恒例の第7回の能楽祭。宝生能楽堂で開催された。
演目詳細は、次の通り。
解説 金子敬一郎
舞囃子 金剛流「邯鄲」 シテ廣田幸稔
笛 杉信太朗
小鼓 大倉源次郎
大鼓 原岡一之
太鼓 大川典良
地謡 種田道一他
独吟 宝生流「松風」 前田晴啓
仕舞 金春流「笠ノ段」 辻井八郎
一調 観世流「勧進帳」 浅見真州
大鼓 柿原崇志
狂言 和泉流「杭か人か 謡入」
シテ 野村又三郎
アド 奥津健太郎
後見 野口隆行
能 喜多流「小鍛冶 白頭」 シテ 中村邦生
ワキ 宝生欣哉
ワキツレ 野口能弘
アイ 大藏彌太郎
笛 一噌隆之
小鼓 成田達志
大鼓 國川純
太鼓 桜井均
後見 香川靖嗣他
地謡 粟谷明生他
附祝言
能「小鍛冶」は、次のようなストーリー、
銕仙会の解説では、”天下を治め、民を安んずる神の加護。その霊力をもつ王権の宝器”御剣”をめぐる物語。”
刀鍛冶三条宗近(ワキ)のところへ、勅使橘道成(ワキツ)が訪れ、霊夢を見た一条天皇の命を受けて新しく御剣を造れとの勅命を伝える。宗近は、自分と同等の技量を持つ相鎚が居ないので無理だと返答するが、重ねての勅命に断り切れず、氏神である稲荷明神へ参詣する。一人の童子(前シテ)が現れて、剣の威徳を称える中国の故事や日本武尊の草薙の剣などの不思議な力を持つ剣の故事を語り、宗近を励まして、「祭壇を築いて刀を打つ準備をして待て」と告げて姿を消す。宗近が祭壇を築いて神に祈っていると、稲荷明神の使いの霊孤(後シテ)が現れて、宗近と力を合わせて天下無双の剣を打ち上げて、霊孤は、完成した御剣を勅使に献上して、稲荷山へと飛び去って行く。
この能では、後場で、正先に、注連縄を張り、幣、鉄床、槌、刀身を置いた一畳台がおかれて、稲荷明神の相槌で宗近が宝剣を打ち上げるのである。
「白頭」の小書きのある演出で、後シテは、白頭で白装束の颯爽たる出で立ちで登場して勇壮に舞い、迫力十分。喜多流独特の狐足を用いて、足音を立てずに敏捷に動いて、流れるように美しい。
後シテは、輪冠に狐戴をつけているのだが、この狐が、普通とは違って、後ろ向きで尻を上げてしっぽの先が膨らんでいて狐らしからぬ姿をしていて印象に残っている。
満を持しての「小鍛冶」の舞台で、感動的であった。
狂言「杭か人か」は、
太郎冠者を、本当は臆病者である筈だと思っているのだが、いつも空威張りや強がりを言っているので、主人は、その真価を確かめようと、太郎冠者に、留守番・夜回りを命じて出掛けるふりをし、観察していると言う話。
大きな屋敷に一人残されて留守番を頼まれたのだが、何をしても内心怖くて仕方なくて落ち着かず、夜回りに武器を持って恐る恐るあっちこっちを歩くのだが、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」で、とうとう、家に帰ってきて立っていた主人を見て、「杭か人か」と問いかけて、「杭、杭」と応えられて喜ぶのだが、主の声を聞き違えた報いで、追い込まれて幕。
これは、一人残された太郎冠者の一人芝居と言った趣の狂言で、怖い怖いと思いながら、庭石にも平身低頭這い蹲っての命乞い、ああでもないこうでもないと激しくアップダウンを繰り返す心の動きを、豊かな感情表現と喜怒哀楽綯い交ぜに演じる、正に、野村又三郎の独壇場の世界である。
人間皆こんなものだと言うアイロニーと諧謔、
モリカケ問題も、日大アメフト問題も、クロをシロと言い続けて、上から下まで、罪の意識さえ欠如してしまったこの世の中、
杭か人か、問うているこの狂言の世界かも知れない。
舞囃子、独吟、仕舞、一調、
このように、能本来の姿から、もっと、削ぎ落されて昇華された舞台を観て聴いていると、私には、益々、神性を帯びて迫って来る。
演目詳細は、次の通り。
解説 金子敬一郎
舞囃子 金剛流「邯鄲」 シテ廣田幸稔
笛 杉信太朗
小鼓 大倉源次郎
大鼓 原岡一之
太鼓 大川典良
地謡 種田道一他
独吟 宝生流「松風」 前田晴啓
仕舞 金春流「笠ノ段」 辻井八郎
一調 観世流「勧進帳」 浅見真州
大鼓 柿原崇志
狂言 和泉流「杭か人か 謡入」
シテ 野村又三郎
アド 奥津健太郎
後見 野口隆行
能 喜多流「小鍛冶 白頭」 シテ 中村邦生
ワキ 宝生欣哉
ワキツレ 野口能弘
アイ 大藏彌太郎
笛 一噌隆之
小鼓 成田達志
大鼓 國川純
太鼓 桜井均
後見 香川靖嗣他
地謡 粟谷明生他
附祝言
能「小鍛冶」は、次のようなストーリー、
銕仙会の解説では、”天下を治め、民を安んずる神の加護。その霊力をもつ王権の宝器”御剣”をめぐる物語。”
刀鍛冶三条宗近(ワキ)のところへ、勅使橘道成(ワキツ)が訪れ、霊夢を見た一条天皇の命を受けて新しく御剣を造れとの勅命を伝える。宗近は、自分と同等の技量を持つ相鎚が居ないので無理だと返答するが、重ねての勅命に断り切れず、氏神である稲荷明神へ参詣する。一人の童子(前シテ)が現れて、剣の威徳を称える中国の故事や日本武尊の草薙の剣などの不思議な力を持つ剣の故事を語り、宗近を励まして、「祭壇を築いて刀を打つ準備をして待て」と告げて姿を消す。宗近が祭壇を築いて神に祈っていると、稲荷明神の使いの霊孤(後シテ)が現れて、宗近と力を合わせて天下無双の剣を打ち上げて、霊孤は、完成した御剣を勅使に献上して、稲荷山へと飛び去って行く。
この能では、後場で、正先に、注連縄を張り、幣、鉄床、槌、刀身を置いた一畳台がおかれて、稲荷明神の相槌で宗近が宝剣を打ち上げるのである。
「白頭」の小書きのある演出で、後シテは、白頭で白装束の颯爽たる出で立ちで登場して勇壮に舞い、迫力十分。喜多流独特の狐足を用いて、足音を立てずに敏捷に動いて、流れるように美しい。
後シテは、輪冠に狐戴をつけているのだが、この狐が、普通とは違って、後ろ向きで尻を上げてしっぽの先が膨らんでいて狐らしからぬ姿をしていて印象に残っている。
満を持しての「小鍛冶」の舞台で、感動的であった。
狂言「杭か人か」は、
太郎冠者を、本当は臆病者である筈だと思っているのだが、いつも空威張りや強がりを言っているので、主人は、その真価を確かめようと、太郎冠者に、留守番・夜回りを命じて出掛けるふりをし、観察していると言う話。
大きな屋敷に一人残されて留守番を頼まれたのだが、何をしても内心怖くて仕方なくて落ち着かず、夜回りに武器を持って恐る恐るあっちこっちを歩くのだが、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」で、とうとう、家に帰ってきて立っていた主人を見て、「杭か人か」と問いかけて、「杭、杭」と応えられて喜ぶのだが、主の声を聞き違えた報いで、追い込まれて幕。
これは、一人残された太郎冠者の一人芝居と言った趣の狂言で、怖い怖いと思いながら、庭石にも平身低頭這い蹲っての命乞い、ああでもないこうでもないと激しくアップダウンを繰り返す心の動きを、豊かな感情表現と喜怒哀楽綯い交ぜに演じる、正に、野村又三郎の独壇場の世界である。
人間皆こんなものだと言うアイロニーと諧謔、
モリカケ問題も、日大アメフト問題も、クロをシロと言い続けて、上から下まで、罪の意識さえ欠如してしまったこの世の中、
杭か人か、問うているこの狂言の世界かも知れない。
舞囃子、独吟、仕舞、一調、
このように、能本来の姿から、もっと、削ぎ落されて昇華された舞台を観て聴いていると、私には、益々、神性を帯びて迫って来る。