詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北爪満喜「青い影・緑の光」ほか

2006-01-14 13:41:04 | 詩集
 「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

 北爪満喜「青い影・緑の光」。

 くっきりしていると葉の影は葉の延長で実体化しているみたいだということが、見間違いのすぐあとで言葉となって枝を伸ばした。

 この書き出しは魅力的だ。現実と観念がことばのなかで出会って混じり合い、世界を彩っている。こうしたありようを北爪は自覚している。だから、詩は次のようにつづく。

ということは、ワタシはこと葉という葉をはやした木のようなものにいくらか返信しているのかもしれない。青がすきだというときすこしだけ緑をふくんでいるワタシのいろは、この四季のある気候のなかで息をしていることくらいしぜんに混じりこんでいる。

 「混じりこんでいる」。これが北爪の「詩」である。混じりこんでいるものを、自分の側にあるものと他者の側にあるもの(自己以外の側にあるもの)に静かに振り分け、その差異をていねいに見つめる。ことばにする。差異の中へことばの枝を伸ばしていく。
 そして、たとえば「うどんがみずいろになったら、茹であがりだよ」と語った祖母もまた、現実と観念が「混じりこんだ」世界で枝を伸ばしていた木だったかもしれないという共感につながっていく。
 北爪にとって、人間とは(あるいは「詩」とは)、現実の対象とことばを混じり合わせて、その交じり合いの中、混じり合いながら差異をつくっているものの中で着実に育っていくものなのだ。

*

 現実とことばはいつでも「差異」とともにある。「差異」を意識しながら、その「差異」のなかに生きていくのが「詩人」というもののひとつのありようだろう。
 入沢康夫の「我らの煉獄」の書き出し。

いまし方 眉間を割られて横たはつた巨豚の
やけにぶよぶよと白い 霊魂を連れて
(いや 当方がいつのまにか連れ出されて)
どこまでも どこまでも 紫がかつた靄のなかを歩く

 3行目「(いや 当方がいつのまにか連れ出されて)」という意識的な自省、現実描写の訂正に「詩」がある。
 ことばを借りて現実の深層へ降りて行く。同時に、それがほんとうにことばの力で自分でおりていったものなのか、あるいはことばに誘われる形で入沢が引き込まれ、見せつけられたものなのか。この二つは、本当は区別がつかない。
 北爪は冷静に混じりこんでいるものを引き離してみせるが、入沢は逆に、その混じり合いそのもののなかに身をまかせる。ことばをまかせる。
 「詩」は自分で書くものであるが、同時に自分で書くのではなく、自分以外の何か不思議な力によって書かせられてしまうものなのだ。

どこまで続く これは道なのか
(果たして道なのか これが)
ぶよぶよの豚にも…… 況んや私には……
まるきり分からず
ただもう やみくもに歩いて行く

 「やみくも」をささえてくれるのが「詩」を書かせてくれる何かの力である。
 こうした力の前で、たとえば池井昌樹は放心する。放心したままことばを発する。それが池井の詩であるが、入沢は放心しない。目を凝らし、その力を見つめる。見極めようとする。入沢の詩が物語的「構造」を常に内包してしまうのは、「構造」を描くことで「詩」を書かせるもののありように接近したいと熱望するからだろう。
 何者かが存在する。そのとき存在を生成する「構造」がある、と入沢は考えているのかもしれない。

*

 ことばは誰のものか。北爪は「それぞれのワタシ」のものと言うだろか。入沢は「自分のものであるか絶対者のものであるか区別がつかない」と言うだろうか。
 そんなことを思いながら「手帖」を読んでいたら、松本邦吉の「緑の歌」に出会った。

言葉は畢竟
死者たちのものだから
人は言葉を覚え
いつしか死者たちと話ができるようになる

 だが、その「話」とはどんなものだろうか。
 作品中、もっとも私が美しいと感じたの次の行だ。

緑の渚に緑のひかりの  なみ  なあみ  なみ
    みどりのなみ なみ なあみ なみ なあみい
    みにくいなみ  なみなあみなみ なあみ なみ
    みえないなみなああああみ なあああみ なみ
    みはてぬなみ なみ なみ なああみ なみ

 松本は「うぶごえにも似た波の音のように」と書いているが私には「なみあみだぶつ」に聞こえる。祈りの声に聞こえる。「なみあぶだぶつ」は他者の冥福を祈っているのか、他者の冥福を祈ることで今の私のありように平穏(平静)を呼び戻そうとしているのか、私には区別がつかないが、波の音に自己と他者を混じり合わせ、今、ここではない別の場所をただよう感じがする。
 そして、この瞬間、不思議なことに、この行にだけ「肉体」を感じる。松本の他の行、たとえば「わたしくしの死はわたしくには無関係のひとつの歌声」という美しい行にしても、そこから実際に「歌声」(声帯の響き)は聞こえてこないのに対し、「なみ」「なあみ」の繰り返しからは幾人もの「なみあぶだぶつ」の声が聞こえてくる。冥土も地獄も観念として認識しないまま、いや観念として認識はできないが現実として認識してしまい、おそれおののき、ただ口の中で一心不乱に繰り返す人の声が聞こえてくる。地獄をみつめながら極楽をめざしてひたすら歩く人の姿が見える。
 こういう行を読むと、ことばは、わけのわからない現実をわけがわからないまま、それでもひたすら生きている人のものに違いないと思ってしまう。

 「詩」は、そういう人たちと、どう向き合えるのだろうか。

 私の感想は、松本が書こうとしたことと関係がないかもしれない。松本の作品に対して何を言ったことにならないかもしれない。
 ただふいに、そんな疑問がわいてきた。

 北爪の作品には肉体を感じた。肉体があって、同時に観念もある。その二つを混じり合わせて現実に向き合い、自分を見つめているという感じがする。
 だが、松本のことばには、何かしら松本の肉体を感じることができない。そして、それがいいことか悪いことかはわからない。


コメント
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