通説では、弥生時代は、前5~4世紀から始まると言うことになっているが、実は、500年も前の前10世紀に始まっていたと証拠を示して、歴博が特別展示展「弥生はいつから!?」を開いている。
従来は、遺跡が出土する地層の年代や、遺跡の形や出土品など物理的状況証拠などから年代を類推していたが、今度は最新の科学的手法である炭素14の残留から正確な年代が推定されるようになり、その結果、弥生時代の始まりは、もっと遡っていた事が分かったのである。
会場に展示されている東大のC14測定試料調整装置やビデオで紹介されていたC14測定器は、バイオの精密検査器のような大掛かりなものだが、とにかく、動植物は死と同時に体内のC14が減り始めて、5730年毎に半分ずつ壊れて行くので5万年くらい前まで遡って年代を知ることが出来るのだと言う。
土器や遺物に付いた残片を擦り取ってそれを精製して測定するようだが、正確なら、年輪調査より確実であろう。
入り口に大きな屋久杉の年輪が展示されていて、聖徳太子の大分前辺りから年代と年代記が克明に書かれているのが面白かった。動く動物はいくら長生きしても精々100年だが、動かぬ植物の命は途方もなく永い。
会場に、最も古い炭素14年代の弥生土器(前10世紀)が展示されていたが、5辺の角を持つ変形の薄い平皿で魯山人顔負けの優雅さである。
前10世紀の半ばから九州北部で稲作が始まり、前8世紀に四国に、前7~6世紀に関西にと稲作が東漸していったと言う。
東北の稲作は、前4世紀のようだが、会場に、東西交流のコーナー「西に行った亀ヶ岡、東に行った遠賀川」があって、北九州の弥生人が、東北に行って縄文人に稲作を教えている想像画が描かれていた。木製の鋤を使い、水田の畦を作り、水田で作業している絵だが、同時に進んだ弥生式壺やかめなども伝えた。
反対に、北九州では、縄文人が、女性の土器作者に精巧な縄文土器の焼き方を教えており、同時に漆塗りの食器や弓の作り方も伝えたのであろう。
東北と九州に文化の交流があり、お互いに影響し合いながら文明生活が豊かになっていったのである。
最近は知らないが、私が子供の頃は、日本の歴史は、縄文や弥生時代は殆ど未開の文化文明で、卑弥呼から一挙に聖徳太子や大化改新に飛ぶと言う荒っぽい勉強だった。
しかし、私は、あの素晴らしい土器の出来栄えを見ていて、日本の卑弥呼以前の歴史は、記録などの歴史が残っていないだけで、極めて民度の高い文明生活が営まれていたように思っていたので、今回の歴博の発見は、さもありなんと思っている。
随分あっちこっちで随分見て来たギリシャの壺にしても、描かれた絵は素晴らしいが、日本の縄文や弥生土器の壺の形やデコレーションの精緻さと優雅さは、群を抜いていて足元にも及ばないと思っている。
歴史の記録を残さなかった文明は結構あるのだが、このあたりの歴史が解明されれば日本の歴史も随分豊かになる筈である。
今回の歴博の展示は、C14手法による発見で、縄文と弥生時代の解釈などに新しい発見が沢山加味されているようだが、殆ど関心が薄くて勉強不足だったので、もう少し、勉強し直さなければならないと感じている。
時間に余裕があったので、常設展示をゆっくり時間をかけてまわった。
歴博としては立派で一通り揃っているのだが、この歴博では本物が少なくて、模造品や複製品が多いのが残念である。
従来は、遺跡が出土する地層の年代や、遺跡の形や出土品など物理的状況証拠などから年代を類推していたが、今度は最新の科学的手法である炭素14の残留から正確な年代が推定されるようになり、その結果、弥生時代の始まりは、もっと遡っていた事が分かったのである。
会場に展示されている東大のC14測定試料調整装置やビデオで紹介されていたC14測定器は、バイオの精密検査器のような大掛かりなものだが、とにかく、動植物は死と同時に体内のC14が減り始めて、5730年毎に半分ずつ壊れて行くので5万年くらい前まで遡って年代を知ることが出来るのだと言う。
土器や遺物に付いた残片を擦り取ってそれを精製して測定するようだが、正確なら、年輪調査より確実であろう。
入り口に大きな屋久杉の年輪が展示されていて、聖徳太子の大分前辺りから年代と年代記が克明に書かれているのが面白かった。動く動物はいくら長生きしても精々100年だが、動かぬ植物の命は途方もなく永い。
会場に、最も古い炭素14年代の弥生土器(前10世紀)が展示されていたが、5辺の角を持つ変形の薄い平皿で魯山人顔負けの優雅さである。
前10世紀の半ばから九州北部で稲作が始まり、前8世紀に四国に、前7~6世紀に関西にと稲作が東漸していったと言う。
東北の稲作は、前4世紀のようだが、会場に、東西交流のコーナー「西に行った亀ヶ岡、東に行った遠賀川」があって、北九州の弥生人が、東北に行って縄文人に稲作を教えている想像画が描かれていた。木製の鋤を使い、水田の畦を作り、水田で作業している絵だが、同時に進んだ弥生式壺やかめなども伝えた。
反対に、北九州では、縄文人が、女性の土器作者に精巧な縄文土器の焼き方を教えており、同時に漆塗りの食器や弓の作り方も伝えたのであろう。
東北と九州に文化の交流があり、お互いに影響し合いながら文明生活が豊かになっていったのである。
最近は知らないが、私が子供の頃は、日本の歴史は、縄文や弥生時代は殆ど未開の文化文明で、卑弥呼から一挙に聖徳太子や大化改新に飛ぶと言う荒っぽい勉強だった。
しかし、私は、あの素晴らしい土器の出来栄えを見ていて、日本の卑弥呼以前の歴史は、記録などの歴史が残っていないだけで、極めて民度の高い文明生活が営まれていたように思っていたので、今回の歴博の発見は、さもありなんと思っている。
随分あっちこっちで随分見て来たギリシャの壺にしても、描かれた絵は素晴らしいが、日本の縄文や弥生土器の壺の形やデコレーションの精緻さと優雅さは、群を抜いていて足元にも及ばないと思っている。
歴史の記録を残さなかった文明は結構あるのだが、このあたりの歴史が解明されれば日本の歴史も随分豊かになる筈である。
今回の歴博の展示は、C14手法による発見で、縄文と弥生時代の解釈などに新しい発見が沢山加味されているようだが、殆ど関心が薄くて勉強不足だったので、もう少し、勉強し直さなければならないと感じている。
時間に余裕があったので、常設展示をゆっくり時間をかけてまわった。
歴博としては立派で一通り揃っているのだが、この歴博では本物が少なくて、模造品や複製品が多いのが残念である。