熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

二月大歌舞伎・・・「新皿屋舗月雨暈」

2013年02月09日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎は、日生劇場である。
   この劇場は、50年前に、カール・ベーム指揮のベルリン・ドイツ・オペラでこけら落としを飾った素晴らしい劇場で、私は、歌舞伎はともかく、観劇には、最も素晴らしい劇場だと思っている。

   今回は、事故で休演していた染五郎の復活舞台で、幸四郎が公演前に口上を述べると言う特別な催しがあったが、噂に違わず、染五郎の晴れ姿は上々で、心なしか、一回り大きくなった感じで、「新皿屋舗月雨暈」の磯部主計之助の颯爽とした殿様然とした貫録と風格などは、堂々たる偉丈夫ぶりであった。

   この「新皿屋舗月雨暈」は、殆ど、後半の「魚屋宗五郎」だけで上演されることが多いのだが、今回は、前半の「弁天堂」から通し狂言で演じられたので、話の筋が良く分かって、その分、大いに楽しむことが出来た。
   旗本磯部主計之助(染五郎)が、愛妾お蔦(福助)を、悪臣岩上典蔵(大谷桂三)たちに騙されて、不義を働いたと信じて手打ちにし、それを知って激怒したお蔦の兄魚屋宗五郎(幸四郎)が、酒の勢いを借りて、磯部家に殴り込みをかけるのだが、家老浦戸十左衛門(左團次)の計らいで、真相を知った主計之助が、宗五郎に謝る。と言った話である。

   ここで大切なのは、お蔦の不義の原因となった閻魔堂での典蔵の悪行の場に、十左衛門が、出くわして、その経緯と家老失脚を狙って実権を握ろうとする悪行を知っているので、そのことと、宗五郎の直訴を関連付けて、十左衛門が、事前か、あるいは、宗五郎が酔いつぶれている間にか、主計之助に語ったと言う前提があるからこそ、宗五郎が、庭先で、酔いから醒めた瞬間に、主計之助が登場して、自分の短慮を認めて謝ると言う舞台展開になることである。
   
   お蔦の不義の話だが、
   飼い猫を探しに閻魔堂まで出てきたお蔦を、横恋慕した典蔵が、お蔦が殿さまから預かっている井戸の茶碗(猫に飛びつかれて落として割る)を盗みだし、これを利用してお蔦を我が物にしようとして争ううち気絶したお蔦の帯を解こうとしたが、そこへ悲鳴を聞いて駆けつけてきた浦戸紋三郎(友右衛門)に、気が付いたお蔦が、典蔵一味の企みを聞いてしまったことを打ち明けようとするのだが、そうはさせじと典蔵は灯籠の火を吹き消し、「不義者!」と叫んで二人に無実の罪をきせ、逃げようとするお蔦の帯を奪いとる。その様子を家老の浦戸十左衛門が見ていたのである。帯を証拠に、お蔦との不義の罪を擦り付ける。と言う訳である。

   ところが、典蔵と吾太夫兄弟が、悪巧みの相談中に、磯部主計之介が現れれたので、殿さまの酒ぐせが悪いのを利用してどんどん酒を注いで、帯を見せて、紋三郎とお蔦に不義の罪をでっち上げる。主計之介はお蔦と紋三郎が不義を犯したとは信じられないが、お蔦にあずけた大切な井戸の茶碗が弁天堂の床下から発見され、しかも割れていたと知って動揺し、一気に怒り心頭に達して、お蔦を呼び出して、一切の抗弁も聞かずに、主計之介はたぶさをつかんで引きまわし、ついに庭の井戸にお蔦を切って捨てる。

   その後が、「魚屋宗五郎」の舞台なのだが、悲嘆にくれている宗五郎宅に、磯部家に奉公する召使のおなぎ(高麗蔵)が弔問にきて、不義疑惑からお蔦御手打ちの経緯を語ったので、断腸の悲痛となった宗五郎が、酒を断った筈が居た堪れなくなって、おなぎの持参した酒に手を付けて酒乱となって、磯部家へ殴り込む。と言う寸法である。

   この「新皿屋輔月雨暈」だが、良く考えてみれば、酒と言うか、酒乱と言うか、酒癖の悪さが、重要なサブテーマと言う感じで、話の重要な展開は、酒が絡んでおり、重要な登場人物である宗五郎も主計之助も、言うならば酒乱であり、その酒乱ぶりを如何に上手く演じるかに、舞台がかかっていると言っても不思議ではない。

   まず、主計之助だが、酒癖の悪さを熟知してこれを利用して騙し続けて伸し上ってきた典蔵兄弟に、まんまと乗せられて、酒を立て続けに注がれて、どんどん、テンションが上がって行き、後先の見境も正常な判断もなくして崩れて行くお殿様を、染五郎は、実に上手く演じていて、颯爽とした風格のあったお殿様が、少しずつニヒルな雰囲気を醸し出して怪しくなって行く様子など、流石に見事である。
   それに、あれ程愛し愛され愛しんできた筈の愛妾お蔦を、愛しさ余って憎さ百倍、たぶさをつかんで引き回して、井戸に切って捨てると言う姿には、酒乱を通り越して鬼気迫る迫力があった。
   終幕の宗五郎との対面の場である「磯部屋敷庭先の場」のお殿様は、風格十分で素晴らしい出来だと思うが、これは、三津五郎や錦之介も素晴らしい舞台を見せてくれており、良くて当たり前だと思うが、私は、今回、第二幕の「磯部邸井戸館詮議の場」の染五郎の演技が素晴らしいと思って見ていた。

