熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

中村吉右衛門の「法界坊」・・・新橋演舞場

2007年05月09日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   「釣鐘」の建立寄進金を集めて、その金で遊びまくる助べえの悪徳坊主「法界坊」を、新橋演舞場で、中村吉右衛門が演じて、連日客を沸かせている。
   「えー浅草龍泉寺釣鐘の建立 おこころざしはござりませぬか」と花道のかけ幕の奥から声が聞えると、よれよれの僧衣をまとって妖しげな掛け軸の幡を持った汚い坊主が現われる、これが吉右衛門である。
   昼の部は、吉右衛門は、鬼平犯科帳の長谷川平蔵を演じるのであるから、この夜の部の藤山寛美バリの生臭坊主との落差は大きい。

   吉右衛門の喜劇役者ぶりは、少し以前に、「松竹梅湯島掛額」の紅長役で、観て知っているので、今回も存分に楽しませてもらった。
   勘三郎の法界坊とは大分ニュアンスが違うのだが、あの剛直で理知的なスケールの大きな吉右衛門の本来のしみじみとした滋味のような人間味が、巧まずしておかしみとして滲み出てくるような演技に引き込まれてしまうのである。

   この「隅田川続俤」は、隅田川もののパロディ版だと吉右衛門は言っているが、京都の吉田家が皇室から預かった「鯉魚の一軸」を紛失してお家断絶、その若殿松若丸(錦之助)が小間物商・永楽屋の手代・要助として働きながら一軸を探すと言うお家騒動話だが、要助は国の許婚も忘れてその家の娘・お組(芝雀)と恋仲で、これに、一軸を所持する商人や番頭や法界坊が絡んでお組を口説くと言う色と欲のドタバタ劇が展開される。
   お組との恋が露見して窮地に立った要助を元家来の道具屋甚三(富十郎)が機転を利かせて助けるのだが、この恋愛騒動の証拠だと法界坊が懐から出した恋文を、甚三が、法界坊が書いてお組に差し出したが投げ捨てられていた恋文とすり替えて、皆の面前で大声で読んだのだから、法界坊は周章狼狽。
   その後、松若丸を京より訪ねてきた許婚の野分姫(染五郎)は、手篭めにしようとして抵抗したので法界坊に殺され、法界坊も最後には、一軸の取り合いで甚三に殺されるのだが、お組に振られてから、段々、本性を現して凄みが出てくる悪への変身とその間抜けぶりが面白い。

   舞台変わって続く「浄瑠璃 双面水照月」の常磐津連中と竹本連中の楽に乗せての華麗な舞踊劇が面白い。
   墨田川で待っていた甚三の妹・女船頭おしづ(福助)の協力で災難から逃げようとした二人の前に、忽然とお組の姿をした女(染五郎T)が現われて遮る。
   この女は、殺した野分姫と殺された法界坊が合体した双面の霊で、3人をいたぶり大暴れする。結局最後は負けるのだが、二人の悪霊を表情を変えて踊り分ける染五郎の芸達者ぶりも見事である。
   この霊は、以前は吉右衛門自身が演じていたようで、舞台写真を見ていると、法界坊イメージの方が強くなるであろうが、是非見てみたいと思った。
   もっとも、15年ほど前だがロンドンで、歌舞伎版「ハムレット」で、染五郎のオフェリアの水も滴る美しい女姿を観ているので、今回の染五郎のお姫様スタイルも中々素晴らしくて楽しみながら観ていた。

   富十郎は、痛めていた足が治ったのであろうか、多少、動きに鈍さが残っていたが、ラブレターを読みながらの掛け合いや決闘など、とにかく、吉右衛門と四つに組んでの演技での風格と舞台を引き締める存在感などは流石であり、千両役者の貫禄であろう。
   お組の芝雀は、中々魅力的なしっとりとした味のある役作りで、気の所為か最近少しづつ父親の雀右衛門に似て来たような気がして楽しみながら観ている。
   錦之助の要助は、先月の襲名披露の舞台よりも、今回の舞台の方が自分にマッチした役柄で、伸び伸び演じていて素晴らしいと思った。
   
   
   ところで、福助は、「妹背山婦女庭訓」の三笠山御殿の場で、初々しいお三輪と、鬼気迫る嫉妬に燃える「擬着の女」を実に鮮やかに演じていて良かった。
   ただし、この舞台は、文楽と比べて、意地悪な女官たちのお三輪のいじめシーンが延々と続き、くどくて度が過ぎている上に、人形と違って生身の娘いじめなので、何時も観ながら悪趣味だと思っている。
   高麗蔵の橘姫、染五郎の求女、歌六の豆腐買も夫々楽しませてもらったが、フッと、高麗蔵と染五郎が入れ替わった舞台だったら案外面白いだろう、と考えた。
   吉右衛門の鱶七は、貫禄十分で爽快だが、この三笠山御殿の場だけでは、物足らなくて尻切れトンボのような感じで終わってしまったのが惜しかった。

   
コメント
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