詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透「スクラップ通り」ほか

2006-01-15 22:56:10 | 詩集
 「現代詩手帖」1月号を読む。(引用はすべて「現代詩手帖」から)

 北川透「スクラップ通り」。ことばはどこまで自由になれるだろうか。過去をふりきれるだろうか。過去・歴史・古典が日本語を縛る力だと仮定して。

棘だらけのラ行の網を
大きく広げて掛けてやろうか
あの背中に遺恨の袋を背負った悪い主題に
あのノスタルジックでヒロイックな黄金の沈黙に
むかしのおまえのろくろ首に

ぎりりぎりりとラ行の腕を巻いて
骨が砕けるまでぶちのめしてやろうか
ララララララの雨が降るまで   (ラ行の雨)

 「網を/大きく広げて掛け」る。これは普通の日本語である。「動詞」というと奇妙だけれど、人間の行動を描写した部分には、どうしても日本語の文法、肉体がしのびこんでくる。「背中に(略)袋を背負った」も同じである。「腕を巻いて」「骨が砕ける」「雨が降る」にも普通の日本語が混じってくる。
 気がつけば「遺恨の袋」「悪い主題」「ノスタルジック」「ヒロイック」「沈黙」にも、そのことばを貫く日本語の郷愁のようなものが漂う。
 違和感がない。つまり「詩」がない。
 ここに北川の苦悩、北川のことばの苦悩、つまり「詩」があると思う。

 北川のことばは日本語の歴史・古典・教養をいつでも再現してしまう。それを破りたいという欲望が北川にはある。破ることで「詩」を噴出させたいという強い欲望がある。それを感じる。欲望のなかに「詩」を感じる。

 「棘だらけのラ行」「ラ行の腕」「ララララララの雨」。ここには日本語の歴史・古典はない、と一瞬、錯覚する。まだ日本語になっていないものがある、と一瞬だけ錯覚する。未知の「ことば」、つまり「自由」という「詩」があるように錯覚する。
 しかし、「の」ということば、その強靱な「格助詞」の力が、やはり歴史・古典として立ち上がってくる。

 だからこそ、北川は書き続ける。書き続けるという行為のなかにしか「詩」は存在しないと知っているからだ。



 瀬尾育生「あなたは不死を河に登録している」。瀬尾のことばは、北川のことばに比較すると、翻訳の日本語の文体を引き継いでいるように感じられる。

壁の絵に沿って兄たちが歩いて行った道で変形した弟が振り返る。

 こうした行、特に「変形した弟」は、北川が書かないことばだと思う。私の印象では、もし北川が書くなら「変形する弟」になる。確定した存在ではなく、今も不定形に動詞が内在するのが北川のことばだと思う。少なくとも私は、そうした動詞の内在に対して抗い、ことばを自由にしたいと欲望しているのが北川の姿に思える。
 瀬尾は、やはり北川のように、自分をしばることばの歴史・古典を振りほどき、自由になろうとしているのかもしれない。文体を整えるのではなく、逆に、不完全にするという方法をこの詩では試みている。

だがあのときだがあのとき私をだがあのとき私を傷つけたのは私を傷つけほんとうは私自身のたのはほんとうは私自身のほんとうは私自身の殺意だったんじゃ殺意だったんじゃないかしらね

 しかし、これでは「だがあのとき私を傷つけたのはほんとうは私自身の殺意だったんじゃないかしらね」という文体以外の何者も立ち上がってこない。逆に、瀬尾の背負い込んでいる翻訳文体の強靱さだけが印象として浮かび上がってしまう。

 どうすれば、自由なことばを獲得できるのだろうか。疑問が残る。その疑問のなかに「詩」があるのだろうけれど、私には、その先がよくわからない。

コメント
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