先月見損ねた番組を今日(3月1日)見ることができた。作家逸見庸のETV特集、「忍び寄る破局のなかで」という番組である。逸見は脳梗塞の後、癌に侵され再発を繰り返して、闘病のさなかにある。
このところ、北海道新聞の投稿などを見ていると、毒の失せた文章になっているのが気になっていた。彼の肉体を蝕む癌細胞は、思想さえも犯しているのかと思っていたが、至って健全だった。彼の吐く言葉は輝きを失っていなかった。
秋葉原の通り魔犯人を”K”と呼び、彼を司法上の犯罪者ではなく、原罪を犯した人物として、我々の側に捕らえるというのである。Kは我々の一部である。労働が部品として扱われ、不要になると廃棄される。
現代は狂気の時代である。今取り戻さなければならないのは、経済ではなく人的な諸価値こそ取り戻さなければならない。科学の言葉を借りて、現在を“パンデミック”と表現したい。明らかに現代は多層構造を示しており、狂気と正気が層をなす。年長が正しいところから始めてはならない。
「絶望することよりも、絶望になれることが怖い」と、カミユの“ペスト”から引用する。ペストの死者数を、毎日のように垂れ流すが人はその情報に麻痺し、日常化する。
飢餓と大食い競争が共存する、荒んだ現代社会。派遣村の炊き出しに協力する、ひと時の善をあたかも社会にあるがごとく、期待し報道する。10年以上にわたり山谷で炊き出しをする人は、あれほどやさしい言葉を吐くことがない。真の善とはこうしたことでないか。
これから悪いことが起きるのではなく、今ある悪を隠蔽される現代。痛覚を失くしただけでなく、他者の痛覚を感じない。痛覚こそ優れて個人的なことなのである。巧みにコーティングされた社会は、外観を保っているだけである。
私たちは勝者の物語を追いかけ過ぎてきた感がする。今の社会は生体に合っていないのではないか。生体が拒否する社会は異常ではないか。
かいつまんだ文章になり申し訳ない。彼が今後も執筆活動を続けること、現代を警告し続ける旗手であって欲しいものである。