熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

田植えの季節・・・宝塚の田舎を思い出す

2007年05月01日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   連休の午後、天気が良かったので、近くの田舎道を歩いた。
   先日まで遊んでいた畑が耕されたと思っていたら、一面に水が張られて田植が始まった。
   綺麗に育てられた稲の苗を田植え機に載せて、機械を後から押して行くと自然に稲が植えられている。
   私たちが子供の頃と比べると随分楽になったと思うが、これも時の流れであろう。

   私は、子供の頃に、宝塚の田舎で、近所の農家を手伝って田植など農作業をした経験がある。
   終戦から大分経っていたけれども、当時は、まだ近代農法からも程遠く農業生産性も低かったのだが、勿論、今のように機械もなければ、苗代で苗を育てることから刈り取り・脱穀まで総て農家でやっていた。
   今の農家は、苗を育苗会社から買っているようだし、田に張る水も水道栓が一枚一枚田んぼに引き込まれていてそれを捻れば水の心配もしなくて済む。
   そして、農作業の殆どは、耕運機やトラクターなど機械の助けを借りることが出来る。
   それでも、随分以前から、3ちゃん農業といわれて年寄りと女性の労働力に頼っているので過酷な仕事である。

   田植は、丁度事務机くらいの大きさの長方形の木枠に、稲苗の間隔に印の付いた桟が横3列に張られた道具を使って、この道具のメモリに沿って苗を植えて、それが終わると手前にパタンパタンと倒しながら、同じことを繰り返しながら進んで行くのである。
   何人かが横一列に並んで田植を進めていくので、速度を合わせなければならないし、長時間の腰屈みの中腰スタイルでの作業であるから、結構大変なのである。
   歯車の付いた草刈機を押して草刈をしたり、鎌で稲を刈ったり、脱穀機を踏んで脱穀をしたり、とにかく、歳時記を地で行きながら農業の大変さを経験したのである。

   今では、農業用水が簡単に手配できるが、あの当時は、一枚一枚用水路の上流の畑から水が張られていた。
   田舎には、あっちこっちに沢山溜池があったし、それに、用水路としての小川が随所に張り巡らされていた。(先年、行って見たら溜池など総て消えていた。)
   しかし、自然相手の水頼みであるから、毎年、同じ様に順調に田畑に水が張れるとは限らないので、結構、農民間で熾烈な水争いがあったのを覚えている。
   近所の若者が、今日は隣村と「喧嘩の日」だと言っていたのをかすかに覚えているが、集落としての因習も含めて共同社会、世間と言うものを垣間みたのも、あの頃であった。

   ところで、このような田舎の自然、特に、小川や池、森や林が、私たち子供の天下であり、生活の場であった。
   子供の頃は、宿題などした記憶がないが、学校が終われば、日が暮れるまで、野山を駆け回って遊んでいた。
   赤とんぼの歌やカラスの子等の童謡や小学唱歌の世界そのものであった。
   小川に入り込んで魚を捕まえたり、谷川に入っては蟹を取ったり、山に入って小鳥の巣をつついたり、野山の草の実や木の実を取って食べたり、夏の夜、蛍を追ったこともあった・・・今ほど、子供の外での遊びが危険でなかった所為もあるが、電化が進んで3食昼寝つき以前の時代であったので、親たちも忙しくて子供を構っている暇などなかったのである。
   勿論、マムシの怖さ、漆にかぶれること、野井戸の恐怖など危険や怪我、事故は引っ切り無しだったが、自分で治すことも覚えたし、少しづつ自然を知りながら賢くなっていったのかも知れない。

   遊び道具もなかった頃なので、竹とんぼも水鉄砲も、竹馬も刀も、そして、時には藁草履までも、何でも自分たちで作った。
   糸と釣り針と浮きと沈みとを買ってきて、魚釣り道具を作るのだが、竿の長さや糸の長さ、それに、釣り場所や時刻など変えたりして、色々苦労して工夫しながら、少しづつ大物を狙って行くのだが、そんな楽しみもあったのである。
   
   この印旛沼近くの古い小川は、元々そうだったのであろうが湿地帯のような小さな流れで、殆ど動かない上澄みの水は澄んでいるが、川面には、びっしりと自生の菖蒲が生えていて、今、黄菖蒲だけが咲いている。
   大抵、小川は、鬱蒼とした林のヘリを流れていて殆ど水面は見えないくらいで、宝塚の田舎のように、中に入ってフナやタナゴを追いかけるような川でもないし、サラサラ流れるような小川でもない。

   さて、こどもの日が近づいて来た。
   随分、子供たちの生活も変わったと思うが、我々の子供の頃のように自然直結の放任主義が良いのか、今のように、近代化・機械化して知的になった子供生活が良いのか分からないが、カブトムシが百貨店で売っているものだと思ったり、蓮華草を見たこともないような子供を育てなければならないとしたら、悲しいことである。
   連休に孫がやってくるが、アサガオの種を蒔かせようと思っている。
   昨年末に植えたチューリップとヒヤシンスが咲いたのを見て喜んでいたが、自然との共生とエコシステムの大切さだけは教えておきたいと思っている。
コメント
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