「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)
大庭みな子の小説は大好きだ。詩は少し読んだことがある。「現代詩手帖」12月号には以前読んだときの印象とは違った作品が載っている。大庭の小説の構造を語っている作品のように感じられた。
大庭の小説の魅力は、ことばの一人歩きにおんなの肉体の印象がついてまわることだ。「濡れた瞳」「紅い唇」だけではない。濡れた瞳の奥にある脳さえも精神ではなく肉体として登場する。紅い唇がときどき開いて見せる美しい歯、強靱な歯、艶かしい舌からさらに喉をくだって胃、腸、肛門までつづき、さらに横にそれるように(あるいは、それが本当の道であるかのように)、性器にまでつづく。温かい血のにおいのまま。
ここまでは、小説で知っていることである。
しかし、つぎが違った。
ことばを大庭は個人のものではなく先祖からのもの、そして未来へつづくものと考えている。これは、ことばを常に肉体をくぐらせて語ることで自己の刻印を押し続ける大庭の小説を読めば納得できることである。
私が驚いたのは、ここに「舟」が登場することである。
大庭のことばは荒れ野を行くのではない。大都会を行くのではない。海を行くのだ。
「あ」とことばを漏らしてしまう。
大庭にとって海外で生活したこと(「三匹の蟹」)がことばを動かすひとつの契機になっていると感じたのだ。海はどこへでもつづいている。アラスカへもつづけばヨーロッパにもつづいている。アラスカで、大庭のことばは新しい土地とのみ向き合ったわけではないのだ。繰り返し繰り返し太平洋を往復していたのだ。往復しながら、そのたびに過去と未来とに向き合い、それに拮抗するために大庭の肉体をくぐるしかなかったのだ。
もう一度「三匹の蟹」から読み直してみようか、と思った。
*
谷川俊太郎「Larghetto」。
この作品を構成することばは、大庭の「思い」につながっているのか、それともまったく別のものなのか。
谷川のことばの不思議さは、それが肉体をくぐりぬけたもの、というより、肉体の外からふいにやってきて、その一撃に肉体が反応して音楽を奏でているという印象があることだ。
「からだは歌わずにはいられない」
これは、強烈な表現だ。谷川にしか書けないことばだと思う。「こころ」が歌うのではない。「からだ」が歌うのだ。しかもそれは「こころ」の思いに反して歌ってしまうのだ。
大庭は「過去と未来の霊」と書いていたが、谷川の感じているのは「霊」ではなく、むしろ肉体であると思う。過去と未来の肉体が、今、ここで谷川の現在のからだと共鳴する。そのとき、その震えのなかからことばが沸いて出てくる。
「夜の道は死の向こうまで続いている」は、ことばが生き残るという意味ではないだろう。からだ、肉体こそが死の向こうまでつづいていくのだ。もちろん、それは谷川の肉体という意味ではない。それを超えて存在する肉体というものがある。命というものがある。それがつづいていく。
私たちの肉体は、そうした肉体に共振し、そこからことばを引き受けるにすぎない。そして、その肉体というのは、人間の肉体だけではなく、白樺や青空や蛇苺だったりする。そういうものに嘲われなぶられて、ことばがからだから飛び出して行くのだ。
谷川のことばには苦役のにおいがしない。(と、私は感じる。)それはなぜなんだろう。長い間疑問に思っていたが、具体的に考えてみたことはなかった。しかし、何となく、この詩を読んでいて感じるものがあった。
からだの外に巨大な宇宙がある。そこから何かが谷川のからだを揺さぶる。それがうれしくて、楽しくて、谷川はことばを発する。しかも、死の向こうまでつづいていくのは「ことば」ではなく、こんなふうにして外から刺激をうけて反応する肉体(からだ)だと知っている。からだと宇宙は、そうやって死をこえるのだと知っている。
*
池井昌樹の「弓」。
これは谷川の世界とは反対の世界である。常に詩人を見守る力が存在し、その力が詩人を存在させるということを感じている。ただし、それは詩人を池井に限定してでのことではない。
「詩人」は常に何者かによって存在させられている。池井はそんなふうに感じている。それゆえに他の詩人に共振する。
大庭みな子の小説は大好きだ。詩は少し読んだことがある。「現代詩手帖」12月号には以前読んだときの印象とは違った作品が載っている。大庭の小説の構造を語っている作品のように感じられた。
言わなくてもよかった言葉は
一度言われてしまうと
一人で歩き始める
一人で歩き始めた言葉は
濡れた瞳と紅い唇をきらめかせて
つぎつぎと言葉を生む
大庭の小説の魅力は、ことばの一人歩きにおんなの肉体の印象がついてまわることだ。「濡れた瞳」「紅い唇」だけではない。濡れた瞳の奥にある脳さえも精神ではなく肉体として登場する。紅い唇がときどき開いて見せる美しい歯、強靱な歯、艶かしい舌からさらに喉をくだって胃、腸、肛門までつづき、さらに横にそれるように(あるいは、それが本当の道であるかのように)、性器にまでつづく。温かい血のにおいのまま。
ここまでは、小説で知っていることである。
しかし、つぎが違った。
生まれた言葉は 立ち上がって
逆立つ波にのりあげる舟
舟をあやつるのは
過去と未来の霊
数限りない子孫が
つぎつぎと交替するので
船頭はけっして疲れない
ことばを大庭は個人のものではなく先祖からのもの、そして未来へつづくものと考えている。これは、ことばを常に肉体をくぐらせて語ることで自己の刻印を押し続ける大庭の小説を読めば納得できることである。
私が驚いたのは、ここに「舟」が登場することである。
大庭のことばは荒れ野を行くのではない。大都会を行くのではない。海を行くのだ。
「あ」とことばを漏らしてしまう。
大庭にとって海外で生活したこと(「三匹の蟹」)がことばを動かすひとつの契機になっていると感じたのだ。海はどこへでもつづいている。アラスカへもつづけばヨーロッパにもつづいている。アラスカで、大庭のことばは新しい土地とのみ向き合ったわけではないのだ。繰り返し繰り返し太平洋を往復していたのだ。往復しながら、そのたびに過去と未来とに向き合い、それに拮抗するために大庭の肉体をくぐるしかなかったのだ。
もう一度「三匹の蟹」から読み直してみようか、と思った。
*
谷川俊太郎「Larghetto」。
こころは疑いで一杯なのに
からだは歌わずにはいられない
夜の道は死の向こうまで続いている
この作品を構成することばは、大庭の「思い」につながっているのか、それともまったく別のものなのか。
谷川のことばの不思議さは、それが肉体をくぐりぬけたもの、というより、肉体の外からふいにやってきて、その一撃に肉体が反応して音楽を奏でているという印象があることだ。
「からだは歌わずにはいられない」
これは、強烈な表現だ。谷川にしか書けないことばだと思う。「こころ」が歌うのではない。「からだ」が歌うのだ。しかもそれは「こころ」の思いに反して歌ってしまうのだ。
大庭は「過去と未来の霊」と書いていたが、谷川の感じているのは「霊」ではなく、むしろ肉体であると思う。過去と未来の肉体が、今、ここで谷川の現在のからだと共鳴する。そのとき、その震えのなかからことばが沸いて出てくる。
「夜の道は死の向こうまで続いている」は、ことばが生き残るという意味ではないだろう。からだ、肉体こそが死の向こうまでつづいていくのだ。もちろん、それは谷川の肉体という意味ではない。それを超えて存在する肉体というものがある。命というものがある。それがつづいていく。
私たちの肉体は、そうした肉体に共振し、そこからことばを引き受けるにすぎない。そして、その肉体というのは、人間の肉体だけではなく、白樺や青空や蛇苺だったりする。そういうものに嘲われなぶられて、ことばがからだから飛び出して行くのだ。
谷川のことばには苦役のにおいがしない。(と、私は感じる。)それはなぜなんだろう。長い間疑問に思っていたが、具体的に考えてみたことはなかった。しかし、何となく、この詩を読んでいて感じるものがあった。
からだの外に巨大な宇宙がある。そこから何かが谷川のからだを揺さぶる。それがうれしくて、楽しくて、谷川はことばを発する。しかも、死の向こうまでつづいていくのは「ことば」ではなく、こんなふうにして外から刺激をうけて反応する肉体(からだ)だと知っている。からだと宇宙は、そうやって死をこえるのだと知っている。
*
池井昌樹の「弓」。
こんなまっくらやみのなか
ぼくをゆめみるものがある
あとかたもなくなったあと らんらんと
ゆめみつづけるものがある
これは谷川の世界とは反対の世界である。常に詩人を見守る力が存在し、その力が詩人を存在させるということを感じている。ただし、それは詩人を池井に限定してでのことではない。
「詩人」は常に何者かによって存在させられている。池井はそんなふうに感じている。それゆえに他の詩人に共振する。