久しぶりの能「杜若」である。
「伊勢物語」の九段「から衣きつつなれにし」に想を取った在原業平を主題とした能だが、業平本人は勿論、恋人であった二条の后高子も登場せず、登場するのは、シテ/杜若の精とワキ/旅の僧だけで、また、中入のない一場物で、間狂言もなく、作リ物も出て来ない。
後半、物着で、業平の冠と二条の后高子の衣を身に着けたシテが、舞う。
杜若の精は、業平は歌舞の菩薩が人間に姿を変えて現れたのであり、その業平が和歌に詠んだ草や木も仏法の恵みを受けるのだと語り、業平の人生を語りながら舞い続け、優雅な序ノ舞を舞い、夜が白み始めると、「草木国土悉皆成仏」の教え通りに成仏できたことを喜び、夜明けとともに消えて行く。
この「草木国土悉皆成仏」だが、
狩猟採集文化であった縄文文化では、生きとし生けるものとの一体感を持っていて、山や川も木や植物や魚も、みんな人間のように生きているものだと考えていた。草や木も、国や鉱物も生きていて、仏性を持っている。そして、それらはすべて成仏できる。植物ばかりか、国や国土、すなわち鉱物や自然現象も実は生きていると言う思想が日本文化の根底にあるところに、仏教が入ってきて日本仏教に同化した。と梅原教授は言う。
以前、梅原猛著「学ぶよろこびー創造と発見ー」を読んで、この世を救うのは、この日本の仏教哲学だと書いてあったのをレビューしたことがある。
梅原教授は、自然を何か霊の力が働いているものと考えたアリストテレスに価値を観出して、全く無機的数学的方法によって、見事に、自然科学及び人間が自然を支配する技術を無条件に肯定するデカルト哲学に対して、この自然観そのものが間違っているのではなかろうか、と言う認識に立ち、
科学技術が、近代においてものすごく発展して、人間の自然征服がほぼ完了し、自然エコシステムを壊して、環境破壊がますますひどくなって、地球には人間が住めなくなるのは、もう、はっきりしている、自然との共生を志向した新しい文明、新しい哲学が必要だ、と考えた。
「草木国土悉皆成仏」と言う思想は、狩猟採取文化が長く続いた日本に残ったが、かっての人類共通の思想的原理ではなかったかと思う。
そのような原初的・根源的思想に帰らない限り、人類の未来の生存や末永い発展は考えられない。と言う。
やっと、「草木国土悉皆成仏」と言う新しい哲学の基本概念を得たにせよ、西洋哲学のしっかりした批判によって、新しい「人類の哲学」と言うものを作り出せるかどうかは疑わしいが、この哲学を作らない限り、死ぬに死ねないのである、と言うのである。
宗教については、十分な知識がないので、何とも言えないが、生命体としてのエコシステムを考える時には、人間中心の考え方に立つのではなく、当然、「草木国土悉皆成仏」と言う視点で考えなければ、この宇宙船地球号は、滅びるのは必定であろう。
それに、AIが人知人能を超えつつある現在、梅原教授の指摘するように、今の西洋哲学優位の考え方をしている限り、AIや機械に人間が凌駕なり駆逐されてしまうのは必然であろうから、新しい「人類の哲学」を創造することが必要であろうと思う。
話は変わるが、
この能における業平の二条の后への思慕は分かるが、何時も解せないのは、業平が衆生済度の菩薩だと言うことである。
読んでないので偉そうなことは言えないが、「伊勢物語」の中世の注釈書「和歌知顕集」「冷泉流伊勢物語抄」か何かに、業平は馬頭観音の生まれ変わりだと書いてあるとか。
交わった女性が3733人、業平は、寂光浄土からこの世に化現した歌舞の菩薩で、二条の后をはじめ多くの女人と契りを結んだのは衆生済度のためだと言う件である。
金春禅竹の作と言うのだが、観阿弥の作の世阿弥の改作だと言われている能「江口」でも、終曲では、遊女である江口の君が普賢菩薩となって、舟は白象と化して白雲に乗って西の空に消えて行く。のだが、当時は、このような、宗教観があったのかと思うと不思議である。
つまらないことを考えずに、すんなりと能を鑑賞すればよいとは思っているが、悲しいかな、能ファン初歩では、ついつい、理屈が勝った見方をしてしまう。
シテ/杜若の精 櫻間金記
