ケネス・ブラナー監督『ベルファスト』(★★★★★-★か★★★★+★) (2022年03月26日、キノシネマ天神、スクリーン1)
監督 ケネス・ブラナー 出演 モノクロフィルム
この映画の最大の特徴は、モノクロ、ということである。モノクロではないシーンもあるのだが、基本はモノクロ。このモノクロの画面が、ここに描かれているのは「記憶」だと告げる。「記憶」というのは、どんな記憶であれ、整理されている。それが変わってしまうことがない。言いなおすと、これから何が起きるのか、ストーリーはどう展開するのか、という「なぞ」がない。「なぞ」だけがもつ魅力がない。
そのかわりに、「細部」がある。そして、その「細部」というのは「失われた細部」である。いまも残っている「細部」ではない。「失われた細部」ではあるけれど「忘れられた細部」ではない。この具体性を「懐かしい」という。
それはそれでいいんだけれど。
見ながら、いまではなく、別の時代に見たなら、もっと感動しただろうなあと思わずにはいられなかった。
どういうことかというと、私は、どうしても「ベルファスト」ではなく、「ウクライナ」を思い浮かべてしまうのだ。ベルファストで起きたこととウクライナで起きていることは、問題はまったく違うはずなのだけれど、重なって見えてしまう。なぜかというと、ウクライナでも、多くの市民は何が起きているかはやっぱりわからないのではないかと思うのである。市民には、日常しかない。その日常というのは、宗教対立(武力対立)ではなくて、日々の仕事をすること、お金がないこと、学校へ行くこと、女の子にこころをときめかせること、おじいちゃんが病気になること……と、いつでも、どこでも変わりがない。そこへ、自分が望んでいない「武力対立」が踏み込んでくる。ああ、日常はどうなってしまうんだろう、と思う。
それは「日常とは何だろう」という思いでもある。
日常とは何か。簡単に言えば「細部」である。そして、その「細部」は他人にとってはどうでもいいことである。父親は出稼ぎに行っている。稼いだ金は競馬につかってしまう。お母さんが泣いている。宿題がわからない。おじいちゃんは、算数のごまかしかたを教えてくれる。好きな女の子の隣の席に座りたい。……という、どうでもいいことが、かけがえのない「日常」というものなのである。そして、それは、不思議としかいいようがないのだが「団結」できないものなのだ。「集団」で守ることができないものなのだ。「集団(たとえば、ふるさと、ベルファストという街、その住民)」の力では守ることができないものなのだ。「日常」はあくまで個人のものであり、それはいつでも簡単に、「日常よりも大切なものがある」という考えによって破壊されてしまうのだ。
「日常」とは「細部」であり、「細部」とは「個人」のものであるから、そこには概念では整理できないもの、統一できないものがある。
で、ね。
それが、この映画では、なんというか「整理」できないはずのものが、とてもていねいに「整理」され、こういう「日常」が失われました、と描き出すのだけれど。
そこに、私は、つまずいてしまう。
なぜかなあ。
私なりに考えれば(私は宗教には疎いので、ただ想像するだけなのだが)、ここにはベルファストを去らなければならなかった一家の背後にある「宗教対立の日常」が描かれていない。カトリックとプロテスタントの対立があったと簡単に説明されるが、その対立の最前線の「日常」というものが描かれてない。
それを描き始めると、映画はまったく違ったものになってしまう。
そこに問題がある。描き方では、まったく違ったものになってしまうことを承知で、「記憶」を整理している。整理しすぎている。「家族(家庭)」のなかにまで踏み込んでくる「暴力」を描いてはいるが、それは「踏み込まれた家庭」の視点からのみ描かれていて、「踏み込んで行く暴力」の側の「日常」の視点がない。それがないと「世界」が立体的にならない。
まあ、これは欲張りすぎた見方かもしれない。
というのも。
やっぱり、ラストシーンでは、どうしても涙をこらえることができない。バスで街を出て行く一家。それを見送る老いたおばあちゃん(ジュディ・デンチ)。「振り返ってはダメ」と言う。その声は聞こえないはずなのに、主人公の少年はバスの中から、振り返ってしまう。まるで、その声が聞こえたかのように。子供というのは、してはいけない、と言われたことをしてしまうものだが、そのしてはいけないと言われたことをするかのように。(ふつうは、してはいけないと言われたことをするのは、なんというか、欲望の、本能のようなものだけれど、この映画では、それは生々しい欲望とは違うのだけれど。)
いつでも、どこにでも「矛盾」はある。その「矛盾」が、ラストシーンで、美しく昇華される形で描かれている。
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