豊原清明個人詩誌「白黒目」を読む。
豊原のことばには肉体がある。いつも肉体を感じる。自然な肉体を感じる。たとえば「今、春のロマン」の後半。
最後の行の「バッタ」に驚かされる。私の記憶のなかにはバッタは「秋」にしか存在しない。夏が終わり、体のだるさが残るころ、目の前の草原からバッタがからかうように飛んで逃げる。それが私にとってのバッタである。
だが、今は春。豊原は、たとえば蝶にふさわしい季節にバッタになりたいという。
四季という時間を飛び越えて、ただバッタの羽を細かく震わせて飛ぶバッタに。今生きている大地を思いっきり蹴って空中に飛び出し、力のかぎり羽を震わせる。
この「ロマン」のなかに、健康な足、大地を踏みしめる足と、空気をかき混ぜる強靱な手がある。
あるいは逆に読んだ方がいいのかもしれない。豊原には強靱な大地を蹴る足があり、空中をかき回す強靱な手がある。健康な肉体がある。だから時間を超越して、季節が春であってもバッタになることができる。肉体を出発点に時空を超えるという以上の「ロマン」はないだろう。
たしかに豊原の「ロマン」に比べれば、億万長者などというのは貧弱な肉体と精神がしがみついている幻にすぎないということがわかる。
*
俳句も6句掲載されている。
「初春の四畳半のおせんべえ」が特に印象的だ。四畳半のど真ん中に寝転んで手足をのばす。独り占めにして、せんべいをかじる。初春の贅沢である。「初春のひげいく本も生えぬ僕」は「いく本も」にナイーブな肉体を感じる。未完成なものだけがもちうる不思議な広がりとあたたかさがつまっている。これが、やがてはじけて詩になる。
豊原のことばには肉体がある。いつも肉体を感じる。自然な肉体を感じる。たとえば「今、春のロマン」の後半。
春の草に寝転んで
座っている少女たちの香りは
ベンチで一人見ている僕には
大きな自然の木。
僕は大きな体をした子どもだ
だから人に変に思われたり
無視される
でも僕は僕のやり方で
僕に春を来させるのだ、
ロマン
一夜にして億万長者
そんな野暮なロマンじゃなくて
飛びたい
出来ればバッタになりたいな。
最後の行の「バッタ」に驚かされる。私の記憶のなかにはバッタは「秋」にしか存在しない。夏が終わり、体のだるさが残るころ、目の前の草原からバッタがからかうように飛んで逃げる。それが私にとってのバッタである。
だが、今は春。豊原は、たとえば蝶にふさわしい季節にバッタになりたいという。
四季という時間を飛び越えて、ただバッタの羽を細かく震わせて飛ぶバッタに。今生きている大地を思いっきり蹴って空中に飛び出し、力のかぎり羽を震わせる。
この「ロマン」のなかに、健康な足、大地を踏みしめる足と、空気をかき混ぜる強靱な手がある。
あるいは逆に読んだ方がいいのかもしれない。豊原には強靱な大地を蹴る足があり、空中をかき回す強靱な手がある。健康な肉体がある。だから時間を超越して、季節が春であってもバッタになることができる。肉体を出発点に時空を超えるという以上の「ロマン」はないだろう。
たしかに豊原の「ロマン」に比べれば、億万長者などというのは貧弱な肉体と精神がしがみついている幻にすぎないということがわかる。
*
俳句も6句掲載されている。
初春の四畳半のおせんべえ
初春のひげいく本も生えぬ僕
「初春の四畳半のおせんべえ」が特に印象的だ。四畳半のど真ん中に寝転んで手足をのばす。独り占めにして、せんべいをかじる。初春の贅沢である。「初春のひげいく本も生えぬ僕」は「いく本も」にナイーブな肉体を感じる。未完成なものだけがもちうる不思議な広がりとあたたかさがつまっている。これが、やがてはじけて詩になる。