詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(99)

2006-01-01 23:40:30 | 詩集
 1月1日の楽しみは「現代詩手帖」で清岡卓行の詩を読むことだ。読みながら、あれこれ考えることだ。2006年の作品は「出発と到着」。

散歩の到着点が
一時間ほどまえの
その出発点であったとは。

ひとつの方向をめざし
ほぼまっすぐ歩いたはずであるのに
そんな馬鹿げた
いや そんな愉快な
いやまた そんな不愉快なことが
日常の このいとしい生活に
あっていいのか

 歩いている途中で方向を間違えて出発点に戻ってしまうというのは多くの人が経験することかもしれない。
 清岡はこうした体験をきわめて静かに語り始める。

一九四〇年
大陸からやってきた
十八歳の受験浪人のわたしは
好天の秋の午後
東京の見知らぬ町に
すぐ 少しでも親しみたかったのだろう
暇をつくって
中央線中野駅の北側から
新宿に向かい
ほぼまっすぐのつもりの散歩をしたが
一時間ほどすると
行く手の街路の先に
中野駅の南側が現われたので
仰天した。

そこから自分の下宿まではすぐで
その点 気楽ではあったが。

 あまりに静かで淡々としたことば運びのために、どこに詩なのか、という疑問が浮かぶ。清岡の詩はいつもそうである。
 清岡の詩は、ある一行に「詩」があるというよりも、ことばの展開に「詩」がある。構造のなかに「詩」がある。
 一九四〇年の体験につづいて、清岡は一九四一年の体験を書いている。神田神保町から駒場まで歩いたつもりが神田に戻ってしまったと書いている。そして、その時の感想。

その場で電車に乗り
不安のなかを
まず 渋谷まで戻った。

 二つの体験の、二つの感想。この差異のなかに「詩」がある。一九四〇年は「気楽」であったが、一九四一年は「不安」である。「気楽」と「不安」の感情の間に、いったい何があるのか。いったい何を見落としているのか。それを清岡は丁寧にたどる。そして、その丁寧なたどり方、精神の、繊細な動きのなか、軌跡のなかに、清岡の「詩」は姿をあらわしはじめる。
 一九四二年には、清岡は「魔の山」を読み、主人公が清岡と類似の体験をしていることを知る。そして、感想。

わたしはその憤りと怖れに
懐かしいような共感を深く覚えたが
多くの人間には少なくとも可能性において
そんな舞い戻りがあるようだと
安心もした。

 「気楽」「不安」「安心」この精神の動きの間に、他人の経験への「共感」がある。「共感」が人と人を結びつけ、同時に「共有」されなかったものもあることを教える。中野駅から中野駅への舞い戻りを清岡と「魔の山」の主人公は共有したのではない。雪山に迷うことを清岡と「魔の山」の主人公は共有したわけではない。人は出発点へ舞い戻るという体験をすることがある、という、いわば動きを共有したのである。同じ体験というのは、実は同じ運動であると知ることが「共感」につながっている。

 ここからが、すごい。
 清岡の詩はしばしば起承転結の構造をとる。「魔の山」の主人公と体験を共有するところまでが、「起承」である。「転」で、清岡は夢、自分の見た夢を描く。それは出発点と到着点が同じであるという、それまで描いてきた体験とはまったく違う。出発点と到着点を欠いた、いわば中間の移動だけの夢である。

たとえば 昆虫の名前の駅で電車に乗ると
途中のプラットフォームで
その向かい側にいたバスに乗りかえさせられ
遠い海まで直行だと言われる。
(略)
さらにたとえば 自分の乗る汽船が
湖から不意に空中に躍りあがり
行く手に見える連峰のなかに
つぎの湖を求めて飛んで行くという
奇想天外の危険さ
そして おもしろさ。

 14ページの14行にわたる展開は、そこだけ取り出してみても詩と呼べる不思議な美しさがある。しかし、清岡は、そうした奇想天外な何かを「詩」とは考えていないようだ。感じていないというのだ。70代に入ったころから、清岡は、そうした移動の夢を本能的に拒み、目覚めるようになったという。

なぜかは知らない。

 このぽつりと挿入された1行。これこそが起承転結の本当の「転」であり、清岡のこの作品の「詩」である。
 「気楽」「不安」「安心」と軌跡を描いて動いてきた精神は、突然、「知らない」というところへたどりつく。

 この1行には、本当に驚く。清岡のことばから、私自身が放り出されてしまったような、驚愕としかいいようのない衝撃を受ける。

 人にはたしかに「知らない」としか言いようのないものがある。自分の感情、精神であっても「知らない」としか言いようのないものがある。
 それこそが「詩」である。
 「気楽」も「不安」も「安心」も他人に共有され、それぞれの居場所を見つける。そこに安住し、穏やかな詩になる。奇想天外の夢さえ、「おもしろい」という居場所を見つけだすだろう。
 だが、作者が「知らない」としか語らないものは、けっして共有されない。

 「結」は穏やかで、笑いに満ちて、しかし、ぞくっとする。

とにかく そのとき
笑うなかれ
夢の中止点はその開始点と
まったく同じ布団のなかであった。

出発と到着には時刻の差が
わずかながらあったことだろう。
また それらには気分の差も
いくらかはあったことだろう
暗さと明るさと。

よかったら
自分を批判することだ。
現実から
浮き上がっていたかいないか
浮き上がっているかいないか と。

 「気楽」「不安」「安心」は気分の差にすぎない。その差のなかにも私たちの「詩」はある。たしかに存在する。
 そして、それは点検しなければ見えないものである。点検することが「詩」である。そして点検するとき、必ず人は「知らない」という部分にたどりつく。たどりついて、踏みとどまる。「自分を批判する」。そのときこそ、本当に「詩」が、ことばをこえて立ち上がってくる。
コメント
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