詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

海埜今日子「隣睦」ほか

2006-01-12 21:25:46 | 詩集
 「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

 海埜今日子の「隣睦」。「隣睦」ということばを私ははじめて読んだ。意味はわからないが、「隣」が「睦まじい」世界、というものを想像する。そして「隣」が「睦まじい」というのはどういうことかわからないながらもわかった気持ちになる。「隣」も「睦まじい」も知っているからである。同時に、知っているといいながら、その二つを組み合わせるとどうなるのか、よくわからない。海埜はその不思議な世界を描く。

それを隣、といえばよいのか。四つ辻が、彼をすうっと押すのだった。おもいだせない、おもいがけない点、点のなか、かわいた子どもがまぶしかった。ふむごとに、のように通りがけに女がわらう。古い傷がなびいていた、たどりたかったのかもしれなかった。平行が、ふれんばかりになめらかだ。

 不思議な街へ迷い込んだような感じになる。しかし、それは非常に肉体に近い。触覚に近い。目ではなく、肌が感じる近さだ。「まぶしかった」という表現が少しうるさいが、このことばはすべて触覚を刺激する。触覚のなかに潜む距離感を浮かび上がらせる。
 あ、睦まじいとは触覚で感じる世界なのだ、とあらためて思う。

ふとした隙間がやわらかになる。たちどまっては角度に追われ、線にみたててつなごうとする、あなたはころぶ速度でわすれる、から。かがむごとに男は異端だ、しずまる呼吸がききたかった。彼女の軸足がたたまれた。隣家のようにせわしなく、ぐるりをめぐる少女だった。

 「隙間がやわらかになる」。このやわらかは視覚でとらえたやわらかさではなく、触覚でとらえたやわらかさである。

 詩人はそれぞれ何らかの感覚を中心にことばを獲得する。池井昌樹は嗅覚の詩人である。海埜は触覚の詩人である。
 「押す」「ふむ」「たどる」「ふれる」「つなぐ」……そうしたことば意外にも「なびく」「ががむ」「しずまる」ということばも触覚を表現しているように響く。
 たとえば、その「なびく」。「古い傷がなびいていた、たどりたかったのかもしれなかった。」とひとかたまりになるとき、「なびいている」ものを視線が追っているのではなく、たとえば指で「たどっている」ことがわかる。触覚が世界をつないでいることがわかる。「平行が、ふれんばかりになめらかだ。」も視覚で平行を認識しているのではなく、視覚で認識しているにしろ、それを「ふれる」「なめらか」という触覚に置き換えて納得している。
 触覚のていねいな積み重ねがあって、「ふとした隙間がやわらかになる。」への飛躍が自然に展開される。

*

 城戸朱理「相背くように」。城戸は完全に視覚の詩人である。

このあたりでは まだ
夏の名残りの光が
震えるように降っている
その透明な振動は いずれ
凝(こご)って形を成し
しずかな雪にかわるだろう

 「夏の名残りの光」。それを人は視覚で感じることもできるし、触覚で感じることもできるはずだ。あたたかな広がりと感じれば、それは触覚の世界だろう。また嗅覚でも感じることができる。草のくたびれた匂いを思い起こすならば、それは嗅覚の世界である。
 しかし、城戸はあくまで視覚でのみ世界を把握する。
 「振動」さえも城戸は目で見ている。振動がこおりかたまってひとつの形になる。つまり「雪」になるのを目で認識している。

音もなく雪は降り
言葉もなく人は斃(たお)れ 人は
折り重なって斃れ
そのために山裾はなだらかになるだろう。

 この「なだらかさ」もあくまで視覚でとらえた「なだらかさ」である。手でたどってみたなだらかさではない。(触覚の詩人ならば、人が「折り重なって斃れ」てできた形をだいたいなだらかとは表現しないだろう。視覚の世界が冷たく感じられるのは、触覚を拒絶しているからだろう。触って確認するというのは自己と他者の距離がなくなるということである。触覚にはそういう危険が伴う。視覚にはそうした危険がない。)

このあたりでは 旅人は
肺のなかまで蒼ざめていくだろう
どんな言葉も聞かれない ただ
その声は水の色をして。

 城戸は「聞く」べき「声」さえも見ている。聴覚を拒絶している。「水の色」と、音を色に変えて把握している。

 この作品に出てくる「旅人」ということばのせいだろうか、私は西脇順三郎を思い出したが、西脇は耳がとても敏感だった。世界を絵画的に描いているようでも、いつも音楽だけが世界を支配していた詩人だと思う。耳の詩人だ。「旅人かへらず」の「ああかけすが鳴いてやかましい」の新鮮な音楽。溢れ出る水のきらめきよりも、そのかなでる音よりも新鮮で、何にも汚れていな音の美しさ。たとえば同じ「旅人かへらず」の「五」の「やぶがらし」という一行の美しい音。

*

 西脇とは違った「耳の詩人」もいる。桑原茂夫「愛(うつく)しき言(こと)」。

聞かせてよ 愛しき言
愛しき言尽くしてよと
きみはささやく。
耳にしみいるそのささやき
そのささやき はや
ぼくの海を波うたせる。

 しり取りのようにつながる行はそのまま「音楽」だが、その行のなかに散りばめられた音も互いに響きあう。「きみ」「みみ」「しみ」「いる」「うみ」「なみ」。

 蜂飼耳「食うものは食われる夜」も桑原の作品と同じように、ことばのどこかでしり取りをしている。

音たてちゃ いけない 今夜は
もお音たてちゃ いけない
背をあわせ うつろの胴は長くして
横たわる 濡れた目玉に
すがた映し合い寝たりは しない
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする