詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ふいの1行

2006-01-07 12:09:30 | 詩集
 「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

 三角みづ紀「窓のおんな」

さっき殺した
ばかりの
おとこは風呂場で
平行線上に
倒れて
いる。
逆におんなは
垂直に立ち尽くしたまま

 「平行線上に」に私はつまずく。そのあとに出てくる「垂直に」と呼応するなら「水平に」が普通だろう。しかし三角は「平行線上に」と書く。
 そして、このことばが不思議な世界を引き寄せる。
 「平行線」ということばが頭に残っているために、「垂直に」立っているおんながただ単独で立っているというより、「私」がいて、その私の立方と「平行線」をなす形でおんなが立っているという風景が浮かび上がる。

おんなは私ではないか

 最終行の、「おんなは私」という世界が自然に納得できる構造になっている。
 そして、この「おんなは私」という構造、自分を「おんな」として見る視線、自己分離(自己分析、自己批評)の世界が、三角が書いている世界である。
 そして、その世界では「おんな」と「私」が一体になることはない。つまり、「私」にとって「おんな」はわからない存在として、常に「私」に「平行に」(つまり併存して)存在していることになる。
 「私」はその「平行して」存在する「おんな」を殺すことで自己に帰ろうとしている。あるいは、「私」を殺すことで「おんな」にかわろうとしている。さらには「おんな」を殺し、「おんな」とともにいる他者(たとえばおとこ)を殺し、それが「私」を殺すことであり、同時に「私」を超えて何者かにかわるということを意志しているのかもしれない。
 そうしたさまざまなことを、三角のふいの1行は考えさせる。



 糸井茂莉「暗い夢の空地」。「アルチーヌ」という人物、というより「ことば」の変奏。微細な精神の振動。そのなかにはさまれた次の1行。

シーツが裏返っていて眠れない。

 ふいに肉体感覚がよみがえる。観念の運動から現実に引き戻された感覚になる。しかし、それは一瞬のことである。

シーツが裏返っていて眠れない。そんな妄想にとらわれた夜はきまってアルチーヌのことを思う。

 読者を肉体感覚に引きずり込んでおいて「そんな妄想」と突き放す。その手際は、逆に、糸井に描く観念ことが生々しい現実だと告げる。
 この作品の「ふいの1行」、「詩」として輝きを放っているのは、実は「そんな妄想にとらわれた夜はきまってアルチーヌのことを思う。」という、きわめて散文的な行だとわかる。
 「そんな妄想にとらわれた夜はきまってアルチーヌのことを思う。」には、何の魅力もないような(思わずまねしたくなるようなもの)がない。「連歌」でいえば、ただ世界を押し動かすだけの「やり句」のようなものである。
 しかし、ここにこそ糸井の「詩」がある。
 糸井にとって「詩」とは精神の運動である。「シーツが裏返っていて眠れない。」という行では、私たちの思考は立ち止まる。しかし、立ち止まってはならないのだ。うごいていかなければならないのだ。立ち止まった精神を動かすために、糸井は「散文」としかいいようのないものを挿入する。そのとき、その「散文」のなかで「詩」が輝く。



 久谷雉「大人になれば」。彼の描くことばの運動は糸井と対極にある。観念のふりをしながら観念から遠ざかる。ことばを突き動かしているのは「精神」などではないと宣言する。

おもいだしたくなくても
いつかは おもいだすんだろう
たましいにはくちびるもなければ
おしりさえもなかったというかんたんなことを
そして ただぺらぺらとした耳が
つばさのように生えてるほかは
おでんの具にしかならないことを
いつかはおもいだすんだろう

 肉体をとおしてしか実存を確認できない。すべては肉体で確認できるものから成り立っている。
 「おでんの具」。ひとつの鍋のなかでぐつぐつ煮えている。味を染みだし、味を染み込み、自己が自己でなくなりながら自己でしかない。そうしたもの。

コメント
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