 . Acrilico sobre plancha de hierro 150 cm diámetro año 2022

La maravilla de los cuadros de Calo reside en su perspectiva única.
Este cuadro es simétrico en su parte superior e inferior. 
La casa y los árboles se reflejan en el agua.
Puedo cruzar el agua (por ejemplo, en una barca) y llegar a la orilla y a la casa.
Sin embargo, no se puedo entrar en el verde que hay detrás.
La simetría de las imágenes superior e inferior provoca una "sensación de opuestos enfrentados" - "aceptar" y "rechazar"- en el primer plano y en el fondo.
Detrás del verde pintado hay una "masa de verde" sin perspectiva.
Sólo quien conozca los matices del verde del bosque y la perspectiva del mismo podrá adentrarse en este cuadro y en las profundidades del bosque pintado.
Me siento "rechazado por el bosque", siento por un momento.
Pero también me siento como si el verde me invitara a rechazarme para abrazarme más íntimamente, para agarrarme y no dejarme ir.


Caloの絵の不思議さは、独特の遠近感にある。
この絵は上下が対称である。水に家と木が映っている。
水を渡って(たとえばボートに乗って)、岸辺、家にまではたどりつける。
しかし、その背後の緑の中へは入っていけない。
上下の対称のイメージが、手前と奥とでは、「受け入れる」と「拒絶する」という「反対のものが向き合っている感じ」を引き起こす。
描かれている緑の背後には、遠近感のない「緑の塊」がある。
この絵の中へ入り込み、さらに描かれた森の奥にまで入り込めるのは、森の緑の濃淡、森のなかの遠近感を知っている人だけなのかもしれない。
「私は森に拒まれている」と私は一瞬感じる。
しかし、緑が私を拒むのは、より親密に受け入れる、つかまえて離さないためだと誘っているようにも感じられる。

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山本育夫『HANAJI 花児1984-2019』

2022-03-13 11:30:56 | 詩集

 

山本育夫『HANAJI 花児1984-2019』(思潮社、2022年02月22日発行)

 山本育夫『HANAJI 花児1984-2019』を読みながら、『ボイスの印象』の、最初の印象が消えてしまった。これは、いいことか、悪いことか。まあ、詩にとっては関係ないことかもしれない。詩は、ことばだからね。装丁なんかは関係がない。ことばがどう動くかだけ、と書きながら、いや、違うかもと思う。私には、初版本の、ざら紙に印刷された、読みにくいことばの印象が強く残っている。その印象と山本の詩は切り離せない。こんなふうに、整然と整えられてしまうと、ちょっと違う。
 ちょっと違う、と書いた、その意識の底から」違わない」何かが、突然動き始める。それは、山本の詩は「絵画的」ということである。別のことばで言えば、「空間的」である。これは、「時間的」な印象よりも「空間的」な印象が強い、ということである。
 ことばは、特に話ことばは「時間的」である。聞いた先から、ことばは消えていく。消えてしまうことばを、思い出しつづけないと、ことばの全体がつかめない。ところが、山本の詩は、印刷されていることもあるが、いつまでも「視覚」のなかにとどまっている。思い出さなくてもいい。思い出すということにエネルギーを注ぐ必要がないので、ことば「散らばり方」を全体として眺めることができる。絵を見るように、である。もちろん1ページ、あるいは見開き2ページで詩が完結するわけではないから、ほんとうに視覚だけでことばを読んでいるわけではないのだが、何か、絵画を見ているような印象があるのだ。「視覚的」であって「聴覚的」ではない。最近は、音にこだわった詩も書いているように見えるが、あれも「聴覚的」というよりは、「音の分布の視覚化」かもしれない。と、書くとまとまりがつかなくなる。
 まとりまがなくてもいいのかもしれないけれど。
 でも、すこしまとまったことを書いておきたい。
 「もぐさの匂い」。これは簡単に言ってしまうと、突然の下痢におそわれた男が、草原で排便する詩である。というか、一枚の絵を見ながら、その絵のなかで下痢に襲われた男が草原で排便するのを想像している詩である。二重構造である。いや、絵画的情景をことばで再構成しているわけだから三重構造である。
 これを私が「絵画的/空間的」というのは、この重なりあいのなかで、重なるのはあくまで「情景」であって「時間」ではないからだ。
 つまり、時系列で言うと。もし、これが「現実」ならば、と仮定しての「時系列」だが、それは、こうなる。
 ①男が下痢に襲われて、草原で排便する②その情景を画家が描く③その画家の描いた絵が含まれる画集を山本が見ている(そして、そのことを詩に書いた)
 ところが、実際にことばとして書かれているものを読むと(見ると)、その読んでいる瞬間(見ている瞬間)、「時系列」を意識することはない。時間(行動)が描かれているにしても、それは前後の時間と結びついて「時系列」をつくるというよりも、「時間」を無視して、「空間」を構成している「もの」と結びつき、「映像」になる。