ワキ/旅僧 野口能弘
「伊勢物語」の九段「から衣きつつなれにし」に想を取った在原業平を主題とした能だが、業平本人は勿論、恋人であった二条の后高子も登場せず、登場するのは、シテ/杜若の精とワキ/旅の僧だけで、また、中入のない一場物で、間狂言もなく、作リ物も出て来ない。
後半、物着で、業平の冠と二条の后高子の衣を身に着けたシテが、舞う。
杜若の精は、業平は歌舞の菩薩が人間に姿を変えて現れたのであり、その業平が和歌に詠んだ草や木も仏法の恵みを受けるのだと語り、業平の人生を語りながら舞い続け、優雅な序ノ舞を舞い、夜が白み始めると、「草木国土悉皆成仏」の教え通りに成仏できたことを喜び、夜明けとともに消えて行く。
この「草木国土悉皆成仏」だが、
狩猟採集文化であった縄文文化では、生きとし生けるものとの一体感を持っていて、山や川も木や植物や魚も、みんな人間のように生きているものだと考えていた。草や木も、国や鉱物も生きていて、仏性を持っている。そして、それらはすべて成仏できる。植物ばかりか、国や国土、すなわち鉱物や自然現象も実は生きていると言う思想が日本文化の根底にあるところに、仏教が入ってきて日本仏教に同化した。と梅原教授は言う。
以前、梅原猛著「学ぶよろこびー創造と発見ー」を読んで、この世を救うのは、この日本の仏教哲学だと書いてあったのをレビューしたことがある。
梅原教授は、自然を何か霊の力が働いているものと考えたアリストテレスに価値を観出して、全く無機的数学的方法によって、見事に、自然科学及び人間が自然を支配する技術を無条件に肯定するデカルト哲学に対して、この自然観そのものが間違っているのではなかろうか、と言う認識に立ち、
科学技術が、近代においてものすごく発展して、人間の自然征服がほぼ完了し、自然エコシステムを壊して、環境破壊がますますひどくなって、地球には人間が住めなくなるのは、もう、はっきりしている、自然との共生を志向した新しい文明、新しい哲学が必要だ、と考えた。
「草木国土悉皆成仏」と言う思想は、狩猟採取文化が長く続いた日本に残ったが、かっての人類共通の思想的原理ではなかったかと思う。
そのような原初的・根源的思想に帰らない限り、人類の未来の生存や末永い発展は考えられない。と言う。
やっと、「草木国土悉皆成仏」と言う新しい哲学の基本概念を得たにせよ、西洋哲学のしっかりした批判によって、新しい「人類の哲学」と言うものを作り出せるかどうかは疑わしいが、この哲学を作らない限り、死ぬに死ねないのである、と言うのである。
宗教については、十分な知識がないので、何とも言えないが、生命体としてのエコシステムを考える時には、人間中心の考え方に立つのではなく、当然、「草木国土悉皆成仏」と言う視点で考えなければ、この宇宙船地球号は、滅びるのは必定であろう。
それに、AIが人知人能を超えつつある現在、梅原教授の指摘するように、今の西洋哲学優位の考え方をしている限り、AIや機械に人間が凌駕なり駆逐されてしまうのは必然であろうから、新しい「人類の哲学」を創造することが必要であろうと思う。
話は変わるが、
この能における業平の二条の后への思慕は分かるが、何時も解せないのは、業平が衆生済度の菩薩だと言うことである。
読んでないので偉そうなことは言えないが、「伊勢物語」の中世の注釈書「和歌知顕集」「冷泉流伊勢物語抄」か何かに、業平は馬頭観音の生まれ変わりだと書いてあるとか。
交わった女性が3733人、業平は、寂光浄土からこの世に化現した歌舞の菩薩で、二条の后をはじめ多くの女人と契りを結んだのは衆生済度のためだと言う件である。
金春禅竹の作と言うのだが、観阿弥の作の世阿弥の改作だと言われている能「江口」でも、終曲では、遊女である江口の君が普賢菩薩となって、舟は白象と化して白雲に乗って西の空に消えて行く。のだが、当時は、このような、宗教観があったのかと思うと不思議である。
つまらないことを考えずに、すんなりと能を鑑賞すればよいとは思っているが、悲しいかな、能ファン初歩では、ついつい、理屈が勝った見方をしてしまう。
シテ/杜若の精 櫻間金記
ワキ/旅僧 野口能弘