熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

イノベーションは子供の発想で

2007年05月16日 | イノベーションと経営
   「明日の市場に主流を見たいのなら、今日の若者達を見ることだ」とトム・ケリーは言っている。
   ブログ、ゲーム、インスタント・メッセージ、MP3、ファイル交換等に勢いをつけたのは、総て10代のヤングである。

   市場における新しいものやサービスに対するトレンド・セッターは、私自身も若者達だと思っているので、ソニーがアップルのiPodに出し抜かれたのも、やはり、若者達の動向を読み切れなかったことにある。
   ブランドにおいても製品の質においても、ソニーのウォークマンの方が遥かに他を凌駕していた筈だったが、音楽ソフトをパソコンで自由自在に操作して楽しむと言う大きなビジネス・モデルのトレンド:音楽の管理・再生ソフトiTunes に思い至らなかったのと、なまじっか子会社のソニー・ミュージックの利害を慮る姑息な手段しか取れなかったことによる。

   ソニー・ミュージックの件は、アマゾンがネット書店を開設した時に、全米一の書店バーンズ&ノーブルが、自社のネット書店との競合でビジネス・モデルの転換に逡巡して商機を逸したのと類似しているが、イノベーションでビジネス・モデルやテクノロジーが変革すると既存の事業との利害の対立は当然起こってくるのである。
   このことを考えて見れば、ソフトとハードを抱え込むソニーのワンセット戦略が良いのか悪いのか、疑問なしとしない。
 
   10代の若者達は、新しいものをドンドン試し検分して、好きになって入れ込むものもあれば、すぐに捨て去るものもある。
   始めてみる最新のテクノロジーやファッションには、次々と乗って行き、ひとたび彼らが気に入れば、その熱狂的な支持がブームを呼び、商品の大ヒットとなる。
   
   「トゥイーンズ」と言う造語をニューヨーク・タイムズが造った。
   「お金を持っている8歳から12歳までの洗練された子供たち」で、自立したい気持ちがありながら、親にくっ付いていたい年齢である。
   このような子供たちを招いて自由気ままにお菓子やおもちゃを作らせたり、語らせたりして、彼らから多くのことを学んで、そのアイデアを生かして製品化すると言ったイノベーション戦略を取って成功を収めているアメリカ企業があると言う。
   とにかく、このような子供たちに自由に語らせることは、決してお遊びではない。
   最も若い顧客の意見に耳を傾けることには、必ずメリットがある。
   イノベーション的な発想やアイデアは、何の先入観にも侵させずに、純粋無垢な思考の中から生まれることが結構多いと言うことでもある。

   この口絵写真は、我が家の玄関先の一部分だが、ある日、6歳の孫が、ネズミや少女のフィギュアーを動かせて、自分勝手にアレンジしてしまった。
   不安定だが、この方がはるかに面白いので、そのままにしているが、我々大人の発想では絶対に出来ないことだと思っている。
   

   
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エレベーター混雑待ちのイライラ解消法

2007年05月15日 | イノベーションと経営
   百貨店や病院、あらゆる所の公共エレベーターが、長い間待っても中々来なくてイライラした経験は誰でも持っている。
   この科学万能、IT革命の時代に、この程度のことが解決出来ないのか。ニコニコ微笑んむ愛想の良いエレベーター嬢がいるのは良いが、沢山あるエレベーターが同じ方向に向かっていて止まったままで中々来ない、この客のイライラを解決することがカスタマー・サティスファクションの極意だと言うことさえ知らない経営者だから、百貨店の凋落は当然と言えば当然である。

   もう30年以上にもなるが、このエレベーター待ちのイライラ解消法で思い出すのは、誰にどのような機会に聞いたのか忘れてしまったが、アメリカのビジネス・スクールでの講義である。
   ある大会社からのエレベーターが中々来ないので客や従業員から不満が出て困っているが、付け替えなどと言った予算はないので、安上がりの解決法はないかと言う設問である。
   解決法は、至って簡単・安上がりで、エレベーター・ホールの壁に大きな鏡を取り付けたのである。
   根本的な解決ではないが、エレベーター待ちの客に自分の身だしなみなどを観察させる機会を与えて気を散らして心理的に待ちのイライラを軽減させた。
   苦情はピッタリと止まったことは言うまでもない。

   アメリカに非常に革新的でユニークなIDEOと言うデザイン・ファームがある。
   この会社の経営者の一人トム・ピーターが、「発想する会社!」と言う素晴らしい本を書いて一世を風靡したが、今回、さらに「イノベーションの達人!」と言う新しい本を出した。
   この中で、ケリーは、病院のエレベーターが昼時に渋滞を来たして困っていたのを如何に解決したかを紹介している。

   一般の会社や公共建物の場合なら、不便だとか効率が悪いで済ませるが、病院の場合は、緊急時に医者が患者の所に移動出来ないとかとなると深刻な問題である。
   日本の場合は、普通、業務用と一般用が分離されているようだが、現実には厳密に利用されているふうではなく錯綜すればダンゴになって中々動かないし、もっと深刻なのは、病院の場合には、エレベーターの速度が極端に遅いことである。

   ところで、この病院の場合の解決法だが、一つは業務用エレベーターの仕様変更で、もう一つは階段の活用であった。
   業務用のエレベーターについては、普段は殆ど遊んでいるので、新たに警備員を配置して、患者や器具を迅速に運ぶという本来の目的を妨げない程度に一般用にも活用した。
   一方、階段の活用については、「貴方は階段を使いましたか?」と言うカラフルで派手なボードを貼って、そこに医師、看護師、技術士の名前を一覧書きして、階段を使った人にはその都度ステッカーを貼るというコンテストを行ったのである。
   実に多くの看護師と数名の医師が参加して、昼時時の危機的なエレベーター混雑は解消されたと言うことである。

   IDEOでは、このようにエレベーター利用に関する注意を喚起し、メンバーに力を合わせて自分たちの務めを果たす機会を与え、かつ、トラブル解決の為に一寸した実験を行うと言った問題解決法を「リスクのぶつ切り」と呼んでいるようであるが、このような視点を変えての一寸した発想の転換が、ビジネスにとって非常に重要であり、イノベーションを生み出すパワーにもなるということを銘記すべきかも知れない。
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文楽・絵本太閤記・・・国立劇場

2007年05月14日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   半蔵門の国立劇場で、14年ぶりに、通しで文楽「絵本太閤記」が上演されている。
   1799年出版の読本「絵本太閤記」の人気にあやかり大坂豊竹座で初演されたようだが、主役は明智光秀(文楽では武智光秀)で、これに織田信長(尾田春長)と豊臣秀吉(真柴久吉)が絡むが、一部歴史的な事実を下敷きにしているものの殆ど創作に近い舞台展開となっている。
   江戸中期の人々の光秀謀反に対する考え方が反映されているのか、中々面白いが、主眼が、光秀と家族の人々との人間関係に移っていて、歴史ものと言っても雰囲気が大分違ってくる。
   しかし、この「絵本太閤記」だが、朝11時から夜の8時半まで、正味6時間もの長時間の舞台なので、内容は実に豊かで、最初から最後まで飽きさせないのが素晴らしい。

   大詰めに近い「尼ヶ崎の段」は、先年、桐竹勘十郎が、襲名披露の時、光秀を演じて感動的な舞台を作り出したのが記憶に新しい。
   あの時は、元気であった玉男が十次郎を、簔助が初菊を、文雀が操を演じて人間国宝の3人が脇を固めた素晴らしい公演であったが、今回の勘十郎の光秀はさらに豪快で風格がありスケールが大きくなっていたような気がする。
   ニュアンスは違うが、作者は、母親のさつき(文雀)や妻操(簔助)に主殺しの罪悪を非難めいた台詞で語らせているが、当の光秀は、春長が、常軌を逸した神をも恐れない暴君と成り、主君に相応しくなくなったので万民の為に成敗して自分が成り代わった、むしろ、天命であったと思っている。しかし、心ならずも、母と息子十次郎(吉田清之助)の死を前にして断腸の思いである。
   そんな思いを噛み締めながら、勘十郎は、光秀の強さと弱さを文七人形に託して実に感動的に演じていた。

