「現代詩手帖」12月号を読む。(引用はすべて「手帖」から)
日本語のリズムについて考えるとき忘れてならないのは藤井貞和である。「白い子猫」という作品の冒頭。
高貝弘也のリズムとは違う。野村喜和夫のリズムとも違う。藤井のリズムは口語の自然なリズムだ。とても自然だ。耳で聞いて、すぐに意味がわかる。わかった気持ちになる。口語とはそうしたものだ。論理よりもリズムの正確さ、感情の一貫性が、何かを納得させてしまうのである。
高貝のリズムも何かを納得させる。そしてその何かとは「古典」である。野村のリズムは「現代」を感じさせようとして、それが崩れ「古典」を露呈してしまう。しかし、藤井のことばは「現在」を納得させ、同時に「未来」を予感させる。日本語は、将来、こんなふうに動いていくだろうと感じさせる。
明快で、軽くて、スピード感がある。
その進み方は直線的ではなくじぐざぐである。しかし、動きがはっきりみえる。
引用した4行を読めば、どんな読者でも左目が金色、右目が銀色の子猫を思い浮かべるだろう。その子猫が「短編集」といういわば「古典」の世界を突き破って「ホームページ」という「現代」の世界へ誕生してくることがわかる。この一気に時間を突き破る運動ゆえに、その世界は「神話」的になる。小犬が「神の小犬」であるのは、そのためだ。
藤井の作品を読むとき、私たちは「日本語神話」の時間を生きる。時代を超えて運動していく日本語の動きのありように触れる。その中心となっているのがリズムである。正確で軽やかで速い響きである。
私は、その音の変幻自在さを「音楽」のように感じる。
*
私たちは日本語から逃れられない。日本語で考えてしまう。そのことをあらためて感じさせられたのが中上哲夫の「夜の鷹」である。
日本語の「古典」(伝統)はいつでも生きている。強く意識するか無意識かは別にして。
鷹貝や藤井は日本語の「古典」を強く意識している。しかし、野村は自覚していない。無意識に逆襲されている。そんなことも、ふいに思った。
(4日の「野村喜和夫と高貝弘也」の補足。)
日本語のリズムについて考えるとき忘れてならないのは藤井貞和である。「白い子猫」という作品の冒頭。
あれから何年も、ページをひらいて待っていた、
短編集のおくの産室で。ひだりは金色の目の小犬、
さあ生まれるよホームページに。神の小犬がやってくる、
やってくるそいつは金色の瞳で、みぎの目が銀色。
高貝弘也のリズムとは違う。野村喜和夫のリズムとも違う。藤井のリズムは口語の自然なリズムだ。とても自然だ。耳で聞いて、すぐに意味がわかる。わかった気持ちになる。口語とはそうしたものだ。論理よりもリズムの正確さ、感情の一貫性が、何かを納得させてしまうのである。
高貝のリズムも何かを納得させる。そしてその何かとは「古典」である。野村のリズムは「現代」を感じさせようとして、それが崩れ「古典」を露呈してしまう。しかし、藤井のことばは「現在」を納得させ、同時に「未来」を予感させる。日本語は、将来、こんなふうに動いていくだろうと感じさせる。
明快で、軽くて、スピード感がある。
その進み方は直線的ではなくじぐざぐである。しかし、動きがはっきりみえる。
引用した4行を読めば、どんな読者でも左目が金色、右目が銀色の子猫を思い浮かべるだろう。その子猫が「短編集」といういわば「古典」の世界を突き破って「ホームページ」という「現代」の世界へ誕生してくることがわかる。この一気に時間を突き破る運動ゆえに、その世界は「神話」的になる。小犬が「神の小犬」であるのは、そのためだ。
藤井の作品を読むとき、私たちは「日本語神話」の時間を生きる。時代を超えて運動していく日本語の動きのありように触れる。その中心となっているのがリズムである。正確で軽やかで速い響きである。
私は、その音の変幻自在さを「音楽」のように感じる。
*
私たちは日本語から逃れられない。日本語で考えてしまう。そのことをあらためて感じさせられたのが中上哲夫の「夜の鷹」である。
店内を見まわすと
カウンターの背後の若い店員は
日本語でいうと舟を漕いでいた
日本語の「古典」(伝統)はいつでも生きている。強く意識するか無意識かは別にして。
鷹貝や藤井は日本語の「古典」を強く意識している。しかし、野村は自覚していない。無意識に逆襲されている。そんなことも、ふいに思った。
(4日の「野村喜和夫と高貝弘也」の補足。)