細田傳造『まーめんじ』(3)(栗売社、2022年03月03日発行)
きのう、細田傳造『まーめんじ』の感想、その2を書きながら、つまり、タイマーの時間が切れるのを気にしながら「共存」と「併存」のゆらぎ、というような、ちょっとした思いつきについて書けたらいいなあ、と思っていた。
「共存と併存のゆらぎ」なんて、何のことかわからないが、それは書きながら考えればいいと思っていた。
そして時間切れで書き終わった瞬間、細田と谷川のいちばんの違いは「不透明さ」だな、と思った。
谷川は、あくまで「共存」をめざす。「共存」を支えるのは(あるいは可能にするのは)は「透明性」である。障害物のなさ、と言い換えることができる。「共存」は、相互に浸透するのである。「併存」には相互の「浸透性」はない。相互に浸透してしまえば「ひとつ」になってしまって、「別個のものが存在している」という感じがしなくなる。「他人」がいなくなってしまう。「共存」も他人がいないと「共存」ではないのだが、「共存」のときは、たとえば「こころ」が、あるいは「認識」がどこかで共有されている。素行浸透がある。ところが「併存」は、相互浸透などもとめない。どちらかというと、「壁」を挟んで、互いの「不可侵」をこそ要求するところがある。
で、これをまた別の比喩で言うと。
そういうことを書こうと思ったら、突然、比喩が浮かんできたということなのだが。
谷川は「水晶」、細田は「鏡」という感じがしたのだ。ふたつに共通するのは「きらきら」という感じ。
ところが。
「水晶」のなかには不純物はない。透明である。ただし、この透明はくせもので、たとえばそのなかを光が通ると、分光しさまざまな色にわかれる。これが谷川の世界。もし谷川に不透明があるとすれば、この「分光」の不思議さにある。
一方の鏡。これはガラスの底に朱泥の不純物を隠している。光は、通過することができずに、反射する。そして、この反射は、あらゆる反射がそうであるように、まっすぐである。そして、それは「集光」の結果のまぶしさである。これが細田の世界。
「分光」と「集光」。
それから、「鏡」の底の朱泥。ここから、私は、「おばさんパレード」につながる感覚を思いだしている。細田の詩は「おばさん」の詩に通じる何かがある。「不透明」の強さがある。
そういことを書いていけたらなあ。
で、そういうことが、きょう書くことの「テーマ」、あるいはめざす結論。
でもね。
こういうことは成功しない。私はだいたい「結論」を決めずに、ただ、その場その場で、思いついたことを時間内に書き続けるだけ。
きょうのように「テーマ」を決めて、それから「テーマ」にあった詩をさがしてみようと思ったら、それが、ぜんぜん、見つからない。それだけではない。きのうまで、あんなにおもしろかった細田の詩が退屈になってしまった。この退屈は、ほんとうは正確ではなくて、「テーマ」にあって詩が見つからなくて、私が勝手にいらいらしているだけ。
だから、もう一度方針転換。
具体的な作品を引用できなかったが、書きたいことは、もう書いてしまった。だから、その「結論」を壊すために、これから思いついたことを書く。「結論を壊すために書く」というのが私の唯一の方法だから、やっともとにもどったということでもあるのだけれど。
きょう読むのは、「のろのろとした話」。私のことばも、ここまでくるまで、「のろのろ」したから、ちょうどいい。リズムがあう。でも、書きたいと思ったのは、別の理由。それをこれから書いていく。
「のろのろ」とした電車に乗って、どこかへ行く。町の名前はあかされないが「旅館」は明示される。
岡野屋という旅館に上がった
三階の部屋から海がみえる
のろのろとした海だ
冬の日本海のくせに温和しい
意外な気がしてながいあいだ海を見ていた
おのみものはなににしますか
女の人がききにきた
のろのろとした女とビールをのんだ
ちゃんぺしますか
女の人がきいた
きょうはしない
あした決行する
明朝禄剛崎懸崖より飛翔する
真摯に風と交感し海水に挿入したまま果てる
「禄剛崎」が出てきて、能登だとわかるのだが、私が驚いたのが「ちゃんぺしますか」という一行である。これは標準語(?)で言えば「オマンコしますか」である。あ、まだ、このことばをつかう人がいるのだということに驚いた。私は中学生の頃までは、このことばを聞いた。高校では聞かなかった。たぶん文化圏が違う。私の名前を「やち」と読むところでは通じることばである。きわめて限定的なことばだと思う。
このことばを実際に女の人が言ったのか、それを細田が聞いたのか、それはわからない。「女の人を呼びますか?」くらいのことを聞かれて、細田が「そういうことを、能登ではどういう?」と聞いたのかもしれない。それを書き留めたのかもしれない。
問題は。
こういうことを、「標準語」というか、だれにでも通じることば(相互浸透性のあることば)でつかみとるのではなく、もっと「個別的」(不純物)を含んだ、洗練されない(?)ことばでつかみとり、その「不純物」の方に細田が近づいていくということがおもしろいのだ。
一方で、「標準語」に生まれ変わる前のことばに近づきながら、他方で、「オマンコをする」を「交感」「挿入」「果てる」という、比喩的、抽象的なことばへと動いてみせる。ことばとの「距離」、他人(ここでは女の人)との「距離」の取り方がとてもおもしろい。「する」を「決行する」と言い直すとき、「飛翔」は「果てる」と呼応するが、この変化がとてもおもしろい。
