小川三郎「冬」「蝶」「夕方」(「Down Beat」19、2022年02月14日発行)
小川三郎「冬」の全行。
冬はどんどん枯れていって
枯葉一枚になってしまった。
今年は春がやってこないで
冬ですべてが
終わってしまった。
山も川も枯れきって
空もすっかり
枯れてしまって
そんな景色の中にいるのに
私の心は
どきどきしていた。
この詩を読んで、私が思ったことはひとつ。
最終行「どきどき」をどう言いなおすことができるか。
私は、朝日カルチャー講座で、受講生と一緒に詩を読んでいる。そのとき、こういう質問をときどきする。
「どきどき」ということばは、誰でもがつかう。つかったことがないひとは、たぶん、いない。おそらく小学一年生でも「どきどき」を理解できる。
でも、これを「他のことばで言いなおして」と言ったとき、即座に別のことばで言えるひとはいない。
いろいろ考える。
だから、質問も形をかえる。小川は「私の心は/どきどきしていた。」と書いているけれど、「どきどきする」のは何?
これは架空の質問であって、いま、私の目の前に受講生はいない。
きっと「心臓」という答えがかえってくる。
「心臓」と「心」っておなじ? なぜ、「心臓」に「心」があると思う?
こんなことは、答えられないね。答える必要もないのかもしれない。ときどき、心臓が「どきどき」する。どうしていいか、わからないときだ。自分が自分ではなくなるような感じ。自分がほんとうの自分になる感じ? 誰かに対して「好き(愛してる)」と言うとき、言う前の「どきどき」というのは、次に何がおきるかわからないから。
この「期待」に似た「どきどき」だろうか。
あるいは、高いビルの上から地上を見下ろしたとき「どきどき」。これは、告白するときの「どきどき」とは違うねえ。
小川の書いているのは、どっちの「どきどき」と思う?
さらに。
小川は「そんな景色の中にいるのに」と書いている。つまり、この「どきどき」は小川にとっては、ある意味で「予想外」のこと。愛を告白する前に「どきどき」した。ビルの屋上で下を見たら「どきどき」した。これは、ごく自然。
愛の告白をするのでもないのに「どきどき」した。温かい部屋の中から外を見ていたのに「どきどき」した。これは、少し変。「……のに」というのは、予想とは違うときにつかうことば。
では、小川は、どんなときなら「どきどき」するのが普通(予想通り)と考えているのだろうか。
土の中から植物が芽を出してくる。するすると茎が伸びる。葉がひろがり、蕾ができて、花が開こうとしている。どんな花だろう。それを見るときは「どきどき」するかもしれない。
たぶんね。
でも、小川は逆。「枯れて」なにもない。いや、「枯れた」ものだけがある。そのとき「どきどき」と感じている。
これ、思い出せるかなあ? そういう瞬間ってあったかなあ。
「枯れた」ものだけがある。それは何も「ない」ということ? 動き出すものが何も「ない」。
そうすると、そこにあるのは、何? 「ない」を認識している意識。でも、小川は、それを「意識」ではなく「心」と呼んで、何もないことを知って、「心」だけがあると感じて「どきどき」したのかもしれない。
「無」に「どきどき」した。「無」を発見して「どきどき」した。
と、書いてしまうと、突然、つまらくなる。
だから、ここまで書いてはいけない。
いつでも「結論」はつまらない。
受講生に対して「どきどき」を自分のことばで言いなおして、と意地悪な質問をしているときが、一番楽しい。
その「楽しさ」のために、詩はある。
私は、いま書いた「無を発見してどきどきする」という答えを叩き壊すために、もうひとつの詩を、全行引用する。「蝶」。
蝶が花を蹴りあげる。
そして別の花にとまる。
花弁に頬をおしつける。
その様子を
また別の花が見ている。
蝶は花に顔を突っ込み
何もないのかもしれない
と思っている。
その様子を
また別の蝶が見ている。
この詩では、私は「そして」「その」「また」を別のことばで言いなおせる?と質問したい。
もう一篇も引用しよう。「夕方」。
夕方
ひとに混じって
家に帰る。
初めて見るものが
ひとつもないという
変のない暮しを望んだ。
夕方は
ぜんぶが黒く
塗りつぶされる。
昨日は
繰り返されることなく
昨日はただ
降り積もっていく。
三篇つづけて読むと「ない」が共通のことばとして書かれていることに気づく。
でも、こんな具合に「共通項」を探してしまっては、おもしろくない。
この詩では、私は、最終連の「ただ」をどう言いなおせる?と受講生に質問したくなる。
誰もが知っていることば。そして、誰もがつかっていることば。知っていることばなのに、自分のことばでは言いなおせないことばがある。そこに、書いた人がいる。小川がいる。それに出会う楽しさ。
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