熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

カサス・バイア・・・ブラジル貧民街の超エクセレント・カンパニー

2007年08月16日 | イノベーションと経営
   ブラジル最大の家電や家具の小売チェーン「カサス・バイア」が、ブラジルの貧民街ファベーラだけに店舗を持ち、ファベーラに住むスラム街の住民だけを相手に事業を営んでいて驚異的な業績を上げていると言う。
   それも、定職など殆ど就いたことがなく、日々の生活にさえ事欠いているファベーラの住人達にローンを提供して販売し、債務不履行の比率が平均の半分以下だと言うのだから驚きである。
   ファベーラの住民達も、カサス・バイアの運送車だけは襲わないと言う。

   積読であったC.K.プラハラード教授の「ネクスト・マーケット」を読んで、全く商売にならないと考えられていた最貧国の一日2ドル以下で生活している極貧の人々を相手にして、革新的な事業を営んで好業績を上げている企業があるのを知って驚いているのだが、カサス・バイアは、正に、その1つのケースなのである。
   確かにすぐに使える金は殆ど持っていないが、全世界で40億人以上の膨大な人口とその巨大な潜在的購買力を持った極貧のBOP(The Bottom of the Pyramid)を攻略するために、これまでの固定観念をすっぱり捨てて斬新な戦略を打ち出しイノベーションを追求すれば、途方もないビジネス・チャンスに恵まれることを、この本は、豊富なケース・スタディを紹介しながら語っていて非常に面白い。

   例えば、シャンプーでも一回限りの使い切り分だけの量をパックすれば飛ぶように売れるが、まやかしの商品ではなく一級品でなければならない、とか、地元の婦人をエイボン・レディのように企業家に仕立ててしらみつぶしに訪問販売する、とか、貧しい漁民や農民にPCを持たせて既得利権に毒された流通機構を出し抜いて世界の市場で入札させる、とか、とにかく、従来の常識を一切かなぐり捨てて革新的な手法を打つのである。
   

   カサス・バイアは、ナチス強制収容所を生き延びたサミュエル・クラインによって1952年に設立された家族企業で、元は、バイアで、毛布やシーツ、枕カバーやバスタオルなどを一軒一軒売り歩く行商だったが、電子機器や家電製品、家具を販売するブラジル最大の小売チェーンに変貌させた。
   「顧客は、ストーブやTVを買いに来るのではなく、夢を買いに来るのだ。その夢を叶える手助けをするのが販売員。これほど重要なことを多くの競合企業、特に外国企業は分からない。」から、ウォルマートもカルフールも失敗して撤退してしまった。

   サンパウロの郊外のファベーラには、故郷のバイアのある北東部から流れ込んできた貧しい人々が犇いて住んでいる。
   そのような人々のニーズを満たすために、どうすれば良いのか。
   答えは簡単、「融資すること」だったと気付くと、独自の融資モデルを開発したのである。
   多くの企業は、BOPを「招かざる客」と看做したが、カサス・バイアは、唯一の目標は顧客の夢を実現することと「徹底的にあなたに尽くします」戦術を駆使して、極貧層の消費者にチャンスを見出したのである。

   「カルネ」と言う支払い通帳の仕組みを使い、顧客は少額の分割払いを行う。支払い期間は、1~15ヶ月で、支払いが出来るのはカサス・バイアの店舗だけで、顧客は毎月店舗に出かけて支払わなければならない。この方法は、顧客との関係維持にも役立ち、この割賦販売は、全体の90%を占めると言う。
   ローンで購入を希望する顧客は、ブラジルの信用調査機関SPCのの信用調査を受ける必要があり、得点がプラスの客のみが受け入れられる。
   購入額が600レアル(約3万円)までなら正当な定住所があればOKで、600レアルを越えると、カサス・バイアが独自に開発した顧客評価システム・チェックで上限が決められる。
   これをオーバーする場合には、次に同社のクレジット・アナリストのよる直接聞き取り評価が行われ、これが人間関係を築く上で重要なプロセスになっている。この新規顧客の返済能力を判定する独自のシステムが、既存顧客の追加購入の際の評価にも利用されている。

   予算に従って購入することを価格や支払方法を検討しながら販売員が消費者に教え、27インチのTVを20インチにグレードダウンするなど微調整を行うこの消費者教育が、債務不履行率を下げるのに役立っている。
   この優秀なクレジット・アナリストを如何に教育して育てるかが、カサス・バイアの最大の眼目であり、顧客が正直で誠実であり、必要な支払いが可能かどうかを判断するのみならず、詐欺行為を見張る役割も果たす。
   しかし、彼らのもっと重要な役割は、顧客と長続きする人間関係を構築しこれを維持して行くことで、この好循環が、カサス・バイアの好業績を支えている。
   顧客の信用取引に「ノー」と言わざるを得ない場合が16%あるが、ノーと言えばその顧客の夢を潰すので、生涯の顧客として遇するために出来るだけノーと言わずに済ませる方法を模索すると言う。

   カサス・バイアは、ファベーラの住人と富裕客との差は当座支払う金がないだけで、最新かつ最上等の家電製品を求めているのを知っているので、ソニーや東芝など最高級ブランドを扱って販売していると言う。
   面白いのは、ブラジルでは供給状態が不安定なので、サプライチェーンの構築より、南米一の巨大な倉庫を持って在庫を維持していること、維持管理コストを抑えるために配送トラックは総てメルセデス製であること、徹底的にTV,ラジオのコマーシャルを活用すること、顧客と直結する配達は総て制服で威儀を正した正社員に行わせ外注しないこと、最新のIT技術の率先活用、等々とにかく、経営手法に一家言あって、ブラジル企業とは思えない経営のユニークさである。

   随分以前になるが、ブラジルに住んでいた時、一度、サンバ楽団として訪日して人気を博したと言う打楽器奏者を訪ねて、彼らの住んでいたファベーラを訪ねたことがある。
   確かに、黒いオルフェの世界で、酷い状態の生活空間ではあったが、随分明るかった印象を持っている。
   しかし、ブラジルでは、一度不況が吹き荒れると、大学を出て外資企業で高給を取っていた紳士が、ファベーラに移り住んで、ドブ道を通勤し始めることもある。

   カサス・バイアは、ファベーラにしか店舗がないので、ブラジルで全く見なかったのも道理かも知れない。
   このプラハラード教授の「ネクスト・マーケット」は、2005年出版なので、カサス・バイアも、高級店をオープンしたり、クレジット・カード移行への趨勢などで大分変わってしまっていると思うが、とにかく、久しぶりに、興味深い経済・経営学書を読んだ感じがしている。

   
   
   
   
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中国製品欠陥で米国おもちゃ会社蘇る

2007年08月15日 | 経営・ビジネス
   中国製の工業製品や食料品などの欠陥商品が世界中で話題になり、あっちこっちでボイコットや不買運動が巻き起こっている。
   最近、また、多くの欠陥自動車タイヤーが問題になりリコールされた。
   しかし、アメリカにとって深刻な問題は子供たちのおもちゃで、全米の親達が非常に神経質になっていると言う。

   何が幸いするか分からないのがビジネスの世界で、中国製のトーマス君に有害鉛が塗装に使われていたとかで、これを逆手にとって、アメリカのおもちゃ会社が、自社製の木製の汽車やトラックは、全く鉛は使っていないし子供には安全であると、ホームページでバナー広告を打ったら売上が激増したと言う。
   アメリカ製のおもちゃの売上が増えたとニューヨークタイムズが、「アメリカ製おもちゃが中国のトラブルで恩恵」で報じている。