   「魚屋宗五郎」は、勿論主役は宗五郎だが、やはり、酒の飲みっぷりを横糸にして、如何に、兄の宗五郎の妹お蔦への思いを、断腸の悲痛に追い込んで行く心の軌跡を紡ぎ上げて行くかと言うことであろうと思う。
   幸四郎が酒好きかどうかは知らないが、実に酒の飲みっぷりはうまいと思う。
   しかし、私が感心したのは、幸四郎は、はっきりと酒を断ったと言う前提で演技をしていることで、酒が好きだから禁を破って酒に手を付けたと言うのではなく、心の整理をした上で、必然的に酒に手をだし、徐々に抑えが利かなくなって溺れて行ったと言う感じで演じていたように思う。
   したがって、おなぎの話を聞いた時には、怒りよりもむしろ悲しみの方が強くて、それが、正気を失って行くうちに後先が朦朧となって、徐々に、理不尽な殿の仕打ちに対する怒りが増幅して行き酒乱状態になって行く、その心の軌跡が実に緻密に計算されていたような感じがして、流石だと思って見ていた。
   この酒に酔うと言う単純だが、ある意味では、酒乱状態になった時には、最高に精神状態が昇華された状態で、能の舞台のように、無駄なものは一切削ぎ落とされてエッセンスだけが残って、その精神状態の演技だけが表現されている。
   私は、幸四郎の舞台を見ていて、そんな感じがしたし、そう思えば、酔いから醒めた宗五郎の地に戻った表情の秘密も分かるし、いずれにしろ、酒と言う小道具と言うか手段を実に上手く使って、酒飲みを演じるだけではなく、心の軌跡を前面に押し出して演じているからこそ、宗五郎の生き様が冴えて来るのだろうと思う。
   上手く表現できないが、このあたりの幸四郎の凄さは、流石であり、染五郎の復活舞台への素晴らしいオマージュであったのではないかと思っている。

   福助は、薄幸のお蔦と宗五郎の女房おはまを演じたが、流石に、両方の舞台の使い分けが上手い。
   お蔦の方は、風格十分で、庶民出の若い愛妾と言った感じよりも、もっと成熟した高級な上臈と言った雰囲気だったが、お蔦部屋での憂いに満ちた覚悟を決めた女の悲しみの表情や、お蔦殺しの場での、主計之助への必死の願いなど、中々魅せてくれた。
   女房おはまの砕けた庶民然としたおかみ姿も、中々堂に入って良い。

   泰然とした重厚な演技の左團次、威勢よくテンポの爽やかな小奴三吉の亀鶴、嫌味たっぷりの典蔵の桂三、いぶし銀のような父親太兵衛の錦吾。
   それに、随分大きくなって颯爽と可愛い酒屋丁稚与吉を演じていた金太郎が素晴らしい。

   さて、これまでは、二回、魚屋宗五郎を観ていて、二回とも、宗五郎は菊五郎で、おなぎは菊之助、おはまは、玉三郎と時蔵であったが、いずれも、素晴らしい舞台で、ブログに記録済みなので蛇足は避ける。
   しかし、江戸歌舞伎の世話物で、他の演目もそうだが、菊五郎と幸四郎と言う質は違うのだが、非常に上質で、中身の濃い素晴らしい舞台を鑑賞できるのは、非常に幸せなことだと思っている。

   なお、当日、「義経千本桜」の「吉野山」の美しい舞台が、染五郎の源九郎狐、福助の静御前、亀鶴の逸見藤太で演じられており、目の覚めるような鮮やかな舞台であった。
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危うい日本の財政出動・・・ラグラム・ラジャン

2013年02月08日 | 政治・経済・社会
   日経ビジネス最新号で「景気対策、日本は対応を誤るな」と言う記事で紹介されているが、Project Syndicateの論文「Why Stimulus Has Failed」で、ラグラム・ラジャン教授は、景気対策のために、新ケインジアンは、需要全般を喚起しようとしているが、これでは一時しのぎの効果しかなく、持続的な解決策は、供給側を、もっと普通で持続可能な需要源を生み出せるように調整することだと提言している。
   建設業や自動車産業の労働者を成長産業でも働けるように再訓練することで、政府が最もやってはならないことは、最早発展できない企業を無理に支えたり、成長しない産業の需要を低利の融資で支えたりすることだと言う。
   乗数効果も加速度原理の効果も減殺してしまった時代遅れの需要をいくら増幅して刺激しても無駄で、産業構造を時代の潮流に合わせて大きく変換して、新しい需要を創造し得る体制を整えない限り、経済の再生はあり得ないと言うことである。

   日経ビジネスの要約を補足すると、
   危機後の経済の根本問題が、需要の不足にあると言う認識は正しいが、金融危機後の需要不足は、一様ではないので、全般的な需要刺激策では効果がない。政府は、成長から見放された既存産業を支援するのではなくて、成長分野への雇用訓練を行うなど資源を振り向けて、産業構造を将来性と発展性の高い分野にシフトすることによって、新しい需要を創出して、経済を浮揚させるべきである。
   と言うことであろう。

   この論文は、必ずしも日本のことだけを言っているんではなく、金融危機後の欧米日の経済の景気刺激策の誤りを論じているのだが、最後に、日本経済について、非常に貴重なコメントを述べていて、注目に値する。
   Frighteningly, the new Japanese government is still trying to deal with the aftermath of the country’s two-decade-old property bust. One can only hope that it will not indulge in more of the kind of spending that already has proven so ineffective – and that has left Japan with the highest debt burden (around 230% of GDP) in the OECD. Unfortunately, history provides little cause for optimism.
   恐ろしいのは、新しい日本政府が、20年前の不動産バブルの処理をいまだに行っていること。日本政府が、全く効果がないことがすでにはっきりしているタイプの、そして、そのために、GDP比230%と言うOECDでも最悪の負債を背負い込むようになった支出にこれ以上執着しないことを祈るのみである。
   不幸なことに、歴史は、楽観論的な根拠など殆ど示し得ていないのである。

   安倍政府は、デフレ脱却、日本経済再生のために、三本の矢政策で、機動的な財政政策をうたって、国土強靱化と日本列島改造を旗印にした実質的公共投資拡大などを推進しようとしているが、ラジャンは、このことを言っているのであろう。
   「巨大地震など自然災害に対して脆弱」な日本にとっては、欧米とは違って、公共投資の持つ意味は大きく違うであろうが、私自身は、成長活力を失った成熟経済では、ラジャン教授が説くように、最早、長期的かつ持続的な経済浮揚効果は期待できず、国家債務を増大させるだけであると思っている。
   ラジャン教授が言うように、歴史には、楽観論が持続するなどあり得なかった筈なのである。

   さて、話が飛ぶが、ラジャン教授の言うように、良かれと意図したセイフティネットや弱者救済政策が、既に退場すべきゾンビ企業や泡沫産業を温存するだけで、日本経済の再生に役に立たなかったケースが結構あるように、失われた20年の間に、日本経済が、最も疎かにしてきたのは、激烈なグローバル競争に打ち勝つことのできる強靭な産業構造の構築ではなかったかと思っている。
   NHKが、クローズアップ現代の、“返済猶予”は何をもたらしたのか ~検証・金融円滑化法~と言う番組で、
   資金繰りに苦しむ中小企業のための緊急の救済措置として2009年12月に施行された「金融円滑化法」が、返済を猶予してもらった中小企業の多くで業績が改善せず、結局倒産してしまうケースが増えている。本来、返済猶予は経営改善のために行われるはずだったが、経営を抜本的に見直すことなく傷を悪化させてしまった中小企業が少なくない。と報道していた。

   小泉竹中時代に、これまで日本の歴史にはなかったような、弱肉強食の市場原理主義的な経済政策が実施されて、政治経済社会に、かなり、摩擦や動揺を起こしたが、しかし、日本を取り巻くグローバル経済環境は、もっと激しく熾烈であり、生き馬の目を抜く程度の生易しさではない。
   アベノミクスで、やっと、動き出した日本経済だが、いつか来た道ではなく、日本中全体が、本当に劇薬を煽ってでも、発奮すべきであろうと思っている。
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クレイトン・M・クリステンセン他著「イノベーション・オブ・ライフ」

2013年02月07日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   「イノベーターズ ジレンマ」で一世を風靡したイノベーション論の大家クリステンセンが、企業の盛衰を説きながら、最高の人生を生き抜くためには、如何にあるべきか、正に、人生のイノベーションを論じた本であろうか。
   イノベーションを起こして成功したが故に、衰退して行く優良企業の姿を説いた、イノベーターの陥るジレンマが、正に、実人生においても、優秀故に名声や富を得て頂点に上り詰めた人間が、不幸に陥ってしまうと言う、相通じる理論展開を彷彿とさせて、非常に興味深い。

   原書のタイトルは、"How Will You Measure Your Life?"で、冒頭で、How can I be sure that I'll find satisfaction in my career? How can I be sure that my personal relationships become enduring sources of happiness? How can I avoid compromising my integrity—and stay out of jail?と問う。
   満足なキャリアーとは?、幸せを担保する個人的な人間関係は?、誠実に生き罪つくりをしない生き方は?
   これら総てを満たす生き方が確実に出来ますか、と言う問いかけであり、徹頭徹尾、これを実行してきた自分自身の生き様を、自身のイノベーション論で展開してきた豊富な企業の盛衰のケースを例証しながら、実に、懇切丁寧に、愛情を込めて語りかけながら、指針を説いている。

   幸せなキャリアを歩む、幸せな関係を築く、罪人にならない、と言う3部構成で語られているのだが、やはり、経営学者で、優先事項、計画と機会のバランス、資源配分と言った戦略プロセスや、その実行などから説き起こして、まず、実際の企業のイノベーションの盛衰を理論建てして論点を明確にして、人生論を展開しているのだが、私には、経営学書であると同時に人生論書であって、非常に興味深い本であった。

   クリステンセン教授は、
   多くの上昇志向の強い教え子たちが、昇進や昇給やボーナスなどの見返りが今すぐ得られるものを優先し、自分と家族の為に派手なライフスタイルを賄うために、もっと欲しいもっと豊かになりたいと骨身を削って奔走し、立派な子供を育てるといった、長い間手をかける必要があるもの、何十年も経たないと見返りが得られないものをおろそかにする。
   出世コースを走るあまり、このような資源配分生活が固定化してしまって、家族との関係に時間や労力を費やすることなく、伴侶との関係をなおざりにして、気が付かないうちに、ついには墓穴を掘ってしまう。
   人生に明確な目的と戦略を持つことは大切だが、自分の持てる資源を、戦略に相応しい方法で投資し、正しく実行されなければ意味がないと言うのである。

   仕事でこうなりたいと思う自分に没頭し、家庭で成りたい自分になることを疎かにする。
   立派な子供を育て、伴侶との愛を深めることに労力をかけても、成功したと言う確証を得られるのは、何十年も先のことである。
   したがって、キャリアに投資するあまり、家族には十分な投資をしなくなる。
   そうして、人生の大切な部分から、花開くために必要な資源機会を奪っている。
   自分の真に価値ある優先事項に沿った方法で、資源を配分することに心を砕くべきで、自分の成功を評価する物差しを、自分にとって最も重要な問題に合わせる必要がある。
   総てを適切な時間帯で考えるべきで、長期を疎かにして短期に集中しがちな、自然な傾向を覆すべきである。
   これが、クリステンセン教授の本のタイトル"How Will You Measure Your Life?"の意味であり、結論であろう。

