この日の狂言の会は、三演目夫々に、人間国宝が出演し、禰宜山伏には、前の人間国宝茂山千作の長男千五郎宗家も京都から、そして、野村又三郎も名古屋から出演し、実に充実した舞台を展開した。
プログラムは、次の通り。
◎家・世代を越えて
狂言 舟渡聟(ふなわたしむこ) 野村 万作(和泉流)
狂言 清水(しみず) 野村 萬(和泉流)
素囃子 羯鼓(かっこ) 成田 寛人・森 貴史・佃 良太郎
狂言 禰宜山伏(ねぎやまぶし) 山本 東次郎(大蔵流)
興味深いのは、「舟渡聟/船渡聟」で、和泉流では、「舟渡聟」だが、大蔵流では、両用だと言う。
ふねの漢字が違うのみならず、内容も、聟入りに向かう聟が、舟に乗って川を渡り、その時、酒好きの船頭に所望されて舅への土産の酒を飲まれると言うストーリー展開まではよく似ているのだが、その後の舅宅での違いが面白い。
今回のは和泉流の舟渡聟。
婿が、上等な酒を持ち込んだので、酒好きの船頭が飲ませろと、舟を揺すったり舟を流したりと聟を脅すので、仕方なく船頭に酒を飲ませて下船する。舅宅に着くと舅は留守で姑が応対して、暫くすると舅が帰って来たのだが、聟の顔を見て仰天。酒を強請って飲ませたので面目なくて会えない、こんなブ男ではなかったと言って返せと言うのだが、姑は髭を剃らせて対面させる。袖で顔を隠して対面するのだが、聟が顔を見せてくれと袖を外して見ると先ほどの船頭。面目ないと舅は謝るが、元々舅のために持ってきたものと慰めて、名残惜しさに、謡になって相舞いして、ガッシ留メ。
これに対して、大蔵流は、舟で船頭にねだられて祝儀の酒樽を開けてしまうのは同じだが、聟も一緒になって酒盛りをして酒を飲みほしてしまう。空の酒樽を持って、舅宅を訪れて、固めの杯になって、舅が聟の持参した酒を飲もうと主張して譲らないので、とうとう、空酒だと分かって面目を潰した聟が逃げ出して、舅がその後を追いかけて幕。取次に太郎冠者が出演している。
先年、逸平の聟、あきらの船頭、七五三の舅、の面白い「船渡聟」を観ており、印象に残っている。船の中では、聟と船頭が、舟の揺れに合わせて、器用に左右にリズムを取って揺れ動いていたのが、秀逸。
一寸した小道具の違いだが、大蔵流では、聟は酒樽代わりに、葛桶を手に持って出てきて、この蓋を酒盛りに使う。
ところが、和泉流では、聟は、角棒に、笹の枝につけた鯛と杉手樽とをぶら下げて担って登場して、乗船時に、船頭が大事そうに受け取って舳先に置く。そのために、船頭が酒を飲むときに杯がないので、腰に挿した淦取を川の水で洗って飲む。
シテの船頭と舅とのキャラクターの落差、酒好きで良い酒に巡り合えた千載一遇のチャンスをどうしても満たしたい一心であった、しかし、聟と対面すれば面目なく男が廃る・・・庶民の悲しいさがを万作は淡々と演じているが、その優しさとほのぼのとした温かさが、身に染みる。
婿の直球勝負の高澤祐介の爽やかさ、又三郎のアイロニーと諧謔の入り混じった女房が味があって笑わせる。
次の「清水」
主人から、茶会用の水を野中の清水へ汲みに行けと命じられた太郎冠者は、面倒なので、鬼が出るから嫌だと断るのだが、主人は承知せず家宝の桶を持たせて追い出す。太郎冠者が鬼に襲われて桶を取られたと言って帰ってくきたので、主人は家宝の桶を惜しみ、みずから清水へ行くと言う。先回りした太郎冠者が鬼の面をかぶって脅すと、主人は命乞いをして逃げ出すのだが、太郎冠者に都合の良いことばかり言う鬼の言葉や、鬼がどう言ったかと聞いたら、「捕って噛もう」と言う太郎冠者そっくりの鬼の声などに不審を抱いて再び清水へ確かめに行き、もう一度鬼に扮した太郎冠者の正体を見破って、追い込む。
若い颯爽としたいい男の主人の三宅右矩を、老長けたベテランの鬼の萬が、口から出まかせで体を上手くかわそうと嘘を並べて器用に応戦しようと四苦八苦するユーモアのセンスと仕草の巧みさが、何とも言えない笑いを誘う。 87歳とは思えないほど、芸が細かく滋味深い。
