詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇152)Obra Joaquín Llorens

2022-03-20 15:47:35 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Lloréns
Técnica. Hierro 78x34x13 S. 3.3

Soldado de pie de cara al exterior.
Lleva espada y escudo, pero no sale a atacar.
Solo representa la defensa.
Su figura firme y erguida es hermosa.
El cuerpo de este soldado está lleno de firme convicción y amor.
Su deseo de paz le hace fuerte.

Si no fuera por la cuestión ucraniana, podríamos haber imaginado las cosas de otra manera.
La imaginación siempre se ve afectada por la realidad.
Paz para Ucrania.


外敵に向かって直立する兵士。
剣と楯を持っているが、攻撃に出かけていくわけではない。
防衛のために立っている。
その不動の、直立した姿が美しい。
この兵士の肉体の中には固い信念と愛があふれている。
平和への願いが、彼を強くする。

ウクライナ問題がなければ違うことを想像したかもしれない。
想像力はいつでも現実に影響される。
ウクライナに平和を。

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青柳俊哉「月」、池田清子「三月の庭」、緒方淑子「air a」、徳永孝「雲と競争」

2022-03-20 14:34:43 | 現代詩講座

青柳俊哉「月」、池田清子「三月の庭」、緒方淑子「air a」、徳永孝「雲と競争」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年03月07日)

 受講生の作品。

月   青柳俊哉

中天の薄雲をながれていく 
白い光 夕闇に祈る農夫の 群青のかげも
水辺にそよぐ水仙の 淡い黄も
色褪せて 凍てつく 

わたしは初めて月をみる
深閑のモノクロームにうたれて 

月と発語するもののいない 空に立ち
いのちと異なる時間を生きるものを 想う
つき というしるしを捨て わたしたちに言葉をしいて
空に 未知を象る

冬蝉のなき声がする 水仙の淡い黄が
暈(ぼ)けて 白い光がながれる

 「月」という表記と「つき」という表記がある。そのため、三連目で「つき」とひらがなにしたのはなぜか、という質問が出た。
 質問というものは、いつでも何らかの答えを含んでいる。その答えはまだことばにならっていない。それを探り出していく、ことばを自分のなかから見つけ出すというのが詩を読むことだと思う。詩を読むとは、詩に読まれること。
 それはそれとして。
 質問に、青柳は「つきというしるし」というのは「ことばとしての月」という説明をした。
 この詩を読む場合、青柳が言った「つきというしるし」の「しるし」が重要になる。「しるし」とはそれ自体具体的なものだけれど、そこに含まれている意味は抽象的である。具象と抽象が結びついている。
 たとえば机の上にのみかけのコーヒーカップがある。それはコーヒーカップという具体的なものだが、だれかがここにいたということを意味するしるしでもある。
 もし、その世界を、コーヒーカップということばをつかわずに描写するとしたら、どうなるだろうか。
 そういうことを「月」を見ながら、青柳は考えている。
 「つきということこば」を捨てる(つかわない)で、いま空に起きていることをを語るとしたら、それはどうなるだろうか。月という知っていることばがない。それを語るとき、どうしても新しい(未知)のことばが必要になる。語るとき「ことば」なにしは語れない。考えるとき「ことば」なしには考えられない。いつでも私たちは「ことばを強いられる」存在である。
 そのことが「わたしたちに言葉をしいて/空に 未知を象る」ということばになっていると思う。
 とても哲学的なこと、ことばと世界の関係が語られている詩である。
 私は、三連目の論理的なことばの運動も好きだが、二連目の「わたしは初めて月をみる」の「初めて」がとても印象的で、いいと思った。
 「初めて月を見たのはいつ?」
 こう質問されて、それに正確に答えられる人はいないだろう。月は、ほとんど無意識に、いつも見ている。そのいつもの月を初めて見る。それはほんとうは初めてではなく、初めてのものとして気づく、ということだ。見たことのない月を見ている。そこには驚きがある。どんなふうに初めてだったのか。「月」という、いつもつかっていることばではいいあらわれない何かを感じた、ということだろう。
 詩を発見した、ということかもしれない。
 まだ、だれも語っていない「月」。それを語るにはどうすればいいのか。
 これは、問題提起の詩であり、問題を提起すること(質問をすること)は、すでに自分のなかで生まれ始めていることば(未生のことば=未知)を探すことでもある。