ジォットーの絵か、
さもなくば、フェルメール、踏みしだいて、
その光線を、模写する、
そして、くり抜き、窓から放り投げる、
男は、腹痛のために、
下腹部にあらん限りの罵声を投げつける、
窓から見える、草原がしなって揺れる、
と、口に出す、それからパンツ一枚、に、
なって激しく削り出す、

 まあ、実際は、トイレで苦しみながら、トイレの窓から見える風景を見ているのかもしれない。合間合間に、画集を開いて見ているという、いささかこっけいな情景かもしれない。実際に画集を開かなくても、記憶のなかで、トイレの窓から見える青空から草原を連想し、さらにだれかれの絵を思い浮かべているという、奇妙な時間が描かれているのかもしれないが、ここにはあくまで「時間」ではなく「空間/絵画」の世界が展開しているだけである。

窓から見える、草原に光って揺れる、と、
飛び出すが、着地したショーゲキ、で、
パンツのでんぶからいきおい余って、
漏れ出す愛がみるみるビタビタにパンツ
染めあげ太ももしたたって、
キラリキラリと、光りはじめている、

 ここには「時系列」はある。しかし、この「時系列」というのは、「下痢をした、排便した下痢のはねかえりでパンツまで汚れた」という「一瞬の内部の時系列」である。「ミクロの時系列」であり、「歴史的な時系列」ではない。だから、そこで展開するのは、あくまでも「絵画的」な世界である。
 このあと、詩は、

にもかかわらず、

 という一行を挟んで、この絵画的世界は転調するが、転調するにもかかわらず、あいかわらず絵画的である。

にもかかわらず、
草原の、輝きっ、いっちょーらの、
滅裂!
そうして、満面、水をたたえた青、の、
波の絵に、ザンブと飛び込むが、
フェルメールの光は、横手にひらひら、
揺れているばかりだ、
水面に浮かぶ汚物達のあわいで、
あんなに懐かしそうに手振っている、
一生懸命、めっ、
あわててケツの穴を押さえている、
一生懸命、めっ、

 これは、トイレのあと、風呂でからだを洗っているところか。洗いながら、過去の失態(?)を思い出しているところか。
 だから、ここには「時系列」はあると言えばあるのだが。
 この「時系列」は、ある意味では「絵巻物」の「時系列」。ひとつの空間のなかで、そこに描かれている存在が動いた結果の「痕跡」としての「時系列」。見渡せる「時系列」であり、ことばによって因果関係を証明する「時系列」(歴史)ではない。
 「鳥獣戯画」を思い起こせばいいが、それは「時系列」のように見えて、現実には、同時に起きていることでもあるのだ。絵巻物をほどきながら見ていくと、そのほどくという行為がもつ「時間」が物語のなかに「時間」をつくりだすだけで、それは「同時」に起きている。
 山本の詩でも、ことばを「読む」という行為がつくりだす「時間」が、この詩に描かれている下痢、排便、風呂でからだを洗うという「物語」を「時間化」しているのであって、実際に下痢をして排便し、風呂でからだを洗っている男にとっては、それは「時系列」にととのえて見直す行為ではなく、「ひとつづきでひとつ」の一瞬(一日)のことにすぎない。「時系列」というようなめんどうな思考が入り込むものではない。逆に考えれば、わかる。ここに描かれている下痢、排便、汚れる、風呂という「時系列」は、それ以外の「時系列」は考えられない。順番が絶対に変わる可能性のない「時系列」は「時系列」など問題にしない。
 だからこそ、詩は、こんなふうに展開して終わる。