   春長は、この文楽では、「安土城中の段」でも「二条城配膳の段」でも、光秀に対して良く思っていない猜疑心の強い暴君としての扱いで、森の蘭丸に命じて苛め抜く役回りになっている。
   確かに、このあたりの史実もこれに近いようだが、私自身は、信長を、史上最も日本の発展に貢献した革命児として傑出した人物だと思っているので、芝居の上とは言えその扱いに納得していないが、本能寺の変の時点では、信長の使命も既に終わっていたので、まあこれで良いか、と言った感じで観ていた。
   春長を遣ったのは和生で、日頃の女形の人形を遣う時とは違って何処か緊張した面持ちで、蘭丸に光秀を打擲せよと扇子を突きつけて命ずる時の表情など凄い迫力であった。和生は、第二部の「杉の森の段」では、孫市(紋豊)の妻・雪の谷を演じていた。

   一方、秀吉の真柴久吉(玉女)の方は、殆ど史実とは違った作者の創作で、光秀のもとを去った母さつき(文雀)の尼ヶ崎の侘び住まいに旅僧として単身やって来て、それを知ったさつきが、久吉を闇討ちに来た光秀に代わりに刺されるといった設定になっていて、光秀家族中心の芝居の狂言回し的な存在になっている。
   江戸後期の増補作だと言われる最後の「大徳寺焼香の段」で、三法師丸を連れて出て柴田勝家(清五郎)を出し抜いて先に焼香するという件で、初めて秀吉らしくなっている。久吉は重要な役なのだろうが、玉男の後継者玉女としては、この舞台ではあまり良いところが出せず気の毒なような気がして観ていた。

   何時も歌舞伎や文楽を観ていて思うのだが、封建時代で男尊女卑の時代の話だと言うけれど、この絵本太閤記もそうだが、女性陣が非常に元気で心の描出も豊かで生き生きしていると言うことである。
   最後には、光秀も感極まって、自分の易姓革命的な正当性を大音声で叫ぶが、母さつきは何処までも光秀を許さず主殺しの罪を糾弾し続けるし、妻操も身の不運をかき口説く。
   それに、十次郎の処女妻初菊(紋寿)や、雪の谷なども、自分の思いや心情を自由に吐露している。むしろ、男の方が義理人情や分からない封建的な秩序の呪縛に雁字搦めになっているような気がして、当時の文楽や歌舞伎の世界を包んでいた世相のようなものに非常に興味を感じている。

   ところで、母さつきの文雀だが、実に重厚で風格があって、この後半の「夕顔棚の段」と「尼ヶ崎の段」を支えている。
   妻操を遣う簔助については、とにかく、何時も一挙手一投足は勿論手足の動き一つにしても見見逃さずに目で追っているのだが、何故、あんなに優雅に美しく女を表現出来るのか舌を巻いて観ている。今回も母さつき、夫光秀、息子十次郎、許婚初菊等夫々に対する心遣いの変化と機微が滲み出ていて良かった。
   紋寿の初菊も控え目だが瑞々しくて実に素晴らしい。
   前半の「長左衛門切腹の段」で、水攻めに遭った高松城主清水長左衛門を遣った文吾の骨太だが悲痛な舞台も忘れがたい。

   足利幕府の慶覚君を要する一向宗の運命を描いた「杉の森の段」の後半を住大夫が語る。
   久吉との和睦をはかる為に切腹する覚悟で帰ってきた孫市は、反対する妻を縛って娘と息子に自分の首を打たせる壮絶な最後の場面だが、私には始めての舞台で、時々、字幕を観ながら、一生懸命に住大夫の名調子を聴いていた。錦糸の三味線も冴えている。
   「本能寺の段」の伊達大夫と燕三、「局注進の段」の千歳大夫と団七、「長左衛門切腹の段」の綱大夫と清二郎、「妙心寺の段」の咲大夫と清治、「尼ヶ崎の段」の嶋大夫と清介、そして、朗々とした美声の十九大夫と富助等々、夫々の素晴らしい浄瑠璃と三味線などの凄さは言うまでもない。
   当然のことだが、歌舞伎は何となく伴奏音楽だが、文楽の醍醐味は、やはり、この大夫と三味線であろう。
   この頃、文楽鑑賞経験を重ねて来た所為か、人形一辺倒から、この方にも関心が少しづつ移ってきている。
  
   
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江戸時代の文化の輝き・・・内向きの小日本モデル

2007年05月13日 | 政治・経済・社会
   船曳建夫東大教授が、「右であれ左であれ、わが祖国日本」の中で、国家統一戦争の中での3人の武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の治世が日本の特徴である3つの「国家モデル」を作り上げたと説いている。
   「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」と言う狂歌があるが、この3人が全く違った三つの極をなす国家モデルをモデリングしたと言うのである。

   鉄砲を始めて導入し日本を超えるものに惹かれた信長は、キリスト教の布教を後押しし仏教へは不寛容で無化を図りさえした。
   天皇制にも否定的で、日本は勿論、中国の冊封体制を超え、ヨーロッパをも視野に置いた国際性、普遍性を評価しており、国際的な場に日本が出て行く初期的な志向をしたので、日本のモデルを「国際日本」とした。

   秀吉は、キリスト教を中心とした西洋からの影響を警戒して宣教師の追放を行う一方、南蛮貿易は許して自らの管理化に独占して継続した。
   当時、中国の民が、北方民族や東方、倭寇やポルトガル等の勢力に痛めつけられて弱っているのを見越して、朝鮮を攻め、明に代わってアジアの名主となろうと考えた。
   これは、明治以降の日本の政策、欧米列強がアジアから遠いことを利用して、日本を拡張し、アジアのリーダーとなる志向性のさきがけで、「大日本」モデルを作った。

   家康及び後継者たちは、当初は朱印貿易を奨励し東南アジアへの進出をはかるなど大日本モデルをとったが、キリスト教勢力、その背後にあるポルトガルやスペインなど西洋からの政治力にはまともに対応できないと判断し、「鎖国」方向へ舵を取った。
   徳川の幕藩体制は、出身地の小さな地域を治めるシステムを、村や町から藩へ、藩から国へ積み上げて行った制度で、非常に内向きで、町でも村でも、細かい社会単位にまで支配の網を張り巡らされた緻密な「小日本」モデルであった。

   以上の典型的な三つの日本モデルに、地政学的に日本を取り巻く三つの主勢力、即ち、中国、ロシア、欧米との関係とその絡みで日本の歴史を分析し、日本の行く末を展望しており、非常に面白いのが、この船曳教授の本である。
   本題の「わが祖国」論については、後に譲るとして、内向きの「小日本」モデルの江戸時代に、日本の文化の花が開いたと言う点について、考えてみたい。
   
   ”江戸時代の人々は、俳句や読み本と言った文芸から、浮世絵、食文化、花卉、園芸まで幅広い趣味の世界を作り上げた。
   都市では歌舞伎や相撲、遊郭と言ったエンターテインメントを発達させ、農村部でも祭りや神社仏閣へのお参りと、様々な楽しみを、経済的には貧しいながらも作り出した。”
   日本全体が、外界から殆ど遮断された内向き志向の時代に、豊かな日本文化の華が開いたと言うのである。

   もっとも、世界の歴史を紐解けば、ギリシャやローマ、或いは、ルネサンスをはじめヨーロッパは勿論、アメリカやアジアでも、世界の人々の交流の激しい国際化の時代に文化や文明が発展し花開いたと言うケースの方が多いような気がする。
   メディチ・インパクトの如く、世界中の俊英がフィレンツェに集合して切磋琢磨したところにイタリア・ルネサンスが花開いた。
   しかし、今回はこの問題は問わないことにしよう。

   本題に戻るが、日本の文化、特に、庶民を巻き込んだ豊かな日本文化が花開いた時代は、明らかに江戸時代であったことは紛れもない事実で、浮世絵を筆頭に日本文化が18世紀のヨーロッパに大きな衝撃を与えて、ルネサンスにも匹敵するくらいの「ジャポニスム」運動を巻き起こした。
   オランダのゴッホ美術館などで、ゴッホが北斎などの浮世絵を克明に描写したり人物画のバックに描いたりしている絵を何点も見て感激したことがある。

   話は飛ぶが、ヨーロッパの歴史を見ると、新大陸発見時代や世界に雄飛した帝国主義的な植民地時代では「大ヨーロッパ」モデルで世界を制覇したが、米ソに覇権が移ってからは、内向きの「小ヨーロッパ」モデルに移行したが、ある意味では、非常に安定した民度の高い文化が花開いて成熟したヨーロッパになった。
   アメリカ、中国、ロシア等のスーパーパワーに囲まれて普通の国になる日本にとって、「小日本」モデルへの回帰は、選択肢の一つであろうと、船曳教授は説くが、案外、このあたりが日本に相性が良いヨーロッパとの連携説の根拠かも知れない。

