詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林嗣夫『定本 学校』ほか

2006-01-16 10:22:33 | 詩集
 林嗣夫『定本 学校』(ふたば工房)を読む。ことばの自由が、北川の実践とは違った形でおこなわれている。タイトルどおり学校の様子、先生の姿、変化していく生徒たちの姿が描かれている。エッセイのようであり、報告書のようであり、日記のようであり、それでいて「詩」でしかないと感じさせる。
 なぜだろう。

 ところがある朝、ぼくの目玉はやっとぼくの目玉になった。ぼくの顔に居すわって、やっとまわりを眺めはじめた。

 「ぼくの目玉」で見つめれば、そして、そこで見つめられたものが「ぼくの目玉」をとおって自分の体のなかに入ってくれば、そこには「ぼく」の世界が広がる。

 北川は、たぶん「ぼくの目玉」も日本語の歴史・古典に拘束されている。支配されている。自由であるかどうかはわからない、と考えるかもしれない。確かにそうかもしれない。目玉は意識していないが、日本語と同様、「視線」にも歴史・古典はしのびこんでいる。そうしたものから自由な「視線」というものはないかもしれない。
 北川は、そうした目に見えない(意識しにくい)文体と格闘している。それは華々しく、かっこよく、「あ、詩はこうしたものでなくてはならない」というひとつの姿を提示している。

 林は、そうした北川の方法とはまったく別の方法で「自由」を手に入れる。
 「ぼくの目玉」と林は書いているが、林の描く世界は「ぼくの目玉」(ぼくの視線=ぼく)が統一する世界ではない。統一しているかもしれないが、その統一には強制力がない。
 林は積極的に他者、とりわけ「生徒(中学2年生)の目玉」(生徒の視線)を「ぼくの目玉」のなかへ取り入れる。他者を受け入れ、他者が「ぼく」を攪拌していくのに身をまかせる。いや、ことばをまかせる。
 中学2年生のことばは、大人の部分と、まだどこにも属していないふにゃふにゃの、しかしふにゃふにゃだからこそ、エネルギーでしかないものを持っている。それをそのまま林は受け入れる。エネルギーにどっぷり身をひたし、その発露に身をまかせ、流されてみる。
 ある流れ、たとえば夏の川の冷たい水の流れに乗る。ただ流されている肉体を感じる。そのとき確かに肉体は流されているのだが、ああ、気持ちがいい、自由だ、解放されている、というゆったりした気持ちにもなる。空も雲も木々も鳥やセミの声も私の外部にあるのではなく、私と一体になっている、と感じる。
 自由とは、自分と外部との境界を取り払い、一体になることなのだ。

 林の描いている「自由」とは、そうした自己と外部の境界をするりとくぐりぬけて、いままでとは違った統一感のなかに再生することなのだ。


授業とは、人と人とがデートすること。人が木に、鳥に、へびに、町に、ことばに……会いに行くこと。死者に「こんにちは。」とあいさつすること。そして教室とは、それら物たち、生きものたちの、待ち伏せの場所だと。

 「授業」を「詩」にかえれば、林の「詩」のすべてが納得できるだろう。

 私たちは何とも出会うことができる。自分の目玉で対象をしっかり見つめ、見つめられ、あいさつする。つまり交流する。そうして一体感を楽しむ。
 そこから何が始まる?
 いままでの私ではなかった私が生まれてくる。それが「詩」だ。林の作品はことばのなかで完結しない。ことばの発せられた現場「学校」そのもののなかで「詩」になる。

 そして、たぶんそういう「詩」のなかで何か基本的なことがあるとすれば(守らなければならないものがあるとすれば)、「あいさつ」だろう。
 誰でも「こんにちは」は形式としてなら言える。しかし自分の目玉で相手を見つめ、相手に自分の目玉を見つめられ、見つめるという行為をとおしてこころを通わせる、つまりそのときの相手のこころに出会い、なにごとかを一緒になって感じるという「あいさつ」は難しい。
 さらに、あいさつには「こんにちは」だけではなく、「ばかやろう」もあれば「大好き」「大嫌い」もある。そこが難しい。出会えたつもり、「あいさつ」したつもりが、しっくりこないこともあるのだ。


(この原稿、未完。五月という季節の幻想をまとめようとしたが、うまくいかなかった。)

 という文章が「7 五月」という章の終わりに出てくる。その「未完」のなかにこそ、林の「詩」があると言うべきか。
 人が出会い、あいさつする、交流する。その世界におわりはない。常に生成が繰り返される。

*

 江代充「冬の日」(「現代詩手帖」1月号)。

スズメは木の列には寄らず
背後に隣接した石垣の平らな上限に
白っぽい小粒な列をなして降りていた
四羽目と五羽目のあいだに一羽分の隙が空いていても
それはもともとその様なおおよその並び方なので
とくにその事を気にする者はだあれもいないのだとかれは思った

 「かれ」と「わたし(わたしたち)」(作品の二行目に登場する)の関係の複雑さのなかに「詩」がある。
 スズメの列の間に一羽分の隙があると気がついたのは「かれ」なのか。「わたし」なのか。「かれ」は気がつき、同時に「とくにその事を気にする者はだあれもいないのだ」と思った、という書くとき、それは「かれ」の事実なのか、「わたし」が「かれは」そう思っていると想像したのか。

 林の描く融合、他者との一体感とは別の、孤独な一体感というものがある。ことばもなく、視線もかわさず、したがって「あいさつ」もない。互いが互いのまま孤独を生き、孤独を確認する。真の孤独の一体感は、そんなふうにしか成立しない。想像の中だけで、実践されなかった「あいさつ」が、実践しなかったということを確認するという不思議な一体感。
 それが江代の「詩」の形だ。
コメント
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