   アメリカで売られているおもちゃの80%は中国製のようである。
   安い中国製品に押されて青息吐息であったアメリカのおもちゃメーカーは、高いけれど質の高さでどうにか生き延びて来たのだが、最近では、玩具店や消費者から商品について引っ切り無しに照会を受け、その凄まじさに困っている程だと言う。
   中国製とアメリカ製の根本的な違いは、アメリカでは、おもちゃが出来ると第三者機関の検査を受けて安全性を確認している点だと顧客に説明していると言う。

   あるメーカーでは、塗装にペイントなど使わずに、食料品用の染料を使っている。
   また、殆どのアメリカのおもちゃメーカーの製品は、大きな玩具チェーン店などで売られているのではなく、インターネットやローカルのおもちゃ屋で細々と売られていて、大量生産品ではなく、職人の手作りやヨーロッパのおもちゃ職人の製品だと言うのである。
   これらの製品は、おもちゃ全体の売上高の5%程度だが、玩具知識の乏しい大型の小売チェーン店の店員ではなく、おもちゃについて専門的な知識と経験を積んだローカルの小さな玩具店の人々に売られているので間違いはないとも言う。

   ただでさえ消費者運動が盛んで、まともな商品でも使用説明書に指定のない使い方をして問題が起こればクレームして大金をメーカーから巻き上げようとする悪徳な消費者が後を絶たないアメリカでは、製品の品質と安全には、まして、子供の使うおもちゃであるから、メーカーは大変な注意を払っている。

   もう少しすると、クリスマス商戦が始まるが、アメリカの消費者は、やっとロープライスの中国製品の正体が分かり始めて来たのか、多少神経質になって良質なものに目を向け始めたと言う。
   多少厳つくても手作りの木製の機関車を、何倍かの値段を払ってでも子供に与えた方が安全だとアメリカの大人たちは考え始めたのである。

   私が迂闊なのかは知らないが、中国から2兆円もの商品をロープライスで買い続けているウォルマートが、全く問題がないのか、何も語っていないのが不思議で仕方がない。

   ところで、商品の欠陥だが、日本も偉そうなことは言えない。
   あれだけ、雪印やミートホープで騒がれた北海道で、また、「白い恋人」が問題を起こした。完全に、消費者を舐めきっている。社長は、増長した所為の犯罪だとコメントしていたが、建設会社の談合と同根であり、企業倫理の欠如以前の問題である。
   新生なった筈のパナソニックが、途方もない数量の電池をリコールすると言う。それも、世界に冠たるノキア機搭載の電池だと言うから、何が、グローバルなデファクト・スタンダードなのか分からなくなる。もっとも、松下の場合は、欠陥率は0.0000・・・途方もなく小さいが、それでも許されないのがハイテク工業製品の宿命でもある。
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ヒースロー空港で環境派が抗議行動

2007年08月14日 | 政治・経済・社会
   休暇客でごった返しているヒースロー空港で、空港の拡張工事に反対する環境保護団体が、大規模な抗議行動を行っている。
   今回は、空港からたった1KM足らずの北側に隣接する第3滑走路建設予定地の空地を占拠して大規模なテント張りの大キャンプ地を設営しての本格的な抗議活動で、英国政府は徹底的な抗戦の構えで対処している。
   12日から19日までの抗議行動のようだが、BBCを見ている限りでは、ソーラー発電装置やバスタブなども持ち込んで幾張りもの巨大かつ立派なテントが張られていて、若い活動家が夏のキャンプ場を設営するように手際よく作業していた。

   FTの電子版では、この抗議運動によるヒースロー空港の混乱記事と同時に世界の10空港の一覧表があり、最悪の空港はどこかアンケートが付いている。
   念のため、調べてみると、ヒースローが62.6%で最悪、次のシャルル・ド・ゴールの13.9%、JFKの8.8%と比べてもダントツに悪い。
   (ついでながら、喜ぶべきか(?)、この調査には、ムンバイやシャンハイ、バンコック空港は出ていたが、ナリタは勿論日本の空港はリストにさえ載っていなかった。)

   金融センターとして好況を謳歌するイギリスの表玄関として、ヒースロー空港の重要性は、益々、増加しているのであろう。
   イギリスの経済事情から考えれば、滑走路の増設や拡充は必須なのであろうが、しかし、逆に環境悪化と言う視点からは、どこかで必死になって止めない限り取り返しがつかなくなる状態に達してしまっている。
   航空関係者は、温室化ガス対策で5%削減目標を標榜しているので抗議はアンフェアだと言っているが、環境保護団体のターゲットとして、空港や航空機が選ばれることが多くなって来ている。

   2年前にイギリスへ行った時、空港からそれほど離れていない住宅地ギルフォードから車で送って貰った時に、何時もより1時間以上も前に家を出て空港に向かったが、M25など、車での空港へのアクセスは悪化の一途を辿っている。
   ロンドン市内への移動は、最近では、パディントンまでヒースロー・エクスプレスを利用しているが、地下鉄は荷物があれば無理だし、バス、車やタクシーなどでは渋滞などで大変だろうと思う。
   それに、ロンドンの場合は、他のヨーロッパの都市のようにかっては個別の電鉄会社が思い思いのターミナル駅を持っていたので、日本の東京や大阪のJR駅のように繋がっていないので、地下鉄の乗り継ぎなど更に交通事情が悪い。
   大陸ヨーロッパと海で隔てられているので、ドイツのように高級車で飛ばす訳にも行かず、有効な交通手段は飛行機に頼らざるを得ない。
   ヒースロー空港を拡充すればするほど、グレイーター・ロンドンの交通事情と環境が悪化するばかりである。

   イギリスの環境保護団体は、組織立っていて活動も極めて活発であり、今回のヒースローでの抗議活動も、結構際どいところまで行っており、多くの旅行客の妨害になっている。
   夏の旅行客にとっては、当座の一時の不便だが、自分たちの戦いは、もっと長期を見据えた人類緊急の課題への闘争だと言う思い込みがあって、手を緩める気配は全くない。
   これに、イスラム原理派などの国際テロとの問題が再燃すれば、益々、ロンドンの治安が心配になってくる。

   ところで、私自身の気持ちだが、基本的には、もうこれ以上開発に手を染めると、地球船宇宙号が持たないと思っているので、闘争姿勢には疑問はあるが、環境保護派の行動を容認せざるを得ないと言う気になっている。
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個人の時代の到来・・・IT,グローバリゼーションが加速

2007年08月13日 | 政治・経済・社会
   最近、「ウイキノミクス」、「フラット化する世界」、「富の未来」、「マベリック・カンパニー」、「ハイ・コンセプト」、「クリエイティブ・クラスの世紀」等と言った新時代を画する書物を立て続けに読んで、結構貴重な教訓と刺激を受けている。
   その影響か、デジタル革命やグローバリゼーションによって経済社会が途方もなく変革してしまったような錯覚に襲われてしまったのだが、しかし、よく考えてみれば、我々人類は、本当にビックリするような革命的な変化を経験しているのか、それは見方次第だと言う気にもなっている。

   静態的な均衡状態を仮定して成立していた経済学が、シュンペーターのイノベーション理論によって変革を遂げた。革命的なイノベーションによる創造的破壊によって非連続に成長発展して次の高いステージに到達すると言う考え方に立てば、正に、今日のIT革命は歴史的な産業革命であり、人類にとって大変な飛躍である。
   しかし、このような時代を画する産業革命は過去に存在したし、グローバルベースの文化・文明そして経済社会交流をも人類は経験してきた。
   時間空間的な差はあるが、人類は、革命的な変革には何度も遭遇してきているのである。

