詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三谷晃一「ゆうびん、し」

2006-01-19 00:39:00 | 詩集
 「宇宙塵」9号は三谷晃一追悼号である。同人が選んだ作品抄は三谷の温かい人格を伝えていて、どの作品もすばらしい。私が一番ひかれたのは次の作品。

  「ゆうびん、し」

「ゆうびん!」の声で
玄関に出ていく。

郵便配達人にもいろいろあって
無造作に郵便受けに突っ込んでいく人。
わざわざ玄関の扉をあけて置いていく人。
声をかける人。
かけない人。

何日おきかに一回
「ゆうびん、し」という人が来る。
なぜ「ゆうびん」のあとに「し」をつけるのか。
わたしの古い知り合いに
会話の尻に「し」をつける人がいた。
会津もかなり奥まった土地の人だ。

玄関の扉が開いて
「ゆうびん、し」の声が聞こえると
いそいそとわたしは出ていく。
しかしその時は
もう扉がしまっていて
その顔を見たことがない。
いつも思うのだが
語尾の「し」には不思議な暖かさがあって
彼が運んで来る郵便物には
よい便りがまじっていそうな気がする。

ほんとうは
よい便りなど
あったためしはないが。

いつかきっと
そんな便りを
彼がもって来てくれるだろう。

  ゆうびん、し。

 「ゆうびん、し」は現代風に言えば「郵便っす」(郵便です)だろう。「語尾の「し」には不思議な暖かさがあって」と三谷は書いているが、そこに「暖かさ」を見つけるところに三谷のあたたかさがある。そして「詩」がある。
 「詩」とは郵便配達人がかける「ゆうびん、し」の語尾の「し」のようなものである。「し」はなくても意味は伝わる。「し」を語尾につけなくても誰も苦情を言わない。(最近では「郵便」という掛け声さえまれだろう。)しかし、「し」を聞くと何かを思い出さずにはいられない。
 三谷は「会津もかなり奥まった土地の人」を思い出す。たった1行だが、ここには書かれていないたくさんのことがある。三谷は奥会津の風景を具体的に思い出しているに違いない。実際にそこで暮らしている一人一人の顔を思い出しているに違いない。山の緑、透明な風、揺れるススキ(と、突然ススキを持ち出すのは、私には「警察日記」の三国連太郎がススキの野原をかきわけるシーンが会津という言葉とともに思い浮かぶからだ)などなど。そしてそこにはあたたかな生活、正直で美しい何かがあるのだ。「郵便」とだけつげるのではなく、ほんのちょっとつけくわえる人の気持ちの美しさが。
 ことばの片隅に隠れている不思議なあたたかさ。人のこころの正直なうごきをひっそりとつたえる何か。気づかれなくてもいい。しかし、そっとつけくわえるその人のこころ。それが「詩」だ。

 そして、「し」にこめられた「詩」は人間を「腐敗」から救う何かである。「東京にいくと」と対比して読むと、三谷が「し」に読み取っているものが,より明確にわかるだろう。

なま暖かい東京よ。
なま暖かい思想よ。

(略)

そこでぼくはいうのだが。
網わたしの上でさかんに反っくり返る
烏賊に向かっていうのだが。
それは酒の機嫌がいわせるのだが。

----どうしてあんなところで
腐敗もしないで
きみは生きて来られたのか。

 「そこでぼくはいうのだが」で始まる連の、3回繰り返される語尾の「だが」のあたたかさ。それは「ゆうびん、し」の「し」に通じる人間のこころだ。「東京にいくと」を「詩」として成立させているのは、最終連の思想ではなく、その前に繰り返された「だが」の繰り返しである。

*

 「ゆうびん、し」に限らず、三谷は、他人の行為の奥にある命をていねいに見つめ、それに光をあてる詩人だ。遺稿「テレジン収容所に残された4000枚の絵」「地蔵櫻縁起」にその美しい人柄がにじんでいる。
コメント (2)
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