   ”今に残る、花見から演芸、温泉などといった人生の楽しみを、さらに二十一世紀の技術と環境で工夫して、豊かにすることも小日本の志向性から生まれる。
   そして、こうした日本の文化の現われは、力の強さを誇示しがちな大日本とは別なやり方で、日本を外にアッピールするのに相応しい。それは外国でのアニメの人気や日本食のブームで既に始まっている。”
   ”内向きにため込まれた、かっての小日本の魅力が、いま、かえって日本の生んだものの中では、ビジネスモデルよりもグローバルなものになろうとしているのは、嬉しい誤算かもしれない。”

   クール・ジャパンが、世界の文化地図を変えつつある。ジョセフ・ナイ教授がアメリカが失いつつあると指摘したソフト・パワーが、少しづつ育って行けば、安保理事会の常任理事国入りをしなくても、「美しい国・日本」が国際舞台で十分に国威を発揚できるということである。
   渋茶をすすりながら朝顔の行燈作りを愛で、着倒れ食い倒れで歌舞伎に入れ込み、川柳や浮世絵の危な絵で憂さを晴らし、お殿様自ら椿の珍種開発に精を出した、あの懐かしい時代も、決して眠ってはいなかったということであろう。
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團菊祭五月大歌舞伎・・・昼の部

2007年05月12日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の團菊祭で私にとって面白かったのは、昼の部の冒頭の山本周五郎の「泥棒と殿様」で、泥棒・伝九郎の松緑と殿様・松平成信の三津五郎とのしみじみとした人間模様を描いた舞台であった。
   「夏ノ夜ノ夢」での妖精・パック役や、蜷川カブキの「十二夜」でのトービー役などで示した、コミカルで何とも言えない人間臭いユニークな松緑のパーソナリティが、この舞台の泥棒役に良く合っていて面白い。
   松緑は、生真面目で一本調子で、それでいて、人情に厚くて弱い、そんな人物描写が実に上手いし、あのくるりとした愛嬌のある目がたまらなく魅力的である。
   また、お家乗っ取りを図る城代家老の陰謀で荒れ御殿に幽閉され、それも、武士は食わねど高楊枝どころか極貧極まったお殿様の、世間離れした鷹揚な生き様を悠揚せまらぬ演技で演じる三津五郎の風格は流石である。

   泥棒に入ったは良いが、何にも盗る物がなくて食べるものさえろくにないお殿様に、泥棒が同情して、働いてお殿様を食べさせる同居生活が始まる。
   ところが、突然の政変で家督相続することになり、お殿様は醜い政争に嫌気がさして断るが、家来に使命感を諭されて城に戻ることになる。
   温かい人間生活を築き上げて来た二人には、理屈では分かっていても分かれは辛い、泣き咽ぶ伝九郎を後にしてお殿様は去って行く。 
   
   「与話情浮名横櫛」は、「木更津海岸見染の場」と「源氏店の場」だけの舞台だったが面白かった。
   ”もし、御新造さんえ、おかみさんえ・・・お富さんえ・・・いやさお富、久しぶりだなあ”
   と言う台詞を口に、門口におとなしく座っていた与三郎の海老蔵が立ち上がって、格好をつけながお富の菊之助に近づいて行く。
   ああ・・・と小さく叫びながらビックリして仰け反るお富。
   おなじみの名場面だが、若くてはちきれる様な粋と色気をむんむんさせた舞台で、これにお富の実の兄多左衛門の左團次が絡んで、中々楽しませて貰った。
   随分前に、團十郎の与三郎と玉三郎のお富、左團次の多左衛門で観た記憶があるが、あれは一つのクラシカルな決定版であったのかも知れない。
   この舞台は、やはり、歌舞伎界きっての美男美女の役者が勤めるべきで、その意味では、海老蔵と菊之助の若い二人の次代の團菊を背負う二人には、うってつけの舞台であった。
   菊之助の瑞々しさといい、また、今回のように海老蔵が、ウイット交じりの台詞回しで現代感覚で演じた新しい舞台も中々味があって面白かった。

   前段の「木更津海岸見染の場」では、養子とは言え、大棚の若旦那と言う風格で、おっとりとした与三郎を海老蔵が演じるのだが、非常に新鮮な感じがして楽しめる。
   しかし、荒事向きの男っぽい感じの海老蔵には、観る方の先入観の所為もあるが、一寸取ってつけたような印象で、軟派の大坂男に近い感じの和事の世界は、いくら芸をしても中々雰囲気が出ない。
   一方、菊之助の方は、雰囲気のある素晴らしいお富で文句はないが、一寸気になったのは、幸せな頃のお富と修羅場を潜った後のお富との差があまり出ていないので、魅力的なままのお富が続いていて平板な感じがしたことである。

   「勧進帳」については、先日ふれたので端折るが、最後の中村芝翫の長唄囃子連中の楽の音に載せて舞う粋な「女伊達」など中々素晴らしく、今回の團菊祭は、私自身は、夜の部より、昼の部の方が楽しめた。

   
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歴史教育軽視はマッカーサーの謀略(?)

2007年05月11日 | 政治・経済・社会
   中西輝政教授の「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」は、独特な史観と使命感に貫かれた素晴らしい新書で、賛否は別として、憲法改正が騒がれ国際情勢が風雲急を告げている現在、やはり、日本人としては是非読んでおくべき書物だと思う。
   少し前に、大学受験に負担となるので必須教科の「世界史」を履修していない高校が続出して問題となったことがあるが、中西教授の本を読むと、この歴史軽視教育は、マッカーサーの日本占領に伴う基本政策に沿ったもので、日本人の精神を根底から突き崩す為の基本施策であったと言うことらしい。
   
   アメリカの対日占領政策文書「日本降伏後における米国の初期の対日方針」には、日本が再び「米国の脅威」にならないよう、徹底的に日本と言う国の弱体化をはかる旨書かれている。
   何よりも日本人を精神的に弱体化させること、すなわち、日本人から歴史とアイデンティティを奪うことだと言う。

   戦争末期の神風特攻隊と沖縄決戦、硫黄島決戦は、アメリカ人に甚大なショックを与え心胆寒からしめた。
   それらの戦場での日本兵や日本人が示した驚異的な自己犠牲精神を、アメリカは恐れた。
   この精神を崩さない限り、日本は再びアメリカの脅威になると考えて、占領政策は、日本人の精神を根底から崩すことに主眼が置かれ、そのために目を付けたのが学校教育、中でも歴史教育であった、と言うのである。

   GHQから「神道指令」が発令され、ここで、アメリカは、神道、皇室の伝統、歴史教育に対して徹底的にタガを嵌めた。
   この中でも、戦後の日本人に重大な影響があったのは、「歴史教育の全面否定」で「学校で歴史は教えるな」と言うことであった。
   世界の学校教育と同じ様に、戦前にはあった小中学校での「歴史」と言う独立した教科が抹殺されて、歴史は「社会科」の中で教えろと言うことになったのである。
   
   私自身、アメリカで大学院教育を受け、娘二人もアメリカン・スクールや英国の大学・大学院で教育を受けているので、欧米では、歴史教育、特に、自国の歴史については非常に重視して徹底的に教育を施しているのを知っているので、マッカーサーの占領政策の偏向ぶりには驚かざるを得ない。
   ドイツは、独立後、憲法も含めて戦後の体制を根本的に改めたと言うことだが、本当は、サンフランシスコ講和条約を締結し独立した時点で、日本も同じ様に、憲法は勿論、教育制度など占領後に変更した戦後体制を、最低限度見直すことはすべきであったのである。

   高校の学習指導要領では、世界史が必修となっていて、これは非常に良いことだが、やはり、日本人のアイデンティティを育むためにも日本史も必修にして、本格的に教えるべきだと思う。
   日本の過去が分からなければ、現在の日本も当然分からない。これが厳粛なる事実でもある。
   ヨーロッパでは、何処の国も単独の歴史などはないので、EUの成立に呼応して、欧州統一教科書「ヨーロッパの歴史」が編まれた。
   これと比べて、日本のように有史以来現在に至るまで、殆ど同じ領土で単一の国家として歴史を維持している国は稀有に近い。
   中西教授も強調しているが、偉大な歴史学者トインビーもハンチントンも、日本文明を、二次的文明ではなく独立した大文明の一つだと認めており、その意味からも、歴史教育の意義は大きい。