 「つき、とひらがなにしたのはなぜですか?」
 それは、わからない。わからないから、そこに「答え」が隠れている。作者もまた、それをさがしている。そのさがしている「過程」そのものが、詩という形になって、ここにあらわれている。

三月の庭    池田清子

今 きっと 梅がきれい
六月 実がたくさん取れる

深紅の八重椿
道路にいっぱい散って
掃き集めるのが大変

明るいらっぱ水仙
家の中からは後姿ばかり

れんぎょう
さくらんぼ
濃いあじさいが咲き
びわがなり
秋には柿
勝手に剪定するものだから
表 裏 裏 裏 ・・・・
甘くて大きいたくさんの早生柿
おすそわけができる

そんな庭からも 家からも
私は 自ら去ったので
涙は流さないけれど

もし 突然 もっと大切なものまでも
失うことになったとしたら

 この作品は「失うことになったとしたら」という中途半端な形で終わっている。「どうなるだろう」という疑問のことばをおぎなうと、文章にはなる。しかし、疑問が残る。どうなる? その答えは、池田にはわかっている。だから、かかない。
 わかっていることは書かない。わかるまでの「過程」を描く、という視点から、この詩を読み直すのもいいかもしれない。
 「どうなるだろう」は「未来」である。そのこたえは、いつでも「過去」にある。この詩では、予想される「答え」とは逆のものをあらわすものとして「過去」が書かれている。「過去」だけれど、そこに描かれる梅や柿、いろいろな花は「未来」を必然的に抱えている。表作、裏作の違いはあるかもしれないが、ある「未来」がたしかなものとして存在するように思える。
 でも、人間は、そうではない。
 「どうなるだろう」が予測するのは、たいてい「未来」である。
 でも、その「未来」から「過去」を見たら、どうかわるだろか。「大切なもの」はもっと「大切なもの」として実感されるかもしれない。
 この詩は「大切なもの」を実感するための「予行演習」のようなことばかもしれない。

air a   緒方淑子

こぼれる涙を

あごのラインで

手の甲で

何度も

拭ってた

そんな方法もあるのかと

真似てみた

間に合わなかった

全然

       a scene with an actress 

 ひとはいつでもいろいろなことを知っている。たとえば月が月であることを知っている。ところが、突然、「間に合わない」ときがやってくる。知っているはずなのに、初めてのように、何かにであってしまう。
 緒方は涙も知っていれば、美しい涙の拭き方を知っている。
 しかし、間に合わない。それは、その知っているはずの涙が、まったく知らないもの、青柳のつかったことばでいえば「初めて」の涙としてあふれてきたからだろう。
 「初めて」との向き合い方が、詩そのものなのだ。
 いま感じている「初めて」はいったい何なのか。もちろん、知っている。でも、それはまだ明確なことばになっていない。「未知」のことばのまま、人間を動かしていく。

雲との競争  徳永孝

列車が走る
雲が追いかけてくる

大きな雲が先頭だ
続く小さな雲達も
負けずに付いていく

列車がスピードを上げる
雲達もスピードを上げる
勝負はつきそうもない

線路脇の土手に雲が隠れる
レースも終わりかあ
少し残念

土手がと切れると
まだ雲達は追(つ)いてきていた

 列車が走る。雲が見える。それは列車と競走して、ついてきているように見える。多くの人が経験することかもしれない。徳永にとって「初めて」はなんだったろうか。
 「線路脇の土手に雲が隠れる」という行には、具体的なことが書かれている。「初めて」はいつでもこんなふうに具体的である。
 ただ、具体的すぎて、抽象にむけて整理できないことが多い。緒方の詩で「涙の原因」が書かれていないのは、整理して書いてしまうと、それは「涙の原因」とは少し違ったものになってしまうからだろう。整理できないものがある。だから、それが知っているものをつきやぶって動くと、何もできなくなる。
 徳永の作品では、もし、この「線路脇の土手に雲が隠れる」がなかったら、ことばはどう動くだろうか。「隠れる」があるからこそ、「ついてくる」がはっきり見える。そのことを思うと楽しい。