   極めて真っ当な当たり前のことなのだが、この単純な当たり前のことが持続できなくて道を踏み外す人が如何に多いか、一寸した気の緩みが大きく横道に反れて蹉跌を招く人生が如何に多いことか、イノベーションのジレンマに陥って成長を維持できない企業も、成功しながらも不幸に泣く人間も同じこと。
      
   最後に、クリステンセン教授は、家族と信仰が、自分の自画像を描く上で重要なインスピレーションを与えたと言って、成りたい自画像を示している。
   ・人がよりよい人生を送れるよう助けることに身を捧げる人間
   ・思いやりがあり、誠実、寛容で、献身的な夫、父親、友人
   ・神の存在を信じるだけでなく、神を信じる人間

   私には、聖人君子のようで、近寄りがたいが、人生の指南書としてはともかく、5~6冊読んだクリステンセン教授のイノベーション論のやさしい復習書として読ませて貰った感じで、非常に面白かった。
   先に、この本の論点を2点引用してブログを書いたが、まだ、2~3書けそうである。

   
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わが庭を訪れる小鳥たち

2013年02月05日 | わが庭の歳時記
   わが庭に成る木の実と言う実は、殆ど小鳥たちが食べて無くなってしまった。
   残っていた柚子の実や、クチナシの赤い実なども、喰い飛ばして四散させている。
   どうも、大半は、大きなヒヨドリの仕業のようであるが、最近は、実がなくなってしまったのか、殆ど訪れなくなってしまった。

   かわりに、ツバキの蜜を求めて、メジロが頻繁にやって来て、侘助ツバキの枝をせわしげに渡っている。
   晩冬から春先に掛けては、蝶や昆虫がまだ出て来ないので、メジロが、花粉を運んでいるようである。
   一子侘助の茂みに入ったメジロが、何時もならすぐにあっちこっち渡って飛び去るのだが、出て来ないので、静かに近づいてみると、二羽のメジロが、しっかりと寄り添って互いに頭を擦り合わせてじゃれているようである。
   木の枝と葉の重なった茂みの奥なので良く見えないのだが、どうも、愛の交感のようである。
   微かに、二つの目が見えたので、メクラ滅法シャッターを押したのが、次のスナップショットである。
   

   いつも、必ず訪れて来てくれるのが、ジョウビタキである。
   私の庭にきて、何を食べているのか、何をしているのかよく分からないのだが、時々、地面に下りて枯葉などをつついているので、小さな昆虫を探しているのかも知れない。
   口絵のメジロも、このジョウビタキも、少し芽が出た牡丹の木の枝の上に留まっている。
   
   

   少し、大きな鳥が、ツグミである。
   このツグミは、しっかり蕾が付いた八重の枝垂れ梅の枝に止まっているが、やはり、実がなくなると、何時もは、地面に下りて地面をつついている。
   この鳥も、群れて渡って来るのだが、里にいる時には、あまり、群れずに、単独行動のようである。
   

   そのほか、良く訪れて来るのは、メジロのように、数羽群れて飛んで来て、俊敏に枝を渡り飛ぶシジュウカラ、高い木や電線の上から睥睨する獰猛なモズ。
   最近は、スズメや烏が少なくなった。
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新春名作狂言の会・・・新宿文化センター

2013年02月04日 | 能・狂言
   新宿文化センターで催された東京の万作の会と京都の茂山家のお豆腐狂言のジョイント狂言会に、昨年に引き続いて出かけた。
   実際の狂言の公演は別々に演じられるのだが、冒頭の「トーク」では、両家から若手代表(今回は、萬斎と正邦)が登場して、演目の紹介や狂言四方山話を語り、二人で、揃って同時に同じタイトルの謡を謡いながら舞って見せて、その違いを紹介する。

   冒頭の相撲ものは、文相撲を二回見ているのだけれど、今回の茂山家の「蚊相撲」は初めてであった。
   万作の会の「柑子」は大蔵流を、「茸」は萬狂言で見ているので、馴染みだが、改めて見ると気が付かなかった発見などがあって面白い。

   ステージ中央に板張りの能舞台が、そして右側に橋掛かりが設定されていているのだが、何しろ、大ホールであるから、能楽堂のような小劇場的な良さや臨場感がなく、印象が拡散してしまうのが惜しい。
   シェイクスピア劇でも、私は、ストラトフォード・アポン・エイヴォンで、木造りでクラシカルな小劇場であるスワン・シアターで観るのが楽しみであったが、商業演劇はともかく、能や狂言、それに、落語などは、能楽堂や演芸場、小劇場や小屋など小さな劇場で鑑賞するに限ると思っている。

   最近、狂言を見る時には、狂言集を開いて、台本を見て筋書を追うことにしている。
   幸いにも、少し前に、半世紀以上も前に出版された岩波書店の「日本古典文學大系」が、分冊で古書店に出回っており、買い求めたもので、この本には、120曲くらいも収録されているので、上演されている狂言のかなりは網羅されている。
   話の筋を辿ると言うよりは、表現とか、台詞の面白さなどを感じたいためなのだが、読んでいるだけでも、結構、楽しめる。
   今回の演目では、「蚊相撲」や「柑子」は、台本に殆ど同じである。
   しかし、「茸」の方は、実際の舞台は、30分以上で長いのだが、台本の方は、非常にシンプルでかなり短いのは、登場人物が喋るよりも、次から次へと登場してくる多くの茸のお化けやそれに振り回される登場人物のアクションが多いためであろう。

