詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安藤元雄のことば

2006-01-03 13:42:46 | 詩集
「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)

 安藤元雄の「不機嫌な目覚め」。なかほどに

背中の痒みのようにわかっている

 という表現が出てくる。「わかる」ということは頭脳の理解ではない。肉体の納得である。
 このことばを中心に、自己としっくりこないものが描かれる。自己の外部(周囲)にあるもの、したたる「しずく」(1行目)や「暖まらなかった寝床」(4行目)との違和感が語られる。
 不機嫌とは、「わかっている」ものが自分に好ましくなく、しかもそれが常に肉体として感じられる(肉体に進入してくる)ことだ。
 安藤は、それをなんとか自己の外部へ押し出そうとする。

広大な庭園のゆるい傾斜を
ゆらゆらと降りて行く青い傘
セージが咲きサルビアが咲き
何も匂わない
鳥も啼かない
向うに海が覗き島が覗き
そんな光景のもたらす何というとりとめのなさ

 安藤のことばは、ひとつの空間を描き出す。自己と空間の関係を明るみに出す。それは、自己と他者の「距離」のことである。「交通」のことだ。
 たとえば花の匂いがする。そのとき、自己と外部は嗅覚によって結ばれ、嗅覚によって交通する。外部と感覚が密接に結びつくとき、つまり交通がスムーズなとき、自己は自己の肉体から解き放たれ、空間へ広がっていくことができる。豊かな距離が生まれる。これが「機嫌のいい」状態というものだろう。「抒情的」な状態と言い換えることができるかもしれない。
 今、安藤が感じているのは、そういう感じではない。それとは正反対の「不機嫌」な感じである。しかし、これもまた「アンチ抒情」という抒情である。抒情とは、自己と外部との「気分の交通(感覚の交通)」のことである。

 安藤のことばは、感覚の交通と、その時間における気持ちの有り様を、きわめて構造的に描き出す。揺るぎがない。「背中の痒みのようにわかっている」という行を中心に、世界を構造的に描いている。安藤の詩の安定感は、そうした構造の確かさにある。



 構造的な詩を書く詩人に清岡卓行がいる。「現代詩手帖」12月号には「ひさしぶりのバッハ」が収録されている。

懐かしいではないか
ひさしぶりの存在感。
いや 待て
どこか少し違うようだ。

 清岡は「少し」を丁寧に分析する。「少し」と感じられたものを拡大し、その内部に何が存在するかを明確にする。「少し」の構造分析が清岡の「詩」である。構造分析によって、内部は豊かに広がる。「少し」が「少し」ではなくなる。つまり、それは清岡自身の肉体となり、清岡自身を外部へと拡大する。そして読者は、その拡大された清岡の体にすっぽり抱きしめられたような感じになる。
 悲しい詩、切ない詩であっても、ほーっと生きが漏れるような安心感につつまれるのは、そのためだろう。

 清岡のことばは「少し」というような、ちぢこまった部分を押し広げ、ゆったりとさせる。「少し」のなかで精神はこんなふうに動いて行けるという導きとなる。
コメント
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