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「春闘」から思うこと

2022-03-20 12:02:11 |  自民党改憲草案再読

 読売新聞2022年03月18日の朝刊(14版・西部版)に春闘の中間報告の記事があった。「賃上げ 平均2・14% コロナ前に迫る」。
↓↓↓↓↓
 連合は18日、2022年春闘の第1回集計結果(回答数776組合)を発表した。基本給を底上げするベースアップ(ベア)と定期昇給を合わせた平均賃上げ率は、前年の同時期と比べて0・33ポイント増の2・14%だった。1回目の集計では、コロナ禍前の19年春闘の2・16%以来の水準に回復した。
↑↑↑↑↑
 賃上げが進むのはいいことだが、どうして突然賃上げブームになったのか。その「理由」がどこにも書いてない。
 コロナが完全に終息したわけではないし(ファイザーは4回目のワクチン接種をアメリカ政府に求めた、というニュースがあったはずだ)、ロシア・ウクライナ問題が解決したわけではない。ロシア・ウクライナは解決エスカレートしている。20日の「読売新聞は、ロシアが超音速ミサイル使用」とつたえている。(これは、春闘の統計前のことだけれど。)
 読売新聞は、春闘の記事の最後に、こう書いている。
↓↓↓↓↓
 22年春闘は、コロナ禍からの業績回復を受け、大手企業の賃上げ率が2年ぶりに2%台を回復しそうな勢いだ。16日の集中回答日に自動車や電機で満額回答が相次ぐなど、前年を上回る回答も目立つ。一方、小規模な企業の回答が進むと、賃上げ率は下がる傾向があり、賃上げがどこまで広がるか注目される。
↑↑↑↑↑
 賃金格差が広がるかもしれない、という予測だ。
 ここから、私は別のことを考えた。

 いま緊急の問題はコロナだけではなく、ロシア・ウクライナ問題である。「武力戦争」の背後で「経済制裁」という名の「経済戦争」が起きている。ロシアを「経済制裁」で敗北に追い込む、という作戦である。手段としては、ロシア製品の輸入禁止が起きている。これは、私たちの生活にどう影響してくるか。(ロシア人の生活にも影響があるのだろうけれど、私は個人主義的な人間なので、そこまでは考えない。)
 いろいろなものが値上がりする。天然ガスを初めとする燃料の輸入がストップすれば、天然ガスの値段が上がる。電気代が上がる。最近話題になっているが、ガソリン代も上がる。小麦(ウクライナ産が多いかもしれない)の輸入が減れば、パンも値上がりする。ほかの菓子類も。……こういうことは、すでにわかっている(想定されている)。
 ここからが問題。
 大手の企業は、これから物価がどんどん上がることを知っているだけではなく、むしろ、その物価上昇にあわせて自社製品の値上げをもくろんでいるかもしれない。(いわゆる便乗値上げのチャンスだと思っているかもしれない。脱線したが……。)物価が上がるということは、裏を返せば、実質賃金(収入)が減るということである。どうしたって、物価上昇が進む過程で「緊急の賃上げ要求」が生まれてくるだろう。それを見越しての「賃上げ」なのではないのか。つまり、今後何が起きようが「緊急の賃上げ要求」には応じない。すでに春闘で前年を上回る賃上げをしている。賃上げの必要はない、というための「方便」としての「春闘賃上げ 平均2・14%」なのではないのか。
 これは実際に回答をみると、もっとはっきりする。たとえば、トヨタは「回答日」前に「満額回答」をしている。組合の要求をそっくり飲んでいる。ガソリンが値上がりすれば、車だって売れない。その車にしても電気自動車への移行が進んでおり、トヨタは出遅れている。トヨタの車がどんどん売れるということは、想像できない。にもかかわらず、あの慎重なというか、ケチなトヨタがさっさと「満額回答」している。こういうときには、何か、裏がある、と考えた方がいい。絶対に、ウクライナ・ロシア問題が長引けば、さまざまな「物価」が上がる。それに備えてのことなのだ。つまり「追加の賃上げ要求」には絶対に応じない、というための「先手」なのだ。
 ここから波及する問題は、トヨタの社員に限定されない。いや、むしろトヨタ、あるいは春闘で賃上げが確保された社員以外のところに問題が増幅されて広がっていく。
 賃上げが少なかった会社の社員はどうなるのか。あるいは組合に加入していない未組織労働者、簡単に言えば非正規社員やパート労働者はどうなるのか。「臨時の賃上げ要求」もできずに、ただ、物価高に耐えるしかないのだ。
 トヨタのやったことは、トヨタの労働者(連合の労働者)が、そういう未組織労働者と連携し、賃上げや社会保障の充実を求めるという運動を起こさせないための「予防措置」なのだ。「トヨタの社員は賃上げによって生活を保障した。それ以上のことはしない。社員を守るのが会社の仕事。社員以外のことまでは責任を持たない。」
 これは、労働者の「分断」だね。
 連合会長の芳野は、こういっている。
↓↓↓↓↓
「これから回答を引き出していく組合に、この良い流れをつなげていく」と語った。連合は7月頃に最終結果を発表する予定だ。
↑↑↑↑↑
 参院選に向けて、連合の力をアピールするということだろうが、連合がめざしているのは共産党排除からもわかるように、国民全体の「利益」ではない。あくまで連合傘下の労働組合の従業員の「利益」であり、それはその従業員によってもたらされる資本家の「利益」である。
 物価上昇で苦しむのは、連合傘下の組合がある企業に就職できなかったひとの個人責任、ということなのだろう。競争社会を勝ち抜いてきた人間が、競争社会で敗北し、貧乏暮らしをしている人のめんどうまで見る必要はない、という論理である。
 自民党の狙いどおりの論理である。