   私自身は、勿論、戦後の教育を受けたのだが、高校生になってから、社会科は、「世界史」「日本史」「地理」「経済・社会」の4教科に分かれていて、前の3教科を履修し、大学受験は、「世界史」と「地理」で受けた。
   小中学校での授業については、よく覚えていないが、当時の遠足や修学旅行には、奈良や京都などの古都等歴史的な場所が多かったので、その意味では、多少、日本の歴史や文化に触れる機会があった。今では、修学旅行は、ディズニーランドなどになっているようだが。
   私の場合は、幸いにも、京都で大学生活を送ることが出来たので、古社寺など歴史散歩を続けながら、日本の歴史や文化などを意識的に勉強できたので、その意味では、日本の素晴らしさについては十分に認識しており、欧米に出て生活しても、むしろ、日本人であることに誇りを持って生きてきたと思っている。

(追記)写真は、庭のぼたんの花芯。
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野田弘志展~写実の彼方に(日本橋高島屋)

2007年05月10日 | 展覧会・展示会
   写真より克明でリアルな絵画を、これほど沢山一挙に見たことはなかった。
   今、日本橋高島屋で、日本の現代具象画壇を代表する画家・野田弘志氏の展覧会「写実の彼方に」が開かれている。
   最初は、真っ黒な画面に石や動物の骨などが実にリアルに描かれた黒の時代の絵が並べられていたので、ビックリしてしたが、後半になってからの摩周湖の風景画やtheの時代の非常に美しいヌードの絵やバラ花・フルーツなどの素晴らしい絵などを見て、その凄さに感激してしまった。
   ワインが好きだったとかで、ビンテッジ・ワインのくすんだビンやラベルの感触など、もう、写真以上のリアルさで描写技術の凄さにビックリする。

   写真を使った画家としては、フェルメールが有名であるが、彼の場合は、写真が実用化される以前の話なので、「カメラオビュスクラ」と言うピンホールカメラに映った逆さまな映像を活用して描いた。
   野田氏の場合には、完全に今日の素晴らしい写真映像を活用して描いていると思われる。
   しかし、写真の場合には、いくら照明など工夫を凝らして映写条件を良くしても、意図した絵となる究極のチャンスに遭遇するのは夢の夢であり、瞬間を切り取らざるを得ないと言う限界があるが、絵画の場合には、技術と芸術性が要求されるものの、縦横無尽にイメージを膨らませて修正するなど創造性を加味することが出来る。
   心象風景を思う存分膨らませて、好きなように心を込めることが出来るのであるから、写真よりはるかにリアルに描ける筈ではないであろうか。
   
   野田画伯の絵は、正に、写真はあくまで写実の手段であって、西洋の古典から学んだ透徹した峻厳な描法により、その描かれ超具象の奥に、写実を超越して創造された独自の世界が展開されている。

   この口絵の絵は、1973年に描かれた初期の黒の時代の絵「黒い風景 其の参」で、うず高く積もった落葉樹の枯葉の上に刈り取られた麦の束が立てられていて、其の周りを羽化したばかりの蛾が群れ飛んでいる。
   それこそ、一枚一枚枯葉は克明に描かれていて、麦穂などはリアルを通り越していて恐ろしいくらいだし、蛾のほうは小さ過ぎるが、それでも蛾だと判明するほど写実的である。
   死んでしまった植物に寄せて厳粛に死を描き、生きる蛾との対比で生死の奥深さを描出しようとしたのかも知れないが、美しいと思える絵ではない。

   絵画についても、舞台芸術と同じで、私自身は、美しくなければならないと思っており、リアリズムであればリアルである程そうである。
   野田画伯の初期の絵画については、バックが黒であろうと白や金色に変わろうと、或いは、高度な理想を追求し精神性の高いモチーフを描いた絵であろうと、克明に描かれた石や卵やロープや動物の骨の精密な描写については、全く感興が湧かなかった。

   ところが、新境地を開いて、いつか滅びるかも知れないけれど生身の輝くような若くて美しい女性のヌードや、着物やスーツで正装した女性の写真よりもリアルな美しい絵を見ていると、その具象画の凄さに圧倒される。
   新聞小説「湿原」の挿絵を書いてからであろうか、北海道にアトリエを持ってから描いたと言う摩周湖の二枚の対照的な絵では、急な傾斜のはるか下に深い水面があり遠くに山が遠望出来るお馴染みの風景だが、二度しか見ていない摩周湖の思い出が髣髴としてイメージが膨らんでくる程素晴らしい。
   「トドワラ」を描いた絵など、ダークな湿原に白い枯れ木の根っこが突き立っているのだが、初期に動物の骨で描こうとした死のイメージが、美しく描かれている様な気がして、このように自然の風景に託して描かれた絵の方がストレートで私は好きである。

   素晴らしい絵画展を、久しぶりに楽しませて貰った。
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中村吉右衛門の「法界坊」・・・新橋演舞場

2007年05月09日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   「釣鐘」の建立寄進金を集めて、その金で遊びまくる助べえの悪徳坊主「法界坊」を、新橋演舞場で、中村吉右衛門が演じて、連日客を沸かせている。
   「えー浅草龍泉寺釣鐘の建立 おこころざしはござりませぬか」と花道のかけ幕の奥から声が聞えると、よれよれの僧衣をまとって妖しげな掛け軸の幡を持った汚い坊主が現われる、これが吉右衛門である。
   昼の部は、吉右衛門は、鬼平犯科帳の長谷川平蔵を演じるのであるから、この夜の部の藤山寛美バリの生臭坊主との落差は大きい。

   吉右衛門の喜劇役者ぶりは、少し以前に、「松竹梅湯島掛額」の紅長役で、観て知っているので、今回も存分に楽しませてもらった。
   勘三郎の法界坊とは大分ニュアンスが違うのだが、あの剛直で理知的なスケールの大きな吉右衛門の本来のしみじみとした滋味のような人間味が、巧まずしておかしみとして滲み出てくるような演技に引き込まれてしまうのである。

   この「隅田川続俤」は、隅田川もののパロディ版だと吉右衛門は言っているが、京都の吉田家が皇室から預かった「鯉魚の一軸」を紛失してお家断絶、その若殿松若丸(錦之助)が小間物商・永楽屋の手代・要助として働きながら一軸を探すと言うお家騒動話だが、要助は国の許婚も忘れてその家の娘・お組(芝雀)と恋仲で、これに、一軸を所持する商人や番頭や法界坊が絡んでお組を口説くと言う色と欲のドタバタ劇が展開される。
   お組との恋が露見して窮地に立った要助を元家来の道具屋甚三(富十郎)が機転を利かせて助けるのだが、この恋愛騒動の証拠だと法界坊が懐から出した恋文を、甚三が、法界坊が書いてお組に差し出したが投げ捨てられていた恋文とすり替えて、皆の面前で大声で読んだのだから、法界坊は周章狼狽。
   その後、松若丸を京より訪ねてきた許婚の野分姫(染五郎)は、手篭めにしようとして抵抗したので法界坊に殺され、法界坊も最後には、一軸の取り合いで甚三に殺されるのだが、お組に振られてから、段々、本性を現して凄みが出てくる悪への変身とその間抜けぶりが面白い。

   舞台変わって続く「浄瑠璃 双面水照月」の常磐津連中と竹本連中の楽に乗せての華麗な舞踊劇が面白い。
   墨田川で待っていた甚三の妹・女船頭おしづ(福助)の協力で災難から逃げようとした二人の前に、忽然とお組の姿をした女(染五郎T)が現われて遮る。
   この女は、殺した野分姫と殺された法界坊が合体した双面の霊で、3人をいたぶり大暴れする。結局最後は負けるのだが、二人の悪霊を表情を変えて踊り分ける染五郎の芸達者ぶりも見事である。
   この霊は、以前は吉右衛門自身が演じていたようで、舞台写真を見ていると、法界坊イメージの方が強くなるであろうが、是非見てみたいと思った。
   もっとも、15年ほど前だがロンドンで、歌舞伎版「ハムレット」で、染五郎のオフェリアの水も滴る美しい女姿を観ているので、今回の染五郎のお姫様スタイルも中々素晴らしくて楽しみながら観ていた。