しかし、時はたつはずもないから、
もぐさのような匂いのたちこめるこの部屋
では、さっきから「私」が、
肴をしゃぶりつつ、
一頁、画集をひらいているところだ、
その絵の、草原の陰で、
おこっていることなど、
知らぬ。

 「しかし、時はたつはずもないから、」という唐突な一行。なぜ、この一行を書いたのか。それを書かなければ、ことばが動かないからだ。
 「時はたつはずもない」は「時がたたなくても」(時間がなくても/時系列がなくても)世界は存在するということである。
 「時間」は、ひとが勝手につくりだすもの。何かを考えるために必要としているものにすぎない。「仮説」であって、そういうものがなくても「世界」は存在する。「空間」は存在する。「空間」は幾重にも重なり合って、「間」をつくる。その「間」に「時間」が勝手に入り込んでいるだけだ。そんなものなど、山本は必要としていない。

その絵の、草原の陰で、
おこっていることなど、
知らぬ。

 は、山本の「空間認識」を語っていて、とてもおもしろい。「空間」は重なり合う。「空間」には見えないところもある。「もの」が「もの」を隠してしまう。そこで起きていること(隠されていること)など、「知らない」と言ってすませることができる。
 だからね。
 逆に言えば、山本が(?)、下痢をして、パンツを汚しただけではなく、一張羅まで汚してしまった。そのあと、ひとりでこっそりからだを洗って知らん顔している、なんてことは、誰も見ていないのだから、そんなことは「おこらなかった」と言うことができる。自分のことだけど「知らぬ」と言えば、もちろん、隠し通せる。
 山本にとって「時間(過去)」は隠せる。しかし、山本が存在している「空間」そのものはなくならない。空間への絶対的な信頼性、視覚への信頼性が、山本のことばの奥にある。

 だからこそね。私は言いたいのだ。初版本のざら紙の本には、そのざら紙の「必然性」があった。たしか誤植の多い詩集で、正誤表がついていたが、それさえも『ボイスの印象』の「存在証明」だったと言える。装丁を含めて「作品」だったのだ。

 

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細田傳造『まーめんじ』(3)

2022-03-12 13:47:43 | 詩集

細田傳造『まーめんじ』(3)(栗売社、2022年03月03日発行)