   茂山千五郎家が演じる「蚊相撲」は、大名がシテで烏帽子・素袍の装束で登場する大名狂言の一つで、大名(千五郎)が、太郎冠者(茂)に命じて召し抱え来た新参者と相撲を取るのだが、この男は江州森山の蚊の精(正邦)なので、刺されて負けるのだが、蚊と気づいて太郎冠者に団扇で扇がせて勝つと言う話である。
   この蚊の精は、相撲取りに化けて人に近づいて血を吸おうと言う魂胆なのだが、太郎冠者の行司で、相撲が始まると、うそふきの面の口に白い紙を長細く巻いた紙を差し込んだ吸い口を袖で隠して突進して、一気に、大名に飛びかかって刺すのだが、様子が分からずにふら付いて太郎冠者に倒れ掛かる大名が滑稽である。
   とにかく、奇天烈と言うか、人間大の蚊がいると言う発想も面白いが、大らかな民話の世界なのであろう。
   大名が負ける「文相撲」と違って、この「蚊相撲」は、大名が、蚊の精を押し倒して、意気揚々と退場する。
   戦国や安土桃山時代以前の地方の豪族に毛の生えた大名が主人公だが、冒頭の3000人ばかり相撲取りを雇いたいと大言壮語して結局一人だけと言う落差の激しい威張り振り誇示振りから、大名をカリカチュア化の世界に誘い込む。
   千五郎の、テンポのズレた間延びした軽妙な真面目さが素晴らしい。

   「柑子」は、アド/主(石田幸雄)が、預けておいた珍しい三つ生りの柑子(ミカン)を、シテ/太郎冠者(万作)が、食べてしまって、それを言い訳する物語である。
   一つは、枝から落ちて門の外に転がったので「こうじ門をでず」と食べ、もう一つは、刀の鍔で押し潰されたので吸って食べ、残る一つは、正に、喜界が島に一人残された俊寛と同じで、哀れに思って、六波羅(自分の腹)に納めた、と言うのだが、万作の、その語り口の巧みさ面白さと、蜜柑を食べる様子の何とも言えないユーモラスな仕草と思い入れは、流石である。
   万作は、ミカンへの語りかけのやさしさというのが反映できる曲だから素晴らしいと思って、この柑子を18選に入れたのだと言う。
   先に、二回も観た野村萬の、栗を愛しむような「栗焼」の素晴らしい舞台を思い出した。

   最後の「茸(くさびら)」は、アド/何某(高野和憲)が、家に人間大の茸が生えたので、シテ/山伏(萬斎)に法力で取り除いてくれと頼むので、山伏が祈祷をすればするほど、どんどん、茸が増えて来て、茸が悪戯を初めて、到頭、アド/鬼茸(幸雄)まで出て来て、鬼の姿を現して「取って噛まう」と、山伏を追い込んでしまう。と言う話である。
   傘を被って面をつけた茸たちが、かがんだ姿で、機械人形のように足早に舞台を動き回る姿が、実にリズミカルで面白く、姫茸など色々な格好の茸が出て来て、カラフルで面白い。
   これは、鬼山伏狂言の一つで、厳しい修業を積んで霊験あらたかな筈の山伏が、如何に未熟でチャランポランでイカサマかと言うことを笑い飛ばしているのであろうが、当時の人々は、かなり信仰心も篤く山岳信仰が盛んだった筈だと思うのだが、娯楽の世界は違っていたのであろうか。

   「いろはにほへと ボロンボロ ちりぬるをわか ボロンボロ ボロンボロ・・・」と、数珠を擦りながらインチクくさい呪文を唱え続けるのだが、真面目な顔をしながらどこか白けてアイロニーの含みを帯びた萬斎の表情が、イカサマ祈祷師の表情にダブって、非常に面白かった。

   ところで、「野村万作の世界」で、万作が、海外公演では、アメリカでは、ニューヨークタイムズに、ベトナム戦争に絡んで、アメリカで風刺的な意味で取られたとか、その後、殺虫剤をいくら巻いても増えるゴキブリ戦争ではないかとか、崩壊前のソ連では、チェルノブイリで汚染された茸との関連で、毒茸のイメージになったとか語っているのが面白い。
   そういう風に、どんなところでいつの時代にやっても、何かに置き換えて想像できるというところが、シンプルな狂言の強さなんですよ、と言っているのだが、さて、どうであろうか。
   

(追記)市川團十郎さんのご冥福を心からお祈りいたします。
    20年ほどの間、随分、色々と團十郎の世界を楽しませて頂き、ありがとうございました。
    最後の舞台は、昨年、七月大歌舞伎の猿之助たちの襲名披露口上と「黒塚」の祐慶、そして、芸術祭十月大歌舞伎で、幸四郎・弁慶と團十郎・富樫の「忠臣蔵」。
    今日、改めて、「わが心の歌舞伎座」のブルーレイを見て、勧進帳の飛六方を終えて揚幕に入り込んだ後の呼吸の激しさを見て、病後の團十郎が、如何に命を懸けて、決死の覚悟で舞台を務め、歌舞伎を守って来たのかが、痛いほど身に染みて分かった。
    江戸歌舞伎の象徴とも言うべき大黒柱を、新歌舞伎座の開業を目前にして、亡くすと言う運命の悪戯をどう考えたらよいのか、実に、悲しい。
    
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鉢植えでイングリッシュローズを・・・京成バラ園

2013年02月03日 | ガーデニング
   先週に続いて、今回もイングリッシュローズの鉢植えのセミナーだったので、京成バラ園に出かけた。
   「鉢植えで楽しむイングリッシュローズ」と言うタイトルで、趣味の園芸の有島薫さんが語った。
   私の場合には、イングリッシュローズの大半は鉢植えなので、格好のセミナーであった。