   ところで、これらの書物を読んでいて一つだけ変化にとって共通した重要なテーマに気付いた。それは、個人の時代の到来と言うことである。
   フリードマンが、グローバリゼーションについて明確に語っている。過去3回グローバリゼーションの時代があったが、第1回目は国家、第2回目は企業が主役であったが、今回は個人のグローバリゼーションの時代だと言うのである。

   この点は、別な表現で、タブスコットなども、あらゆる知識情報が万人に開放されたので秀でた天才が企業や組織と互角にマスコラボレーションできる時代になったと語っている。
   特に個人のクリエイティビティとハイ・センス、ハイ・コンセプトが重視される時代においては、創造的で強烈な個性を持った個人のコラボレーションが、重要な役割を果たす。
   あのルネサンスを開花させたフィレンツェのように、多くの異文化と学問芸術が遭遇して、偉大な俊英たちが切磋琢磨して巻き起こした文化・文明の爆発、そのようなメディチ効果を発揮することである。
   現実にも、オープンソースのリナックスの進歩にボランティアで貢献しているエンジニアの大半は、フォーチュン500社の社員だと言うから、組織を度外視して個人の秀でた才能を発揮すべく挑戦を続けているのである。

   また、発明や発見、クリエイティブな発想などが生まれ出る過程やきっかけは、科学的合理的なものではなく、芸術が生まれ出でるそれと全く同じだと言われている。
   また、経営戦略や経営方針の策定などは、ある程度科学的であり合理的な根拠があるとしても、経営における重要な意思決定や危機回避の決断などは、芸術的なセンスに近い発想でなされるとも言われている。
   ダニエル・ピンクは、これからの経営は、MBAではなくMFA(Master of Fine Arts 芸術学修士)が担うとまで言っているのである。

   科学は、学問的な積み重ねで進化発展を来たすことが可能であるが、芸術や哲学、思想などは、あくまで、聳えている偉大な個人のみに付与された属人的な特質であるから、個人の力が総てである。
   誰も、釈迦やキリスト、レオナルド・ダ・ヴィンチやモーツアルトを越えられないように。
   この意味からでも、益々、個人が重要な働きをする世の中になって来たということが言えよう。
   
   もっとも、公害等による地球環境の破壊やIT革命で科学技術が益々先行する時代になってしまって人類社会が危機的な状況に陥っているので、もう一度情と感性の時代に戻してバランスを取ろうと言う神の思し召しかも知れない。
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中国でのモジュール型の二輪車製造

2007年08月12日 | 経営・ビジネス
   「ウイキノミクス」で、「力帆」と言う中国の二輪車の製造会社が、70万台以上の二輪車を作り112カ国に輸出しているが、その製品はモジュール型製造だと言う。
   従来の二輪車は、自動車と同じで擦り合わせ型の華とも言うべき製品で、リーダー企業から指令を受け、厳密な画一的管理が行われた製造ネットワークが最終製品を吐き出す構造であるが、これに対し、中国の二輪車産業は、数百社が設計から製造までをコラボレーションでやる方式になっている。
   上からの指示は僅かしかない状態で、従来のサプライチェーンをはるかに上回るスピードで二輪車を設計し、製造する。
   殆ど混乱なく、重慶市や浙江省などの現地企業集合体は、この方式で二輪車を製造販売し、日本のホンダ、スズキ、ヤマハなどを凌駕したと言うのである。

   当時の中国の二輪車メーカーは、日本業者の下請けとして、何年もかけて日本の技術を吸収・習得して、ジャスト・イン・タイム方式も身につけていて、高性能な製造設備を運用できるスキルを持った人材が多くいた。
   この状況を利用して、瞬く間に小さな修理工場から立派な二輪車工場に成長した。

   高性能の二輪車は、各部品が他の部品と協調して、最高に性能を発揮するように最適化する擦り合わせ型の製品アーキテクチュアによって作られるのだが、中国やアジアでは、要するに基本的には交通手段に過ぎず、走れば良い。
   高性能である必要はなく安ければ良いので、各サプライヤーが作る部品を組み合わせるだけのモジュール性を重視し、標準的なインターフェースにサブシステムを簡単に取り付ければ良いようになっている。
   多少合わなくても、茶店で会って調整すれば済むと言うのである。
   このリバースエンジニアリングを、自律的コラボレーション的に行うと言う革新が生まれて、中国では安い製品が大量に生産されている。

   これは、クリステンセンの言うローエンド型の破壊的イノベーションの一環であろうが、大切な点は、インテグラル型アーキテクチュアが、モジュール型に転換し、パソコンと同様なデジタル機器の組み合わせのような製品に変わってしまっているということである。
   パソコンやデジタルTVと同じ様なもので、高校生でもパーツを集めれば組み立てられると言うことである。

   最近の日経ビジネスの「成熟国型インフレがやってくる」特集で、ヤマハ発動機がヴェトナムで成功していると言う記事が載っていたが、日本の二輪車は、確かに性能その他は世界屈指の品質を誇っていると思うのだが、ブランドとしては、やはり、ハーレーダビッドソンやBMVの後塵を拝している様なので、正に、挟み撃ちである。
   中国で「力帆」のような現地会社に競争に負けたように、ヴェトナムや他の発展途上国でも同じような運命に遭遇するのではないかと言う感じがしてヤマハの記事を読んでいた。ローエンドから攻められ、モジュール化生産が主流になれば、日本企業の勝ち目などないのである。
   現に、「ウイキノミクス」には、90%を誇っていたヴェトナムでのホンダのシェアは、30%まで低下しており、中国の二輪車産業は、インド、パキスタン、インドネシア、ヴェトナムなどアジア市場のほぼ全域を支配するまでになっていると記述されている。

   藤本東大教授が、日本製造業の強みである擦り合わせ型の製品である複合型複写機を中国で生産する日本の会社があると疑問視していたが、中国への生産移転は、相当注意を払わないと、技術を一挙に持って行かれる心配がある。
   中国への製造業移転は、「要素価格均等化定理」の作用するようなモジュール型組み合わせ型製品に限るべきで、擦り合わせ型製品は、極力、合理化を図るなどして日本に残して、技術を守るべきであろう。
   欧米への留学人数は勿論、理工学部学位取得者の数においても、既に、中国にははるかに追い抜かれているので、負けるのは時間の問題ではあろうが、注意するにこしたことはない。
   
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ゲッティ美術館から美術遺産イタリアに返還

2007年08月11日 | 展覧会・展示会
   ロサンゼルスのゲッティ美術館の美術遺産40点がイタリアに返還される。
   イタリア政府が、イタリア国内から盗難にあったり略奪に合ったりして持ち出された文化遺産を返還するように美術館と永年紛争を重ねていた。
   大抵の文化遺産は、イタリアの国内でほりだされて密輸されたもので、1939年制定「総ての考古学遺産はイタリア国家に属する」法律違反と言うことで、その一環として返還されるのであるが、勿論、ゲッティ美術館は、取得のために正当な対価を払っている。
   最も重要な返還美術品は、7フィートの大理石と石灰石のアフロディーテの女神像で20年前に1800万ドルを支払って取得した。

   「本国へ送還 美術館は誤って手に入れた美術品の取得権を失いつつある」と言う記事が、ロンドン・エコノミスト電子版のトップに掲載されている。
   このような美術品の原産地国が、所有権を主張するケースは、これまでにも、何度も繰り返されている。植民地時代に収奪されたり、戦争のたび毎に、凄まじい美術・芸術品、文化歴史遺産の争奪戦が行われて来たので、珍しいことではない。
   しかし、美術館が正当な手段によって取得した美術品を本国に返還するのは珍しい。
   余談だが、フランスで松方正義が収集した絵画などが戦争中差し押さえられていて、戦後、重要な作品が一部没収されて残りが返還された。これが西洋近代美術館の基礎になっているのだが、何故、没収したのか腹が立ったことがある。

