「妃」13号を読む。高岡淳四の「お父さん、ママチャリに乗る」がおもしろい。高岡淳四という詩人は頭がイタロ・カルビーノのように透明で軽やかなのだと思う。イタロ・カルビーノは現代文学の必要要素をいくつかあげていた。軽やかさ、スピード、ユーモアうんうん。私の印象では高岡はそのすべてを身につけている。
妻が妊娠しており、車は妻がつかう。そのせいで高岡は錆びたママチャリに乗らざるをえない。それがいやであれこれ言い訳をする。それだけなんだけれど笑ってしまう。お巡りさんから窃盗歴までの、具体的で、後戻りしないスピードがすばらしい。高岡の文体はただひたすら前へ前へとゆるぎないスピードで進む。
同時に、高岡は、彼自身のことばと他人のことばを対等に表現することができる。人の意見というものは、ほとんどどうでもいいことにこだわり、そのこだわりから一人の人間の視線では捉えられないものが浮かび上がる。それが高岡をちょっと困らせる。そこに笑いの火種がある。
この笑いは、作品が展開するにしたがって深くなるとか大きくなるとかという性質のものではない。たんたんと同じ質で進み、展開する。これも非常におもしろい特質だ。軽いまま、深刻さにまみれることなく、ただ疾走する。
あ、生活っていうのはそれが魅力だ。深刻は深刻でいいけれど、ただ軽いまま疾走する生活があっていい。
高岡の文体の正直さ。たぶん私が一番高岡に魅力を感じるのはそれだ。高岡の正直さは、登場する誰の意見(ことば)にも優劣をつけない。同じ重さで受け止め、同じ軽さで反応する。登場人物が増え、発言が増えるたびに、高岡の現在が多面鏡のように世界を映す。その反射を高岡はまるで初めて世界を見るかのように再現する。
いえね、東京なんかではよくあることでして。錆がはえた自転車に乗っていると、お巡りさんに職務質問をされるんですよ、盗品ではないかって。
「署名すれば家に帰らせてやるから」なんて言われて差し出された紙に署名したせいで、窃盗歴がついていることに、ずいぶんと後になってから気がついた、なんてことが時々新聞に載っているではありませんか。
妻が妊娠しており、車は妻がつかう。そのせいで高岡は錆びたママチャリに乗らざるをえない。それがいやであれこれ言い訳をする。それだけなんだけれど笑ってしまう。お巡りさんから窃盗歴までの、具体的で、後戻りしないスピードがすばらしい。高岡の文体はただひたすら前へ前へとゆるぎないスピードで進む。
同時に、高岡は、彼自身のことばと他人のことばを対等に表現することができる。人の意見というものは、ほとんどどうでもいいことにこだわり、そのこだわりから一人の人間の視線では捉えられないものが浮かび上がる。それが高岡をちょっと困らせる。そこに笑いの火種がある。
この笑いは、作品が展開するにしたがって深くなるとか大きくなるとかという性質のものではない。たんたんと同じ質で進み、展開する。これも非常におもしろい特質だ。軽いまま、深刻さにまみれることなく、ただ疾走する。
あ、生活っていうのはそれが魅力だ。深刻は深刻でいいけれど、ただ軽いまま疾走する生活があっていい。
高岡の文体の正直さ。たぶん私が一番高岡に魅力を感じるのはそれだ。高岡の正直さは、登場する誰の意見(ことば)にも優劣をつけない。同じ重さで受け止め、同じ軽さで反応する。登場人物が増え、発言が増えるたびに、高岡の現在が多面鏡のように世界を映す。その反射を高岡はまるで初めて世界を見るかのように再現する。