   まず、剪定の話から入ったのだが、今が一番適期だと言いながら、12月でもよければ1月でも良いと言った感じであったり、剪定についても、どこで切っても花が咲くと言った調子で、非常に大らかな話で、テキストに書いてあるような「五枚葉の・・・」と言った窮屈な指南ではないので、気楽に聞いていた。
   しかし、幅が広いだけで、上手く咲かそうとすれば、やはり、はっきりとした理屈があって、講師の的確な指摘を聞いて従った方が良いと言うことなので、あまり、ズボラ者の気休めにはならない。
   

   剪定については、HTの時のように、外向きの立派な花芽の上で剪定すると言ったことではなく、手当たり次第と言った感じで、どんどん切り詰めて行くので、非常にコンパクトになった。
   もう、随分前になるが、一度、この京成バラ園の剪定教室で、庭園のバラを選定したことがるのだが、その時も、随分思い切って根元近くで剪定したのだが、それで良いと言うことであった。
   テキストには、冬の剪定は、全体の3分の1とか2分の1の高さで剪定と書いてあるのだが、実際にやってみると、中々、思い切ってバサバサとはやれないものなのだが、有島さんは、もっと短く切り詰めている。

   イングリッシュローズは、ブッシュ系であり、細い枝にも花をつけるし、枝が多い方が花付きが良いと言うことなので、割り箸の太さと竹串の太さの間くらいの枝を残せばよいと言う。
   剪定は、創造・クリエーションだと言うことだが、トピアリーと言わないまでも、有島さんの剪定を見ていると、芸術的で、花が咲いた時の姿が楽しみになる。
   有島さんが剪定したイングリッシュ・ローズの鉢花は、30%ディスカウント品だったので、すぐに売り切れてしまった。
   私のイングリッシュローズの鉢花は、もう少し大株なのだが、特に樹形について考えながら剪定した訳でもないし、切り詰めが少し甘いようなので、もう一度、帰ってから、剪定をやり直そうと思った。

   私の気になったのは、肥料と薬剤散布であった。
   テキストや、園芸店などのガイダンスや指摘が、結構、バリエーションがあって違っており、どれに従えば良いのか、良く分からないことが多いのである。

   薬剤散布については、有島さんは、剪定後、すなわち、今月の適当な時期に、殺菌のために、ダコニールかサブロール剤を散布し、三月に、ベニカで薬剤散布、これを、もう一度くらい、五月の開花までに散布すれば良いと言う。
   その後は、秋の開花まで、薬剤散布はやっていないし、害虫などを見つければ捕ればよいし、葉がやられれば、市販の薬剤をスプレーすれば良いのだと言うのである。
   自分自身では、薬剤など適当に準備はしているのだが、今回は、先生の指摘に従うことにして、早速、忘れるといけないので、薬剤を買った。

   肥料については、根が動き始める時期なので、最初はカリ分の多い肥料が良いと言って、微粉ハイポネックスを紹介した。また,ビコントと言う化粧品並の価格の強壮剤様の薬品なども良く効くと紹介していたが、普通でも咲かない訳でもないのに、何故、こんなに高価な液肥が必要なのか良く分からない。
   いずれにしろ、結構煩わしいし、今のところ不都合もないので、私は、京成バラ園が置き肥として推薦しているバイオゴールドセレクション薔薇で、ずっと押し通すことにしている。
   説明書などでは、鉢バラには、3月下旬まで施肥は必要ないと書いてあるが、村上さんに聞いたら、新しく買ったり植え替えたりした鉢バラにも、今すぐに、置き肥すればよいと言うことであった。
   牛糞などの有機寒肥などは、腐敗を待つのに時間がかかると言うこともあるのであろうか。

   帰りに、京成バラ園が昨秋”17人のロザリアンが選んだ私の好きなバラ”を発表していて、かなり人気の高かった、紫系の新しいバラ「ノヴァーリス」と京成バラ園が昨年発表した「杏奈」が、品切れだったが、偶々、良い苗木が鉢バラで店頭に出たので、買って帰った。
   杏奈は、NHKの小山内健と涼風真世の放送でも出て来ていたのだが、久しぶりに千葉生まれのバラなので、庭に植えようと思ったのである。
   もう一鉢、衝動買いしたのは、娘と同じ名前の京阪園芸のバラで、どんな花が咲くのか楽しみで、きれいに咲いた段階で、娘に渡そうと思っている。
   とにかく、今年は思い切って、久しぶりに、バラの栽培に力を入れることになって、かなり、バラの数を増やしたのだが、どうなることか、千葉の自然との共生と闘いである。
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日本製造業の危機と言うが

2013年02月02日 | 政治・経済・社会
   gooニュース産経の「製造業の就業者、半世紀ぶり1千万人割る 12月労働力調査」「日本のものづくり危機 人材流出、競争力低下…失われる雇用」記事で、日本の製造業の急速な凋落模様が報じられている。
    産業別就業者数で「製造業」が前年同月より35万人減って998万人となり、1千万人を割り込み、ピークの1992年10月の1603万人より、4割も減少している。と言うのである。

   製造業は半導体をはじめとする電子部品やテレビなどの電機製品、鉄鋼や非鉄金属などの素材産業、化学製品などで業績悪化を受けてリストラが進んでいるうえ、自動車などの比較的好調な分野でも円高の打撃を緩和するため、生産拠点を海外にシフトする動きも加速する一方となっている。
   さらに中堅、中小企業では取引先大手のこうした動きが強く影響されるため、日本国内での製造業全体の雇用は減少の一途をたどっている。
   人口減に伴う内需の縮小に加え、電力不足や高い法人税率など「六重苦」を背景に、海外への生産移転は加速するばかり、だと言うのである。