   ゲッティ美術館は、イタリアから46点の返還を申し入れられて、最初は26点返還の回答をしたらしい。まだ、2600年前の勝利の青年のブロンズ像など紛争が続いていると言う。
   これとは別に、今年はじめにも、ゲッティ美術館は、4点の美術品をギリシャに返還した。
   
   もっとも、この美術館の本国送還について、イタリア政府は、ゲッティだけに止まらず、メトロポリタン美術館やボストン美術館とも争っている。
   面白いのは、逆に、イタリアが、1912年にリビア海岸の古代ギリシャ居住地セレーンからイタリア軍によって持ち出したビーナス像を、1989年以来ローマからリビアに帰せと言われていることである。この像は、イタリアの国土で発見されたと言う記録はないが、イタリアが盗んだのではなく、当時イタリアの支配下にあったセレーンで偶然発見されたのであるからイタリアのものだと判決が出ているなどと争っている。

   エチオピアも、9月に始まる1000年紀の祝賀に呼応して古王朝アビシニアの文化遺跡や美術品の返還を求めているようで、19世紀半ばにイギリスに囚われてウインザー城に埋葬されているアレマエフ王子の遺品の返還などを問題にしているとエコノミストは報じている。
   
   やはり、一番問題なのは、大英博物館に展示されている古代ギリシャのパルテノンの破風を飾っていたエルギン・マーブルであろう。(口絵写真)
   パルテノンの内陣上部の配置どおりに展示されているパン・アテナイの祭礼の行列を彫ったフリーズで、その凄さに圧倒される。
   映画「日曜はダメよ」の主演女優メルクーリがギリシャの文化大臣の時に、英国政府に執拗に返還を迫ったが、これは、当時、オスマントルコの支配下にあったアテネから当時の駐在ギリシャ大使のエルギン卿が、野蛮国では文化遺産が守れないとか言ってどさくさに紛れてロンドンに運び込んだ(?)のである。
   建設が終わって来年新しいアクロポリス美術館が開館されると言うのだが、パルテノンの素晴らしい美術品の大半が大英博物館にあると言うのでは、面子も何もあったものではなかろう。
   
   あのルーブルのミロのヴィーナスにも、英仏の派手な争奪戦があったのだが、このような美術品を本国に返せと言う運動が巻き起こって世界の世論になってくると、イギリスやフランスの美術館は勿論、特に歴史がなくて金に飽かせて世界から美術品を集めたアメリカの美術館や博物館は成り立たなくなってしまう。
   ナチスドイツの時に、大分あっちこっちから美術品を奪ったが、戦争で灰燼に帰したり、スターリンに持って行かれて四散した筈だが、結構、ドイツに素晴らしい世界の遺産が残っているのは、やはり、民度、文化文明度が高い証であろうか。
   何れにしろ、世界的な美術遺産や芸術品は、それなりに価値を理解し大切に保管しながら研究を続けているような文明国の管理下にある方が、幸せなような気がしている。

   昔、サウジアラビアへの途中に、古代文化の息吹を感じたくて、カラチ空港での待ち時間を利用して、カラチ美術館に出かけたことがあるが、目ぼしいものは何もなく寂しい思いをしたことがある。
   逆に、フィラデルフィアで、母校ペンシルべニア大学の壮大な博物館を見た時にはビックリしたが、1740年の創立だから19世紀辺りからのエジプトやメソポタミアなどの学術調査隊の発掘などによる考古学遺産が多く展示されているからでもある。
   こんな形で、世界に四散している美術品や考古学的遺産も多いと言うが、本国に返せというのもどうであろうか。
   大体、同じ国が同じ領土内で、そのまま国家の形態をなしていたのは、日本と中国くらいしかなく、他は、歴史上流動的で、国家などとは言えなかったのである。
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水と生きる・・・サントリー美術館

2007年08月10日 | 展覧会・展示会
   水をテーマに、新しい東京ミッドタウンのサントリー美術館で開館記念展「水を生きる」が開かれている。
   梅雨明けで熱さが厳しさを増しているので、涼を呼ぶ催しで時宜を得ているのだが、大切な美術品の保護のためか、薄暗い会場に雑多な作品が展示されているので涼しさは感じられない。

   山紫水明と言うくらい自然の変化と美しさに恵まれている日本であるから、人々の暮らしにおける水との関わりは、どこの国の人々よりも深い。
   私の子供の頃には、まだ、田舎では井戸が健在であったし、小川で洗濯するなどと言うのは普通であったし、谷川の水など非常に美しくて美味しかった。
   川の水が、国によっては真っ黒であったり真っ赤であったり、あるいは、普通に水を飲んだだけで腹を壊して七転八倒しなければならない水があり、年中殆ど雨が降らないので川を知らない子供が居る国があるなどと知ったのは、ずっと後になって世界を歩いてからのことである。

   最初のコーナーでは、「潤 水と生きる」がテーマで、水のほとりの生活を描いた風景画や浮世絵、巻物などが展示されている。
   広重の東海道五十三次等は当然水辺の風景が多いので沢山展示されているのだが、私は、江戸時代の六曲一双の屏風図「京大坂図屏風」に興味を持って見ていた。
   大井川、鴨川、宇治川の三川合流点の上下の風景など丁寧に画かれていて、当時、何が人々の関心事であったか分かって面白かった。
   水運を通じて人々の生活が結びついていたのである。

   第二のコーナーは、「流 水の表現」がテーマで、和服や能衣装や家具調度・文具などに表現された水の形の造形が、日本の美意識を昇華した感じで素晴らしい。
   ここに、丸山応挙の「青楓瀑布図」が展示されていた。
   右端に黒っぽい山壁を一条残しただけで全面殆ど真っ白に流れ落ちる瀑布の水で、画の下部中央の滝壺には真っ黒な大きな岩が飛び出し、周りを激流が逆巻いている。
   滝に落ちる水を背景に薄緑色のカエデの枝が右上から降りている。これがモノトーンの水墨画の唯一の色彩であるが、実に豪快なしかし静かな画である。
   広重の「庄野」の画が展示されていた。右肩下がりの斜面の田舎道を雨に打たれながら駕篭かきと旅人が急ぐ姿を描いた絵で、私の好きな画で、またお会いしましたね、と言った感じで見ていた。

   第三のコーナーは、「涼 水の感覚」。水色を意識したのか、江戸切子などのガラス製品や陶器が展示されている。
   濃い藍色をかぶせた「切子藍色船形鉢」など実に精巧で美しく、職人の芸の細かさが偲ばれて素晴らしい。
   ベネチアングラスの華麗さや、ボヘミアングラスの精巧さはないが、素朴な江戸職人のガラス細工がシンプルで味があって清々しい。