 きのう、細田傳造『まーめんじ』の感想、その2を書きながら、つまり、タイマーの時間が切れるのを気にしながら「共存」と「併存」のゆらぎ、というような、ちょっとした思いつきについて書けたらいいなあ、と思っていた。
 「共存と併存のゆらぎ」なんて、何のことかわからないが、それは書きながら考えればいいと思っていた。
 そして時間切れで書き終わった瞬間、細田と谷川のいちばんの違いは「不透明さ」だな、と思った。
 谷川は、あくまで「共存」をめざす。「共存」を支えるのは(あるいは可能にするのは)は「透明性」である。障害物のなさ、と言い換えることができる。「共存」は、相互に浸透するのである。「併存」には相互の「浸透性」はない。相互に浸透してしまえば「ひとつ」になってしまって、「別個のものが存在している」という感じがしなくなる。「他人」がいなくなってしまう。「共存」も他人がいないと「共存」ではないのだが、「共存」のときは、たとえば「こころ」が、あるいは「認識」がどこかで共有されている。素行浸透がある。ところが「併存」は、相互浸透などもとめない。どちらかというと、「壁」を挟んで、互いの「不可侵」をこそ要求するところがある。
 で、これをまた別の比喩で言うと。
 そういうことを書こうと思ったら、突然、比喩が浮かんできたということなのだが。
 谷川は「水晶」、細田は「鏡」という感じがしたのだ。ふたつに共通するのは「きらきら」という感じ。
 ところが。
 「水晶」のなかには不純物はない。透明である。ただし、この透明はくせもので、たとえばそのなかを光が通ると、分光しさまざまな色にわかれる。これが谷川の世界。もし谷川に不透明があるとすれば、この「分光」の不思議さにある。
 一方の鏡。これはガラスの底に朱泥の不純物を隠している。光は、通過することができずに、反射する。そして、この反射は、あらゆる反射がそうであるように、まっすぐである。そして、それは「集光」の結果のまぶしさである。これが細田の世界。
 「分光」と「集光」。
 それから、「鏡」の底の朱泥。ここから、私は、「おばさんパレード」につながる感覚を思いだしている。細田の詩は「おばさん」の詩に通じる何かがある。「不透明」の強さがある。
 そういことを書いていけたらなあ。
 で、そういうことが、きょう書くことの「テーマ」、あるいはめざす結論。

 でもね。
 こういうことは成功しない。私はだいたい「結論」を決めずに、ただ、その場その場で、思いついたことを時間内に書き続けるだけ。
 きょうのように「テーマ」を決めて、それから「テーマ」にあった詩をさがしてみようと思ったら、それが、ぜんぜん、見つからない。それだけではない。きのうまで、あんなにおもしろかった細田の詩が退屈になってしまった。この退屈は、ほんとうは正確ではなくて、「テーマ」にあって詩が見つからなくて、私が勝手にいらいらしているだけ。

 だから、もう一度方針転換。
 具体的な作品を引用できなかったが、書きたいことは、もう書いてしまった。だから、その「結論」を壊すために、これから思いついたことを書く。「結論を壊すために書く」というのが私の唯一の方法だから、やっともとにもどったということでもあるのだけれど。
 きょう読むのは、「のろのろとした話」。私のことばも、ここまでくるまで、「のろのろ」したから、ちょうどいい。リズムがあう。でも、書きたいと思ったのは、別の理由。それをこれから書いていく。
 「のろのろ」とした電車に乗って、どこかへ行く。町の名前はあかされないが「旅館」は明示される。

岡野屋という旅館に上がった
三階の部屋から海がみえる
のろのろとした海だ
冬の日本海のくせに温和しい
意外な気がしてながいあいだ海を見ていた
おのみものはなににしますか
女の人がききにきた
のろのろとした女とビールをのんだ
ちゃんぺしますか
女の人がきいた
きょうはしない
あした決行する
明朝禄剛崎懸崖より飛翔する
真摯に風と交感し海水に挿入したまま果てる

  「禄剛崎」が出てきて、能登だとわかるのだが、私が驚いたのが「ちゃんぺしますか」という一行である。これは標準語(?)で言えば「オマンコしますか」である。あ、まだ、このことばをつかう人がいるのだということに驚いた。私は中学生の頃までは、このことばを聞いた。高校では聞かなかった。たぶん文化圏が違う。私の名前を「やち」と読むところでは通じることばである。きわめて限定的なことばだと思う。
 このことばを実際に女の人が言ったのか、それを細田が聞いたのか、それはわからない。「女の人を呼びますか?」くらいのことを聞かれて、細田が「そういうことを、能登ではどういう?」と聞いたのかもしれない。それを書き留めたのかもしれない。
 問題は。
 こういうことを、「標準語」というか、だれにでも通じることば(相互浸透性のあることば)でつかみとるのではなく、もっと「個別的」(不純物)を含んだ、洗練されない(?)ことばでつかみとり、その「不純物」の方に細田が近づいていくということがおもしろいのだ。
 一方で、「標準語」に生まれ変わる前のことばに近づきながら、他方で、「オマンコをする」を「交感」「挿入」「果てる」という、比喩的、抽象的なことばへと動いてみせる。ことばとの「距離」、他人(ここでは女の人)との「距離」の取り方がとてもおもしろい。「する」を「決行する」と言い直すとき、「飛翔」は「果てる」と呼応するが、この変化がとてもおもしろい。
 この変化は、もしかすると「まやかし」かもしれない。

 きのうとはぜんぜん違うことを書こうと思ったのに、書いていると、やっぱりきのうをひきずるなあ。
 脱線した。

 こういうことを書きながら思うのは、「まやかし」ということばもそうだけれど、それを定義し、きちんと説明しようとすると、なにかうまくいかない。
 「オマンコする」と「ちゃんぺする」は、行為(意味)としては同じかもしれないが、「ちゃんぺする」ということばをつかってきた人間が「オマンコする」というとき、そこには何か捨ててしまったものがある。「性交する」になると、もっと違う。「性交する」とか「オマンコする」とは違うものが「ちゃんぺする」にはある。
 つまりね。
 「出生の秘密」(お里の秘密)のようなもの。「お里が知れる」。「お里が知れる」ということは、「お里を隠したい」という気持ちの裏返しかもしれない。誰でも「生まれてくる」。生まれてきて、育つ過程で、その人固有の何か、他人には譲れないような、「標準化」を拒んだものを身につける。生きていくということは、ある意味で「標準化」を利用することだけれど、「標準化」したくないものがある。いや、できない「根っこ」のようなものがある。
 こういうものを細田はすばやくつかみとる。
 「方言」とは、ある固有の地の、固有の「ことばの肉体」である。それは「ちゃんぺする」のように「肉体のことば」と深く絡みついている。
 他方に、それとは別の「ことばの肉体」がある。「決行」「飛翔」「交感」「挿入」「果てる」。これは、いわば「文学=共有された文化」の「ことばの肉体」。
 細田は、そういう「ことばの肉体」との「距離」の取り方が、とても正確である。どんな文学よりも、激しく「文学的」である。「距離」の組み合わせ方が、「新しい文学」になっている。言いなおすと、「細田語による文学」がそのとき誕生している。
 あ、私の書いていること、なんだか、面倒くさいでしょ?
 こういうとき、能登弁(あるいは加賀弁?)では、どういうか。

あしたちゃんぺする
そういうふうに心情を吐露していると
女の人はなにかのんびりしないことを
口早にいった
いじくらしい

 「いじくらしい」が、それ。
 タイトルにもなっている「のろのろした」と反対のことを、細田はまず「のんびりしない」と言い直し、さらに「口早」と言い直している。そのうえで「いじくらしい」という。
 つまり、「のろのろとしている」と女の人は、細田を批判したのである。わずらわしい、めんどうくさい、いやなやつ。
 いやあ、こんなふうに端的に批判されると、もう、どうしていいかわからないね。

きょうのうちに勘定ちゃんとすませ
襖戸を開けたまま着物の女の人は消えた
有り金を数えていると
波の音がしてきた
くちゃーくちゃーくちゃー
なんとなく
せからしか夜になった

 「くちゃーくちゃーくちゃー」にはやはり能登弁(加賀弁の、語尾の「ちゃあ」)が隠れているところがおもしろい。なんとなく「のろのろ」としている。のろのろしていてもかまわないのだけれど、「いじくらしい」と言われた瞬間に、せき立てられてしまう。
 最後の一行の「せからしか」ということばは、私は能登では聞いた記憶がない。九州でよく聞くことばである。「わずらわしい」という意味では「いじくらしい」ににていないこともないが、対比してみると、違いが、私の肉体のなかで鮮明になる。
 「いじくらしい」は「めんどくさい」だけではない。「いじいじしていて、めんどうくさい」というときの「いじいじ」が含まれているのが「いじくらしい」なのである。
 「オマンコする」ときに「いじいじしているなんて」。
 細田の「文学としての、ことばの肉体」は「能登の、くらしの、ことばの肉体」からみると、「いじいじ」しているのだ。

 と書きながら。

 細田のことばの魅力は、そういう「いじいじ」した「ことばの肉体」を、この詩の中にでてきた「いじくらしい」のように、どこかで、ばさっと切って捨てるものをもっている。「標準語(とりすました浸透性のあることば)」を切って、その瞬間に、標準語の切り口(断面)を見せるのではなく、切った主体(くらしの、ことばの肉体)の不透明な強さを見せる。「標準語」がいくら広がっても、絶対に、その「透明な浸透性」におかされない「全体的な不透明性」を生きる「ことばの肉体」がある、ということを明らかにする。

 これは。(説明がめんどうなので、飛躍すると……)
 ある意味では、私が「おばさんパレード」と呼んでいる女性たちの作品に通じるものである。
 谷川はいろいろな詩を書くが(さまざまな声を彼自身の詩なのかにとりこむが)、どうしても「おじさん詩」にとどまり「おばさん詩」にはならない。「透明性」が高すぎる。「不透明性」がない。細田は、「おばさん詩」にいちばん近い。「おばさんパレード」という詩の感想文をまとめるのが、私の、ひとつの夢だが、そのときは細田の詩もそこに含めたい。
 「共存」ではなく「併存」の形で。
 細田の「鏡」に写すと、「おばさん詩」の魅力は、いっそう美しくなる。私は、そう確信している。細田は、男が引き継いできた「ことばの肉体」と同時に、女が引き継いできた「ことばの肉体」を、しっかりと肉体化している。

 

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細田傳造『まーめんじ』(2)

2022-03-11 11:57:30 | 詩集

細田傳造『まーめんじ』(2)(栗売社、2022年03月03日発行)

 きのう、細田傳造『まーめんじ』を読みながら「併存」ということばを思いついた。その感覚が谷川俊太郎のことばと似ている、ということを書いた。書いたが、かなり修正というか、補足しないといけない、といま思っている。私はいつでもそうだが、結論を考えて書き始めるわけではなく、書いていると自然にことばがどこかへ動いていく。それを追いかけて書き留めるだけなのだが、そうするとどうしても書き漏らしが残る。私は目が悪い関係もあって40分タイマーをつかって時間限定で書いているので、書き残しがあってもしようがないと思っている。どうしてもつづきが書きたければ、次の日に書く。次の日に忘れてしまうこともあるが。
 で、きょうは、きのうの「つづき」。
 また「匂い」から。

くちぼそ たなご はや
釣り上げた小魚の匂い
にびき はいごま じゅんぱく
飼っていた伝書鳩の匂い
黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師
棲んでいた町の人間の匂い

