詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細田傳造『まーめんじ』(2)

2022-03-11 11:57:30 | 詩集

細田傳造『まーめんじ』(2)(栗売社、2022年03月03日発行)

 きのう、細田傳造『まーめんじ』を読みながら「併存」ということばを思いついた。その感覚が谷川俊太郎のことばと似ている、ということを書いた。書いたが、かなり修正というか、補足しないといけない、といま思っている。私はいつでもそうだが、結論を考えて書き始めるわけではなく、書いていると自然にことばがどこかへ動いていく。それを追いかけて書き留めるだけなのだが、そうするとどうしても書き漏らしが残る。私は目が悪い関係もあって40分タイマーをつかって時間限定で書いているので、書き残しがあってもしようがないと思っている。どうしてもつづきが書きたければ、次の日に書く。次の日に忘れてしまうこともあるが。
 で、きょうは、きのうの「つづき」。
 また「匂い」から。

くちぼそ たなご はや
釣り上げた小魚の匂い
にびき はいごま じゅんぱく
飼っていた伝書鳩の匂い
黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師
棲んでいた町の人間の匂い

 この「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」ということば、一種の「差別語」。新聞やテレビでは、つかわない。つかえない、かもしれない。岩波書店だったら出版をことわるかもしれない。
 そして、谷川俊太郎もつかわないと思う。つかうとしたら、そういうことばだけを集めた、特別の詩集。「悪口詩集」とか「差別語詩集」とか。そういうことばを「共存/併存」させないのが、まあ、ひとつの社会の理想としてある。そういう「暗黙の理想(暗黙の思想)」を多くのひとは受け入れている。
 でも、細田は、こういうことばを書く。
 細田のことばが「許される」のは、たぶん、そう書いたあとすぐに「棲んでいた町の人間の匂い」と、そのことばを言いなおしているからだ。
 「人間の匂い」。
 それは、「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」の「匂い」ではなく、彼らをそう読んでしまう「町の人間」の「匂い」である。「差別される人間の匂い」ではなく、「差別する人間の匂い」。そういう人間がいるのだ。いつの時代でも、差別することで自分を守っている人間がいる。そういう「人間の匂い」は、なかなか、つかみにくい。「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」という「差別された人間」に比べると、「差別する人間」の方が圧倒的に多い。
 「匂い」の特徴は、その「匂い」のなかに入り込んでしまうと、「匂い」を自覚できなことである。どんな汚いトイレ、臭いトイレであっても、下痢をして駆け込んで、糞をしているときは、その匂いは忘れる。トイレに飛び込んだ瞬間、臭い、汚いと思っても、そんなことを忘れる。カレーのような強い匂いでも、カレー屋に入ってカレーを食べているときは、「ここのカレーはとてもいい匂いだ」と思い続けて食べることなどできない。
 でも、それは、存在する。
 この「意識できない匂い」を細田はことばにすることができる。
 「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」という「差別される人がいた」ということをことばにし、そうすることで「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」を差別するのではない。「差別される人」がいるということは「差別する人」がいるということである。「差別される人」の側に立って、「差別するのはよくない(正しくない)」と主張するのは、意外と簡単。自分の「正しさ」の証明になるから、多くのひとは、そういうことを積極的にする。
 細田のしていることは、そういうことではない。「差別される人」がいるなら「差別する人」がいる。そして、人間は「差別する人」とも「共存/併存」しているということである。そこから、目をそらさない。「事実」に踏みとどまって、「事実」をことばにする。安易な理想化、自己弁護をしない。この、強さ、冷徹さのようなものが、細田のことばを貫いている。「どっちにも、属さない。私は個人である」という「個人」の感覚が、絶対的なゆるぎなさで存在し、それが細田のことばを支えている。「どこにも属さない」(個人でありつづける)ための「方法」が「併存」であり、細田はそれを「確立」している。
 こういうことは、まあ、書いてもしようがない。細田だって、こういう面倒くさいことは言われたくないだろう。むしろ、それを言ってはダメ、というのが細田のことばの根本にある。
 「まやかし」という作品は、「まやかし」とは何か、と小学二年の孫娘に聞かれた細田が、答えにつまりながら、それでも答える詩。

老人は目を伏せて言う
  人間のくせに小鳥の歌を歌うこと
  あたまの良いこはみんな
  小鳥の歌を歌って
  青春をやり過ごし
  まやかし

 細田は、そういう「あたまの良いこ」を排除はしない。「共存」もしない。つまり、「あたまの良いこ」のグループに積極的に加わるわけでもないし、「あたまの良いこ」をもとめる「先生」のいいなりにもならない。「併存」している人間として受け入れている。そういう人間がいるのだ。
 でも、ほかのこは? まだ娘は鋭い質問をする。

あたまのふつうのこはぁ
  ふつうのこはたいてい
  エロスの海におちて濡れ鼠
  かぜをひく

 「エロスの海におちて濡れ鼠」ということばが小学二年生にわかるとは思えないから、たぶん、細田は、ほんとうはこう答えていない。ここからは、細田の一種の「創作」。細田の「肉体」が、「肉体」のなかでことばをさがして動いている。いまは、小学二年の孫娘にはわからない。だが、いつか、そうだったのか、とわかるはずという確信のようなものがある。「事実」とわかるときがくるまで、それは孫娘の記憶のどこかに残っていればいい。「併存」とは、そういうことでもある。いつも意識するわけではない。

おばかのこはぁ
  ばかなこは混沌の海に漂って
  プランクトンになる

わたしプランクトンになるのぉ
  あなたは小鳥の歌は歌わない
  エロスの海に落ちない
  プランクトンにもならない
  プラトンになってください
  まやかしをたべて大きくなってください

 細田は、ことばというものが「まやかし」であることを知っている。最終連はとても美しいが、こういう美しさは「まやかし」である。この詩は「まやかし」そのものである。そう知っている。そう知っていて、それを「併存」させる。「まやかし」が必要なときもあるのだ、ということを「併存」させる。「共存」ではなく、細田は、あくまで「併存」させる。なかに入り込まない。そばにいる。隣にいる。くっついたり、はなれたりする。この「距離感」。「共存」してしまうと、「共存」を支える「論理(意味)」のようなものにしばられる。そうならないための、「距離」というものがある。
 谷川は、この「共存」からの解放を「ナンセンス」として表現する。「ナンセンス」は「無意味」というよりも「非意味」、言い換えれば「未生の意味(意味以前)」ということでもある。
 「プランクトンにもならない/プラトンになってください」は「ナンセンス」ではなくひとつの「意味」になってしまっている。
 つまり。
 細田は「非意味」によって、細田の「肉体」を解放するということは、ない。少なくとも、私は、そういう詩をすぐに思い浮かべることはできない。
 こういうところも、まあ、谷川とは違う。別の人間、別の肉体を生きているのだから、違っていてあたりまえなのだが。

 「肉体」とは、何か。「えっち」という詩がおもしろい。

二組の徳永悦子は
えっちだ
まじめな女子だけど
なまえが悦子なので
えっちだ
えっちとよぶと
いやーといってぶつふりをする
悦ちゃんと呼んでと言う
でもぼくはえっちと呼ぶ
しつこく言っていると
おこってぶちにきた
せまってきたときの悦子の唇は
捲れていて
悦子さまと呼びなさい
と耳元で言った
息が匂う
触ったことのない匂い
棒立ちになって
後ずさった

 「触ったことのない匂い」。これがいいなあ。「匂い」はもともと「触れない」。それなのに「触ったことがない」という。
 これは「触られたことがない匂い」だな。「匂い」が細田に「触ってきた」のだ。細田が「触られた」のだ。そのあとの「棒立ち」は、簡単にいえばペニスが棒立ち、勃起した。勃起したら、そのまま「エッチ」に直進してもいいのだけれど、この「触られた感じ」が初めてなので、瞬間的に動けなくなった。動けるのは「前」ではなく「後ろ」である。「距離」を「つくった」のだ。「距離」は自分を守る方法なのだ。
 だから、逆に言うと、愛する、セックス(エッチ)をするというのは、自分を守っている「距離」を捨ててしまうこと。自分が自分でなくなってもいいと覚悟すること。「併存」ではなく、「共存」するのこと。
 ということは、まあ、ここまでにしておこう。
 少しもどろう。
 私は「触ったことのない匂い」を「触られたことがない匂い」と読み替えたのだが。
 こういうことは、詩を読むときにもある。あるいは絵を見たりするときにもある。私は詩を読む、絵を見る、と書くが、そのとき、能動的なのは私だけか。詩が私を読む、絵が私を見る、ということが同時に起きるはずである。相手が「人間」ではなく「文字」や「色/形」であるために、そう気づかないが、いつでも私は読まれているし、見られている。言いなおせば、そのことば、その色、形のまえで、私はどこまで私であることを変えていくことができるか、を問われている。
 細田は悦子の唇に、「えっち」と呼んでいた少女以上のものを感じた。触られたのだ。悦子の唇は、細田に触りながら、細田がどこまでかわることができるか、問いかけてきたのだ。「えっち」と呼んでいるときは、まだ悦子に触られてはいない。細田がかってに空想のなかで触っているだけだ。「触る」ための「距離」が崩壊し「触られる」ことによって「別の距離」ができた。そこから細田は大あわてて、細田の知っている「距離」にもどった。でも、もどったとはいっても、もうそのときは「前の距離」とは違っている。「匂い」を「共有」してしまった「距離」だ。