   最後のコーナーは、「滴 水をよむ」。
   在原業平の「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」の世界である。
   神代にもこんな美しさがあったとは聞いたことがない。竜田川に紅葉が舞い散って、唐くれない色にくくり染めにするなどと。と言う意味のようだが、こんな優雅な数々の和歌の世界を表出した三十六歌仙の画や「色絵竜田川文皿」、家具調度、櫛や化粧道具、文箱等々素晴らしい作品が展示されている。
   ところで、この竜田川だが、落語の世界となると、風流や風雅は飛んで行ってしまって無茶苦茶になる。
   無学な八五郎に業平の和歌を紹介したばかりに説明を聞かれて、先生は苦し紛れに答える。
   大関竜田川が千早太夫に恋をするが振られる。妹分の神代に仲立ちを頼むが聞かない。落ちぶれて女乞食になった千早が、豆腐屋になった竜田川の店先で「卯の花をくれ」と言ったが、振られたのを遺恨に持っておからもくれない。千早は悲観して井戸へどぶんと飛び込んで水をくぐって死んだ。
   「とは」とは何かと八五郎に聞かれて、後でよく調べたら千早の本名だったと全く口から出任せを答えてこれがおちとなる。

   こんな話を思い出して展示を見ていると雰囲気が壊れてしまって現実に引き戻され風流台無しである。

   ところで、ロンドンで家を探していて、小さな水路がある「リトルヴェニス」と言う地区が人気が高くて高級住宅街だと言っていたのを思い出した。
   ロンドンの街中には、殆ど水を感じさせる街区はないので、やはり、水が身近に感じられシックな住宅地が貴重なのであろう。
   そう言えば、イギリスには水辺に沿った美しい住宅地が沢山あったような気がする。
   水のある生活は、文明生活には必須なのであろうが、しかし、逆に自然災害の恐ろしさを考えれば、幸せも不幸も隣り合わせなのである。
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ブラスト(blast)・・・東京国際フォーラム

2007年08月09日 | クラシック音楽・オペラ
   舞台中央のドラマーにスポットライトが当たると、ドラムの軽快なリズムに合わせてラヴェルの「ボレロ」が始まる。
   演奏楽器は、パーカッションとブラスだけ。少しづつブラスが増えて佳境に入って行く。日頃聞きなれているオーケストラ音楽とは違ったサウンドだが、心地よいリズム感がなんとも言えず懐かしい。
   昔、ブラッセルで見たモーリス・ベジャールの20世紀バレーのダイナミックなボレロの舞台を思い出した。

   東京国際フォーラムCホールで始まったブロードウエイ・バージョンの「ブラスト!」の光とサウンドで極彩色に染め抜かれた舞台の印象だが、とにかく、強烈なインパクトは流石にアメリカである。
   ミュージカルは可なり見ているが、最初から最後までサウンドとビジュアル・アンサンブルによるパーフォーマンス・アートと言うのは初めての経験である。聞いたのでは大分異質だが、マイケル・ナイマン・バンドくらいであろうか、食わず嫌いで、音楽は、クラシック以外は馴染みが薄い。
   私自身の趣味から外れるので、多少違和感を感じて聞いていたのだが、ブラスとパーカッションの音楽家達が、ビジュアルチームと一体となって華麗にスイングしながらリズミカルに移動しながら演奏するマーチングバンドやドラム・コー、とにかく、強烈なリズムと雰囲気に飲まれてしまって凄いのである。

   15人くらいのビジュアル・アンサンブルの男女が、フラッグやバトン、弓などの小道具を上手く使って激しく流れるように踊る。蛍光照明の点滅を受けながら、バトンや弓が生き物のように跳ね回り真っ暗な舞台に画を描く。
   10人くらいのドラマーが一列に並んで小太鼓を演奏、真っ暗な舞台に、手足とドラム、バトンだけが白く浮かび上がって妖精のように踊りながら激しいリズムを刻む。

   やはり迫力は、多彩で華麗なブラスの演奏であろうか。これだけ色々な金管楽器が揃って、それも、素晴らしい奏者に演奏されるとオーケストラさながらである。
   それに、ドラムのアクロバティックな演奏や、懐かしい木琴の柔らかい音色、ビートの利いた激しいドラムの饗宴など打楽器が空気を一変させる。
   バックの上下3分割2段にセットされたドラムセッションの華麗な設営が、背景と伴奏に彩を添えて素晴らしい。

   クラシックからジャズ、とにかく様々なジャンルの音楽が切れ目なくミックスされて演奏され、前後50分づつの舞台が瞬く間に終わってしまう。
   私の右隣の中年婦人仲間は乗りに乗って手拍子で応えている。
   左隣の初老の紳士は、「一度見て来いと息子に言われて来ました。いっぺん聞けば、もう、ええですなあ。」
   小学生の子供から老人まで、観客は多彩だが、結構空席が目立つ。
   私にとっては、久しぶりのパワーを貰ったような華麗なサウンドと光の饗宴を楽しんだコンサートであった。
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弥生はいつから!?・・・国立歴史民族博物館

2007年08月08日 | 展覧会・展示会
   通説では、弥生時代は、前5~4世紀から始まると言うことになっているが、実は、500年も前の前10世紀に始まっていたと証拠を示して、歴博が特別展示展「弥生はいつから!?」を開いている。
   従来は、遺跡が出土する地層の年代や、遺跡の形や出土品など物理的状況証拠などから年代を類推していたが、今度は最新の科学的手法である炭素14の残留から正確な年代が推定されるようになり、その結果、弥生時代の始まりは、もっと遡っていた事が分かったのである。

   会場に展示されている東大のC14測定試料調整装置やビデオで紹介されていたC14測定器は、バイオの精密検査器のような大掛かりなものだが、とにかく、動植物は死と同時に体内のC14が減り始めて、5730年毎に半分ずつ壊れて行くので5万年くらい前まで遡って年代を知ることが出来るのだと言う。
   土器や遺物に付いた残片を擦り取ってそれを精製して測定するようだが、正確なら、年輪調査より確実であろう。
   入り口に大きな屋久杉の年輪が展示されていて、聖徳太子の大分前辺りから年代と年代記が克明に書かれているのが面白かった。動く動物はいくら長生きしても精々100年だが、動かぬ植物の命は途方もなく永い。

   会場に、最も古い炭素14年代の弥生土器(前10世紀)が展示されていたが、5辺の角を持つ変形の薄い平皿で魯山人顔負けの優雅さである。
   前10世紀の半ばから九州北部で稲作が始まり、前8世紀に四国に、前7~6世紀に関西にと稲作が東漸していったと言う。

   東北の稲作は、前4世紀のようだが、会場に、東西交流のコーナー「西に行った亀ヶ岡、東に行った遠賀川」があって、北九州の弥生人が、東北に行って縄文人に稲作を教えている想像画が描かれていた。木製の鋤を使い、水田の畦を作り、水田で作業している絵だが、同時に進んだ弥生式壺やかめなども伝えた。
   反対に、北九州では、縄文人が、女性の土器作者に精巧な縄文土器の焼き方を教えており、同時に漆塗りの食器や弓の作り方も伝えたのであろう。
   東北と九州に文化の交流があり、お互いに影響し合いながら文明生活が豊かになっていったのである。

   最近は知らないが、私が子供の頃は、日本の歴史は、縄文や弥生時代は殆ど未開の文化文明で、卑弥呼から一挙に聖徳太子や大化改新に飛ぶと言う荒っぽい勉強だった。
   しかし、私は、あの素晴らしい土器の出来栄えを見ていて、日本の卑弥呼以前の歴史は、記録などの歴史が残っていないだけで、極めて民度の高い文明生活が営まれていたように思っていたので、今回の歴博の発見は、さもありなんと思っている。
   随分あっちこっちで随分見て来たギリシャの壺にしても、描かれた絵は素晴らしいが、日本の縄文や弥生土器の壺の形やデコレーションの精緻さと優雅さは、群を抜いていて足元にも及ばないと思っている。
   歴史の記録を残さなかった文明は結構あるのだが、このあたりの歴史が解明されれば日本の歴史も随分豊かになる筈である。