 この「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」ということば、一種の「差別語」。新聞やテレビでは、つかわない。つかえない、かもしれない。岩波書店だったら出版をことわるかもしれない。
 そして、谷川俊太郎もつかわないと思う。つかうとしたら、そういうことばだけを集めた、特別の詩集。「悪口詩集」とか「差別語詩集」とか。そういうことばを「共存/併存」させないのが、まあ、ひとつの社会の理想としてある。そういう「暗黙の理想(暗黙の思想)」を多くのひとは受け入れている。
 でも、細田は、こういうことばを書く。
 細田のことばが「許される」のは、たぶん、そう書いたあとすぐに「棲んでいた町の人間の匂い」と、そのことばを言いなおしているからだ。
 「人間の匂い」。
 それは、「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」の「匂い」ではなく、彼らをそう読んでしまう「町の人間」の「匂い」である。「差別される人間の匂い」ではなく、「差別する人間の匂い」。そういう人間がいるのだ。いつの時代でも、差別することで自分を守っている人間がいる。そういう「人間の匂い」は、なかなか、つかみにくい。「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」という「差別された人間」に比べると、「差別する人間」の方が圧倒的に多い。
 「匂い」の特徴は、その「匂い」のなかに入り込んでしまうと、「匂い」を自覚できなことである。どんな汚いトイレ、臭いトイレであっても、下痢をして駆け込んで、糞をしているときは、その匂いは忘れる。トイレに飛び込んだ瞬間、臭い、汚いと思っても、そんなことを忘れる。カレーのような強い匂いでも、カレー屋に入ってカレーを食べているときは、「ここのカレーはとてもいい匂いだ」と思い続けて食べることなどできない。
 でも、それは、存在する。
 この「意識できない匂い」を細田はことばにすることができる。
 「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」という「差別される人がいた」ということをことばにし、そうすることで「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」を差別するのではない。「差別される人」がいるということは「差別する人」がいるということである。「差別される人」の側に立って、「差別するのはよくない(正しくない)」と主張するのは、意外と簡単。自分の「正しさ」の証明になるから、多くのひとは、そういうことを積極的にする。
 細田のしていることは、そういうことではない。「差別される人」がいるなら「差別する人」がいる。そして、人間は「差別する人」とも「共存/併存」しているということである。そこから、目をそらさない。「事実」に踏みとどまって、「事実」をことばにする。安易な理想化、自己弁護をしない。この、強さ、冷徹さのようなものが、細田のことばを貫いている。「どっちにも、属さない。私は個人である」という「個人」の感覚が、絶対的なゆるぎなさで存在し、それが細田のことばを支えている。「どこにも属さない」(個人でありつづける)ための「方法」が「併存」であり、細田はそれを「確立」している。
 こういうことは、まあ、書いてもしようがない。細田だって、こういう面倒くさいことは言われたくないだろう。むしろ、それを言ってはダメ、というのが細田のことばの根本にある。
 「まやかし」という作品は、「まやかし」とは何か、と小学二年の孫娘に聞かれた細田が、答えにつまりながら、それでも答える詩。

老人は目を伏せて言う
  人間のくせに小鳥の歌を歌うこと
  あたまの良いこはみんな
  小鳥の歌を歌って
  青春をやり過ごし
  まやかし

 細田は、そういう「あたまの良いこ」を排除はしない。「共存」もしない。つまり、「あたまの良いこ」のグループに積極的に加わるわけでもないし、「あたまの良いこ」をもとめる「先生」のいいなりにもならない。「併存」している人間として受け入れている。そういう人間がいるのだ。
 でも、ほかのこは? まだ娘は鋭い質問をする。

あたまのふつうのこはぁ
  ふつうのこはたいてい
  エロスの海におちて濡れ鼠
  かぜをひく

 「エロスの海におちて濡れ鼠」ということばが小学二年生にわかるとは思えないから、たぶん、細田は、ほんとうはこう答えていない。ここからは、細田の一種の「創作」。細田の「肉体」が、「肉体」のなかでことばをさがして動いている。いまは、小学二年の孫娘にはわからない。だが、いつか、そうだったのか、とわかるはずという確信のようなものがある。「事実」とわかるときがくるまで、それは孫娘の記憶のどこかに残っていればいい。「併存」とは、そういうことでもある。いつも意識するわけではない。

おばかのこはぁ
  ばかなこは混沌の海に漂って
  プランクトンになる

わたしプランクトンになるのぉ
  あなたは小鳥の歌は歌わない
  エロスの海に落ちない
  プランクトンにもならない
  プラトンになってください
  まやかしをたべて大きくなってください

