小松弘愛「竹の落ち葉」(「兆」193、2022年02月10日発行)
小松弘愛「竹の落ち葉」を読みながら、きのう読んだ小川三郎「冬」を思い出したのか、きのう小川三郎「冬」を読んだから、きょうは小松弘愛「竹の落ち葉」について書きたいと思ったのか、どちらだろう。
小松の詩を全行引用する。
里山の裾に
車が捨てられていた
窓ガラスはなくなり
中には竹の落ち葉が積もっていた
わたしは
竹林の中
落ち葉が降り積もった小道に入り
しばらく歩いているうちに
山道に竹の落ち葉を踏み行けば足の裏より
鬱のとけゆく
立ち止まり
足元の黄色い落ち葉を一枚拾って
いとおしむように眺めてみる
わたしは竹林の多い村に育ったが
竹の落ち葉に心を重ねるのは初めてである
先ほどは
車の中の竹の落ち葉に
一瞥を与えただけで通りすぎたが
帰りには足を止めてみなくては
あの落ち葉の声を聞いてみなくては
と
手にしていた黄色い落ち葉を
胸のポケットに入れて歩き始める
小川は「枯葉」を書いていた。小松は「落ち葉」を書いている。それだけではない。小川の詩に「心」がでてきた。「私の心は/どきどきしていた。」その「どきどき」をどう言いなおせるか。私は考えた。明確な答え(?)は見つからなかった。
その「心」ということばを、小松は「竹の落ち葉に心を重ねるのは初めてである」という具合につかっているのだが、あ、この「心を重ねる」というのが「どきどき」につながるな、とふっと、思ったのだ。
「心を重ねる」とき「心」は私の肉体から出ていく。その「私の肉体から出て行く」という感じが「どきどき」なのだ。心臓が飛び出しそうになる、という表現があるが、まさに、それだ。小川の「どきどき」は心臓が飛び出すどきどきではないが(それほど強いとは思わないが)、それに通じるものがある。
「心」は「私の肉体」のなかにある。しかし、「心」はいつでも「私の肉体」から出て行こうとする。
物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる
は、和泉式部の歌だが、「心」ということばをつかっているわけではないが、「心/魂/思い」は「我が身」より出て行くものなのだ。そして、そこには何か「あこがれ」のようなものがある。自分が自分ではなくなる。
それは、不安だけれど、うれしい。
小川の「どきどき」は、そうい気持ちだな、きっと。
そして、この「あこがれ」を、小松は、こんなふうに書いている。
あの落ち葉の声を聞いてみなくては
「声」は「心」である。そして、それは「心の声」なのだけれど、どこか「肉体の声」という感じもする。「心」が重なり、聞こえないはずの「竹の心の声」が聞こえるなら、小松の「肉体」と「竹の肉体」も重なっているはずである。「聞く」というのは、もちろん「心で聞く」という意味になるけれど、私はそれをさらに「耳(肉体の耳)」で聞くと感じてしまうのだ。
小松の詩を読むと、そこには「肉体」がとても自然な形で書かれている。「歩く」「踏む」。踏むとは「足の裏」と「竹の落ち葉」を重ねることである。「足元の黄色い落ち葉を一枚拾って/いとおしむように眺めてみる」と小松は書く。そのときの「いとおしむ」は「足」にもつながる。乱暴に踏むのではない。「いとおしむ」ように踏むのである。自然に、そうかわるはずである。
しかし、これは小松からの一方的な動きではない。
竹の落ち葉の方からも、小松に「重なってきた」のである。それを感じるからこそ、
山道に竹の落ち葉を踏み行けば足の裏より鬱のとけゆく
という変化が起きる。「鬱」は「心」のことである。「鬱」もとけるが、その「心」そのものがとけるのだ。
こういうときは「どきどき」とはいわない。むしろ、とても穏やかな感じ。「とげとげ」が消えていく感じだと思うが、そういうことを含めて、「心」が動くとき、それはすべて「どきどき」なのだ。「どきどき」には激しいどきどきもあれば、静かなどきどきもある。静かなどきどきを「どきどき」とはいわないかもしれないが、「どきどき」が静まっていくときの「どきどき」といえるかもしれない。
小川の詩は具体的には書いていないが、きっと佇んでいる。それに対して小松は「歩き始める」。しかし、このとき「心」はもうどこかにたどりついている。小松と風景は重なっているから、歩いても歩いても、動かない。一方、小川は佇んでいるのだけれど、「心」は歩いている。いや、走り始めているかもしれない。「どきどき」鼓動が音を立てるくらいに。
小松と小川の詩は、まったく別の存在だけれど、私はそれを重ねて読んでしまうのである。重ねて読んだときに見えてくるものがあり、その重なりのなかに、私自身の肉体をおいてみるのである。枯れ葉/枯れ木を見たことがある。竹林を(そのとき竹の落ち葉もあっただろう)歩いたことがある。その、私の「肉体の記憶」を、おいてみるのである。
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