   富十郎は、痛めていた足が治ったのであろうか、多少、動きに鈍さが残っていたが、ラブレターを読みながらの掛け合いや決闘など、とにかく、吉右衛門と四つに組んでの演技での風格と舞台を引き締める存在感などは流石であり、千両役者の貫禄であろう。
   お組の芝雀は、中々魅力的なしっとりとした味のある役作りで、気の所為か最近少しづつ父親の雀右衛門に似て来たような気がして楽しみながら観ている。
   錦之助の要助は、先月の襲名披露の舞台よりも、今回の舞台の方が自分にマッチした役柄で、伸び伸び演じていて素晴らしいと思った。
   
   
   ところで、福助は、「妹背山婦女庭訓」の三笠山御殿の場で、初々しいお三輪と、鬼気迫る嫉妬に燃える「擬着の女」を実に鮮やかに演じていて良かった。
   ただし、この舞台は、文楽と比べて、意地悪な女官たちのお三輪のいじめシーンが延々と続き、くどくて度が過ぎている上に、人形と違って生身の娘いじめなので、何時も観ながら悪趣味だと思っている。
   高麗蔵の橘姫、染五郎の求女、歌六の豆腐買も夫々楽しませてもらったが、フッと、高麗蔵と染五郎が入れ替わった舞台だったら案外面白いだろう、と考えた。
   吉右衛門の鱶七は、貫禄十分で爽快だが、この三笠山御殿の場だけでは、物足らなくて尻切れトンボのような感じで終わってしまったのが惜しかった。

   
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神風特攻隊は皇室を救った・・・中西輝政

2007年05月08日 | 政治・経済・社会
   積読であった中西輝政教授の「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」を車中で読んでいて、色々考えさせられた。
   「日本にとっての天皇」と言う章で、中西教授は、「神風特攻隊は間違いなく皇室を救った」と言う興味深い論旨を展開している。
   天皇は、祈る君主であり、日本国はこのような万世一系の天皇を戴いている素晴らしい国であると言う天皇制論者であるから、日米戦争の末期に、日本の敗北は明らかなのに、「国体(天皇)を守れ」を合言葉に次々と玉砕覚悟で突撃して行った特攻隊員の死は無駄死ではなかったと言うのである。

   中西教授によると、マッカーサーは、華族全廃で皇位継承者を減らし、皇室財産を国有化して経済力を削ぐなどして「皇室立ち枯れ作戦」をとったが、特攻隊や硫黄島の軍人や沖縄ひめゆり部隊など「国体護持」を合言葉に勇戦敢闘して散って行った日本人一人一人の自己犠牲があり、”天皇信仰”の凄さを嫌と言うほど見せ付けられたので、天皇制に手を触れられなかったのである。

   大東亜戦争(中西教授の記述)に関する日本人の評価については、「悲惨な戦争」「邪悪な戦争or侵略戦争」「愚かな戦争」「栄光の戦争」と言う4分類出来るとして、教授は「栄光の戦争」と言う考え方に同感だと言う。
   ”あの戦争は、政治的にはいろいろあったとしても、長大な時間軸の中に置き直せば、日本の歴史に残る「民族の一大叙事詩」でさえあったと思います。
   いかんせん指導者層はあまりにも愚かであったけれども、対して国民は、世界史にその例を見ないほどの崇高で、健気な自己犠牲精神を発揮し、まさに一致団結して英雄的に戦いました。
   有史以来の日本史的なスケールで考えても、日本人の心が「最も輝いた瞬間」と言ってもいいでしょう。”と仰るのである。

   国を守る、愛国心、と言った日本人としての視点から見れば、そう考えることが出来たとしても、果たして、人類として、或いは、世界的・世界史的な視点から見た場合でも、そう言えるのかどうかと言うことはどうであろうか。
   私自身は、比較的、中西教授の理論展開やものの考え方に賛同して多くの著作を読んできたが、今回に限り、これほど、天皇制にも第二次世界大戦に対しても、手放しで肯定的には考えられない。

   ところで、中国との関係が、やっと、多少は良くなったと思っていたのに、安倍総理は、靖国神社の春季例大祭に真榊を総理大臣名で奉納したと言う。
   中西理論から言えば、民族の一大叙事詩を書いた貴い英霊を尊崇し、冥福を祈るのは当然のことだと言うことになるのであろうが、昭和天皇の極めてフェアなご見解が相次いで発表されている以上、もう少し大人の対応をすべきではなかったかと言う気がしている。

   話が飛ぶが、5月3日の憲法記念日に東京銀座の数寄屋橋交差点で護憲派の大デモ行進に出くわした。
   行進中の人々の大半は、動員されたので仕方なく歩いていると言う感じであったが、マイクを持ってがなりたてているリーダーのシュプレッヒコールは、昔の全学連と寸分違わず、嫌な気分で通り過ごした。
   一方、4丁目交差点では、デモ隊に突っ込もうとして歌舞伎座方面から走って来た右翼の街宣車が警官たちに阻まれて、「憲法改正」「憲法改正」と大音響で叫んでいる。
   東銀座交差点でも街宣車が渋滞で阻まれて一般車と小競り合いをしていたが、大半の右翼の街宣車は、昭和通に駐車して隊員たちは歩道に屯して小休止していた。

   私自身は、徹底した平和主義者だと自分では思っているが、日本国憲法そのものは、独立国として民主主義があまねく流布し安定した国家になった以上、見直すべきだと思っているので憲法改正には賛成である。
   しかし、どのように改正するのかは非常に難しい問題だとも思っているので、その点では帰趨について非常にナーバスにはなっている。
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売上高1%を地球環境保護に・・・パタゴニア

2007年05月07日 | 地球温暖化・環境問題
   自社製のシャツを総てオーガニック・コットンで製造し、初めてペットボトルからフリースを作った会社「パタゴニア」の創業者社長イヴォンヌ・シュイナード氏が、「社員をサーフィンに行かせよう let my people go surfing」と言う経営学を書いた。
   仕事が多忙を極めていても、サーフィン日和で行きたくなれば、何時でも自分勝手にサーフィンに行けと言う会社があると言うのは愉快だが、ビックリするのは、この社長は、危機に瀕している宇宙船地球号を死守する為に、1% for the Planet(地球の為の1%)運動を立ち上げて強力に推進していることである。

   「創業以来、企業の責任とは何かと言う課題と格闘して来た。誰に対して責任があるのか、株主でも、顧客でも、社員でもない、ビジネスは、地球資源に対して責任があると言う結論に達した。
   自然保護論者のD.ブラウアーは、「死んだ地球からはビジネスは生まれない」と言った。健康な地球がなければ、株主も、顧客も、社員も存在しない。」
   と言う。

   自然環境が崩壊の危機に瀕している。ほんの数年前まで地球の温暖化について誰も耳を貸さなかったが、今では、やっと人々は動き始めた。しかし、もう遅い、手遅れだ。
   だからこそ、温暖化の加速度を少しでも緩めるための努力を、今すぐしなければならない。
   私たちのビジネスで最も重要な使命は、売上高よりも、利益よりも、私たちの地球を守ることである。

   「パタゴニア」は、従来の常識に挑み、信頼出来るビジネスの形を示す為に存在する。現在流布している資本主義のモデル、果てしない成長を必要とし、自然破壊の責めを負ってしかるべきモデルは排除しなければならない。
   従来の規範に従わなくてもビジネスは立ち行くばかりか、一層機能する。パタゴニアは、正しい行いが利益を生む優良ビジネスにつながることを実業界に示す手段と決意を持っている。
   この決意とその正しさを実証する為に15年の歳月を要した。
   と語っている。

   クライミングで放浪を続けながら鍛冶屋として事業を興し、烈々たる使命感と情熱を傾けて環境と自然保護に身を挺して来たシュイナードの胸が透くような自伝的経営学書に、これほど感銘を受けたことも珍しい。

   この「1% for the Planet」は、自然環境の保護及び回復を精力的に推進する人々に対して、少なくとも1%を寄付すると言う企業の同盟であり、より多くの資金を草の根環境保護グループの活動成果を増大させることである。
   売上高に対する税引き後の純利益が5%の会社なら、利益の20%を拠出することとなり、その額の大きさが分かろうと言うもので、日本の大企業でもそれに従えば多くの企業が赤字に転落する可能性がある。

