「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)
豊原清明のことばには肉体がすーっと滑り込んでくる。「黄色い森」の前半。
「黄色」が肉体として見えてくる。白い歯に追い出された歯の黄色。それが戦争の色。軍艦に追い出された木の葉の先端の風の色。黄色。それが戦争の色。無防備なもの。自然なもの。生の肉体。手入れされていな生の力。黄色。
「詩人は/酒を/たくさん飲んだ。/詩人は/馳走をたらふく食った。」それが黄色の状態。「僕」の状態だ。
こうるさいイデオロギーに頼らない、自然な肉体の声が、そのまま「反戦詩」になっている。もちろん、豊原は「反戦詩」などとはいわないだろう。そこがまたすばらしい。
*
豊原の詩をよんだあと稲川方人のことばを読むのはつらい。「聖-歌章」。
稲川が抱きしめたのは犬の肉体だろうか。私にはとてもそんなふうに感じられない。犬の観念(そういうものがあったと仮定してだが)さえも抱きしめていない。犬に自分のイデオロギーを押しつけて、押しつけた分だけ稲川の観念が身軽になっている。観念としての自己を身軽にするためにことばを犬におしつけている、というふうに感じてしまう。
豊原は「チッ!」と舌打ちして自分の感情を放り出す。放り出して、そのあいた部分へ他人を引き寄せ、抱きしめる。たとえ、「チッ!」が「美少年」を一瞬拒絶するとしても、その拒絶の行為が見えることで「美少年」と「僕」の距離は縮む。そこには肉体があるからだ。
ところが稲川は「抱き締め」ながらも犬を受け入れはしないのだ。犬に自分の観念を押しつけ、自己の孤独に酔うだけである。
引用はしないが、以後、稲川のことばは「犬」を離れ、ひたすら孤独な稲川(孤独だと酔いしれている稲川)の観念だけが疾走する。
長い長い疾走の果て、疲れた観念はどうするか。
動けなくなったからといって、「下身を出し小便をしに行く」と言われてもなあ……と私はいやな気持ちになる。
(稲川の詩がすばらしく見えるときがある。不思議なことに、それは平出隆の詩を読んだ跡に読むと、稲川のことばは輝く。平出のことばが20行、あるいは200行かかって書く世界を稲川は2行で書く。そんなふうに感じる。)
*
「現代詩手帖」12月号には平出隆の作品が載っていないので、1月号から「踝とテラス」を読む。
観念に拮抗するようにして立ち上がる肉体。たとえば「くるぶし」。そして2連目の視線のしずかな動き。視線のしずかな驚き。それが3連目の「行く」という歩みにつながる確かさ。
観念を肉体に引き寄せ、肉体で消化しようとすることばの運動。しかし、それは、ふいに破られる。ことばが噴出する。最後の2行。
「そのこと」と書かざるを得ない平出にとって、稲川の、現実をひとっとびしてしまう観念の断絶は(平出なら飛躍というだろうか。しかし私にとっては飛躍ではない。平出の綿密な行の展開こそが「飛躍」と呼ぶにふさわしい力業だ)うらやましい限りだと思う。
それにしても、平出の作品の「そこここにひそむ」という音の静かな響きの美しさはなんだろう。「そこここに」と音の奥深くを訪ねるような「お」の音の繰り返しのあと、「ひそむ」とそれこそ潜んだものを浮かび上がらせるような押え方。
私はいつも平出を読んでから稲川を読むようにしていたが、今回逆に読んでみて、平出のことばの動かし方は天才的だとあらためて感じた。
豊原清明のことばには肉体がすーっと滑り込んでくる。「黄色い森」の前半。
黄色い戦争が雨にゆられた。
戦争は黄色い戦争をうとんじていた。
孤独な兵隊はいなかった。
木の枝の最先端の風を
軍艦は追い出した。
それが黄色。
山の風に似た美少年の友達は?
そこにいた。
海辺で笑っていた。
その歯は
真っ白。
チッ!
