詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原「梅雨」

2006-01-17 03:02:49 | 詩集
「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

 田原という詩人の名前も初めて出会う。初めて出会う詩人のことばは新鮮だ。

垂直に落下する梅の香りは梅雨に濡れない

 この最初の1行に私は驚いてしまう。傘を差していたなら、思わず傘を放してしまうだろう。
 「垂直に落下する梅の香り」。私は梅の香りが垂直に落下するとは思ってみなかった。香りそのものが落下するものとは感じたことがない。
 私は急いで梅の記憶を歩き回る。梅は庭のすみにあった。親類の家には梅の畑があった。梅干しをつくるためのものだ。自給自足のための梅だ。私は青梅が好きだった。産毛が雨をはじき返している。その苦い実が好きだった。その香りは垂直に降ってなどこない。私の印象では水平に広がっていく。だからその香りを嗅ぐためには、固い枝をむりやり引き下ろすか、実を引きちぎるしかない。

 雨は垂直に降る。香りも垂直に振れば、雨には濡れない。これは論理的なことではある。しかし、そうした「論理」とは違った何かが私を驚かす。


風にたわむ傘の上で口ごもる雨の滴りは
シルク・ロードを旅したがっている
濡れたのは足元から消えた地平線だけ

 どの行にも驚いてしまう。日本語なのに、ひとつひとつのことばは全部理解できるのに、そこで展開する世界は、私が一度も見たことがないものだ。現実に、という意味だけではなく、どんな文学作品のなかでも出会ったことがない。

山は風のこだまを隠して
スポンジのように雨水を貪婪(どんらん)に吸い込む
木の葉は思いきり雨粒を浴びながら緑を深めていく
空の奥にくすぶっている太陽はみずからの裸を待ちあぐむ
かびが密かに月の裏側にはびこっていくうちに
朽木はキノコの形を構想している

 「シルク・ロード」「地平線」という大陸を超え、宇宙に飛んだ視線は、突然キノコに戻ってくる。

 この言語の宇宙は、どんな場所で育まれてきたのか。どこからこんな自由を獲得してきたのか。
 北川の自由とも林の自由とも違う。
 私のまったく知らない自由がある。

 こうした作品に突然出会うので詩を読むのがやめられなくなる。

コメント
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