詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本勝夫『時の回廊』

2006-01-31 23:36:58 | 詩集
 山本勝夫の『時の回廊』(思潮社)を読む。全編ソネットである。

 「迷い子」という作品に「わたしはきっと いまも帰りたいのだ」(17ページ)という1行がある。この行、「帰りたい」が山本のキーワードである。「迷い子」では帰る場所は「玄関で雪野手袋を脱ぎすてて カレーの湯気が立つ食卓へ」と描かれているが、実はそうではないだろうと思う。
 「迷い子」の第1連。

音楽隊が通りを行進していった
そのあとから旗をひるがえす祭の列に 子供のわたしがついていく
音楽隊の指揮杖が街の角を 極北の空へ曲って
あの日からわたしは戻ってこない

 山本の帰りたいのは「あの日からわたしは戻ってこない」という状況そのものである。わたしがわたしでなくなったあの日、あの場所へこそ帰りたい。
 この欲望は矛盾だろう。わたしがわたしでなくなった場所へ戻ればわたしは消えてしまう。しかし、山本は帰りたい。帰り着いた瞬間、山本は、わたしがわたしを抜け出して遠くどこかへさまよい出て行くことができるからである。いわば、山本は、もう一度ロマンチックな抒情の世界へと踏み出したいと切に願っている。----矛盾でしか語れない「いまも帰りたい」という欲望、そのこころの動きのなかに山本の「詩」がある。「わたし」の分離という瞬間へ、今のわたしはほんとうのわたしではないと言える瞬間へ戻りたいというセンチメンタルが山本の願いである。

 こうした世界を甘く甘く、悲しい夢に酔うように、「四季」の叙情詩のように描いた作品に「ユウスゲ」がある。

みんな次々と行ってしまった
わたしだけは戻ってきた
くさむらに ひっそりと立つユウスゲのまわりには
やがてわたしの夕暮れがおりてくる

さがしてもわたしはみつからないだろう
わたしは 昨日よりずっと向こうの
盛りだった季節の草原の小径に
悲しみを 旗のようにひるがえして走っている

傷ついた一本の旗竿の先には
傷口から生まれたやさしい夢が
さんぜんと わたしのかわりに輝いている

わたしの夢は 一夜だけ花ひらいて
遠い思い出のかけらのように消えていく
わたしはそこへ戻ろうと いまも痛みの記憶の中を歩いている

 こうした作品を構成するのは、今ではない時間、つまり「過去」と、「過去」を浮かび上がらせる論理の構造(文法)である。センチメンタルな詩は、取り返せない「過去」とその「過去」を浮かび上がらせる文法でできていると言い換えてもいいかもしれない。
 たとえば、次のような。

夜更け わたしの体の深いところに 凍って湖が現れる
湖の鏡は 終夜遠来のように鈍い響きをともなって
湖を渡っていくわたしの過去を ぼんやり照らしている


 どの作品も破綻なく書かれている。きちんとした文体を持った詩人なのだと思う。次は、もっと現代と切り結んだ作品を読みたいと思った。
コメント
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