この変化は、もしかすると「まやかし」かもしれない。
きのうとはぜんぜん違うことを書こうと思ったのに、書いていると、やっぱりきのうをひきずるなあ。
脱線した。
こういうことを書きながら思うのは、「まやかし」ということばもそうだけれど、それを定義し、きちんと説明しようとすると、なにかうまくいかない。
「オマンコする」と「ちゃんぺする」は、行為(意味)としては同じかもしれないが、「ちゃんぺする」ということばをつかってきた人間が「オマンコする」というとき、そこには何か捨ててしまったものがある。「性交する」になると、もっと違う。「性交する」とか「オマンコする」とは違うものが「ちゃんぺする」にはある。
つまりね。
「出生の秘密」(お里の秘密)のようなもの。「お里が知れる」。「お里が知れる」ということは、「お里を隠したい」という気持ちの裏返しかもしれない。誰でも「生まれてくる」。生まれてきて、育つ過程で、その人固有の何か、他人には譲れないような、「標準化」を拒んだものを身につける。生きていくということは、ある意味で「標準化」を利用することだけれど、「標準化」したくないものがある。いや、できない「根っこ」のようなものがある。
こういうものを細田はすばやくつかみとる。
「方言」とは、ある固有の地の、固有の「ことばの肉体」である。それは「ちゃんぺする」のように「肉体のことば」と深く絡みついている。
他方に、それとは別の「ことばの肉体」がある。「決行」「飛翔」「交感」「挿入」「果てる」。これは、いわば「文学=共有された文化」の「ことばの肉体」。
細田は、そういう「ことばの肉体」との「距離」の取り方が、とても正確である。どんな文学よりも、激しく「文学的」である。「距離」の組み合わせ方が、「新しい文学」になっている。言いなおすと、「細田語による文学」がそのとき誕生している。
あ、私の書いていること、なんだか、面倒くさいでしょ?
こういうとき、能登弁(あるいは加賀弁?)では、どういうか。
あしたちゃんぺする
そういうふうに心情を吐露していると
女の人はなにかのんびりしないことを
口早にいった
いじくらしい
「いじくらしい」が、それ。
タイトルにもなっている「のろのろした」と反対のことを、細田はまず「のんびりしない」と言い直し、さらに「口早」と言い直している。そのうえで「いじくらしい」という。
つまり、「のろのろとしている」と女の人は、細田を批判したのである。わずらわしい、めんどうくさい、いやなやつ。
いやあ、こんなふうに端的に批判されると、もう、どうしていいかわからないね。
きょうのうちに勘定ちゃんとすませ
襖戸を開けたまま着物の女の人は消えた
有り金を数えていると
波の音がしてきた
くちゃーくちゃーくちゃー
なんとなく
せからしか夜になった
「くちゃーくちゃーくちゃー」にはやはり能登弁(加賀弁の、語尾の「ちゃあ」)が隠れているところがおもしろい。なんとなく「のろのろ」としている。のろのろしていてもかまわないのだけれど、「いじくらしい」と言われた瞬間に、せき立てられてしまう。
最後の一行の「せからしか」ということばは、私は能登では聞いた記憶がない。九州でよく聞くことばである。「わずらわしい」という意味では「いじくらしい」ににていないこともないが、対比してみると、違いが、私の肉体のなかで鮮明になる。
「いじくらしい」は「めんどくさい」だけではない。「いじいじしていて、めんどうくさい」というときの「いじいじ」が含まれているのが「いじくらしい」なのである。
「オマンコする」ときに「いじいじしているなんて」。
細田の「文学としての、ことばの肉体」は「能登の、くらしの、ことばの肉体」からみると、「いじいじ」しているのだ。
と書きながら。
細田のことばの魅力は、そういう「いじいじ」した「ことばの肉体」を、この詩の中にでてきた「いじくらしい」のように、どこかで、ばさっと切って捨てるものをもっている。「標準語(とりすました浸透性のあることば)」を切って、その瞬間に、標準語の切り口(断面)を見せるのではなく、切った主体(くらしの、ことばの肉体)の不透明な強さを見せる。「標準語」がいくら広がっても、絶対に、その「透明な浸透性」におかされない「全体的な不透明性」を生きる「ことばの肉体」がある、ということを明らかにする。
これは。(説明がめんどうなので、飛躍すると……)
ある意味では、私が「おばさんパレード」と呼んでいる女性たちの作品に通じるものである。
谷川はいろいろな詩を書くが(さまざまな声を彼自身の詩なのかにとりこむが)、どうしても「おじさん詩」にとどまり「おばさん詩」にはならない。「透明性」が高すぎる。「不透明性」がない。細田は、「おばさん詩」にいちばん近い。「おばさんパレード」という詩の感想文をまとめるのが、私の、ひとつの夢だが、そのときは細田の詩もそこに含めたい。
「共存」ではなく「併存」の形で。
細田の「鏡」に写すと、「おばさん詩」の魅力は、いっそう美しくなる。私は、そう確信している。細田は、男が引き継いできた「ことばの肉体」と同時に、女が引き継いできた「ことばの肉体」を、しっかりと肉体化している。
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