   さて、その6重苦だが、朝日新聞「キーワード」の解説によると、6重苦とは、
   企業経営者らが諸外国と比べて日本の事業環境が不利な要素としてあげる6項目。一般的には、円高▽高い法人税率▽自由貿易協定への対応の遅れ▽製造業の派遣禁止などの労働規制▽環境規制の強化▽電力不足――。経済産業省によると、2011年時点の法人実効税率は日本(東京都)の40.69%に対して、米国(カリフォルニア州)が40.75%、ドイツが29.41%、韓国が24.2%など。日本は法人減税と復興増税があり、12年度は38.01%。と言うことである。

   国内製造業は、国際競争の激化で厳しさを増しているのだが、国内の空洞化を食い止められなければ、人材流出を招き、世界で戦う日本の競争力がなくなり、工業立国の屋台骨を根底から揺るがせかねない。
   その為に、政府は、円高是正や成長戦略の着実な実行を通じて、空洞化を食い止めたい考えで、健康や環境・エネルギー、次世代インフラなど重点4分野を成長領域と位置付けて規制緩和や税制支援策を集中的に講じる方針を示しているのだが、早期に有効な処方箋を打ち出せなければ、産業空洞化は加速度的に進むことが避けられない。
   いずれにしろ、政府は六重苦の解消に向けた努力と同時に、新規産業の育成と同時に、規制緩和で新しい内需型産業を育成し、雇用を生み出す必要がある。と言うことは分かっているのだが、制度疲労を起こして二進も三進も動かなくなってしまった硬直化した日本の経済社会構造を、どうして動かすのか。

   先の政府の方針では、既に、日本経済を牽引してきた既存の製造業には見切りをつけたと言わんばかりに、新規の健康・環境・エネルギー・次世代インフラなどの重点4部門を推進して、産業構造を大きく転換しようとしており、確かに、課題先進国の日本としては、極めて有望な分野への転換であり、希望が持てるかも知れない。
   しかし、短期的には、即刻6重苦の解消と規制緩和によって、日本の製造業の要である既存産業が、世界に誇る高度な科学技術水準を死守し発展させる方が、はるかに、有効かつ適切な手段ではないかと思っている。
   歴史と伝統に培われてきた日本の製造業の根幹は、世界に誇るべき宝であることは間違いなく、最近のIT・デジタル革命とグローバル化によって、どちらかと言えば、価格競争に比重が移り過ぎて、この価格競争で負けているために日本企業が苦戦しているのであって、国際競争力を強化するためには、日本政府にやれることは、その足かせとなっている6重苦の解消と雁字搦めの規制緩和を早急に推進することであろう。
   尤も、日本には、多くの既得利権団体が存在していて、強力な抵抗勢力となって進行を阻止するであろうが、そうなれば、外国に漁夫の利を占められ、諦めるしか仕方がなかろう。

   もう一つ気になるのは、日本の経済規模が大きくならなければ、必然的に、雇用が増えないと言うことである。
   GDPをアップするためには、一般に企業などが生産に使う労働力、生産設備などの資本、技術など知識の量を増やすことだと言われているのだが、この中では、当然、時系列的には企業努力によって、生産設備の改善や技術や知識の向上が図られ、更に、生産性がアップするので、GDPが伸びなければ、労働力に皺寄せが行って、必然的に、雇用が減退し、所得賃金が下がらざるを得なくなる。
   実際に、失われた20年間で、起こっている雇用の減少と所得賃金の低下は、このことの査証である。

   それに、グローバル経済が進展すればするほど、俗に言う、地産地消現象、すなわち、市場のあるところで現地生産すると言う傾向が強まり、国内で製造して、グローバルベースの貿易で稼げばよいと言った傾向がどんどん縮小してくる。
   そうなれば、結局、国内の産業なり雇用の規模は、国内経済の大きさに限定されることになる。
   今、日本のGDPは、世界の6~7%くらいだと思うのだが、要するに、経済成長を実現できなければ、国内市場は縮小し、雇用が減少することにならざるを得ないと言うことである。

   安倍内閣が、経済政策の「三本の矢」、すなわち、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略 を打ち出して動き始めた。
   経済成長ありきの経済政策であるべきだと思っているので、民主党のように分配を重視した政策より好ましいと思っているが、デフレ脱却を緊急課題として、日銀に圧力をかけてインフレターゲットに踏み込んだり、国土強靱化と日本列島改造を旗印にした実質的公共投資拡大などを推進しようとしているが、私自身は、成長期の旺盛な経済活力を失った成熟経済では、いくら大胆な手を打っても、金融や財政政策には限界があると思っている。
   したがって、三本の矢の金融財政政策には、長期的には期待できないと思っているので、希望は、成長戦略である。
   イノベーションと規制緩和だと言うことだが、良否はともかく、ホリエモンや村上ファンド級の狂想曲的なムードを醸し出さない限り、民活と言っても、アンテルプルナーやイノベーターは生まれないだろうと思う。
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狂言の会・・・「唐人子宝」「伯母ヶ酒」ほか

2013年02月01日 | 能・狂言
   今回の国立能楽堂の狂言の会は、「目近」、「伯母ヶ酒」、「唐人子宝」の3曲が演じられたのだが、最後の和泉流「唐人子宝」が、興味深かった。
   私はまだ鑑賞の機会はないのだが、この曲は、能「唐船」と殆ど同じ話で、万作が言っていたように、「笑いだけが狂言ではない」と言う主張を地で行ったような、いわば、人情噺である。
   笑いを誘うとすれば、唐人(シテ/万作)や唐子(子アド/野村遼太、中村修一)の台詞が、中国語に似せた狂言の発音だと言う唐音での会話で、「チンプンカンプン(唯一分かった台詞)」と言ったインチクくさい面白い言葉で、語尾を一気に高音で上げる発音など、非常にそれらしくて実に良い。