   今回の歴博の展示は、C14手法による発見で、縄文と弥生時代の解釈などに新しい発見が沢山加味されているようだが、殆ど関心が薄くて勉強不足だったので、もう少し、勉強し直さなければならないと感じている。
   時間に余裕があったので、常設展示をゆっくり時間をかけてまわった。
   歴博としては立派で一通り揃っているのだが、この歴博では本物が少なくて、模造品や複製品が多いのが残念である。
   
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経済社会構造を改革せずに生産性など上がるのか

2007年08月07日 | 政治・経済・社会
   今日、「経済財政白書」が閣議に提出された。
   日経と政府の広報版(抜粋)を見ただけで、詳しくは分からないが、日経夕刊の記事のサブタイトルは「成長へ生産性向上急務 デフレ脱却視野に」「M&A活用の余地指摘」であり、これを見る限り、前向きの指摘は一切ないと言う印象受けた。
   日本の経済成長に取るべき道は、経済社会構造の変革以外にないからである。

   早い話が、白書で触れているIT活用と生産性の項目だが、指摘が何年も世界趨勢から遅れている。
   TVで、何処かの団体が「税金の税務申告やってるで」とか言って全国から自慢そうに報告しているが、このようなルーティン仕事は、アメリカでは、とっくの昔にインドにアウトソーシングされていて、既にプロの仕事ではなくなってしまっている。
   先進国では、パソコンや機械で出来る仕事や外国へアウトソーシング出来る仕事は、プロの仕事でも駆逐されて消えて行き、たとえ残っていても、途上国労働者並みの賃金しか得られなくなってしまっている。
   社会保険庁の年金トラブルで、某評論家が「コンピューター処理をバンガロールに依頼したら即刻解決する」と言っていたが、悲しいかな、色々シガラミがあってそれが出来ないのが日本である。アメリカでは、高度な弁護士や会計士の仕事などどんどんコンピュータ化されており、多少の会計なら日本でも弥生会計や勘定奉行で十分である。
   CIOの活用などと言っているが、パソコンを使えない重役が居るために、そのごり押しでITシステムが有効に動かない大会社があると言う嘘みたいな話が、日本の現状だと言う。

   それに、IT関連では、電子政府と言っているが、政府関係部門の遅れが致命的であり、このようなちぐはぐでは、日本経済社会のIT化は進まない。

   生産性については、「資本進化と全要素生産性上昇と言う二つの経路でバランスを取りながら労働生産性の上昇を目指していく必要がある」と難しいことを言っているが、国際競争力に曝されている製造業などは言われなくても血の滲むような努力をしているが、政府の規制や過保護政策で温存されている内需型産業の生産性が問題なのである。
   このような生産性の低い内需型産業では、多くの有能な人材が滞留しているにも拘わらず、いくら努力してもROEなど利益指標がゼロ近辺で、無駄な業務に骨身を削っていて人的資源の浪費は、限りない。

   野口悠紀雄教授が言っているように、徹底的な資本開国を行って日本産業を競争に曝し、(もっとも十分にセイフティネットを張ってではあるが)、日本の経済社会構造を改革して、知的サービスで生産性を上げることが涵養であろう。
   今の産業構造を温存して、いくら資本進化や全要素生産性のアップ策を講じても、そして、「要素価格均等化定理」でどんどん競争力の落ちて行く製造業での高い生産性のアップを図っても、国際競争力はどんどん下降線を辿って行く。
   コンピューターや機械が代替してくれる仕事、外国にアウトソーシング出来る仕事からはどんどん撤退して、中国や他国に出来ないようなハイテクや高度な製造業や知的サービスに、産業構造を急速に変えて行くことである。
   官民こぞって、このために制度を整え、準備しなければならない。

   イノベーション論に至っては、下手な学者の論文。何時も言うが、資格をとっても碌な職にもつけず生活に困窮している理工科学系のドクターが今の日本に充満している現実をどう見るのか、この優れた叡智を活用することが最優先であろう。
   年金問題で、社会保険庁の職員がしゃかりきだと言うが、それでは、今までの実務は何もしていなかったのか。役人の仕事はこんなものなのであろうか。
   それなら、他の公務員を減らして、これらの理工科学系のドクターを集めて、戦略的基礎研究等次世代のイノベーションを追求する方がはるかに国家百年の計に役に立つ。

   外資導入だが、ブルドック問題で安心しているようでは駄目で、ハゲタカであろうとなんであろうと受けて立つ覚悟がなければ、EUがロシアや中国のM&Aを心配して対策を考えているように、BRIC’Sが、金に飽かせて、日本企業のM&Aを仕掛けてくるのは時間の問題であるから、今後の試練はもっと厳しい。
   日本は外資アレルギーが強いが、イギリスのようにウインブルドン現象を気にしないようにならないと、下降線を辿った国は立ち直れないのかも知れない。もっとも、イギリスのように成熟した大国が、金融一本やりで成長を続けて産業なり国家が持つのかどうか、どこかで不均衡が起こって揺り戻しが来る様な気がしている。
   何れにしろ、このままでは、知的サービス部門では世界の後塵を拝して、益々取り残されて行くので、早急に日本経済社会の高度化を策する必要があろう。

   
   
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日本企業の真の資産は知的財産

2007年08月06日 | 経営・ビジネス
   外人投資家がターゲットとするのは、知的財産と企業ブランドなどの無形資産を保有する日本企業だと言う。
   多くの企業が、ブランドや知的財産の開発や保護に積極的に取り組んでいるが、何れも、今の会計制度では正確にはバランス上には乗らないオフバランスの隠れた含み資産扱いなので、過小評価されている企業が多いと言うのである。
   日本を知り尽くした外人投資専門家アンドリュー・H・シップリーが、「日本の値打ちThe Japanese Money Tree 外資が殺到する本当の理由」と言う外人投資家向けに書いた新著で、日本への株式投資の時代が到来した語っている。

   もっとも、アメリカも日本と同様に、殆ど企業は自社開発の知財などの無形資産をバランス上に計上せず、その殆どは他社から取得したもののようだが、正しく評価するとしないとでは企業価値が全く違ってくる。
   日本企業をまわって、特許、ブランド、商標、版権、R&D,論文やライセンス数、企業秘密などの無形資産を徹底的に調べて、データベースを作っている外資があると言う。

   最近では、日本企業も知的財産の保護を生命線ととらえて積極的に対応するようになってきており、海外子会社からの収入が大半だとは言え、日本の特許収入も増えており、海外との特許紛争にも積極的になるなど、知財に対するガードが固くなってきている。

   ところで、知財について興味深い記述が、「ウイキノミクス」に、新しい動きとして掲載されていて興味を持った。
   その一つは、イエットツー・コムと言う会社が、大企業が保有する使わない知的財産が山のようにあり、これを売りたいとかライセンス供与したいという悩みを解決するために、売買を仲介しているケースである。
   閉鎖的で知られたP&Gなどの大企業の社員も緊張感を持って知財を補充し続けており、収入は還元され、志気が上がっているのだと言う。
   オンライン取引なので、チャンスを大きく広げ、流動性を確保してくれるのみならず、売り手と買い手のマッチングもよく、探索費用の削減にもなる。
   更に、効果的なのは、新しいアイデアや技術を持った小企業が研究開発サプライヤーとして貢献できる場が生まれたことである。