 細田は、ことばというものが「まやかし」であることを知っている。最終連はとても美しいが、こういう美しさは「まやかし」である。この詩は「まやかし」そのものである。そう知っている。そう知っていて、それを「併存」させる。「まやかし」が必要なときもあるのだ、ということを「併存」させる。「共存」ではなく、細田は、あくまで「併存」させる。なかに入り込まない。そばにいる。隣にいる。くっついたり、はなれたりする。この「距離感」。「共存」してしまうと、「共存」を支える「論理(意味)」のようなものにしばられる。そうならないための、「距離」というものがある。
 谷川は、この「共存」からの解放を「ナンセンス」として表現する。「ナンセンス」は「無意味」というよりも「非意味」、言い換えれば「未生の意味(意味以前)」ということでもある。
 「プランクトンにもならない/プラトンになってください」は「ナンセンス」ではなくひとつの「意味」になってしまっている。
 つまり。
 細田は「非意味」によって、細田の「肉体」を解放するということは、ない。少なくとも、私は、そういう詩をすぐに思い浮かべることはできない。
 こういうところも、まあ、谷川とは違う。別の人間、別の肉体を生きているのだから、違っていてあたりまえなのだが。

 「肉体」とは、何か。「えっち」という詩がおもしろい。

二組の徳永悦子は
えっちだ
まじめな女子だけど
なまえが悦子なので
えっちだ
えっちとよぶと
いやーといってぶつふりをする
悦ちゃんと呼んでと言う
でもぼくはえっちと呼ぶ
しつこく言っていると
おこってぶちにきた
せまってきたときの悦子の唇は
捲れていて
悦子さまと呼びなさい
と耳元で言った
息が匂う
触ったことのない匂い
棒立ちになって
後ずさった

 「触ったことのない匂い」。これがいいなあ。「匂い」はもともと「触れない」。それなのに「触ったことがない」という。
 これは「触られたことがない匂い」だな。「匂い」が細田に「触ってきた」のだ。細田が「触られた」のだ。そのあとの「棒立ち」は、簡単にいえばペニスが棒立ち、勃起した。勃起したら、そのまま「エッチ」に直進してもいいのだけれど、この「触られた感じ」が初めてなので、瞬間的に動けなくなった。動けるのは「前」ではなく「後ろ」である。「距離」を「つくった」のだ。「距離」は自分を守る方法なのだ。
 だから、逆に言うと、愛する、セックス(エッチ)をするというのは、自分を守っている「距離」を捨ててしまうこと。自分が自分でなくなってもいいと覚悟すること。「併存」ではなく、「共存」するのこと。
 ということは、まあ、ここまでにしておこう。
 少しもどろう。
 私は「触ったことのない匂い」を「触られたことがない匂い」と読み替えたのだが。
 こういうことは、詩を読むときにもある。あるいは絵を見たりするときにもある。私は詩を読む、絵を見る、と書くが、そのとき、能動的なのは私だけか。詩が私を読む、絵が私を見る、ということが同時に起きるはずである。相手が「人間」ではなく「文字」や「色/形」であるために、そう気づかないが、いつでも私は読まれているし、見られている。言いなおせば、そのことば、その色、形のまえで、私はどこまで私であることを変えていくことができるか、を問われている。
 細田は悦子の唇に、「えっち」と呼んでいた少女以上のものを感じた。触られたのだ。悦子の唇は、細田に触りながら、細田がどこまでかわることができるか、問いかけてきたのだ。「えっち」と呼んでいるときは、まだ悦子に触られてはいない。細田がかってに空想のなかで触っているだけだ。「触る」ための「距離」が崩壊し「触られる」ことによって「別の距離」ができた。そこから細田は大あわてて、細田の知っている「距離」にもどった。でも、もどったとはいっても、もうそのときは「前の距離」とは違っている。「匂い」を「共有」してしまった「距離」だ。

 また、時間がなくなった。つづきはあした書こう。つづくかどうか、わからないが、いまはそういう気持ち。

 


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