いつも黄色を
かくす人。
「黄色」が肉体として見えてくる。白い歯に追い出された歯の黄色。それが戦争の色。軍艦に追い出された木の葉の先端の風の色。黄色。それが戦争の色。無防備なもの。自然なもの。生の肉体。手入れされていな生の力。黄色。
神がいた。
雲がいた。
詩人は
酒を
たくさん飲んだ。
詩人は
馳走をたらふく食った。
雪の中
黄色い車が
転がっていた。
黄色い戦争の森だった。
「詩人は/酒を/たくさん飲んだ。/詩人は/馳走をたらふく食った。」それが黄色の状態。「僕」の状態だ。
こうるさいイデオロギーに頼らない、自然な肉体の声が、そのまま「反戦詩」になっている。もちろん、豊原は「反戦詩」などとはいわないだろう。そこがまたすばらしい。
*
豊原の詩をよんだあと稲川方人のことばを読むのはつらい。「聖-歌章」。
汚れたその小さな足が濡れた地面に生えた草に隠れている
のを、ただ思いつめるように見つめる、
この雨の通りに生き残った一匹の犬を、
私は自分の背のいまだ血を滲ませている傷に触れるよう
に、おまえもそうしてここを動かずに、
いずこにかいまも維持されてある治安に叶う満ち足りたひ
と皿の肉をさえ忘れているのだろうと抱き締める
稲川が抱きしめたのは犬の肉体だろうか。私にはとてもそんなふうに感じられない。犬の観念(そういうものがあったと仮定してだが)さえも抱きしめていない。犬に自分のイデオロギーを押しつけて、押しつけた分だけ稲川の観念が身軽になっている。観念としての自己を身軽にするためにことばを犬におしつけている、というふうに感じてしまう。
豊原は「チッ!」と舌打ちして自分の感情を放り出す。放り出して、そのあいた部分へ他人を引き寄せ、抱きしめる。たとえ、「チッ!」が「美少年」を一瞬拒絶するとしても、その拒絶の行為が見えることで「美少年」と「僕」の距離は縮む。そこには肉体があるからだ。
ところが稲川は「抱き締め」ながらも犬を受け入れはしないのだ。犬に自分の観念を押しつけ、自己の孤独に酔うだけである。
引用はしないが、以後、稲川のことばは「犬」を離れ、ひたすら孤独な稲川(孤独だと酔いしれている稲川)の観念だけが疾走する。
長い長い疾走の果て、疲れた観念はどうするか。
中断/対位している「国」と「国」の権限(ヒエラルキー)のほうへ、私
はゆっくり下身を出し小便をしに行く
動けなくなったからといって、「下身を出し小便をしに行く」と言われてもなあ……と私はいやな気持ちになる。
(稲川の詩がすばらしく見えるときがある。不思議なことに、それは平出隆の詩を読んだ跡に読むと、稲川のことばは輝く。平出のことばが20行、あるいは200行かかって書く世界を稲川は2行で書く。そんなふうに感じる。)
*
「現代詩手帖」12月号には平出隆の作品が載っていないので、1月号から「踝とテラス」を読む。
くるぶしを襲う
風邪のウィルスの確かさ
いままで見えなかつた近隣を
あきらかにしていく菩提樹の落葉
遅れとつた復興の途にようやく就こうとしている 城
中庭を過ぎてテラスを行く
観念に拮抗するようにして立ち上がる肉体。たとえば「くるぶし」。そして2連目の視線のしずかな動き。視線のしずかな驚き。それが3連目の「行く」という歩みにつながる確かさ。
観念を肉体に引き寄せ、肉体で消化しようとすることばの運動。しかし、それは、ふいに破られる。ことばが噴出する。最後の2行。
そのことを惜しむ声が
惜しむ権利を奪われたまま そこここにひそむ
(注 「そのこと」には本文に傍点あり)
「そのこと」と書かざるを得ない平出にとって、稲川の、現実をひとっとびしてしまう観念の断絶は(平出なら飛躍というだろうか。しかし私にとっては飛躍ではない。平出の綿密な行の展開こそが「飛躍」と呼ぶにふさわしい力業だ)うらやましい限りだと思う。
それにしても、平出の作品の「そこここにひそむ」という音の静かな響きの美しさはなんだろう。「そこここに」と音の奥深くを訪ねるような「お」の音の繰り返しのあと、「ひそむ」とそれこそ潜んだものを浮かび上がらせるような押え方。
私はいつも平出を読んでから稲川を読むようにしていたが、今回逆に読んでみて、平出のことばの動かし方は天才的だとあらためて感じた。