   非常に興味深いのは、税金の支払いについては納税者は一切自分で使途について条件は出せないが、この1% for the Planetに参加して活動家への寄付と言う形で自分に課税すれば、環境保護に貢献すると言う発言権を得られると言う発想である。
   環境保護の体裁だけは装っているブッシュ政権に対する巧妙な当てつけであり抵抗であるが、アメリカの反骨精神の発露でもあり、面白いところでもある。
   2001年に、このグループを結成し、1~2年で3倍の500社に達し、日本企業も入っていると言う。
   日本も、人類にとって高尚だと思えることに対して、税額控除さえ認めるような税制度になれば、多少とも社会が良くなるかも知れないのである。

   ところで、フランスも保守的なサルコジ大統領の誕生で、マーケット至上主義のアメリカ型の政治経済体制に傾斜することになった。
   経済の成長戦略を取れば取るほど、地球を酷使することになる。
   結局、人類は、煮え蛙の運命を背負って生きて行かなければならないと言うことであろうか。
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團菊祭五月大歌舞伎・・・團十郎・菊五郎の「勧進帳」

2007年05月06日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   パリ・オペラ座での大盛況の後、4月25日の天覧興行を経て、五月の歌舞伎座では、同じ演目の「勧進帳」で、團十郎が、お家の芸18番の「勧進帳」の弁慶を演じて気を吐いている。
   團菊祭でもあり、天覧歌舞伎と同じで富樫は菊五郎で、義経は梅玉である。
   「天覧歌舞伎120年記念」と銘打たれた復活公演で、様式美の極致とも言うべき素晴らしい舞台が展開されている。
   120年前に、明治天皇がご覧になり、「近ごろ珍しきものを見たり」「能より分かりよく」と言われたとかで、一気に歌舞伎の株と人気が上昇したと言う記念すべき演目でもある。
   チケットはソールドアウトで、木挽町の歌舞伎座は大変な熱気に包まれている。

   「勧進帳」は、1840年に七代目團十郎が能の「安宅」を歌舞伎化したもので、当時の歌舞伎には異例の松羽目の背景で拍子木も打たず、全体に能に近く高雅に作られた作だと河登志夫氏が書いている。
   明治時代に多くなった松羽目モノの先駆作で、長唄と言う能の時代にはなかった舶来楽器の三味線音楽と花道活用とに歌舞伎の特徴があり、弁慶の「飛び六方」による「外幕」への引っ込みが勧進帳の命だと言うのである。

   ところが、すっきりと歌舞伎化された訳ではなく、歌舞伎座掌本によると、七代目の「勧進帳」上演には、大変な苦労があったようである。
   当時の幕府の能役者と歌舞伎役者には大きな身分格差があって、歌舞伎役者が能役者から教えを請うなど考えられなかったのだが、七代目の熱意に動かされて、某能役者が、流派が分からないようにして安宅の話を口伝したと言う。
   能衣装は能役者以外には売ってもらえず、能装束を全部解きほぐしたものを買って、その縫い目や折り目を辿って仕立てたとも言うのである。
   その後、八代目も改定を加え、九代目の努力で能に近い高尚で荘重なものになり衣装も含めて現行に継承されているようである。
   明治天皇から、「能よりよく分かった」と言われたのであるから、溜飲を下げたであろうと思われて面白い。

   同じ様な話は、文楽と歌舞伎の間にもあったようで、永い間両者間の交流がなかったと言うことであるが、どちらかと言えば、歌舞伎の方が、庶民に根ざした伝統芸術であるから、能や狂言、文楽からの継承が多かったのかも知れない。
   賀茂の四条河原で阿国歌舞伎から起こったと言われた独特な歴史と伝統が、偏見を生んでいるのかも知れないが、シェイクスピア戯曲などの欧米の演劇と比べると、その差が興味深い。

   今回、もう一つ面白いのは、伊藤博文内閣によって、近代国家となった日本が、不平等条約改定を目指して国家発揚の為に、「天覧歌舞伎」が実施されたと言うことである。
   西洋では王家や貴顕紳士淑女が観劇を好むと言う風潮があり、日本も真似をしなければ文明開化と言えずバカにされて拙いと言う発想である。
   最初は、花道も竹本も黒衣も後見も、西洋にないものは総て廃止すべきと言う極論まで進んでいたようであるが、日本人の男は足が短くて格好悪いから、種は総て西洋人にすべしと言う噴飯モノの議論もあったとかと言う時代で、あの当時、日本の文明開化はその程度だったのかと思うような改革案が結構多かった。
   何れにしろ、このような時代背景の中で実現した「天覧歌舞伎」のインパクトを思うと勧進帳が益々面白くなってくる。

   ヨーロッパでは、既にギリシャ時代から、素晴らしい野外劇場が設営されていて、悲劇・喜劇等が高度な芸術の域に達しており、シェイクスピア劇をエリザベス女王が観劇していたのは衆知の事実であり、歌舞音曲、演劇等のパーフォーマンス・アートに対しては、日本と西洋との大きな差が歴然としている。

   今回の話とは違うが、私は、歌舞伎や文楽などの古典ものの多くが製作当時の時代背景を色濃く背負っていて、現在の価値観や世相等から大きく離れている点にも問題があるような気がしている。
   ギリシャ悲劇や喜劇は勿論、シェイクスピア戯曲でも、殆ど現在に通じる内容であり違和感が少なく、役者の衣装も背広やドレスに置き換えても十分に楽しめる。
   オペラの世界も同じで、リゴレットの舞台がニューヨークのマフィア街に変わることもあるし、マクベスが背広を着て出てくる、そんな舞台を結構沢山観ている。

   最近観た勧進帳は、幸四郎と吉右衛門の弁慶の舞台で、團十郎の舞台は久しぶりであるが、直前にNHKなどでパリ公演のドキュメント番組を観ていたので、反芻しながら豪快でスケールの大きな團十郎の弁慶を楽しんだ。
   弁慶のモデルは、おそらく文覚上人・遠藤武者盛遠であろうが、やはり、團十郎は上手い。

   私が今回注目していたのは、菊五郎の富樫で、随分以前に観た記憶があるが、團十郎との丁々発止の対決がいかばかりか、それを見たかったのである。
   富樫は、弁慶の忠義に感銘して、命を賭けて武士の情けで義経を通させた、所謂、侍の中の侍として描かれている理想の人物であるから、その品格と格調、それに、人間としての心の葛藤を如何に演じるか。
   弁慶が読む偽の勧進帳を確かめようと舞台を背にして近づき、ハッと弁慶と目を合わせた時の「見得」の絵のような美しさ、双眼鏡で大写しにこれだけ観ていた。
   番卒の言上で義経と気付き、扇子を投げ上げて強力を差し止める富樫の気迫は、正に絶品。元々義経と気付いていての心の葛藤であるから、虚実皮膜のしんぱくの演技。

   梅玉の義経も、格調高くて素晴らしいが、團菊の演じる今回の勧進帳は、おそらく、平成の決定版の一つとなろうと思う。
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坂東玉三郎×篠山紀信展・・・和光ホール

2007年05月05日 | 展覧会・展示会
   銀座4丁目の和光ホールで、10日まで「坂東玉三郎×篠山紀信写真展」が開かれている。
   連休とあって大変な人出で、素晴らしい玉三郎の華麗な主に歌舞伎の写真が展示されていて、その艶やかさに息を呑む。
   篠山が玉三郎を撮りつづけて37年とかで、その集大成とも言うべき玉三郎が演じた104演目を網羅した800ページを超える写真集「五代目坂東玉三郎」が発表されて、その原画とも言うべき写真の展示会なのである。

   正面には、大きな「廓文章」の夕霧の綺麗な玉三郎の写真が出迎えてくれる。
   私自身、玉三郎の舞台は相当数観ているので、随分懐かしい写真もあるのだが、細部にわたって克明に描写されている写真を見ると、その華麗さと色彩豊かな衣装の数々に驚嘆せざるを得ない。
   日本の歌舞伎の頂点とも言うべきある時代の女形の舞台姿を、玉三郎と言う不世出の役者の姿を通してそのまま歴史の中に凍結して化石化してしまった、そんな貴重な記録写真でもあり歴史的な資料としての価値は計り知れない。

   動きのある写真は、ただ一枚、鷺娘を写したノイズのある写真だけだが、私が、玉三郎を感激して観た最初の舞台姿が、METのセンティニアル・ガラの「鷺娘」であるから、イメージが膨らんでジッと観ていた。
   その後、同じ「鷺娘」の舞台を、ロンドンでジャパン・フェスティバルの時に観て、本当にその素晴らしさに感激一入であった。

   もう一つ、気に入ったのは、下を向いて玉三郎が微笑んでいる唯一の写真、「籠釣瓶花街酔醒」の八つ橋であった。

   私が、今回の篠山紀信氏の写真展を観て感じた正直な印象は、生き生きした玉三郎の姿ではなく、無機物のようにフリーズされてしまった全く同じ表情の玉三郎の歌舞伎の舞台衣装の写真と言う感じがしたと言うことである。
   私の見方が悪いのだとは思うが、そして、一挙にこれだけ大作を見せられた所為もあると思うが、美しくて素晴らしいのだけれども、直立不動で無表情に近い多くの写真は、立派な博多人形の写真を見ているのと同じ感興で、何となく玉三郎が遠くに行ってしまったような感じがしてしまった。
   私自身には、あくまで玉三郎は、歌舞伎の人であり、恋をしたり泣いたり笑ったり怒ったりする姿を見続けているので、その印象が強烈である。素晴らしい演技と声音を通した生身の玉三郎しか知らない、それが玉三郎だと思っているから、そのための違和感かも知れないとも思っている。
   
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METライブビューイング・・・プッチーニ「三部作」

2007年05月04日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   METのシーズン最後の演目プッチーニの「三部作 外套 修道女アンジェリカ ジャンニ・スキッキ」のライブビューイングが銀座ブロッサムで上映された。
   METで1918年に初演されたオペラであり素晴らしい作品ながら、このMETでも演奏回数の少ないオペラである。
   夫々1時間前後の一幕オペラではあるが、二つの悲劇と一つの喜劇で、それも全く毛色の違ったオペラで、スター・ソリストを沢山揃えなければならない上に、全体の切り替えなど非常に難しい所為でもあろう。

   METのアルカイーブを調べると、1920年以降1975~7年のシーズンまで上演されず、その後1981年と1985年と今回で合計126回舞台にかけられている。
   1981年以降は、今回と同様ジェイムス・レヴァインが指揮しており、81年がレナータ・スコット、89年がテレサ・ストラタスが全3演目のソプラノの主役を演じていて、今回のように3人の素晴らしいソプラノ歌手の起用とは違っていて面白い。
   ビバリー・シルスが言っていたが、本人の経験からも、3人の主役を同時に演じることは非常に魅力的だが、歌唱や演技は勿論のこと、気持ちや舞台での対応など切り替えが難しいようである。

   最初の舞台の「外套」は、セーヌ川に浮かぶ伝馬船の老年の船長ミケーレと若い妻との話で、妻ジョルエッタが若い沖仲士ルイージと恋に落ち、逢引の合図のマッチの火を間違えて、ミケーレが擦ったタバコの火に誘われて出て来たルイージが殺される。その死体を外套で包み、出て来たジョルエッタに見せて、彼女の顔を死体に擦りつけて全巻の終わり。
   あのレオンカヴァレロの「道化師」を連想させる凄まじい舞台で、コケティッシュで今を時めくソプラノ・マリア・グレギーナのジョルジェッタが実に素晴らしく、ルイージを歌う美しい熱狂的なテノールのサルバトーレ・リチャートラの切羽詰った二重唱が胸を打つ。
   ミケーレのファン・ポンスは言わずと知れたスペインのベテラン・バリトンで、何度かヨーロッパで彼の素晴らしい舞台を鑑賞しているが、老成した燻銀のような貫禄と深い余韻を残す歌唱が素晴らしい。
   
   次は、外套とは打って変わったようなような清冽で敬虔な修道院の模範的な「修道女アンジェリカ」の舞台で、貴族の乙女が許されぬ子を生んだ為に修道院に送り込まれて7年間も何の音沙汰もなく修行を続ける。
   ある日、伯母の公爵夫人が訪れてきて、妹の遺産相続のためにサインをせよと迫られ、同時に、息子が二年前に死んだと知らされる。
   絶望したアンジェリカは、毒を仰いで神に祈ると、奇蹟が起こり、礼拝堂に子供を連れた聖母が現れて、アンジェリカは亡き幼子を仰ぎ見ながら息を引き取る。
   実に悲しく切ない幕切れだが、この舞台は実に清楚で美しいソプラノ・バルバラ・フリットリが魅力全開で、幻想的で夢見るような美しい舞台に仕上げている。

   ジャンニ・スキッキは、プッチーニの唯一の喜劇である。
   3年前だと思うが、パリオペラ座との共催で、小澤征爾が、「スペインの時」と一緒にこの「ジャンニ・スキッキ」を上演し、ホセ・ファン・ダムが愉快なスキッキの舞台を展開して面白かったのを覚えている。
   フィレンツェの大富豪ブゾーニが亡くなったが、集まった親戚たちの前で噂どおりの、遺産を総て修道院に寄付すると言う遺言書が見つかる。
   困った親戚たちは、甥の誘いでやって来たスキッキに妙案があるかと問いかけると、スキッキは死体を片付けさせて自分が身替りになって、公証人を呼んで偽の遺言書をでっち上げることになる。
   遺言の偽証は、加担者も含めて手を切り落とされて追放だと言う刑罰をちらつかせて、自分たちの良いように遺産相続を目論む親戚達を脅し上げて、スキッキは、邸宅や目ぼしい遺産を総て自分のモノにしてしまう。
   怒る親戚たちも、もう後の祭りで、金目のものを持ち去ろうとするが、スキッキは、自分の家になったと皆を追い出す。
   出てくる俳優総てが素晴らしい喜劇役者だが、とにかく、スキッキを演じるアレッサンドロ・コルベーリが実にコミカルで上手い。
   それに、これだけ聞くだけでも値打ちのあるスキッキの娘ラウレッタを歌うソプラノ・オリガ・ミカイテンコのアリア「ねえ素敵なお父さま」が、実に素晴らしくて感激一入であった。

   この今回のMETの「三部作」で特筆すべきは、ジェイムス・レヴァインの指揮とジャック・オブライエンの演出だろうが、私は、ダグラス・W・シュミットのセット・デザインに非常に感銘を受けた。
   これまでに見たこともないような素晴らしくリアルで、かつ、現実の風景と紛うばかりのシックなセットである。
   冒頭の「外套」のセットは、セーヌ河畔の倉庫街をバックにしたうらぶれたはしけに係留された伝馬船・愛妻の名前を取ったジョルジェッタ号が舞台である。
   「修道女アンジェリカ」の舞台は、イタリアの何処かにあると思える女子修道院の中庭で、バックの正面も両翼の回廊も精巧な石積(?)の立派な壁面で、庭の敷石もしっかり敷き詰められて落ち葉が落ちていて、庭の草花も本物の植え込みで花が咲いている。
   最後のアンジェリカの死では、修道院の正面上部の十字架様の空間から光が漏れて庭先に横たわる彼女の姿を十字の光が照らし出し、正面の扉から逆光を背に手を差し出す少年が近づきながらカーテンが下りるのなどは実に美しい。
   
   最後の「ジャンニ・スキッキ」の舞台は、フィレンツェの宮殿のような大富豪の豪邸の一室で正に豪華で素晴らしいセットである。
   この豪華なセットもスキッキの最後の裁きの暗転で、奈落に下がったかと思ったら、上には、丁度アルノ川の対岸の高台の展望所が現われて、あのドウオモを中心とした素晴らしいフィレンツェの全景が浮かび上がり、甥リヌッチョとラウレッタのカップルの幸せな姿を見せて幕が下りる。

   このライブビューイングでは、楽屋裏なども見せていたが、オペラ劇場には、正面の舞台以外に三つの同じ大きさの舞台が左右と後にあることが良く分かった。
   最初の「外套」の大きなジョルジェッタ号などのセットは僅か数10分の休憩の間に横の舞台に移動されて、新しい「修道女アンジェリカ」の素晴らしい舞台が設営され、その後、「ジャンニ・スキッキ」の舞台がセットされたのである。
   それに、当日、数時間後に夜の部「トーランドット」が演じられると言うのだから、大変なもので、先の二階への競り落としの場合も含めて、正に、METだからこのように壮大で大掛かりなグランド・オペラが縦横無尽に演出できるのだと言うことが、今回の6回のMETライブビューイングで肝に銘じた気がしている。
   