 また、時間がなくなった。つづきはあした書こう。つづくかどうか、わからないが、いまはそういう気持ち。

 


**********************************************************************

★「詩はどこにあるか」オンライン講座★

メール、skypeを使っての「現代詩オンライン講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントをメール、skypeでお伝えします。

★メール講座★
随時受け付け。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
1週間以内に、講評を返信します。
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。

★ネット会議講座(skypeかgooglmeet使用)★
随時受け付け。ただし、予約制。
週1篇40行以内、月4篇以内。
1回30分、1000円。
メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。

費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。


お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com


また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571

**********************************************************************

「詩はどこにあるか」11月号を発売中です。
142ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。

<a href="https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854">https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=1680710854</a>

(バックナンバーは、谷内までお問い合わせください。yachisyuso@gmail.com)

オンデマンドで以下の本を発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977

 

 

問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本郵便株式会社の対応

2022-03-11 10:07:56 | 考える日記

スペインの友人(2人)に、冊子を送った。
いつまでたっても届かない。
追跡調査で調べると、マドリッドで「通関手続き中」になっている。
それで、日本郵便に問い合わせた。(問い合わせ窓口がある。)

その経緯。

①問い合わせメール

*******************************************
2月15日と2月18日にスペインあてに2個の小包を送った。内容は印刷物。
配送履歴をみると、マドリッドで「通関手続き中」になっている。
どうして通関手続きに長期間かかるのか。
問い合わせ番号はRN025******JP
                             RN025******JP

*************************************

②すると、こういう返信メール。

***************************************************************

この度は、国際書留の送達におきまして、
ご心配をおかけしておりますことを、謹んでお詫び申し上げます。
お問い合わせにつきまして、国際郵便が名宛国に到着後は、追跡情報も含め、スペインの郵便制度による取扱いとなり、スペインにございます国際郵便について、詳細をお調べすることがいたしかねます。
当該国際書留の取扱い・送達状況について、より詳細な確認をご希望の場合は、お手数とは存じますが、スペインの郵便事業体に、受取人様等を通じ、直接、お問い合わせいただきますようお願い申し上げます。
当センターではお力になれず、大変恐縮ではございますが、上記案内につきまして、何卒よろしくお願い申し上げます。

*************************************************************
これ、納得できますか?
「書き留め郵便」(特別料金をはらっている)のに、どこへ行ったかわからない郵便物の追跡はしないと言っている。
さらに、問い合わせ先の詳細もいっさい書いていない。
あまりにもいいかげんな対応。

③いま、以下のメールで、問い合わせ中。
***************************************

当該国際書留の取扱い・送達状況について、より詳細な確認をご希望の場合は、
お手数とは存じますが、スペインの郵便事業体に、受取人様等を通じ、
直接、お問い合わせいただきますようお願い申し上げます。
↑↑↑↑↑
と、書いていますが、日本から問い合わせるにはどうすればいいですか?
スペインの郵便事業体の問い合わせ先を、日本郵便株式会社は知らない(把握していない)ということですか?
送った郵便は「書き留め」です。
料金だけとって、その「書き留め」の郵便物がどこへいったか知らない、問い合わせもしないということでしょうか。

そうであるにしても「 スペインの郵便事業体」だけでは、どこに問い合わせていいかわからない。
最低限、事業体の名称、電話番号、メールアドレスなどを連絡してください。
さらに。
スペインの受取人が問い合わせるときに、必要な事項は何でしょうか。
問い合わせ番号は、共有されているのでしょうか。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする