詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫と高貝弘也

2006-01-04 23:23:54 | 詩集
 「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

 野村喜和夫の『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』(河出書房新社)はとても読みづらい詩集だった。ところが高貝弘也の「なでしこ」を読んだあとではとても気持ちよく読むことができる。

ふしぶしの
  撫(なで)し子よ
あなたの名は もう
   こえに 出さない

ふしぶしの
  芽 瞬く間で
あなたの名は もう
   こえに出せない

(それは儚(はかな)く 淡い種子)  (「なでしこ」)

 ここに書かれているのは意味でも思想でもない。抒情でもない。高貝のことばを貫いているのは日本語に対する愛である。「なでしこ」という音が好き、という音に対する愛である。愛とは、自分がどうなってもかまわないという覚悟で対象に全身を捧げることだが、高貝は、たとえば「なでしこ」ということば、音にすべてを捧げる。すべてというのは、高貝がそれまで読んできた日本語のすべてという意味である。「なでしこ」と響きあい、呼応する日本語。そのことば同士の対話を高貝は試みる。それは単に「単語」(名詞、形容詞)だけのことではない。
 「なでしこ」という音は、私には美しく感じられない。「な」と「で」のつながりが私はどうも好きになれない。特に「で」がなぜかいやなのだ。
 高貝の好みは知らないが、私は「で」が気になってしようがない。その「で」に高貝は、この作品ではこだわっている。
 「瞬く間で」「この世のさきで」「かがみのうらで」「死なないで」。
 繰り返されるとき、ふいに日本語の見えなかった何かが感じられる。ねばねばとしたことばのつながり、ことばをとおしてつながってしまう感情のうねりのようなものが。
 高貝の作品は、いつでも私にとっては、日本語の歴史(日本語をとおして積み重ねてきた日本人である私の感性の根っこ)を揺り動かしているように感じられる。

 野村の「(街の、衣の、)」の書き出し。

街の、衣の、いちまい、下の、虹は、蛇だ、
街の、衣の、いちまい、下の、虹は、蛇だ、

 野村が書いているのも思想や意味ではない。日本語の呼吸だ。リズムだ。そして、そのリズムは高貝のことばが文語的(古典的)であるのに対抗するように、ひたすら現代風を装っている。

(meta)の、
蛇は、虹だ、
らむ、だむ、
らむ、だむ、

と書いてみても、そのスピードに乗って加速するわけではない。飛翔するわけではない。逆に、加速しようとして日本語の尻尾をつかまれてしまう。

だむ、たむ、蛇の、
たむ、たふ、下は、
いちまい、叫び、
うふ、らむ、熱だ、
ひたた、たむ、舌の、ひだだ、
ひたた、らむ、ひだの、(meta)だ、

 あ、まるで高貝になるまいと必死になって短いリズムにすがりついているようではないか。しかし、必死になればなるほど、日本語の懐かしい懐かしいリズムにのみこまれていく。私には、そんなふうに感じられた。

 また、高貝がなだらかな音の響きでことばを通い合わせるのに対し、野村は視覚でことばを通い合わせる。「虹」「蛇」は似た者同士。「蜥」「蜴」「蟋」「蟀」は、えっ、どっちだっけ?と思わせる違和感。野村の、こうしたことばの操作も、どこかで高貝と似ている。通い合う。日本語の歴史、古典にこだわるという点で。

 日本語の歴史にこだわっている、と感じたときから、野村の詩集は気持ちよく読むことができる。日本語の世界から逃れられないとわかったときから、不思議な安心感を帯びてくる。
コメント
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