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回転ドア事故は技術の伝承ミスが原因

2007年05月03日 | 経営・ビジネス
   六本木ヒルズの回転ドア事故は技術伝承ミスが原因だったと、畑村洋太郎東大教授が「技術の伝え方」で書いている。
   この事故機回転ドアは、オランダがルーツで、日本に伝わって以降、安全対策として最も大切な「ドアは軽くならなければ危ない」と言う知識が途中で一切伝達されずに安全が失われていたと言う。
   合弁会社でスタートした会社が倒産して他の日本の会社に引き継がれたが、オランダの会社が提携を解消して技術情報を引き揚げたので、回転ドアの現物しかない状態で再出発したので、アルミ製の軽い回転ドアと似ても似つかないステンレス製の重いものになってしまった。

   この製品のコンセプトの違いは、ヨーロッパと日本の気候条件の差による。
   寒いヨーロッパでは、暖房効果を上げる為に機密性を高くして外気を遮断することが優先されるが、日本では、高層ビルでは、外気から吹き込んだ風や暖められた空気がエレベーターシャフトや吹き抜けから勢いよく流れ込むドラフト現象を避けるために、外気の遮断より圧力差に対抗することが求められる。
   その結果、大きな強度が要求されて、その過程で回転ドアはドンドン重くなって行ったのである。
 
   ビルの玄関にあるスライド式の自動ドアやエレベータードアの設計者は「ドアの運動エネルギーが十ジュールを越えると危険である」と言う暗黙知を持っていながら、回転ドアの設計者は、この「十ジュール則」を知らなかったと言う。
   ドアの回転体の重さを全部外周にあると仮定して、事故機のドアの重さを運動エネルギーに換算すると、やく800ジュールで、80倍の運動エネルギーが発生していたのである。
   
   このケースで、重要な教訓は二つあるような気がする。
   その一つは、技術には現在に至るまでの系譜が必ず存在し、それまでに経験した事故やトラブル、或いは問題点など、何をどうして解決し改善されて来たかと言うことが総て織り込まれている。
   伝達された技術を使うと言うことは、先人の経験や考え方を手っ取り早く自分のものにして使えるという素晴らしい利点があるが、逆に、その連鎖の輪が一度切れてしまって、大切な情報が伝わらない状態になって、その技術を使うとトラブルの発生に繋がり極めて危険となると言うことである。

   もう一つは、この回転ドアのケースのように、日本の気象条件に合わせて改良・改善した筈の技術だが、本来なら、T.ダビラ等の言う「インクリメンタル(漸進的)イノベーション」で既存の製品やサービス、ビジネス・プロセスの小さな改善を加えるイノベーションとなる可能性を持っている。
   しかし、まかり間違って、本来の重要な目的を消失して動き出したイノベーションは、両刃の剣となって、時にはリバイヤサンに変身してしまう可能性もあることを認識しておくべきであると言うことである。

   ところで、また、六本木ヒルズの森タワーのエレベーター機械室の一部が火災を起こし、この原因が、ローブが切断して滑車に接触して火花を散らしたことによるようだが、これもまた危険な事故で、外資系のオーチス・エレベーター製である。
   この高層用エレベーターは、2階建てのダブル・デッキ・エレベーターで非常に高速で一気に最上階まで上るのだが、あの密室の中で何か事故を起こすと、と思って恐々乗っている人も少なくはないと思う。
   
   ここで、老婆心ながら外資系企業の日本での事業について、一つの心配事を記して置きたい。
   私自身、アメリカでMBA教育を受け、ヨーロッパに8年住むなど海外生活が長く、欧米を始め海外との事業も長く続けてきており、決して外資系企業に対して特に偏見を持っているとは思わない。
   しかし、気候風土、歴史・民族・習慣等々バックグラウンドが違う所で生まれた企業の製品やサービスは、その生まれた背景の性格や性質を色濃く秘めていて、我々日本の製品やサービス、ビジネス・プロセスとは違うのだと言う認識を決して忘れてはならないと言うことである。
   
   5月1日から、三角合併が解禁になって、外資の進出が加速される。
   決して悪いことではないが、日本のビジネスに外資旋風が少しづつ吹き始めて、異文化との遭遇で多くのカルチュア・ショックを経験することとなろう。
   日興コーディアルがシティ・グループに編入されることになったが、世論は比較的好意的な目で見ている。
   先日、照会したいことがあって、シティバンクの関係会社シティカードに電話を架けたら、延々と音声電話の返答ばかりのたらい回しで埒が明かなかった。
   仕方なく解約のところをプッシュしたらオペレーターが出て来たのだが、性悪説を前提に事業を行っているマーケット至上主義のアメリカと、まだ性善説で事業を行いたいと思っている日本企業との対応の差が現れていて面白い。
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藤の花・・・塩田平の思い出

2007年05月02日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   四月下旬頃から五月にかけては、藤の花が美しい。
   六月の梅雨の季節のアジサイの青い鮮やかな輝きも素晴らしいが、この紫色の優雅に垂れ下がった紫色の房のオンパレードが、逆行の太陽にちらつきながら揺れる風情も何とも言えないほど美しい。

   群馬県のあしかがフラワーパークの藤が有名なようで、今日NHKで、樹齢150年の枝に咲いた500畳敷きの豪華な藤を放映していた。
   東京では、広重が愛でて描いた程の藤だから、何と言っても亀戸天神の藤の花であろう。
   あっちこっちの藤棚を見た記憶があるのだが、何故か、何処だったかは思い出せなくなってしまっているが、歴史散歩で古社寺を訪れたり、植物園などに行った時の記憶が残っているのであろう。

   一つだけ印象に残っているのは、塩田平を訪れた時に見た藤の花である。
   イギリスに住んでいた時で、東京出張の時の休日に、藤田平にある国宝の三重塔を見物しようと思って出かけたら、偶然にも、藤の季節で、前山寺の境内の豪華な藤の花は勿論、民家の庭先などあっちこっちにも咲いていて、その美しさはみごとなものであった。
   殆ど観光客など居なくて、一人で、涼風に吹かれて揺れている優雅な藤の姿に見とれていたのだが、非常に気持ちの良い午後のひと時を過ごせて幸せであった。
   今、観光案内を見ると、ジャーマンアイリスが美しいと書いてあるが、随分前のことなので、その記憶はない。

   この塩田平は、小鎌倉と言われている歴史の古い由緒ある信州の街で、今では完全な田舎町だが、鎌倉時代には、塩田北条氏の拠点として栄えており、非常にユニークで美しい国宝の三重塔が2塔もあり、その他に、前山寺の三重塔などは和洋と唐様折衷だが、窓も欄干もない未完の塔で、咲き誇る藤の大木を前景にして優雅な姿を見せてくれていて素晴らしかった。

   安楽寺の国宝の三重塔は、日本で唯一の八角形の形をした唐様式の塔で、三重塔の下に裳階が付いているので四重塔に見える。八角なので非常に安定しており、その堂々とした優雅な姿に圧倒される。
   もう一つの国宝の三重塔は、大宝寺の和様の塔で、屋根の大きさは殆ど同じなのだが、塔身が上階に行くほど小さくなっていて、そのバランスが絶妙であり、あまりにも美しいので振り返って見たと言うことで「見返りの塔」と言う呼称があるようである。
   当時は京文化の影響を受けたのであろう、上方からの職人達の製作だと言う。
   微かな記憶しか残っていないので、今、写真を見ながら記憶を新たにしているのだが、両方とも、山林の中腹にあったような気がするし、結構、離れていたので、その日は、短時間に塩田平を回りたかったのでタクシーを使った。
   もう一度ゆっくりと訪れたいと思いながら、残念ながら、まだ、実現していない。
   
   ところで、この近くにも、藤棚などがあって美しい藤の花を観賞できるのだが、千葉の雑木林には、自生の藤の木が結構沢山あって、大きな大木に這い登って綺麗な花を咲かせている。
   遠くから眺めると、鬱蒼とした森の中に明るい斑点が雲のように浮かんでいて面白い。

   大分以前に、わが庭にも一株植えたことがあるが、小さな木の時には良かったが、根が張り蔓状の枝が伸び過ぎたので切ってしまった。
   一般家庭では、余程大きな庭ならいざ知らず、種類を選ぶか鉢植えにするかしない限り無理だと言うことが分かった。
   
   
   
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