 ところで、世の中には、春闘の恩恵にあずかる大手企業の従業員でもなければ、未組織労働者でもない人間もいる。これまで働いてきた年金生活者や、いろいろな事情で働くことができない人間である。「賃上げ」どころか「賃金」がない。収入が限られている。物価高に対する対抗手段が節約しかないという人間である。
 私も年金生活者だが、どうなるんだろう。5000円の一時金が話題になっているが、5000円で、これから起きる物価上昇にどう向き合えるのか。物価上昇にあわせた年金の引き上げが必要になるはずだが、この問題には、連合は口をはさまないだろう。

 コロナはウィルスなので、何を考えているか、わからない。けれど、戦争(とくに経済戦争)では、それを支配するのは人間である。何が起きるかは、経済戦争を勝ち抜いてきた企業(資本家)にはわかっているはずだ。そのわかっていることを利用して、貧富の格差拡大政策、貧乏人をますます貧乏にすることで利益を確保するという方法が、これから拡大していくはずだ。
 簡単に言えば、「便乗値上げ」が進むということだ。
 「いまは緊急事態だから、企業は製品の値上げをせず、赤字分はこれまでの内部保留でまかなう。消費者のみなさん、安心してください」とは、どの企業のオーナーも言わないだろう。
 いま、資本主義は、「利益の再配分」などはいっさい考えず、ひたすら「強欲主義」を突き進んでいる。
 物価高が進み、国民が「年金を上げろ、賃金を上げろ」と主張したら、国は(自民党政権は)、あるいは連合は、こういうに違いない。
 違法な戦争をしかけているロシアを追い詰めるには経済制裁しかない。経済制裁は武力をつかわない「安全な戦争」である。ロシアに勝つまでは、物価高に我慢するしかない。「ほしがりません、勝つまでは」の精神をいまこと思いだすべきなのだ、と。
 でもね。
 先に書いたけれど、その「ほしがりません、勝つまでは」を資本家が実践するかというとそうではないのだ。「内部保留を全部吐き出します。戦争が終わったら、企業の製品を買って、私たちを助けてください」とは言わない。多くの市民が困窮しているときも、ひたすら金を儲けるのである。軍需産業を見ればいい。ロシア・ウクライナ問題がつづくかぎりは、軍需産業は潤うのだ。武器は売れるのだ。トヨタにだって、自動車の発注があるかもしれないのだ。

 

 

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