船曳建夫東大教授が、「右であれ左であれ、わが祖国日本」の中で、国家統一戦争の中での3人の武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の治世が日本の特徴である3つの「国家モデル」を作り上げたと説いている。
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」と言う狂歌があるが、この3人が全く違った三つの極をなす国家モデルをモデリングしたと言うのである。
鉄砲を始めて導入し日本を超えるものに惹かれた信長は、キリスト教の布教を後押しし仏教へは不寛容で無化を図りさえした。
天皇制にも否定的で、日本は勿論、中国の冊封体制を超え、ヨーロッパをも視野に置いた国際性、普遍性を評価しており、国際的な場に日本が出て行く初期的な志向をしたので、日本のモデルを「国際日本」とした。
秀吉は、キリスト教を中心とした西洋からの影響を警戒して宣教師の追放を行う一方、南蛮貿易は許して自らの管理化に独占して継続した。
当時、中国の民が、北方民族や東方、倭寇やポルトガル等の勢力に痛めつけられて弱っているのを見越して、朝鮮を攻め、明に代わってアジアの名主となろうと考えた。
これは、明治以降の日本の政策、欧米列強がアジアから遠いことを利用して、日本を拡張し、アジアのリーダーとなる志向性のさきがけで、「大日本」モデルを作った。
家康及び後継者たちは、当初は朱印貿易を奨励し東南アジアへの進出をはかるなど大日本モデルをとったが、キリスト教勢力、その背後にあるポルトガルやスペインなど西洋からの政治力にはまともに対応できないと判断し、「鎖国」方向へ舵を取った。
徳川の幕藩体制は、出身地の小さな地域を治めるシステムを、村や町から藩へ、藩から国へ積み上げて行った制度で、非常に内向きで、町でも村でも、細かい社会単位にまで支配の網を張り巡らされた緻密な「小日本」モデルであった。
以上の典型的な三つの日本モデルに、地政学的に日本を取り巻く三つの主勢力、即ち、中国、ロシア、欧米との関係とその絡みで日本の歴史を分析し、日本の行く末を展望しており、非常に面白いのが、この船曳教授の本である。
本題の「わが祖国」論については、後に譲るとして、内向きの「小日本」モデルの江戸時代に、日本の文化の花が開いたと言う点について、考えてみたい。
”江戸時代の人々は、俳句や読み本と言った文芸から、浮世絵、食文化、花卉、園芸まで幅広い趣味の世界を作り上げた。
都市では歌舞伎や相撲、遊郭と言ったエンターテインメントを発達させ、農村部でも祭りや神社仏閣へのお参りと、様々な楽しみを、経済的には貧しいながらも作り出した。”
日本全体が、外界から殆ど遮断された内向き志向の時代に、豊かな日本文化の華が開いたと言うのである。
もっとも、世界の歴史を紐解けば、ギリシャやローマ、或いは、ルネサンスをはじめヨーロッパは勿論、アメリカやアジアでも、世界の人々の交流の激しい国際化の時代に文化や文明が発展し花開いたと言うケースの方が多いような気がする。
メディチ・インパクトの如く、世界中の俊英がフィレンツェに集合して切磋琢磨したところにイタリア・ルネサンスが花開いた。
しかし、今回はこの問題は問わないことにしよう。
本題に戻るが、日本の文化、特に、庶民を巻き込んだ豊かな日本文化が花開いた時代は、明らかに江戸時代であったことは紛れもない事実で、浮世絵を筆頭に日本文化が18世紀のヨーロッパに大きな衝撃を与えて、ルネサンスにも匹敵するくらいの「ジャポニスム」運動を巻き起こした。
オランダのゴッホ美術館などで、ゴッホが北斎などの浮世絵を克明に描写したり人物画のバックに描いたりしている絵を何点も見て感激したことがある。
話は飛ぶが、ヨーロッパの歴史を見ると、新大陸発見時代や世界に雄飛した帝国主義的な植民地時代では「大ヨーロッパ」モデルで世界を制覇したが、米ソに覇権が移ってからは、内向きの「小ヨーロッパ」モデルに移行したが、ある意味では、非常に安定した民度の高い文化が花開いて成熟したヨーロッパになった。
アメリカ、中国、ロシア等のスーパーパワーに囲まれて普通の国になる日本にとって、「小日本」モデルへの回帰は、選択肢の一つであろうと、船曳教授は説くが、案外、このあたりが日本に相性が良いヨーロッパとの連携説の根拠かも知れない。
”今に残る、花見から演芸、温泉などといった人生の楽しみを、さらに二十一世紀の技術と環境で工夫して、豊かにすることも小日本の志向性から生まれる。
そして、こうした日本の文化の現われは、力の強さを誇示しがちな大日本とは別なやり方で、日本を外にアッピールするのに相応しい。それは外国でのアニメの人気や日本食のブームで既に始まっている。”
”内向きにため込まれた、かっての小日本の魅力が、いま、かえって日本の生んだものの中では、ビジネスモデルよりもグローバルなものになろうとしているのは、嬉しい誤算かもしれない。”
クール・ジャパンが、世界の文化地図を変えつつある。ジョセフ・ナイ教授がアメリカが失いつつあると指摘したソフト・パワーが、少しづつ育って行けば、安保理事会の常任理事国入りをしなくても、「美しい国・日本」が国際舞台で十分に国威を発揚できるということである。
