写真より克明でリアルな絵画を、これほど沢山一挙に見たことはなかった。
今、日本橋高島屋で、日本の現代具象画壇を代表する画家・野田弘志氏の展覧会「写実の彼方に」が開かれている。
最初は、真っ黒な画面に石や動物の骨などが実にリアルに描かれた黒の時代の絵が並べられていたので、ビックリしてしたが、後半になってからの摩周湖の風景画やtheの時代の非常に美しいヌードの絵やバラ花・フルーツなどの素晴らしい絵などを見て、その凄さに感激してしまった。
ワインが好きだったとかで、ビンテッジ・ワインのくすんだビンやラベルの感触など、もう、写真以上のリアルさで描写技術の凄さにビックリする。
写真を使った画家としては、フェルメールが有名であるが、彼の場合は、写真が実用化される以前の話なので、「カメラオビュスクラ」と言うピンホールカメラに映った逆さまな映像を活用して描いた。
野田氏の場合には、完全に今日の素晴らしい写真映像を活用して描いていると思われる。
しかし、写真の場合には、いくら照明など工夫を凝らして映写条件を良くしても、意図した絵となる究極のチャンスに遭遇するのは夢の夢であり、瞬間を切り取らざるを得ないと言う限界があるが、絵画の場合には、技術と芸術性が要求されるものの、縦横無尽にイメージを膨らませて修正するなど創造性を加味することが出来る。
心象風景を思う存分膨らませて、好きなように心を込めることが出来るのであるから、写真よりはるかにリアルに描ける筈ではないであろうか。
野田画伯の絵は、正に、写真はあくまで写実の手段であって、西洋の古典から学んだ透徹した峻厳な描法により、その描かれ超具象の奥に、写実を超越して創造された独自の世界が展開されている。
この口絵の絵は、1973年に描かれた初期の黒の時代の絵「黒い風景 其の参」で、うず高く積もった落葉樹の枯葉の上に刈り取られた麦の束が立てられていて、其の周りを羽化したばかりの蛾が群れ飛んでいる。
それこそ、一枚一枚枯葉は克明に描かれていて、麦穂などはリアルを通り越していて恐ろしいくらいだし、蛾のほうは小さ過ぎるが、それでも蛾だと判明するほど写実的である。
死んでしまった植物に寄せて厳粛に死を描き、生きる蛾との対比で生死の奥深さを描出しようとしたのかも知れないが、美しいと思える絵ではない。
絵画についても、舞台芸術と同じで、私自身は、美しくなければならないと思っており、リアリズムであればリアルである程そうである。
野田画伯の初期の絵画については、バックが黒であろうと白や金色に変わろうと、或いは、高度な理想を追求し精神性の高いモチーフを描いた絵であろうと、克明に描かれた石や卵やロープや動物の骨の精密な描写については、全く感興が湧かなかった。
ところが、新境地を開いて、いつか滅びるかも知れないけれど生身の輝くような若くて美しい女性のヌードや、着物やスーツで正装した女性の写真よりもリアルな美しい絵を見ていると、その具象画の凄さに圧倒される。
新聞小説「湿原」の挿絵を書いてからであろうか、北海道にアトリエを持ってから描いたと言う摩周湖の二枚の対照的な絵では、急な傾斜のはるか下に深い水面があり遠くに山が遠望出来るお馴染みの風景だが、二度しか見ていない摩周湖の思い出が髣髴としてイメージが膨らんでくる程素晴らしい。
「トドワラ」を描いた絵など、ダークな湿原に白い枯れ木の根っこが突き立っているのだが、初期に動物の骨で描こうとした死のイメージが、美しく描かれている様な気がして、このように自然の風景に託して描かれた絵の方がストレートで私は好きである。
素晴らしい絵画展を、久しぶりに楽しませて貰った。
今、日本橋高島屋で、日本の現代具象画壇を代表する画家・野田弘志氏の展覧会「写実の彼方に」が開かれている。
最初は、真っ黒な画面に石や動物の骨などが実にリアルに描かれた黒の時代の絵が並べられていたので、ビックリしてしたが、後半になってからの摩周湖の風景画やtheの時代の非常に美しいヌードの絵やバラ花・フルーツなどの素晴らしい絵などを見て、その凄さに感激してしまった。
ワインが好きだったとかで、ビンテッジ・ワインのくすんだビンやラベルの感触など、もう、写真以上のリアルさで描写技術の凄さにビックリする。
写真を使った画家としては、フェルメールが有名であるが、彼の場合は、写真が実用化される以前の話なので、「カメラオビュスクラ」と言うピンホールカメラに映った逆さまな映像を活用して描いた。
野田氏の場合には、完全に今日の素晴らしい写真映像を活用して描いていると思われる。
しかし、写真の場合には、いくら照明など工夫を凝らして映写条件を良くしても、意図した絵となる究極のチャンスに遭遇するのは夢の夢であり、瞬間を切り取らざるを得ないと言う限界があるが、絵画の場合には、技術と芸術性が要求されるものの、縦横無尽にイメージを膨らませて修正するなど創造性を加味することが出来る。
心象風景を思う存分膨らませて、好きなように心を込めることが出来るのであるから、写真よりはるかにリアルに描ける筈ではないであろうか。
野田画伯の絵は、正に、写真はあくまで写実の手段であって、西洋の古典から学んだ透徹した峻厳な描法により、その描かれ超具象の奥に、写実を超越して創造された独自の世界が展開されている。
この口絵の絵は、1973年に描かれた初期の黒の時代の絵「黒い風景 其の参」で、うず高く積もった落葉樹の枯葉の上に刈り取られた麦の束が立てられていて、其の周りを羽化したばかりの蛾が群れ飛んでいる。
それこそ、一枚一枚枯葉は克明に描かれていて、麦穂などはリアルを通り越していて恐ろしいくらいだし、蛾のほうは小さ過ぎるが、それでも蛾だと判明するほど写実的である。
死んでしまった植物に寄せて厳粛に死を描き、生きる蛾との対比で生死の奥深さを描出しようとしたのかも知れないが、美しいと思える絵ではない。
絵画についても、舞台芸術と同じで、私自身は、美しくなければならないと思っており、リアリズムであればリアルである程そうである。
野田画伯の初期の絵画については、バックが黒であろうと白や金色に変わろうと、或いは、高度な理想を追求し精神性の高いモチーフを描いた絵であろうと、克明に描かれた石や卵やロープや動物の骨の精密な描写については、全く感興が湧かなかった。
ところが、新境地を開いて、いつか滅びるかも知れないけれど生身の輝くような若くて美しい女性のヌードや、着物やスーツで正装した女性の写真よりもリアルな美しい絵を見ていると、その具象画の凄さに圧倒される。
新聞小説「湿原」の挿絵を書いてからであろうか、北海道にアトリエを持ってから描いたと言う摩周湖の二枚の対照的な絵では、急な傾斜のはるか下に深い水面があり遠くに山が遠望出来るお馴染みの風景だが、二度しか見ていない摩周湖の思い出が髣髴としてイメージが膨らんでくる程素晴らしい。
「トドワラ」を描いた絵など、ダークな湿原に白い枯れ木の根っこが突き立っているのだが、初期に動物の骨で描こうとした死のイメージが、美しく描かれている様な気がして、このように自然の風景に託して描かれた絵の方がストレートで私は好きである。
素晴らしい絵画展を、久しぶりに楽しませて貰った。