   もう一つは、複数の医薬品会社がヒトゲノムの独自解析を諦めてオープンコラボレーションに集まり、ヒトゲノム計画が、オペレーティングシステムのようになり基礎的知識の共有化が図られたケースである。
   1998年までに、メルクとワシントン大学は、80万以上の遺伝子配列を公表し、公知となった遺伝子配列については誰も権利を主張できなくなり、メルクとしてはライセンス料や取引費用に重しをつけられることの防止になったとは言え、新発見の可能性や疾病の治療方法の開発の可能性が増すことに貢献した。
   研究開発費の高騰、新薬の発見と開発に困難が予想される以上、このような新薬開発のオープンソースかが進むという。

   何れにしろ、知財保護とイノベーションとは、ある意味ではトレードオフ関係にあり、どんどん、オープンソース化のマスコラボレーションが進んでいるフラットな社会であり、それに、海賊国家が沢山存在する以上、知財保護と言っても中々難しい。
   アメリカの錚々たる企業でも、殆どの発明や発見、知財は活用されていないと言われているが、要するに、イノベーションに結びつかなければ宝の持ち腐れである。
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油蝉の大合唱

2007年08月05日 | 花鳥風月・日本の文化風物・日本の旅紀行
   今年も、数日前から、庭に油蝉が一斉に鳴き始めた。
   梅雨や大風で大人しかったが、油蝉が鳴きだすと夏も終わりに近いという。
   私の庭には、楠木が一本あって、その所為か、蝉が多くて、毎年真夏には沢山の抜け殻が、庭のあっちこっちにぶら下がる。
   昨夜も、10時頃庭に出たら、ハルドゥンの葉が白く光っていたので見ると口絵写真の油蝉の変態途中であった。

   油蝉は、茶褐色の油紙のような羽の色をしているが、完全に殻から抜けてからも、しばらくの間は、白い身体をしている。
   朝起きて見たら、抜け殻だけが、椿の葉にぶら下がっていた。
   とにかく、一斉に鳴きだすと、凄まじく喧しい。

   先日、東京にクマゼミが繁殖しすぎて困っているとTVで放映していた。
   本来、いない筈なのに、九州から送られてきた街路樹用の楠木等にくっ付いて幼虫が一緒に来て繁殖したのだと言う。
   何故か、千葉では、私はクマゼミを見たことがない。

   関西にいたときには、ニイニイゼミ、油蝉、クマゼミ、ツクツボウシが身近な蝉だったが、私の庭には、油蝉とツクツクボウシしか来ない。
   ひばりを見かけないのと同じで、何時も何となく寂しい気がしている。

   庭仕事で土を掘り起こしていると、よく、油蝉の幼虫が土中から出てきて惚けた格好で歩き始めることがあるが、そのまま埋め戻してやる。
   土中では、何年も過ごすようだが、地上に飛び立って暮らす時間はほんの数日のようである。
   大きな木にびっしり張り付いて大きな声で鳴きながら雌を待っているようだが、見ていても、幸いにも恋が成就する確率はそれほど多いようには思えない。
   好き嫌いがあるのか、フェロモンがそうさせるのかは知らないが、近付かれると逃げる蝉が多い。
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長期の強気相場を予想・・・澤上篤人氏

2007年08月04日 | 政治・経済・社会
   益々、日本株に対して強気になった。10年の上げ相場だ。
   理由は次の四つ、
   ①企業がどんな不況でも利益を生める体質になった
   ②日本株の所有者が利益志向に変わった
   ③株価上昇に伴い眠っている個人資金が株市場に流入する
   ④グローバルベースで、需要超過供給不足の成長経済
   こんな威勢の良い話を、さわかみ投信の澤上篤人代表取締役は、日経主催の「長期投資と企業の中長期戦略フォーラム」で語った。

   日本企業は、成熟段階に入った日本経済においても、コストダウンの努力の結果、如何なる不況の段階に入っても利益を生み出せる体質になったので、景気が少し上向けば追加利益を計上できるだけではなく、今後長期的に見て不安が全くなくなった。

   かって、日本株は、持ち合いや政策保有や機関投資家等の保有する安定株主が70%以上の株式を保有していたが、今日では、個人や外人株主保有率が50%をオーバーするなど株主構成が大きく変化し、企業業績や利益に敏感な利益志向の傾向が濃厚になって来た。
   従って、成長性に乏しい、業績の悪い会社はどんどん株主から排除されて行き、良い会社と悪い会社が峻別されて行き、企業が、益々、株主に対して注意し始めると同時に成長と業績の向上に努力することになる。

   もう3年もすると、株式で儲けた人間が周りに増えるので、それに触発されて、低利の預貯金に見切りをつけて、眠っていた個人資産が株にまわる。
   13年で外資が57兆円入っただけでも大変なインパクトがあったが、1000兆円のうち10%入っても100兆円なので、その影響は非常に大きい。

   現在、世界経済はインフレ気味の長期成長段階に入っている。
   成長期の日本と同じで、モノが欲しくて仕方のない消費志向の強い膨大な消費者が中国はじめ世界中に充満しており、供給が追いつかないのが現状である。
   日本企業にとって、このグローバルな成長に乗って貢献する絶好のチャンスであり、前途は洋々である。

   世界的な視点から優良な会社を見つけて、長期投資家に徹することが涵養である。
   安くなったら買う。一寸上がって売りたくなったら売っても良いが、その金で、下がったらまた買う。
   下がったら買う。上がったら売る。このリズムが大切で、長期投資家に徹するのである。

   たしか、こんな話を澤上氏は、一気に喋ったと思うのだが、その後、聴衆から質問を受けていたが、退席したのでその後の推移は分からない。

   私の正直な感想だが、株屋の発想と言う感じで、経済や経営に対する考え方は全く視点が違うので、そんな考え方も出来のかと思って聞いていた。
   株については、良く分からないが、私はバフェット流に優良株を見つけてバリュー株投資に徹するのが良いと思っているのだが、何時も短期で処分して損ばかりしている。

   このフォーラムは、澤上氏の前に、三原淳雄氏の「マネーの国際化と長期投資」に続いて、旭化成の伊藤一郎副社長と新日鉄の谷口進一専務の夫々旭化成と新日鉄の企業プレゼンテーションがあった。
   とにかく、大変な盛況で、別のモニター室やロビーも聴衆で一杯であったが、大体中年以上の人々で、どうも、この辺りがアクティブな一般投資家のようであると思って見ていた。
   私は、新日鉄の動向と言うか戦略を直接聞きたくて出かけて行ったので、実際には、株の動向などあまり気にはならなかったが、熱心にメモを取るお年寄や中年婦人の多いのにはビックリした。
   経済予測など当たる筈がないとガルブレイスが言っていたので、参考にしか聞いていないが、何れにしろ、経済理論そっちのけで、嗅覚と言うのか非常に癖があって偏った見方をしている二人の株専門の評論家の考え方には違和感を感じざるを得なかった。
   
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オープンソースのグローバル製造業・・・ボーイング

2007年08月03日 | イノベーションと経営
   ボーイング社は、旧来の階層構造的なプロデューサーとサプライヤーの関係を捨てて、ボーイング787の開発に当たっては、オープンソース・システムで対応しようとしている。
   すなわち、自らはプライム・システム・インテグレーターとなってサプライヤーをパートナーとして遇し、これらが一丸となって、新製品開発の最初から最後までのライフサイクルを通じ、巨大開発プロジェクトのコストとリスクを分散し、設計から製造、果ては長期的なメインテナンスやサポートに至るまでコラボレーションで進めるのである。

   コストを削減しつつ革新を推進し、新型機を短期間で市場に送り出すことを目指し、航空機を構成する膨大な数の機能や部品の可なりの部分をサプライヤーに任せるマスコラボレーション方式に移行したので、パートナー各社は、リナックス・オペライティング・システムに参加するプログラマーに似たような形で、航空機の設計や製造に参加するのである。