解説には、人使いの荒い主人に、鬼に化けたチャンスに、蚊帳を吊ることや酒を飲ませろと、悲しい程些細な待遇改善を訴えていると書いてあるが、今の働き方改革法案もそうだが、「せまじきものは宮仕え」なのであろう。
禰宜山伏は、
禰宜が、旦那回りの旅の道中、街道の茶屋に立ち寄って一服しているところへ、山伏が通りかかり、茶屋の主人や禰宜に難癖を付けて、帰り際に、肩荷の箱を禰宜に持てと押し付けて家来同然に扱おうとする。見咎めた茶屋の主人は、自分が所有する大黒天を、双方の祈祷で祈り比べて、影向した方を勝ちとして勝負するよう提案したので、両者了解して祈り始める。大黒天は、禰宜には応えて、山伏にはそっぽを向くので、山伏は、袖を引いたり自分の方を向かせたりするが言うことを聞かず、山伏を槌で打ちながら追いかけるので、禰宜や茶屋も後を追う。
狂言共同社の解説では、「一見大人しくも伊勢神宮の威光を背景に持つ芯の強い禰宜と、難行苦行の末に得た能力ゆえ、傲慢な態度をとる山伏の対比がくっきりと描かれている演目で、神仏信仰の表れとともに権力に抑圧された時代背景も捉えた作品です。」と書いてあるのだが、
禰宜は、伊勢神宮の御師で、地方の信者のために暦やお祓いを配り、また祈祷もして歩いた下級の神官であり、山伏は、出羽の羽黒山出身で大峰・葛城で修業しての帰途と言うことで、別に、宗教と言うか祈祷の甲乙をつけたと言うことではなかろう。
狂言では、山伏狂言は比較的少ないのだが、殆ど、いい加減な山伏しか登場せず、祈りも、「ぼろろん、ぼろろん、イロハニホヘト・・・」と言った調子で数珠を揉むだけで、結果は最悪。
ところで、今回は、居丈高で傲慢な山伏を東次郎、気の弱い誠実な禰宜を千五郎が演じているのだが、何時もながら歳を感じさせない東次郎のエネルギッシュな迫力抜群の山伏は、非常に魅力的であり、それに負けじとイメージとはちょっと違った馬力のある骨太の禰宜を千五郎が演じており、東西両雄の揃い踏み。同じく東西の松本薫の茶屋と山本則重の大黒天が、彩を添えていて面白い。
プログラムは、次の通り。
◎家・世代を越えて
狂言 舟渡聟(ふなわたしむこ) 野村 万作(和泉流)
狂言 清水(しみず) 野村 萬(和泉流)
素囃子 羯鼓(かっこ) 成田 寛人・森 貴史・佃 良太郎
狂言 禰宜山伏(ねぎやまぶし) 山本 東次郎(大蔵流)
興味深いのは、「舟渡聟/船渡聟」で、和泉流では、「舟渡聟」だが、大蔵流では、両用だと言う。
ふねの漢字が違うのみならず、内容も、聟入りに向かう聟が、舟に乗って川を渡り、その時、酒好きの船頭に所望されて舅への土産の酒を飲まれると言うストーリー展開まではよく似ているのだが、その後の舅宅での違いが面白い。
今回のは和泉流の舟渡聟。
婿が、上等な酒を持ち込んだので、酒好きの船頭が飲ませろと、舟を揺すったり舟を流したりと聟を脅すので、仕方なく船頭に酒を飲ませて下船する。舅宅に着くと舅は留守で姑が応対して、暫くすると舅が帰って来たのだが、聟の顔を見て仰天。酒を強請って飲ませたので面目なくて会えない、こんなブ男ではなかったと言って返せと言うのだが、姑は髭を剃らせて対面させる。袖で顔を隠して対面するのだが、聟が顔を見せてくれと袖を外して見ると先ほどの船頭。面目ないと舅は謝るが、元々舅のために持ってきたものと慰めて、名残惜しさに、謡になって相舞いして、ガッシ留メ。
これに対して、大蔵流は、舟で船頭にねだられて祝儀の酒樽を開けてしまうのは同じだが、聟も一緒になって酒盛りをして酒を飲みほしてしまう。空の酒樽を持って、舅宅を訪れて、固めの杯になって、舅が聟の持参した酒を飲もうと主張して譲らないので、とうとう、空酒だと分かって面目を潰した聟が逃げ出して、舅がその後を追いかけて幕。取次に太郎冠者が出演している。
先年、逸平の聟、あきらの船頭、七五三の舅、の面白い「船渡聟」を観ており、印象に残っている。船の中では、聟と船頭が、舟の揺れに合わせて、器用に左右にリズムを取って揺れ動いていたのが、秀逸。
一寸した小道具の違いだが、大蔵流では、聟は酒樽代わりに、葛桶を手に持って出てきて、この蓋を酒盛りに使う。
ところが、和泉流では、聟は、角棒に、笹の枝につけた鯛と杉手樽とをぶら下げて担って登場して、乗船時に、船頭が大事そうに受け取って舳先に置く。そのために、船頭が酒を飲むときに杯がないので、腰に挿した淦取を川の水で洗って飲む。
シテの船頭と舅とのキャラクターの落差、酒好きで良い酒に巡り合えた千載一遇のチャンスをどうしても満たしたい一心であった、しかし、聟と対面すれば面目なく男が廃る・・・庶民の悲しいさがを万作は淡々と演じているが、その優しさとほのぼのとした温かさが、身に染みる。
婿の直球勝負の高澤祐介の爽やかさ、又三郎のアイロニーと諧謔の入り混じった女房が味があって笑わせる。
次の「清水」
主人から、茶会用の水を野中の清水へ汲みに行けと命じられた太郎冠者は、面倒なので、鬼が出るから嫌だと断るのだが、主人は承知せず家宝の桶を持たせて追い出す。太郎冠者が鬼に襲われて桶を取られたと言って帰ってくきたので、主人は家宝の桶を惜しみ、みずから清水へ行くと言う。先回りした太郎冠者が鬼の面をかぶって脅すと、主人は命乞いをして逃げ出すのだが、太郎冠者に都合の良いことばかり言う鬼の言葉や、鬼がどう言ったかと聞いたら、「捕って噛もう」と言う太郎冠者そっくりの鬼の声などに不審を抱いて再び清水へ確かめに行き、もう一度鬼に扮した太郎冠者の正体を見破って、追い込む。
若い颯爽としたいい男の主人の三宅右矩を、老長けたベテランの鬼の萬が、口から出まかせで体を上手くかわそうと嘘を並べて器用に応戦しようと四苦八苦するユーモアのセンスと仕草の巧みさが、何とも言えない笑いを誘う。 87歳とは思えないほど、芸が細かく滋味深い。
解説には、人使いの荒い主人に、鬼に化けたチャンスに、蚊帳を吊ることや酒を飲ませろと、悲しい程些細な待遇改善を訴えていると書いてあるが、今の働き方改革法案もそうだが、「せまじきものは宮仕え」なのであろう。
禰宜山伏は、
禰宜が、旦那回りの旅の道中、街道の茶屋に立ち寄って一服しているところへ、山伏が通りかかり、茶屋の主人や禰宜に難癖を付けて、帰り際に、肩荷の箱を禰宜に持てと押し付けて家来同然に扱おうとする。見咎めた茶屋の主人は、自分が所有する大黒天を、双方の祈祷で祈り比べて、影向した方を勝ちとして勝負するよう提案したので、両者了解して祈り始める。大黒天は、禰宜には応えて、山伏にはそっぽを向くので、山伏は、袖を引いたり自分の方を向かせたりするが言うことを聞かず、山伏を槌で打ちながら追いかけるので、禰宜や茶屋も後を追う。
狂言共同社の解説では、「一見大人しくも伊勢神宮の威光を背景に持つ芯の強い禰宜と、難行苦行の末に得た能力ゆえ、傲慢な態度をとる山伏の対比がくっきりと描かれている演目で、神仏信仰の表れとともに権力に抑圧された時代背景も捉えた作品です。」と書いてあるのだが、
禰宜は、伊勢神宮の御師で、地方の信者のために暦やお祓いを配り、また祈祷もして歩いた下級の神官であり、山伏は、出羽の羽黒山出身で大峰・葛城で修業しての帰途と言うことで、別に、宗教と言うか祈祷の甲乙をつけたと言うことではなかろう。
狂言では、山伏狂言は比較的少ないのだが、殆ど、いい加減な山伏しか登場せず、祈りも、「ぼろろん、ぼろろん、イロハニホヘト・・・」と言った調子で数珠を揉むだけで、結果は最悪。
ところで、今回は、居丈高で傲慢な山伏を東次郎、気の弱い誠実な禰宜を千五郎が演じているのだが、何時もながら歳を感じさせない東次郎のエネルギッシュな迫力抜群の山伏は、非常に魅力的であり、それに負けじとイメージとはちょっと違った馬力のある骨太の禰宜を千五郎が演じており、東西両雄の揃い踏み。同じく東西の松本薫の茶屋と山本則重の大黒天が、彩を添えていて面白い。