詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆の「死について」、ほか

2006-01-06 14:19:13 | 詩集
 「現代詩手帖」1月号に岡井隆の「死について」という作品が載っている。傑作だ。

死の瀬の磯(そ)の洲(す)との差 と言つて遊ぶ
死つて曲がることなんだと声高に宣言して遊び
曲がり切らないうちに向かうから来る と言つて遊ぶ
死を束ね/てゐる黄金(こがね)の/帯がある と作つては遊び
逝くことだといふ嘘を青空を喪ふことと言ひかへて遊ぶ

 1行目の「さしすせそ」の遊びが何度読んでも楽しい。
 岡井の作品は「死について」というタイトルがついているが、この作品を読むと「生」とは何かがわかる。「生」とは人間からはみ出したもの、人間を逸脱させるものである。岡井の作品にあらわれた表現をつかえば「遊び」が「生」である。

 21の断章でできた構成されたこの作品は、どれも死について言及している。しかし、死そのものにはなり得ていない。つまり、死に接近するけれど、死にはしない。
 こうした行為(言語運動)そのものが「遊び」である。
 「遊び」のなかには、岡井自信の歴史(生きてきた時間)、つまり岡井の今を構成しているさまざまな要素が立ち現れてくる。人は知らないことを遊べない。自分が熟知していることをつかって遊ぶ。その瞬間瞬間が美しい。



 「現代詩手帖」1月号の入沢康夫の作品も「遊び」が美しい。連載詩・偽記憶2「藁の蛇の思ひ出」。

祠の横の槐(ゑんじゆ)の木の股に かねてから掲げてあつた 太い藁の蛇の頭とおぼしいあたりが 確かに血に汚れて黒ずんでゐた

 たぶん、この末尾の「記憶」だけが本当の記憶だろう。その「藁の蛇」から「十七歳」の入沢が何を想像したか。どんな物語をつくったか。(これは作品を読んでいただきたい。)
 物語をつくる、あらゆる存在を時間軸を中心に構成し直し、世界を確認する、というのは入沢の散文詩の特徴だ。こうした行為を「詩」をつくるということもできるし、「遊ぶ」ということもできるだろう。
 その行為の中から立ち上がってくるのは、作者の時間である。生きたきた生活そのものである。これは岡井の詩の場合と同じである。



 天沢退二郎「嘘売岳ブルース」(「現代詩手帖」1月号)になると、「遊び」はもっと徹底している。

嘘売岳へ登るには
まず白無沙(しらなさ)峠をこえるんだ
するとだな
顔にも頭にも真珠をいっぱいつけて
女が歩いてくる
と思ったらそれはみんな水玉
つまり涙というやつではないか?
これは気持ちわるい!

 天沢のことばは「生活」の奥へは入り込まない。「生活」の表層のことばをはねとばしながら疾走する。そのスピード感が「遊び」である。
 疾走のための「鞭」があるとすれば、3行目の「するとだな」ということば、そしてタイミングだ。ここに天沢の「詩」がある。
 「嘘売岳」「白無沙峠」という、いかにも偽物のことばを出しておいて、読者が疑問に思う寸前に「するとだな」とスピードアップする。この感覚の中に「詩」がある。

 入沢のことばは「真実」らしく見えるものから出発して虚構へたどりつき、虚構へたどりつく運動のなかに「詩」を確立する。天沢のことばは「嘘丸出し」から出発し、現実を蹴散らしながら疾走する、その運動のなかに「詩」を確立する。
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