   能「唐船」の方は、インターネットを叩けば、解説や詞章などが出て来るので良く分かるのだが、「唐人子宝」の方は、狂言集にも出ていないので、正確なところは分からないが、
   能だと、倭寇で連れてこられた唐人が、箱崎の某(アド/萬斎)の牛飼いとして働いているのを、唐に残された二人の子供が知って、船に宝を積んで連れ戻しに箱崎へ来る。帰国は許されるのだが、日本で生まれた二人の子供・子方/今若(野村裕基)、熊若(山口圭太)は同行を許されない。早く帰ろうとセッツク唐子と泣き叫ぶ日本の子との板ばさみになった唐人は「身は一つ、心は二つ」と海に身を投げて死んでしまおうとしたので、その親の心の哀れさに打たれ、箱崎の某は、日本の2人の子を連れて帰国することを許す。親子は喜び、楽を奏して、出船に乗り、唐土をめざして行く。
   と言う話になっており、殆ど同じで、終幕には、有難いと感謝して、唐人と唐子が、喜びの舞を舞って、舞い終えると、唐人が最後から名残惜しそうに後ろを振り返り、5人が橋掛かりから消えて行く。

   ところが、気になったのは、日本の子供の母親はどうなったのだと言うことだが、そこは考えられていたようで、能には「箱崎物狂」と言う曲があって、唐土に帰った日本の子達が、今度は母親を迎えに日本へ渡って来るというお話になっているとのことである。
   近松門左衛門に、日中混血の和藤内が主役で活躍する「国姓爺合戦」があるが、当時は、まだ、日本と唐との交流があって、このような話は結構あったのだと思うが、異国情緒と国境を越えた人情の機微などに関心がもたれていたのであろう。
   能の「唐船」だが、この国境を越えた親子の愛情と言った人情の機微については、直接的には演じられないので、推量しながら鑑賞すると言うことになるのであろうが、芝居に近い狂言では、非常にリアルで臨場感たっぷりであって、観客に与える感慨はストレートであり分かりやすい。

   狂言は、写実性を様式化したと言われているのだが、私は、これまでに結構、万作の舞台を見ているが、最近、狂言を見ていると言うよりも、上質な演劇の舞台を見ているような感じがし始めている。
   この「唐人子宝」でも、主人の何某は、完全に様式化された狂言の動きだが、万作の唐人は、感情の豊かで実に人間的で生き生きとしていて、それに、呼応して、子供たちも、のびやかに演じている感じで、表現は適切ではないかも知れないが、流れるような舞台である。
   能「唐船」の舞台を知らないので、何とも言えないが、あの「花子」が、物語性の強い歌舞伎の「身替座禅」になったのとは違って、同時に演じられている狂言に本歌取りされた形であるから、もっと、違った意味での昇華と言うか、別バージョンと言うよりは、張り合う気概があって生まれたのではないであろうか。
   ホンの35分の短い一幕物の舞台だが、狂言の楽しさと劇的な人情話を一緒に見たような気がして、面白かった。

   「伯母ヶ酒」は、京都の大蔵流で、シテ/甥・茂山七五三、アド/伯母・茂山千五郎の実に息の合った素晴らしい舞台である。
   酒好きの甥が、山一つ越えた田舎で酒を商う伯母に、酒売りを手伝うので利き酒をさせてくれと言うのだが、いわい(ケチな)伯母は、一度も飲ませたことがない。一計を案じた甥は、鬼が出るので用心しろと脅しをかけて帰り、武悪の鬼の面をかけて再び現れて、伯母を怖がらせて酒を飲ませろと酒蔵に入って、一人で飲み始める。
   結局最後は化けの皮が剥がれるのだが、「いで食らはう」と脅しながら伯母に、今度は甥にたっぷりと酒を飲ませと約束させるところで、何で知っているのかと聞かれて知らいでかと答えるのだが、このあたりの如何にも人を食ったような会話が面白い。
   もっと面白いのは、酒蔵に入って酒を飲み始めた甥が、見るなよと言いながら、時折、伯母を牽制しつつ、最初は左手で面の顎を上げて飲むのだが、次には、面を顔の右向きにして飲み、酔いが回って来て肩肘を立てて寝ころび始めると、面を外して右ひざの頭にかけて右足を踏んで脅しながら飲み続ける。酔いつぶれて寝込んでしまうので、気配に気づいた伯母に見つかってしまうと言う話。
   庶民の如何にも大らかで間の抜けた会話の面白さもあるが、この甥の芸の豊かさも、この狂言の楽しさであろう。
   京都のトップ狂言師たちのの円熟の舞台が、時代離れの可笑しさを超越して秀逸であった。

   「目近」は、主人・果報者(シテ/井上松次郎)に「目近」と「米骨」の扇を買いに京都にやらされた太郎冠者(佐藤融)と次郎冠者(今枝郁雄)が、何かを知らずに買い求めようとして、「すっぱ」(佐藤友彦)に騙されて、無価値なものを買って帰って叱られる話だが、二人がすっぱに教えられて謡った目出度い囃子物が気に入って、許されると言う結末が面白い。
   先月の「鐘の音」なども、主の命令を取り違えて頓珍漢な対応をする太郎冠者の物語だが、末広がりや、歌舞伎の「高坏」なども、知ったかぶりの太郎冠者が失敗する話で、こんなことは、特に、聞くに聞けず早合点などして失敗することなど頻繁で、実際に、我々の日常茶飯事であり、笑いながら、一寸、身につまされる話でもある。
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