   組織と言うものは、階層型の指揮命令系統が主体であったが、今や、このような従来型の階層構造と支配による生産モデルに代わって新しいパワフルなモデル・・・コミュニティとコラボレーション、自発的秩序形成によるモデルが生まれつつあるのだと、ドン・タブスコットとアンソニー・D・ウィリアムズが新著「ウィキノミクス」で新しい経済社会の新潮流を開陳していて非常に面白い。
   前述のボーイング787プロジェクトについては、WIKINOMICS(WikiとEconomicsとをあわせた造語)展開の内、世界工場(GLOBAL PLANT FLOOR)と言う項で紹介している。
   「地球規模のエコシステムでモノを設計し製造する」と副題が付いおり、ファブレス自動車工場としてBMWや重慶の二輪車生産なども取り上げており、高度な製造業においても、リナックスやブリタニカを凌駕した無料のインターネット辞書ウィキペディアと同じ様な、オープンソース・システムが進みつつあると言うのである。

   欧米製造業が得意とするモジュラー型・組み立て型方式を主体におきながら、グローバルベースのコラボレーションでインテグラル型・擦り合わせ型手法を活用しようと言う新しい生産方式だが、ボーイングの場合、グローバルベースでトップ企業を糾合出来るので、その革新性とコスト削減、開発スピードなどその効果は非常に大きいと言う。
   設計チームには乗客代表まで参加していると言うが、787の場合は、大きな部品やサブアセンブリーをまるでレゴブロックのように嵌め合わせるだけとなる筈なので、3日間で完成すると言うのである。

   この787プロジェクトでは、一つの図面、一つのシュミレーションしかないのだが、総てのパートナーが共有し、世界のどこからでも何時でも、アクセス出来、改定状況はソフトが追跡する。自分たちが作る部品がどのように作用し合うのか、設計の段階で、リアルタイムにシュミレーションして確認出来る。
   世界各地に分散した設計製造チームを統合し、複雑な構造物を仕上げるプロジェクトを推進するために、極めて困難な中核のネットワークは、ボーイングとダッソーが開発した、リアルタイムのコラボレーションを可能にするシステム、グローバルコラボレーション環境だと言う。

   この動きは、超ハイテク企業で、高い技術力を持ち業界をリードして来たボーイング社が、イノベーションのかなりの部分をサプライヤーに任せ、物理的な商品の開発と市場投入が、互いを補うスキルと能力を持つパートナーによる広大なエコシステムと一緒に仕事をすると言うように大きく戦略を転換したことを意味する。
   この高度化したウイキノミクスの世界では、物理的なものを発明し構築するよりも、むしろ、優れたアイデアを編み上げ連携させることにこそイノベーションがあるのだとまで著者達は言う。

   ところで、興味深いのは、重慶のオートバイ生産で、日本製品を真似たリバースエンジニアリング。何年もかけて日本の技術を吸収してきた多くの中国業者が、自律的に、各パーツを生産して組み立てて売り出すという方式で、日本メーカーを駆逐してしまった。
   本来、オートバイは、高度な擦り合わせ型の製品だが、中国では基本的な移動手段で高性能である必要はないので、数百社が、設計から製造まで組み合わせ型となるモジュラー性を重視したコラボレーションで進める形を取りおり、急速にサプライチェーンを整備して成長してきた。
   中核のないオープンソース生産なので、問題が起きると茶店に出かけて調整するとか、それでも、アジアのオートバイ市場を押さえるのは時間の問題だという。

   このような生産システムの再編成は、正に、IT革命とグローバリゼーションのなせる技であるが、単に、モジュラー型・組み合わせ型とインテグラル型・擦り合わせ型と言った単純なシステムの差ではなく、オープン化の進展によりグローバルベースのマスコラボレーションの拡大とともに、生産システムが大きく変わりつつあることを示している。
   いまだに、ワンセット主義で自社で総てに対応しようとしたり、技術のブラックボックス化に拘る日本企業の姿勢の対極にあるような趨勢だが、本舞台では、大きなグローバル規模のビジネス革命が進みつつある。
   
   
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ダウ・ジョーンズ買収劇

2007年08月02日 | 政治・経済・社会
   ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)を傘下に持つダウ・ジョーンズ社を大衆メディアの帝王ルパート・マードックが買収する。
   エコノミストの記事では、いみじくも”Rupert gets his trophy"のタイトルで、このニュースを報じている。
   しかし、銭勘定の前に、とにかく、世界有数の新聞の一つを買収したいと言う夢をかなえる為に、巨大な金を積み増して買ったのであるから、ニューズ・コーポレーションの株主も穏やかではないのであろう。

   ニューズは、今秋、経済専門チャンネルをアメリカで始めるようなのでDJの持つ貴重な経済情報資源を有効に活用出来るのは幸いではあるが、果たして、マードックが目論むように、うまくWSJを拡大して同時に他のオンラインや放送メディアとリンクしながら相乗効果を上げ得るかは未知数であろう。

   もう、20年も前になるが、マードックは、ファイナンシャル・タイムズ(FT)を買収しようとして、相当数の株を買い込んだことがある。
   当時、FT本社建物の開発に関わっていた関係で、FTの親会社ピアソンの社長ブレイクナム卿と話したことがあるが、マードックの買収したタイムズが大衆紙化して酷い状態になっていたので、非常に神経を尖らせていた。
   結局、この話はそれ以上進展しなかったようである。
   また、高級紙INDEPENDENTが発刊されて、タイムズの穴を埋めたので、英国の新聞も平衡を保つようになった。

   マードックは、WSJの「編集権の独立」を確約することでバンクロフト家を納得させたようであるが、果たして、資本の論理を優先してこれまでメディアを抑えて大帝国を築いて来た実績から、そんなことが出来るのであろうか。
   FOX TVの大衆化については言うまでもないが、タイムズもニューヨーク・ポストも非常にポピュリズムを志向した新聞で、マードックのメディアには、高級イメージが乏しい。
   WSJが、ポスト・マードックでどう変わるのか、興味深い。

   「編集権の独立」と言う一番重要な点だが、バンクロフト家は、「所有すれど、統治せず」と言う方針を貫いてきたと言う。
   ブレイクナム卿も、「編集権の独立」は絶対で、社長の自分のこともFTに無茶苦茶書かれたことがあると笑っていた。
   吉田首相が、記者達に突き上げられて「新聞を読んでいないのか」と聞かれて、「僕はタイムズしか読まないからね」と応えた有名な話があるが、世界一権威のあったこのタイムズが、マードックの買収後、とうとう、並の大衆紙に成り下がってしまった。

   このニューズ・コーポレーションとダウ・ジョーンズの再編を見ていて感じるのは、やはり、IT革命の大波を受けて、報道関係メディアの大きな再編成が起こっていると言うことである。
   カナダの総合情報会社トムソンとロイターとの合併が、その大波の頂点だったが、益々、比重を増し始めた経済情報の報道の流れが大きく変わって来つつあることを示している。

   果たして、このデジタル時代に、今の状態で、新聞がこのままの状態で生き残って行けるのであろうか。
   第一、ニュースに関する新鮮さは、TVやインターネットにはるかに劣っていて、後追いと確認と言うような役回りになってしまった。
   新聞の代わりは、インターネットで十分だし、それも、携帯電話の多機能化によって、どんどんその代替化が進んでいる。
   益々需要の拡大する正確かつ適切な高度の経済情報を、如何に有効に提供出来るのか、デジタル化が進展するこのIT時代に、メディアの対応が問われている。
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