渋茶をすすりながら朝顔の行燈作りを愛で、着倒れ食い倒れで歌舞伎に入れ込み、川柳や浮世絵の危な絵で憂さを晴らし、お殿様自ら椿の珍種開発に精を出した、あの懐かしい時代も、決して眠ってはいなかったということであろう。
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」と言う狂歌があるが、この3人が全く違った三つの極をなす国家モデルをモデリングしたと言うのである。
鉄砲を始めて導入し日本を超えるものに惹かれた信長は、キリスト教の布教を後押しし仏教へは不寛容で無化を図りさえした。
天皇制にも否定的で、日本は勿論、中国の冊封体制を超え、ヨーロッパをも視野に置いた国際性、普遍性を評価しており、国際的な場に日本が出て行く初期的な志向をしたので、日本のモデルを「国際日本」とした。
秀吉は、キリスト教を中心とした西洋からの影響を警戒して宣教師の追放を行う一方、南蛮貿易は許して自らの管理化に独占して継続した。
当時、中国の民が、北方民族や東方、倭寇やポルトガル等の勢力に痛めつけられて弱っているのを見越して、朝鮮を攻め、明に代わってアジアの名主となろうと考えた。
これは、明治以降の日本の政策、欧米列強がアジアから遠いことを利用して、日本を拡張し、アジアのリーダーとなる志向性のさきがけで、「大日本」モデルを作った。
家康及び後継者たちは、当初は朱印貿易を奨励し東南アジアへの進出をはかるなど大日本モデルをとったが、キリスト教勢力、その背後にあるポルトガルやスペインなど西洋からの政治力にはまともに対応できないと判断し、「鎖国」方向へ舵を取った。
徳川の幕藩体制は、出身地の小さな地域を治めるシステムを、村や町から藩へ、藩から国へ積み上げて行った制度で、非常に内向きで、町でも村でも、細かい社会単位にまで支配の網を張り巡らされた緻密な「小日本」モデルであった。
以上の典型的な三つの日本モデルに、地政学的に日本を取り巻く三つの主勢力、即ち、中国、ロシア、欧米との関係とその絡みで日本の歴史を分析し、日本の行く末を展望しており、非常に面白いのが、この船曳教授の本である。
本題の「わが祖国」論については、後に譲るとして、内向きの「小日本」モデルの江戸時代に、日本の文化の花が開いたと言う点について、考えてみたい。
”江戸時代の人々は、俳句や読み本と言った文芸から、浮世絵、食文化、花卉、園芸まで幅広い趣味の世界を作り上げた。
都市では歌舞伎や相撲、遊郭と言ったエンターテインメントを発達させ、農村部でも祭りや神社仏閣へのお参りと、様々な楽しみを、経済的には貧しいながらも作り出した。”
日本全体が、外界から殆ど遮断された内向き志向の時代に、豊かな日本文化の華が開いたと言うのである。
もっとも、世界の歴史を紐解けば、ギリシャやローマ、或いは、ルネサンスをはじめヨーロッパは勿論、アメリカやアジアでも、世界の人々の交流の激しい国際化の時代に文化や文明が発展し花開いたと言うケースの方が多いような気がする。
メディチ・インパクトの如く、世界中の俊英がフィレンツェに集合して切磋琢磨したところにイタリア・ルネサンスが花開いた。
しかし、今回はこの問題は問わないことにしよう。
本題に戻るが、日本の文化、特に、庶民を巻き込んだ豊かな日本文化が花開いた時代は、明らかに江戸時代であったことは紛れもない事実で、浮世絵を筆頭に日本文化が18世紀のヨーロッパに大きな衝撃を与えて、ルネサンスにも匹敵するくらいの「ジャポニスム」運動を巻き起こした。
オランダのゴッホ美術館などで、ゴッホが北斎などの浮世絵を克明に描写したり人物画のバックに描いたりしている絵を何点も見て感激したことがある。
話は飛ぶが、ヨーロッパの歴史を見ると、新大陸発見時代や世界に雄飛した帝国主義的な植民地時代では「大ヨーロッパ」モデルで世界を制覇したが、米ソに覇権が移ってからは、内向きの「小ヨーロッパ」モデルに移行したが、ある意味では、非常に安定した民度の高い文化が花開いて成熟したヨーロッパになった。
アメリカ、中国、ロシア等のスーパーパワーに囲まれて普通の国になる日本にとって、「小日本」モデルへの回帰は、選択肢の一つであろうと、船曳教授は説くが、案外、このあたりが日本に相性が良いヨーロッパとの連携説の根拠かも知れない。
”今に残る、花見から演芸、温泉などといった人生の楽しみを、さらに二十一世紀の技術と環境で工夫して、豊かにすることも小日本の志向性から生まれる。
そして、こうした日本の文化の現われは、力の強さを誇示しがちな大日本とは別なやり方で、日本を外にアッピールするのに相応しい。それは外国でのアニメの人気や日本食のブームで既に始まっている。”
”内向きにため込まれた、かっての小日本の魅力が、いま、かえって日本の生んだものの中では、ビジネスモデルよりもグローバルなものになろうとしているのは、嬉しい誤算かもしれない。”
クール・ジャパンが、世界の文化地図を変えつつある。ジョセフ・ナイ教授がアメリカが失いつつあると指摘したソフト・パワーが、少しづつ育って行けば、安保理事会の常任理事国入りをしなくても、「美しい国・日本」が国際舞台で十分に国威を発揚できるということである。
渋茶をすすりながら朝顔の行燈作りを愛で、着倒れ食い倒れで歌舞伎に入れ込み、川柳や浮世絵の危な絵で憂さを晴らし、お殿様自ら椿の珍種開発に精を出した、あの懐かしい時代も、決して眠ってはいなかったということであろう。